千賀が出張から帰ってきて、一週間が過ぎた。
たった一週間の不在だったはずなのに、千賀が戻ってきた日曜の夕方から、僕の中で何かが変わったような気がする。
具体的に何が変わったのかと問われると上手く説明できないのだが、千賀が隣にいるという事実が、以前よりずっと特別なものであると感じる様になっていた。
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いつも通り、朝六時に起きてキッチンに立つ。味噌汁を温めながら、卵焼きを焼いて、漬物を小皿に盛る。一連の動作は毎朝同じだ。
でも千賀が出張から帰ってきてからは、千賀の部屋のドアが開く音を聴くと、胸のあたりがほっと緩む。
出張中、あの扉が朝になっても開かなかった七日間のことを、身体が覚えているのかもしれない。
「おはようございます、先輩」
「おはよう、千賀。今日は鮭と卵焼きと、あとカブのお味噌汁」
「……毎朝、すみません。ありがとうございます」
「気にしないで! 作りたいから作ってるんだから」
千賀が、まだどこか眠たそうに椅子に座る。寝起きの千賀は髪が少しだけ跳ねていて、いつもの隙のない雰囲気が少し緩んでいる。その姿が、なんだろう……可愛いと思ってしまう自分がいる。
可愛い、という感想を千賀に対して抱くことは、以前はなかった気がする。面白いとか、変わってるなとか、真面目だなとか、そういうのはあったけれど、「可愛い」はなかった。
いつからだろう。出張中にメッセージのやり取りをしていた頃から、千賀の不器用なところに対する感じ方が少しだけ変わった気がする。
千賀の真面目で不器用なところ、口が滑って墓穴を掘るところ、意外と恥ずかしがり屋なところも、全部ひっくるめて、なんというか、そう、愛おしい。
愛おしい……?
その言葉が自然と浮かんできたことに、少しだけ戸惑った。愛おしい、は友達に対して使う言葉だろうか?
まぁ、使わないこともないだろう。大切な友人のことを愛おしいと思うのは、おかしくは、ないはず。
「先輩、この味噌汁美味しいです……」
「でしょ。出汁、昨日の夜から昆布を水に浸けておいたんだ」
「そこまで手間をかけて」
「千賀が美味しそうに食べるの見るのが好きだから、手間じゃないよ」
千賀の箸が止まった。こちらを見ているが、何も言わない。数秒の間があって、千賀は視線を味噌汁に戻した。耳が赤い。
僕は何かまずいことを言っただろうか? 思い返してみたが、別におかしなことは言っていないはずだ。
千賀が美味しそうに食べるのを見るのが好きなのは事実だし……。
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水曜日の夕方。
買い物から帰ってきて、リビングのソファに荷物を置いた。今日はスーパーの帰りに本屋に寄って、料理本を一冊買ってきた。フランス菓子の本だ。フィナンシェで味をしめて以来、フランス菓子への興味が止まらない。カヌレ、タルトタタン、クレームブリュレ……。
写真を眺めているだけでわくわくする。
千賀が帰ってきたら、どれを最初に作るか相談しよう。千賀は甘いものに対して「甘すぎなければ何でも」という大雑把な基準しか持っていないが、それでも意見を求めると少し考えてから答えてくれる。
最近は「先輩が作りたいものでいいです」と即答せずに、ちゃんとメニューを見て選んでくれるようになった。
……千賀が帰ってくるまで、あと二時間か。
時計を見て、あと何時間かという数字を確認する行為が、いつの間にか僕の日課になっていた。
出張前は、そこまで意識していなかったはずだ。夕食の仕込みの都合上、帰宅時間を把握する必要があっただけで、「あと何時間」とカウントダウンするような感覚はなかった。
でも、今は違う。
