TS→後輩(天才女)のヒモ   作:鰻重特上

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雨の日とショートケーキ

 

 朝から雨だった。

 

 窓の外では晩秋の冷たい雨が静かに降り続いていて、いつもなら差し込んでくる朝日の代わりに、灰色の薄明かりがリビングを満たしている。

 

「行ってきます」

 

「行ってらっしゃい。傘持った?」

 

「持ちました」

 

「お昼、ちゃんと食べてね。またサプリメントだけで済ませちゃ駄目だよ」

 

「……善処します」

 

 善処します、というのは千賀語で「できたらやる」という意味だ。一ヶ月以上一緒にいれば、それくらいはわかるようになる。僕は千賀の手にタッパーを押し付けた。

 

「はい、お弁当。今日はきんぴらと鮭の味噌焼きとほうれん草のおひたし」

 

「いつも、ありがとうございます」

 

「どういたしまして。じゃ、気をつけてね」

 

 ドアが閉まる。千賀の足音がだんだん遠ざかっていく。エレベーターの到着音が微かに聞こえて、それきり、部屋は静寂に包まれた。

 

 雨音だけが残る。

 

 リビングに戻り、ソファに腰を下ろした。テレビをつける気にもならず、タブレットを手に取ったものの、画面を眺めるだけで指は動かない。

 

 雨の日は、どうも駄目だ。

 

 理由は自分でもよくわからないのだが、雨が降っていると気分が沈む。いつ頃からか、そうだった。

 

 雨の日は、何故か鬱々とした気分が底の方からじわりと這い上がってきて、何もかもが億劫になる。少し躁鬱気味の傾向がある自覚は以前からあったけれど……。

 

 最近は随分とましになってきたと、そう思っていたのに、天気一つでこれだ。

 

 ソファの上で膝を抱えて、窓の外の雨を眺める。

 

 灰色の空。マンションの向こうに見える街並みも灰色に沈んでいて、いつもは鮮やかに映る木々の緑すら薄暗く見える。こういう日は買い物に行くのも面倒だし、掃除をする気力も湧かない。家事は千賀との約束だから手を抜くわけにはいかないのだが、身体が重い。布団の中に戻って丸くなりたい。

 

 膝を抱えたまま、ぼんやりと考える。

 

 千賀は今頃、研究所に向かっている頃だろう。

 

 あの弁当、しっかりと食べてくれるだろうか。善処する、などと言っていたから少しだけ不安だけれど。

 

 実際、何度か食べられなかったお弁当を、職場の冷蔵庫に突っ込んできて「明日食べます」などとのたまった前例があるし……。

 

 

 今日の鮭の味噌焼きは自信作だ。千賀のことだから、お昼になったらデスクの上でひっそりと蓋を開けて、無表情のまま一口食べて、それからほんの少しだけ口元を緩めて……。

 

 ……なんで僕は、千賀がお弁当を食べる光景をこんなに具体的に想像しているのだろう。

 

 首を振って、ソファから立ち上がった。こうやってじっとしていると、余計なことを考えてしまう。動こう。動けば気分も晴れるはずだ。

 

 掃除機をかけ、洗濯機を回し、バスルームの排水口を掃除した。身体を動かしていると、確かに鬱々とした気分は少し和らいだ。けれど手を止めると、また沈んだ気持ちが戻ってくる。

 

 雨音がそれを助長しているのかもしれない。

 

 適当に昼食を取って、洗い終わった洗濯物を浴室乾燥にかけてから、キッチンに立った。

 

 ……そうだ、今日はイチゴのショートケーキを作る約束だった。千賀に「イチゴとチョコレートどっちが好き?」と聞いたら「イチゴです」と答えてくれた、あのケーキ。

 

 この間のシフォンケーキで自信がついたので、次はもう少し難しいものに挑戦してみようと思っていたのだ。

 

 冷蔵庫と棚から材料を取り出す。卵、薄力粉、砂糖、バター。

 

 買って間もない製菓道具からはまだ少し、新品の匂いがする。ボウル、泡立て器、回転台、パレットナイフ。

 

 千賀に通販のことで小言を言われたのは記憶に新しいが、あの時、僕がちょっと上目遣いをしたら千賀が黙ってくれたのは、我ながら上手くいったと思う。

 

 千賀は、この見た目に弱い。

 

