こちら冥界では、とある異変が起きていた。
「あの人間が来て以来、冥王様は玉座にすらお着きにならない…」
「仕事をサボる事など、この5百年一度たりともなかったのに!」
「全くだ。一体あの人間は何なのだ?」
「冥王様は我が花嫁と呼んでおられるぞ」
「あの女が冥王様をかどわかしたに決まっている!」
「そうだそうだ!あの方はそのような汚らわしい感情はお持ちでないはずっ」
下僕達のこんな雑談を聞きつけたサチ。
「言いたい放題言ってくれてるわ。迷惑してるのはこっちよ?」
文句を言いに出て行きたい気持ちをこらえ、引き続き柱の影からこっそり聞き耳を立てる。
「ここんとこ、下界での死人がわんさと出て大忙しだっていうのに?」
「ああ!呼び出せばとことん不機嫌になられて!」
「オレなんてこの間、あの大鎌で切られそうになったさ」
「おお怖っ…お前何言ったんだよ?」
「ただ食事の話をしただけだ。お連れの人間って、非常食なんですよねって確認も」
「バカか?お前!非常食を肉体ごと取っておく必要ないだろうが。戸棚に隠し持ってるツボに入ってるの知らないのか?」
「って事は食料じゃないのか。答えていただけなかったから困ってたんだー」
ここで首を傾げる。
サチはまだネルゲルが魂を食料にしている事を知らない。
「非常食?ってまさかのヴァンパイア!人間の生き血が食料の…」
ネルゲルが自分の血を吸うシーンを想像してゾワッとなる。
そのタイミングで耳元に囁き声が。
「何を、している?」
「きゃーーーっ!!!」
サチの悲鳴が辺り一帯に響き渡った。
途端に下僕達はビクリとなって口を閉ざす。
周囲をうようよと飛んでいた魂すらもその場で硬直。
元から時の流れを感じさせない世界なのに、時が止まったようになる。
「わ、私の血は!美味しくないですよ!」
「…何を言っている?」
「全っ然、美味しくないですからね!」
そう言って首元に両手を当てて後退るサチ。
サチの態度がこれまでと明らかに違う。
視線はサチから少し先でたむろしていた下僕達に向いた。
すぐさま標的を定めたネルゲルは、どこからともなく愛用の大鎌を持ち出す。
その切っ先が下僕達へと向けられる。
「我が大鎌の餌食になりたい者は申し出よ」
「「「なりたくありません!」」」
「何と。そうは見えぬが?」
「気、気のせいです!」
「ほう。ならば我が見間違うたと言うか」
「滅相もない!冥王様は正しいです!」
「やはりそうであろう。では一息に…」
「ちょっと待ったー!」
「サチ?どうした」
「どうした、じゃなーいっ、どう考えても理不尽すぎでしょ、この流れは?」
「この者達はそなたの悪口を言っていたのだぞ?なぜ庇う」
「聞かれてたのか…」
「オレ達もう終わりだ…」
下僕達の囁き声を遮ってサチが声を張る。
「それより!私は食料なの?どうなのよ。あなた、ヴァンパイアだったの!」
「…我が吸血の鬼と、言ったか?」
そう言いながら頭に生える角に手を伸ばす。
「吸血鬼にそんな角が生えてたかは…けど言われてみればそうだなって。顔色もいつも悪いしっ、鋭い牙も隠してるだけでしょ。ちょっといい?」
サチが一歩近づく。おもむろに唇をめくられて目を丸くするネルゲル。
初めてサチに触れられて胸がドキリと鳴った。
「…あにを、ひている?」
「え…ない。ってか、どれも鋭くてどれがそれか分かんなーい!あ…触っちゃったっ」
「そなたにならば、もっと触れられたい」
こんなセリフを無視してサチが考え込む。
「う~ん。ヴァンパイアじゃない?やっぱ角は変か。なら私の何を食べるっていうの?」
「我がそなたを食べるとな?それはもしや人間が夜な夜なするというあの行為の事か!」
そんな事を最近ネルゲルは知ったばかりで、実戦するには知識が足りないと自重している。
「ご要望とあらば話は別ぞ。今すぐに応えよう」
「は~あ?途端に視線がヤらしいっ、違うから!」
いつの間にか下僕達の姿は消えていた。二人が言い合う隙に逃げたのだ。
自分から触れてしまった事でエロスイッチが入ってしまったか。
サチは身の危険を感じてその場を去るも、当然追い付かれる。
「なぜ逃げる?我が花嫁よ」
「さっきあの方達が言ってましたよ?お仕事ちゃんとしてほしいって!もう行ってください!」
「仕事はしている」
「ウソ!いつも私に付きまとってるじゃない」
息を切らせて走りながら会話が続く。
と言っても息を切らしているのはサチだけだ。
ネルゲルは宙にフワフワと浮かび、飛んでいるのだから。
「我の使命は、この世界にいる魂共をここへ留め置く事。こうしている間とて、何人たりともここからは出さぬ」
「その辺フラフラ飛んでますけど?あれはいいんですか?」
気づけばいつからか、モヤモヤしたものが辺り一帯に浮いているのが見えるようになっていた。
「サチよ、あれらが見えるか。そうかそうか!」
「…何よ。見えて悪い?普通は見えないとか?」
「生ある者には見えぬはず」
「じゃあやっぱり私、死んだの?!」
「そうではない。そなたは特別なのだ。その力が我の目にはしかと…」
ここでネルゲルが不自然に言葉を切った。
「どうかした?」
サチをマジマジと見つめて無言を貫くネルゲル。
