研究所の昼休みに、私はデスクの上でタッパーの蓋を開けた。
ひじきの五目煮、鶏の唐揚げ、ほうれん草の白和え。どれも丁寧に作られていて、彩りはよく、美しく詰められている。
一口食べて、目を閉じる。
五目煮は甘辛い味付けが絶妙で、具材の食感もしっかりと残っている。鶏の唐揚げは濃すぎない味付けで、冷めてもこれだけ美味しいのは下拵えが丁寧な証拠だ。ほうれん草の白和えは出汁の香りがふわりと鼻を抜けて、箸休めとして申し分ない。
先輩の料理は、いつも温かい。物理的な温度の話ではない。冷めた弁当であっても、ひと口ごとに「食べる人のことを考えて作られた」という事実が伝わってくるのだ。
それは調味料の分量にも、切り方の丁寧さにも、おかずの組み合わせにも表れている。
「おっ、千賀さん。今日はお弁当ですか?」
向かいのデスクの同僚が声をかけてきた。私は普段、昼食は栄養補助食品か研究所の食堂で済ませていた。
先輩が作ってくれるようになる前は、弁当を持参するなど、この研究所に勤めて以来、一度もなかったはずだ。
「……ええ、まあ」
「手作りですよね、それ。自分で?」
「いえ。同居人が」
「同居人!」
同僚の声が一段高くなった。周囲の研究員が数名、こちらに視線を向ける。
私は自分の失言を即座に悔やんだ。「同居人」という言葉が、この場でどういう想像を喚起するかについて、もう少し慎重であるべきだった。
「……家事を手伝ってもらっている知人です。深い意味はありません」
「へぇ……でもいいですね。手作り弁当なんて。彩りも綺麗だし、愛情こもってる感じ」
「愛情は関係ありません。単に先輩が……その、料理が趣味なだけです」
「先輩? 年上の方なんですか?」
墓穴を掘っている自覚はあった。答えれば答えるほど情報が漏れていく。これ以上の会話は危険だと判断して、私は「すみません、食事に集中させてください」と切り上げた。
同僚はにやにやしながら自分のデスクに戻っていったが、あの表情は明らかに何か勘違いをしている。
弁当の残りを黙々と食べながら、窓の外を見た。昨日からの雨はようやく上がって、雲の隙間から薄い日差しが覗いている。
先輩は今頃、何をしているだろう。昨日は雨で買い物にも行けなかったから、今日は晴れて嬉しがっているに違いない。洗濯物を干して、花屋に寄って、スーパーで食材を吟味して。あの小さな身体で買い物袋を提げて歩く姿が、ふと脳裏に浮かんだ。
─────
帰宅すると、先輩がキッチンでマドレーヌを焼いていた。
玄関を開けた瞬間にバターと蜂蜜の香ばしい匂いが漂ってきて、今日も先輩はお菓子作りに精を出していたらしいということが即座にわかった。シフォンケーキ、ショートケーキと来て、次はマドレーヌ。先輩の製菓熱は留まるところを知らないようだった。
「おかえり、千賀! 見て、今日はマドレーヌ焼いたんだ。おへそがちゃんと出たよ」
「おへそ?」
「マドレーヌの真ん中のぷっくりしたとこ。これが綺麗に膨らむのが上手く焼けた証拠なんだって」
先輩がオーブンシートの上に並んだマドレーヌを指差した。確かに、貝殻型の生地の中央がふっくらと盛り上がっている。先輩は昨日のショートケーキに続いて、着実に製菓の腕を上げているようだ。
「ところで先輩。明日は土曜日ですが」
「うん、知ってる。千賀、休みでしょ?」
「はい。それで、少しお話があるのですが」
先輩がエプロンの裾で手を拭きながら、首を傾げた。この首の傾げ方も、以前とは微妙に変わっている。
大学時代の先輩は首を傾げる時、顎を引いて怪訝そうな顔をした。今の先輩は顎を少し上げて、犬が飼い主を見上げるような角度で傾げる。
無意識なのか意図的なのか、その境界が最近ますます曖昧になっているように見える。
「検査機の予約が取れたので、先輩の身体のことについて、そろそろ本格的に調べたいと思っています」
先輩の表情が、ほんの少しだけ強張った。
「……調べるって?」
「血液検査や遺伝子解析など、可能な範囲での医学的検査です。先輩の身体に何が起きたのか、原因を特定する手がかりになるかもしれません。私の専門は生命科学ですから、多少なりとも力になれるはずです」
先輩は黙ったまま、キッチンカウンターに背中を預けた。赤茶色の瞳が揺れている。視線が泳いで、床を見たり壁を見たりしている。
「……千賀は、僕を元に戻したいの?」
その質問は、予想していなかったわけではない。けれど、先輩の声に滲んだ微かな不安の色は、予想以上に鋭く私の胸を刺した。