 それに気づいたのは、いつ頃だっただろう。たぶん、同居を始めて二週間くらい経った頃だ。何かをお願いする時に、目を合わせて少し首を傾げると、千賀の表情が一瞬だけ揺れることに気づいた。最初は偶然かと思ったが、何度か試してみると、やはり効果があった。

 

 千賀が可愛い系の容姿が好みだということは、大学時代に酔った千賀から聞いていた。

 

 今の僕の見た目が客観的に見て、「可愛い系」に該当することくらいは自覚している。つまり、僕のこの見た目は千賀のストライクゾーンど真ん中なわけで、それを利用しない手はない。と、そういう打算的な判断で始めた行動だった。

 

 はずなのだが。

 

 最近、その「あざとい仕草」が、打算だけではなくなっている気がする。

 

 千賀の前で上目遣いをしたり、唇を尖らせたりする時、確かに「これをすれば千賀は折れるだろう」という計算はある。あるのだが、それと同時に、千賀がたじろいだり、目を逸らしたり、頬を僅かに赤くしたりするのを見ると、胸の奥がくすぐったくなるのだ。

 

 千賀の反応が嬉しい、もっと見たい、そういう気持ちが混じり始めている。

 

 それは多分、千賀をからかうのが楽しいからだろう。あの真面目な顔が崩れる瞬間は見ていて面白いし、普段あまり感情を表に出さない千賀だからこそ、小さな変化が際立つ。

 

 千賀の反応を引き出す遊びみたいなものだ。

 

 

 この間の夜、千賀が僕の口元を指で拭ってきた時は、さすがにびっくりしたけれど……。

 

 あれは千賀の方から触れてきたのだ。普段はスキンシップを避けるタイプの千賀が、あんなことをするなんて思わなかった。

 

 指先が唇に触れた瞬間、心臓がどくんと跳ねて、頬のあたりが急に熱くなった。たぶん少し赤くなっていたと思う。恥ずかしかった。

 

 でも別に、嫌ではなかった。

 

 千賀の指は細くて冷たくて、でもどこか優しい触り方だった。

 

 ああいう風に触れられるのは、なんだろう、不思議な感じがした。男だった頃は、誰かに顔を触られるなんてことはまずなかったし、あったとしてもこんな気持ちにはならなかったと思う。

 

 胸がどきどきするのは、きっと驚いたからだ。予想外のことをされると心臓が跳ねるのは生理的な反応であって、それ以上の意味はない。

 

 ……うん、そういうことだ。

 

 僕は気を取り直して、ケーキ作りに集中した。

 

 

─────

 

 

 スポンジ生地を焼いている間に、イチゴの飾りの練習をした。

 

 タブレットで見たレシピ動画を思い出しながら、イチゴを薄くスライスして花びらのように並べていく。「千賀が驚くような、すごいの作る」と、大見得を切った手前、中途半端なものは出せない。

 

 ナイフでイチゴを切る手つきは、自分で言うのもなんだが、中々様になっている。料理で鍛えた包丁さばきが、こういうところで活きてくる。

 

 薄くスライスしたイチゴを一枚一枚重ねて巻いていくと、確かに薔薇のような形になった。思ったよりも上手くいって、僕は思わず小さなガッツポーズをした。

 

「よし」

 

 

 それから、生クリームを泡立て、冷蔵庫で冷ましたスポンジを三段にスライスして、丁寧にナッペしていく。ナッペというのはクリームを塗る作業のことで、パレットナイフの角度が大事なのだと、動画で学んだ。

 

 回転台の上でゆっくりとスポンジを回しながら、クリームを均一に塗り広げていく。

 

 仕上げのイチゴとクリームで飾りつける。天辺に薔薇型のイチゴを乗せて、周囲にスライスしたイチゴとクリームをあしらう。ブルーベリーを数粒散らして、最後に粉砂糖を軽く振った。

 

 出来上がったケーキを少し引いて眺める。

 

 我ながら、初めてにしてはかなりの出来栄えだ。

 

 白いクリームの上に赤いイチゴが映えて、ケーキ屋のショーケースに並んでいてもおかしくないくらいの見た目に仕上がっているのではないだろうか。

 

 薔薇型のイチゴも綺麗にできている。千賀はきっと驚くだろう。あの淡白な顔に、感嘆の表情が浮かぶところが早く見たい。

 