千賀の帰宅が近づくにつれて、胸の中の温度が少しずつ上がっていく感覚がある。
六時半のインターホンの音を、玄関のドアが開く音を、「ただいま」の声を、それらが訪れる瞬間を、僕は待ち遠しいと、確かに思っていた。
夕食はグラタンにした。千賀がグラタンを好きかどうかは聞いていないが、ホワイトソースから手作りしたかったのと、寒い日にはオーブン料理が似合うと思ったからだ。マカロニと海老とブロッコリーを具材にして、チーズをたっぷり載せてオーブンに入れた。
六時二十五分。
オーブンのタイマーをセットしたのとほぼ同時に、玄関の鍵が回る音がした。
「ただいま」
「おかえり、千賀! 今日ちょうどグラタンのオーブン始めたとこ。タイミング完璧!」
玄関に迎えに行く。千賀が靴を脱ぎながらこちらを見下ろした。今の僕と千賀の身長差は十センチ以上あるから、基本的に千賀が僕を見下ろす形になる。
「いい匂いですね。グラタンですか」
「うん。海老とブロッコリーのマカロニグラタン。ホワイトソースから作ったよ」
「また手間のかかるものを」
「千賀が喜ぶ顔が見たいから、手間じゃないって何度も言ってるでしょ。ふふっ、自信作だよ」
「……それは、楽しみですね」
千賀が着替えている間に、焼き上がったグラタンをオーブンから出して食卓に並べた。
焼き立てのチーズがぐつぐつと泡立っていて、こんがりとした焦げ目が食欲をそそる。
サラダとコンソメスープも添えて、パンはバゲットを薄切りにしてトーストした。
「先輩、これは」
千賀がグラタンをよそった皿を持ち上げて言った。
「あ、それ? 千賀の分はちょっと多めによそっておいた。最近ちゃんと食べてる割には顔がまだ少し窶れてるから」
「私は元からこういう顔です」
「違うよ。大学時代の千賀は、もうちょっとふっくらしてたもん」
千賀がスプーンを持ったまま固まった。その反応の意味がわからなくて、首を傾げる。
「千賀?」
「……いえ。昔のことを、よく覚えていますね」
「そりゃ覚えてるよ。千賀のことだもん」
千賀は無言でグラタンを口に運んで、静かに咀嚼していた。いつもなら「美味しいです」と律儀に感想を述べるのに、今日は黙ったままだ。
でも、スプーンの動きがいつもより少しだけ速い。千賀が美味しい時だけ見せる兆候だから、味については問題ないのだろう。
食後、僕は新しく買った料理本を千賀に見せた。
「ねえ千賀、これ見て。カヌレとタルトタタンとクレームブリュレ、どれが食べたい?」
「……そうですね、私はどれでもよいですよ」
「出た、千賀の『どれでも』。ちゃんと選んでよ」
僕はソファで千賀の隣に座って、料理本を千賀の膝と自分の膝の間に広げた。自然とぴったり隣にくっつく形になるが、本を二人で見るにはこの位の距離でないと読めない。
「……こ、この、カヌレというのは」
「外がカリカリで中がもっちりしたフランスのお菓子。蜜蝋を型に塗って焼くんだって。ちょっと手間がかかるけど、面白そうでしょ」
「蜜蝋……手に入るんですか」
「通販で買える。あと銅の型も必要なんだけど、それもぉ……」
「先輩。また通販ですか」
千賀が半眼になった。僕の通販癖に対する千賀のこの視線には見覚えがある。シフォンケーキの型にはじまり、数々の製菓道具、そして今度はカヌレの型。千賀の家のキッチンが製菓道具で埋まりつつある現状を、千賀はそれなりに憂慮しているらしい。
「えー、でも千賀のためだよ?」
上目遣いで千賀を見た。こうすると千賀が弱いのは、もう十分に学習済みだ。案の定、千賀は一瞬だけ視線を逸らして、それからため息をついた。
「……カヌレで。食べてみたいです」
「やった! ありがとう千賀!」
嬉しくて、思わず千賀の腕に抱きついた。
抱きついてから、自分の行動に気づいた。