「……元に戻すかどうかは、まだわかりません。まず何が起きたのかを知ることが先です。先輩だって、自分の身体に何が起きたのか、気になりませんか?」
「……そりゃ、気にならないと言えば嘘だけど」
先輩は三つ編みの毛先を指に巻き付けながら、言葉を探すように口を動かした。
「でも、今の生活が……その、変わるのは、ちょっと……」
語尾が消えていく。
先輩はそれ以上何も言わず、視線を足元に落とした。
『今の生活が変わるのは嫌だ』
先輩の言葉の続きが、声にならなかった部分が、私には聞こえた気がした。それは先輩の本音なのだろう。元の身体に戻ることよりも、今のこの暮らしを失うことの方が怖い、先輩はそう感じ始めている。
私は、その心理の変化にも注目していた。先輩が現在の身体と生活に適応し、それを手放すことに抵抗を感じるようになっている。それは正常な心理的適応とも言えるし、身体が精神に与える影響の証左とも言える。
けれど今この瞬間、私の胸を占めていたのは科学的関心ではなかった。
先輩が不安そうな顔をしている。それが、ただ単純に、つらかった。
「先輩。一度検査をしたからといって、すぐに何かが変わるわけではありません。結果を見てから、どうするかは一緒に考えましょう」
「一緒に?」
「はい。先輩一人の問題ではないですから」
先輩がこちらを見上げた。あざとさの欠片もない、素のままの表情だった。赤茶色の瞳に浮かんでいるのは、不安と、そして、安堵だろうか。
口元がほどけるように緩んで、先輩は小さく頷いた。
「……うん。わかった。千賀がそう言うなら、検査受けるよ」
「ありがとうございます。では、明日の午前中に少し採血させてもらえますか。自宅でできる範囲の簡易検査から始めます」
「千賀、家で採血できるの?」
「研究者ですから。必要な機器は研究所から借りましたし、検査機もラボのものです」
先輩は少し驚いた顔をして。
「千賀って、やっぱりすごいよね」
「何がですか?」
「だって、検査もできて、採血もできて、家事は、まぁ壊滅的だけど、仕事は超一流で。僕の変な身体のことも真面目に調べてくれるし」
「家事が壊滅的は余計です」
「事実じゃん」
先輩がいたずらっぽく笑う。さっきまでの不安そうな顔はもう消えていて、代わりにいつもの、少しだけ甘えた笑い方が戻っていた。
こうやって不安を見せた直後に、けろりと切り替えて笑える先輩のことを、私はいつも、羨ましく思うのだ。
私はいつまでも考え込んでしまうたちだから。
─────
翌日、土曜日の朝。
採血は簡易的なものだったが、先輩は注射が苦手だったらしく、針を見た瞬間に顔が青ざめた。
「先輩、たかが採血です。一瞬で終わります」
「わ、わかってるけど……痛いの嫌だなぁ」
先輩がソファの上で膝を抱えている。腕を差し出してはいるものの、目は固くつぶったままで、空いている方の手でクッションをぎゅっと握りしめている。その姿は、注射を怖がる子供そのものだった。
「では、刺しますよ」
「ま、待って。心の準備が」
「準備している間に終わりますから。はい、消毒して……」
「ひぇっ」
「……もう終わりましたよ」
先輩が恐る恐る目を開けた。腕には既に絆創膏が貼られていて、採血管には赤い液体が静かに揺れている。
「……え、もう終わったの?」
「はい。先輩が目を瞑っている間に」
「全然痛くなかった……千賀、注射上手いね」
「慣れているだけです」
先輩はほっとしたように息を吐いて、腕の絆創膏をまじまじと見つめた。
「可愛い絆創膏だね。花柄?」
「……先輩に合うかと思いまして」
そう答えてから、自分の言葉に少し後悔した。
普通の絆創膏で良かったのに、わざわざ花柄を選んで買ってきた理由まで、正直に伝える必要はなかったかもしれない。
そんな私の気持ちを他所に、先輩は嬉しそうに絆創膏を撫でて、ふわりと笑った。
「ありがとう、千賀。大事にする」
「……絆創膏を大事にしても仕方がないのですが」
「いいの。千賀がくれたものだから」
こういうことを、先輩は何の気なしに言うのだ。
本人にとっては何でもない一言なのだろう。先輩は昔から、人の好意に対して素直に感謝する人だった。
けれどその素直さが、今のこの姿で、あの幼い顔で発揮されると、受け取る側の心臓にはかなり堪える。
採血管を簡易検査キットにセットしながら、私は話題を変えた。