 ケーキを冷蔵庫にしまって、キッチンの片付けを始めた。粉まみれの調理台を拭き、ボウルや泡立て器を洗い、床に散った粉を掃除する。

 

 製菓は料理以上に、後片付けが大変だと最近知った……。

 

 片付けを終えて時計を見ると、午後四時を回っていた。千賀が帰ってくるのは通常なら六時過ぎ頃だ。あと二時間。

 

 

 リビングに座って、また雨音を聴く。

 

 午前中は鬱々としていた気分が、ケーキ作りのおかげですっかり持ち直していた。やっぱり手を動かしているのが一番いい。何もしないでいると、ろくなことを考えない。

 

 最近は、何でもない時間を一人で過ごすのが、正直に言って少し嫌いだった。

 

 一人でいると、自分が社会から消えた人間であるという事実が、じわじわと意識に染みてくる。

 

 戸籍のこと、身分のこと、この先どうやって生きていくのかということ。普段はあまり深く考えないようにしているけれど、こうして雨の日に一人でいると、そういう問題が頭をもたげてくる。

 

 もし千賀が、もう面倒を見きれないと言ったら。

 

 もし千賀に、出て行ってくれと言われたら。

 

 その瞬間、僕は本当に行く場所がなくなる。この世界のどこにも、僕を受け入れてくれる場所がなくなる。

 

 ……やめよう。こういうことを考え始めると、きりがない。千賀はそんなことを言う人じゃない。

 

 少なくとも今のところは、僕が家事をちゃんとやっている限り、追い出されるようなことはないはずだ。

 

 タブレットを手に取り、新しいレシピ動画を探し始めた。次は何を作ろう。マカロンなんかはまだ少しハードルが高いから、マドレーヌあたりが現実的か。

 

 あ、フィナンシェもいいな。千賀は焼き菓子とフレッシュなケーキ、どっちが好きだろう。今度聞いてみよう。

 

 最近は、こうやって「次に千賀に何を作ろう」と考えている時が、一番気持ちが安定するのだと、僕は薄々気づいていた。

 

 千賀のために何かをしている時、千賀が喜ぶ顔を想像している時、僕はこの身体のことも、社会からはじき出されたことも、全部忘れていられる。

 

 それが何故なのかは、深く考えないことにした。とくに知らなくても、別に困らないし。

 

 

─────

 

 

 午後六時過ぎ、玄関のドアが開いた。

 

「ただいま」

 

「おかえり!」

 

 夕飯の用意をしていた僕は、キッチンから飛び出して千賀を出迎えた。

 

 千賀は傘紐を留めながら、靴を脱いでいた。肩が少しだけ湿っていた。風に煽られたのかもしれない。

 

「雨、強くなった?」

 

「帰り際に少し。大したことはありません」

 

「タオル持ってくるね」

 

 洗面所からフェイスタオルを取ってきて、千賀に差し出した。千賀はそれを受け取って、肩口の濡れた部分を軽く拭いた。

 

「ありがとうございます。……先輩、何だか機嫌がいいですね」

 

「えへへ、実はね、すごいの出来たんだよ。見てほしいものがあるんだけど、先に着替える? ご飯にする?」

 

「先にその『すごいの』を見せてもらいましょうか」

 

 千賀が僅かに口元を緩めた。ほとんど微笑みと呼べるかどうか怪しい程度の変化だけれど、一緒に暮らすうちにこの人の表情の機微を読み取れるようになってきた。今のは、少し面白がっている時の顔だ。

 

 

「じゃあ、目を瞑って。いい? 瞑った?」

 

「……瞑りました」

 

 千賀が素直に目を閉じてくれたので、僕は冷蔵庫からケーキを取り出して、テーブルの上に置いた。

 

「いいよ、開けて」

 

 千賀が目を開けた。

 

「じゃーん! どう? すごいでしょ!」

 

 テーブルの上には、時間をかけて作ったイチゴのショートケーキが佇んでいた。白いクリーム、赤いイチゴ、天辺の薔薇飾り。部屋の照明が、ケーキの白とイチゴの赤を照らしている。

 

 千賀は数秒間、何も言わなかった。

 

 それから、ゆっくりと口を開いた。

 

「これを……先輩が作ったんですか」

 

「うん! 約束したでしょ、イチゴのショートケーキ。薔薇の飾り、ちゃんとできたよ」

 