両手で千賀の左腕を掴んで、身体を寄せて、顔が千賀の肩のすぐ近くにある。千賀の服の匂いがする。柔軟剤の匂い……僕が洗濯に使っている柔軟剤の匂いだ。
千賀は石像のように固まっていた。
「……先輩」
「あ、ごめん」
慌てて手を離した。
何をやっているんだ僕は。カヌレを作る許可が出たのが嬉しくて、つい。
男だった頃は、嬉しくても人の腕に抱きつくなんて絶対にしなかったのに……身体に気持ちが引っ張られているのだろう。
「ごめん、つい嬉しくて」
「いえ。……驚いただけです」
千賀の声は平静を装っていたが、よく見ると首筋まで赤くなっていた。
「先輩」
「ん?」
「その……最近、先輩は」
千賀が何かを言いかけて、口を閉じた。言葉を選んでいるような間があって、結局千賀は料理本に視線を落とした。
「……カヌレの型、何個用が必要ですか」
話題が変わった。千賀は時々こうやって、言いかけたことを飲み込んで別の話をする。何を言おうとしていたのか気になったが、追及するのは千賀の性格上逆効果だと知っているので、僕は素直に話題に乗った。
「六個用の型がいいかな。千賀と僕で三個ずつ」
「六個も食べれますか?」
「焼きたてのカヌレは最高においしいらしいよ。千賀は絶対にはまる」
「先輩がそう言う時は、大抵本当にはまるので少し怖いです……」
千賀がほんの僅かに口元を緩めた。
その表情を見て、僕はなんだかほっとした。さっきの腕に抱きつく一件で気まずくなっていないか心配だったが、もう、千賀はいつもの千賀に戻っていた。
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土曜日の午後。
カヌレの材料が届いたので、早速焼いてみた。蜜蝋を銅の型に塗る作業が思ったより繊細で、一回目は見事に焦げた。二回目はオーブンの温度を調整して、なんとかそれらしい形になった。外側はカリっとしていて、中は……うん、もう少しもっちり感が欲しい。
「千賀、試食して」
リビングで論文を読んでいた千賀に、焼きたてのカヌレを差し出した。千賀はタブレットを置いて、カヌレを手に取った。
「外がカリカリですね」
「うん。でも中がまだちょっと生焼けっぽい。次はもう少し温度を下げて長めに焼いてみる」
千賀がカヌレを一口齧った。咀嚼している間、僕は千賀の顔を凝視していた。美味しい時は箸の動きが速くなるのと同じで、お菓子が美味しい時は千賀の瞬きの回数が減る。今は……うん、減ってる。
「美味しいです。確かに外の食感は良い。中はもう少し粘り気がある方が、カヌレらしいかもしれません」
「だよね。ラム酒を増やすか、寝かせる時間を延ばすか……」
「先輩、ラム酒入ってるんですか」
「うん。レシピに書いてあったから」
「私、アルコールにあまり強くないんですが」
「あ。じゃあ次はバニラエッセンスに変えるね。……千賀がお酒弱いの忘れてた」
忘れてたとは言ったが、正確には千賀のアルコール耐性について真剣に考えたことがなかっただけだ。
ふと、大学時代の二人飲み会で千賀が酔っ払った時のことを思い出した。
あの時の千賀は、普段の鉄面皮が嘘のようにふにゃふにゃになって、僕の腕にしがみついて「せんぱぁい」と甘えてきたのだ。あれは衝撃的だった。普段絶対に甘えたりしない千賀が、あんなに……。
今の千賀が酔ったら、どうなるのだろう。
そんなことを考えた。今の千賀はあの頃より少し柔らかくなっているから、酔ったらもっと……。
……いや、何を考えているんだ。
「先輩? 顔が赤いですよ」
「え、いや、ちょっと、オーブンの熱気で」
「オーブンはとっくに切れていますが」
「……暖房が効きすぎてるのかも」
「室温は設定は二十二度ですが」
千賀の冷静な指摘が痛い。僕は誤魔化すようにカヌレを頬張った。