「先輩、午後は何か予定がありますか」
「んー、特にないかな。買い物は昨日済ませたし、今日は休日だからゴロゴロしようかなって。千賀は?」
「特にありません。検体の本格的な解析は研究所に持っていってからなので、今日やることは終わりました」
「じゃあ、二人とも暇だね」
先輩がソファに寝転がりながら、こちらをちらりと見た。
「千賀、たまにはゆっくりしなよ。休日も論文読んでるでしょ」
「仕事ですから」
「休日くらい休んでよ……。千賀が倒れたら、僕が困るんだから」
最後の一言を、先輩は冗談めかして言ったつもりだったのだろう。けれど、その言葉の奥にある真実を、私は見逃さなかった。
先輩にとって私が倒れることは、文字通り生活の基盤が崩れることを意味する。先輩の不安は、冗談として処理するには少し重いものだった。
「……わかりました。では今日は、何もしない日にしましょう」
「やった。千賀、映画とか観る?」
「先輩が選んでくれるなら」
「任せて」
先輩がタブレットを操いながら、次々と映画のタイトルをスクロールしていく。途中で「あ、これ面白そう」「でもこっちも」と独り言を言いながら迷っている様子は、本当に楽しそうだった。
大学時代の先輩は、こういう場面では即断即決するタイプだった。映画を選ぶのに何分も迷うなんて、考えられなかった。
今の先輩は、迷う。些細なことで悩んで、考えて、それから私に意見を求める。以前の先輩にはなかった、ものの迷い方だ。
「ねえ千賀、アクションとコメディどっちがいい?」
「どちらでも」
「また『どちらでも』。千賀ってほんと自分の意見言わないよね」
先輩が唇を尖らせて、半ば呆れたような顔で笑う。
「……コメディで」
「了解」
先輩がコメディ映画を選んで再生した。ソファに並んで座り、タブレットの画面を二人で覗き込む形になる。画面が小さいので、自然と肩が触れ合う距離になった。先輩はブランケットを引っ張ってきて、二人の膝の上に掛けた。
「寒くない? 千賀」
「……大丈夫です」
「遠慮しないで、ブランケット使って」
先輩がブランケットの端を私の方に引き寄せて、膝にかけてくれた。その何気ない仕草は、あざとさとは無縁の、純粋な気遣いだった。
映画が始まった。コメディと銘打たれているだけあって、序盤から軽妙なやりとりが続く。先輩は早速笑い声を上げていて、面白い場面では声を出して笑い、つまらない場面では正直に「うーん」と首を傾げている。その反応の素直さが、隣で見ていて気持ちがいい。
映画の中盤、主人公が思いがけず感動的な台詞を口にする場面があった。不器用な男が、ずっと一緒にいた相手にようやく本心を伝えるシーンだ。
ふと隣を見ると、先輩が目元を擦っていた。
「先輩、泣いてるんですか」
「いいシーンだったから……」
先輩が、少し照れくさそうに視線をそらした。
その仕草が、何だかおかしくて、私は思わず笑ってしまった。声を出して笑うなんて、自分でも久しぶりのことだった。
「千賀が笑った」
「……笑ってません」
「笑ってた。今、声出して笑ってたよ。久方振りに見た、千賀のそういう笑い方」
先輩がこちらを見つめていた。赤茶色の瞳が、何か大切なものを見つけたかのように輝いている。
「千賀、もっと笑った方がいいよ! 笑ってる千賀、すごく……」
先輩が言葉を途中で止めた。何を言いかけたのか、一瞬だけ迷うような間があって、それから先輩はふいと画面に視線を戻した。
「……すごく、いいと思う」
その声は、いつもより少しだけ小さかった。
私は何も返せなかった。胸の奥で、何かが静かに脈打っている。それが何なのか、名前をつけることが怖くて、私もまた画面に目を戻した。
映画の後半は、正直に言って、内容が頭に入ってこなかった。
─────
映画が終わった後、先輩は風呂に入ると言ってバスルームに消えた。
一人になったリビングで、私はソファに座ったまま天井を見上げていた。ブランケットには先輩の体温がまだ残っていて、ほのかにシャンプーの匂いがする。
『もっと笑った方がいい』
先輩の言葉が頭の中で繰り返し再生されている。
大学時代にも、先輩に同じようなことを言われた記憶があった。
研究室で根を詰めている私に、先輩が缶コーヒーを差し入れてくれた時だ。あの時も先輩は「千賀はもっと肩の力抜いた方がいいよ」と言って笑っていた。あの頃の先輩は背が高くて、少しだけ疲れた顔をしていて、でも笑うと周りの空気が柔らかくなるような人だった。