 僕は得意げに胸を張った。千賀の反応が期待通りだったので、つい調子に乗ってしまう。

 

「どうかな。ケーキ屋さんに負けてない出来だと思うんだけど」

 

「……負けてないどころか、売り物の水準です」

 

「ほんと? やったあ!」

 

 嬉しくて、つい手を叩いてしまった。ぱん、と小さな音が鳴る。一ヶ月前の自分だったら、手を叩いて喜ぶなんてしなかったと思う。でも最近は、こういう素直な感情表現が自然と出てくるようになった。

 

 変だとは思わなくもないが。気持ちが身体に乗って出てくるのは、きっと悪いことじゃない。

 

「後で切るね。千賀、大きめがいい? 普通?」

 

「……普通で」

 

「了解」

 

 

─────

 

 

 夕飯とお風呂を済ませたあと、ダイニングテーブルで千賀を待たせて、僕はケーキの用意をしていた。

 

 包丁でケーキを切り分けて、皿に乗せて差し出す。千賀がフォークでひと切れ取って口に運ぶのを、僕はじっと見つめていた。

 

 千賀の表情が、ほんの僅かに柔らかくなった。

 

「……美味しい」

 

 それだけだった。たった四文字。でも、千賀の「美味しい」がどれだけ貴重な言葉であるかを、僕は知っている。この人は気に入らなければ無言で食べるし、普通なら「悪くないですね」で済ませる。「美味しい」が出るのは、本当に美味しいと思った時だけだ。

 

「ふふ、よかった」

 

 僕は自分の分のケーキを切り分けて、食べ始めた。うん、悪くない。スポンジはしっとりとしていてキメが細かいし、生クリームの甘さも上品に仕上がっている。イチゴの酸味がアクセントになっていて、全体のバランスも申し分ない。初めてのショートケーキでこれなら、上出来だろう。

 

「ねえ千賀」

 

「はい」

 

「今日、お弁当はどうだった?」

 

「……鮭の味噌焼きが、特に」

 

 一瞬こちらを見て、それだけ言って、千賀はまたケーキに視線を戻した。

 

「……明日もお弁当作るから。リクエストある?」

 

「前にも言いましたが、毎日、お弁当まで作る必要は……」

 

「作りたいんだよ、僕が。千賀がサプリメントだけで昼を済ませてるかもって思うと、心配で落ち着かないんだから」

 

 少し大袈裟に言って、ちょっとだけ上目遣いを混ぜた。困った顔をして、唇をほんの少しだけ尖らせて。こうすると千賀は大体折れてくれるのだ。

 

 案の定、千賀は一拍置いてからため息をついた。

 

「……卵焼きを、甘いやつで」

 

「了解。甘い卵焼きね」

 

 にっこり笑うと、千賀はすぐに目を逸らした。耳の先が、さっきよりもう少し赤くなっている。

 

 それを見て、胸の奥がほわっと温かくなった。

 

 雨の日の鬱々とした気分は、もうすっかりどこかに消えていた。千賀が帰ってきて、ケーキを食べてくれて、素直に明日のお弁当のリクエストまでしてくれた。

 

 それだけのことで、朝からの暗い気持ちが全部、嘘みたいに晴れている。

 

 単純だなぁ、と自分でも思う。でも、単純でいいじゃないか。千賀がいて、千賀が美味しいと言ってくれて、明日も千賀のために何かを作れる。それだけで、今の僕は充分に幸せだ。

 

 外ではまだ雨が降り続いている。でも、この部屋の中は温かくて、甘いケーキの匂いがして、向かいには千賀がいる。

 

 

 明日は晴れるといいな、と思った。晴れたら洗濯物が外に干せるし、花屋にも寄れるし、千賀のお弁当にもう一品、おかずを増やせる。




【英輝夜/先輩】
 男時代はお酒つよつよだった人。
今の身体になってから一度、通販で買ったお酒を飲もうとしたが、千賀理珠に「肉体年齢がまだ定かではないので、お酒は禁止です」と言われて禁酒中。

【千賀理珠/千賀】
 お酒よわよわ。
全く飲めないという訳では無いが、烏龍ハイをグラス一杯飲んだら、しっかり酔っ払う。英輝夜曰く、「酔うと羞恥心の箍が外れるタイプ。若しくは承認欲求が溢れるタイプ」。
就職してからは、付き合い程度の飲酒に控えている。
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