不完全な出来だが、それなりに美味しい。千賀と一緒に食べれば何でも美味しく感じるのは、きっと気のせいではなかった。
焼きたてのカヌレを二人でソファに座って食べていると、千賀が唐突に聞いてきた。
「……先輩。最近、その、何か変わったことはありますか?」
「変わったこと? 何が?」
「いえ、その……先輩自身に。気持ちの面で、何か変化を感じることは」
千賀が真面目な顔で聞いている、研究者の顔だ。僕の身体の変化を研究対象として見ている時の、あの理知的で冷静な目。
でもその目の奥に、別の何かが混じっている気がした。不安、だろうか。
「うーん、変化かあ」
考えてみた。
確かに、変わってきている部分はある。この間、千賀の腕に抱きついたのもそうだし、千賀の帰宅を以前よりも待ち遠しく感じる様になったのもそうだ。
千賀が美味しそうに食べる顔を見るのが好きだとか、千賀の寝起きの顔を可愛いと思うだとか、千賀の耳が赤くなるのを見ると、どこかくすぐったい気持ちになるとか……。
でも、そんな事を千賀に伝えるのは、流石に躊躇いがあった。
「んー、特にこれといって。強いて言えば、フランス菓子に興味が出てきたくらい?」
千賀が黙った。何かを期待していたのに、的外れな答えが返ってきた時の千賀の沈黙は、こういう感じだ。眉が僅かに寄って、唇が薄く引き結ばれる。
「……千賀、なんでそんなこと聞いたの?」
「いえ。研究の一環として、先輩の精神面の変化を把握しておきたいと思いまして」
「ああ、そういうこと。研究熱心だねぇ、千賀は」
「……ええ。研究者ですから」
千賀の声のトーンが僅かに下がった。何か、気に障ることを言ってしまったのだろうか。
わからない。
千賀は時々、こうやって僕にはわからない理由で少しだけ元気をなくす。そういう時は、大抵しばらくすると元に戻るので、あまり深追いはしない方がいい。
けれど今日は、なんとなく放っておけなかった……。
「千賀」
「はい」
「はい、これ」
僕は皿の上の最後のカヌレを取って、千賀の口元に差し出した。
「先輩?」
「お裾分け。僕の分だけど、千賀にあげる」
「自分で食べれますが……」
「いいから。はい、あーん」
冗談のつもりだった。千賀が呆れ顔をしつつ、僕の手からカヌレを取ると思っていた。
一瞬、本当に一瞬だけ逡巡するような間があって、千賀は、目を閉じて、僕の指先からカヌレを口にくわえた。
指先に、千賀の唇の柔らかさが触れた。
千賀の唇が指に触れた感触が、指先から腕を伝って胸の奥までじわりと広がっていく。心臓がどくんと跳ねて、顔が一気に熱くなった。
「……おいひいです」
千賀がカヌレを咀嚼しながら、何事もなかったかのように言った。目を開けた千賀の表情は、いつもの冷静なそれだった。でも……耳だけは、真っ赤だった。
「あ、う、うん。よかった」
僕は自分の指先を見つめた。千賀の唇が触れた場所が、熱を持っていた。
何をやっているんだ、僕は、あーんって。
何歳だ。三十四歳の男が「あーん」なんて。
でも、千賀が本当に食べるとは思わなかったし。
冗談だったのに。冗談で差し出したのに、千賀が本当に食べてしまったから、指先に千賀の唇の感触が残ってしまって、それが……。
それが、こんなに胸を騒がせる理由が、わからない。
……いや、わからないふりをしているのかもしれない。
でも、今は考えたくない。考えたら、何かが変わってしまう気がする。今の千賀との関係が、今のこの距離が、心地よくて大切で……。
だからこそ名前をつけることが怖い。
だって、きっと、それに名前をつけてしまったら……。
「先輩、顔が赤いですよ」
「……カヌレの、ラム酒のせい」
「先輩も、アルコールに弱いんですね?」
「……うるさいな」
千賀がどこか、からかう様に、優しく笑った。
その笑顔を見た瞬間に、胸の奥がきゅっと締まって、僕は慌てて視線を逸らした。