今の先輩も、本質的には同じだと思う。見た目は変わっても、人を気遣う優しさも、不器用な押しの強さも、鈍感なくせに核心を突いてくる言葉のセンスも、変わっていない。
変わったのは、身体と、それに引っ張られた幾つかの性質だ。
バスルームのドアが開く音がした。
「千賀ー、あがったよー」
先輩がパジャマ姿でリビングに出てきた。腰まである長い茶髪が濡れたまま肩にかかっていて、タオルで適当に水気を拭いてはいるが、まだ滴が落ちそうだ。
初めの頃は、しっかりと髪を乾かすように意識していたようだが、最近は気が抜けたのか、面倒くさくなったのか、おざなりになってしまっていた。
「先輩、髪をちゃんと乾かさないと風邪を引くと何度言ったら……」
「だって、めんどくさいんだよ……。洗面台の鏡だけだと後ろが見えなくてさ、後ろの方だけ乾きが悪いんだよね、髪長いと」
先輩がタオルを首にかけたまま、困った様な可愛い顔でこちらを見つめている。演技なのか本気なのか判別がつかない。
「……私が乾かしましょうか」
口にしてから、何を言っているのだと思った。しかし、先輩は即座に顔を明るくした。
「いいの? 助かる!」
断る隙も与えられないまま、先輩はソファの前の床にちょこんと座った。私の膝の前に背を向けて、濡れた長い髪を背中に流す。
「…………はぁ」
私は洗面台からドライヤーを持ってきて、電源を入れた。温風を先輩の髪にあてながら、指で梳いていく。濡れた茶髪は重くて冷たかったが、ドライヤーの熱で少しずつ乾いて、指先に柔らかくなっていく感触が伝わってきた。
「ん……気持ちいい」
先輩が目を閉じて、小さく呟いた。
私は手を止めなかった。機械的に、丁寧に、髪の根元から毛先に向かって風を送り続けた。先輩の髪は量が多く、腰近くまでの長さがあるから、完全に乾かすにはそれなりの時間がかかる。
指の間をさらさらと流れていく茶髪。色素が薄くて、乾き始めると窓から差す夕日を透かして、淡い琥珀色に輝く。
綺麗な髪だ、と純粋に思った。先輩自身は、この髪の手入れをどう思っているのだろう。以前はなかった長い髪を、今では三つ編みにしたり、リボンをつけたりして楽しんでいるようだが。
「千賀、上手だね。美容師さんみたい」
「ただ風を当てているだけです」
「でも、指の通し方が優しいよ。痛くない」
先輩がそう言って、ほんの少しだけ私の膝に背中を預けてきた。
心臓が跳ねた。
先輩の背中の温度が膝越しに伝わってくる。パジャマの薄い布地を通して、先輩の体温が、息遣いが、心拍が……。
先輩は気づいていないだろう、私の手が、一瞬だけ震えたことに。
平静を装って、ドライヤーを動かし続けた。毛先の方まで丁寧に乾かして、最後に冷風で仕上げる。乾いた先輩の髪はさらさらの直毛に戻っていて、触れるたびに指の間からすり抜けていく。
「はい、終わりです」
「ありがとう、千賀。すっごくふわふわになった」
先輩が振り返って、髪を揺らしながら笑った。乾いたばかりの茶髪が光を含んでさらりと流れて、あの幼い顔立ちを柔らかく縁取っている。
私はその笑顔から、目が逸らせなかった。
逸らせないまま、数秒が過ぎた。先輩が不思議そうに首を傾げる。
「千賀? どうかした?」
「……いえ。何でも」
ドライヤーのコードを巻き取りながら、私は自分の心臓に言い聞かせた。
落ち着け。これは先輩だ。英輝夜先輩だ。私の大学時代の先輩で、友人で、ただの同居人だ。
けれど、そう言い聞かせるたびに、別の声が返ってくる。
『だからこそ』、と。
大学時代に好きだった人が、今こうして目の前にいる。変わった姿で、変わらない優しさで、私の隣に。
科学者は、観測によって対象に影響を与えてはならない。量子力学の原則が、ふと頭をよぎった。
私が先輩の変化を観測すればするほど、先輩の行動も、そして、私自身の感情もまた変質していく。
観測者のジレンマ。
客観性を保てない実験に、価値はない。
けれど私はもう、この実験から、降りられないことも知っていた。
【英輝夜/先輩】
何に影響されて書き始めたのか分かり易すぎる話だよなぁ、でも「輝夜」って名前だと直球すぎるよなぁ……。
……どうせわかりやすいんだから、もう「輝夜」でいっか!
という感じで命名。
【千賀理珠/千賀】
響きだけで決めました。かわいい見た目の子が「せんが!」とか「せんがぁ……おねがい」とか、響きが可愛かったので。