サチの中にあってはならぬものが見えてしまった。
それはかつての英雄達が宿していた力とよく似ている。
もしやサチは何らかの生まれ変わりか。
だとすれば、目の前の命を刈り取らねばならない。それが使命だ。
だがネルゲルは初めて自らの使命に逆らった。見ぬふりをしたのだ。
その理由はまだ本人にも分からない。
「どうもせぬ。一つ伝えておく。我は…そなたの魂だけは食わぬ。安心するがよい」
「…今なんて言った?」
「だから、そなたの魂は食わぬと」
「魂って、食べれるの?!」
自分がたった今殺されかけた事も知らず、サチは別の事に驚く。
そんな当たり前の事に驚かれ、ネルゲルは逆にそれが新鮮で楽しくなる。
これみよがしに、近くを飛んでいたモヤモヤを掴み取り、口に頬張って見せる。
「なん…っ」
サチは絶句した。
「そんなに驚く事か?我はこの魂によって造られたのだが」
「た、魂で、できてるの?あなたの体…」
「そうだ。そんな我が魂を食すのは当然であろう?」
「ええそうですねっ全くその通りっ!アハハ!」
人でもヴァンパイアでもないどころか、魂から作られたと知ってさらにパニックとなる。
「…ちなみにですけど、誰が作ったんです?」
魂を扱うなど、魔物かはたまた神かである。やはり目の前にいるのは神、なのか…。
「知らぬ」
「え、でも、そんなはずは」
「意思が芽生えたのは大分後になってから。それまでの事は全く覚えておらぬ」
「じゃあ、最初の記憶は?」
聞かれたネルゲルは、思い出した事もない過去を初めて振り返る。
「我の元には多くの者達が集っていた」
「それは誰なの?」
「我を崇める言わば信者達だ。人間だけではない、この世の種族全てと言っても過言ではなかろう」
「何か教祖様みたい…。でも、今はそういうカンジじゃないけど」
ここにいるのは下僕達と辺りを飛び回る無限の魂。
「冥界での話ではない。我はその頃、まだ冥王ではなかった」
「じゃあ何だったの?そんなに人々に崇められるなんて…」
何をしたらそうなる?とサチは考える。
「我には輪廻転生を絶つという使命が課せられていた。それに従ったのみ。特別何かを成した訳ではない」
「輪廻転生を絶つってどうやるのよ…」
「それは、」
これをサチに話せば、いずれ敵対した暁には手に掛けなければならなくなる。
命を絶つ事だと気づいていないならば、そうしなくて済むかもしれないとネルゲルは考えた。
「企業秘密、だ」
「何それ!そんな言葉いつ覚えたの?もういいわ、それで、それってどのくらい前なの?」
「年月の経過など気に掛けた事がないので分からぬ」
「ええ~…。どのくらい生きてるかも?」
「さあ」
「くうっ」
「少なくともそなたよりも年上だ」
「それは言われなくても分かりますっ」
サチはだんだん、目の前の人物の素性などどうでも良くなって来た。
そんな事よりも、一刻も早く皆の元へ戻るべし。
「他には質問はないのか?何でも語るぞ」
「もういいです。それより、やっぱり私あっちに戻りたい。やる事が終わったら戻って来るから!…それでもダメ?」
「そなたのやる事とは、魔物退治であったか」
「そうです。世界を昔みたいに平和に…」
「はて。昔のあちらの世界は平和であったか」
「今よりはそうでしょう?今、凄く酷いですよ?魔物達がやりたい放題、人々を貶めたり傷付けたり。特に魔王よ。アイツが復活なんて事になったら、もっと酷くなるんだから!」
サチから立ち昇る熱意に、ネルゲルの心はざわつく。
まるで勇者のようなセリフ。いや、もはや使命を持った立派な勇者だ。
そんな事実に、怒りが込み上げる。
「黙れ!」
「…っ」
「サチよ。命が惜しくばここにいる事だ。あちらへ行けばもう…」
匿う事は出来ない。
転生を阻止すべく働く力が降りかかるのを止めるには、自分の元に置くしかない。
「死ぬ事なんて覚悟してるわ。こんな冒険を始めた時にね!皆そうよ。姉さまだって、私の仲間達だって。私だけ隠れてる事なんてできない!」
「サチ…」
「だから、戻って来るって言ったけれどできないかも…。あ、死んだら魂になってこっちに来るんでしょ。ちょうどいいじゃない!それではダメ?」
ネルゲルは何も言わない。サチは静かに言い直す。
「私は人間。人間は必ず死ぬの。私だけが例外だなんて私は辞退します。冥王様のお相手は、きっと別の方よ」
「違う…我に間違いはない!そなたこそが我の永遠のパートナーだ」
「いろいろ違いすぎる。きっと分かり合えない」
「だからこうして日々学んでいる」
「それは理解します。あなたはとても真面目な方です。でも、私のせいで仕事もしなくなって、ダメ人間、じゃなくてダメ…まあいいや、とにかく!ダメになってしまうのはイヤなんです!」
またもネルゲルが沈黙する。とても沈痛な表情で。
「…ごめんなさい、うるさいの苦手でしたね。こういうところも、相性良くないと思いません?」
「…。何と言われようとも、そなたを死なせる事は認めぬ。そこまで言うならば、我がお供しようぞ」
「お供するって、一緒に行くって事?」
「そうだ。断るならばこの件はなしだ」
究極の選択だ。あちらの世界でも付きまとわれるなど、考えただけでもおぞましい…。
だがこれしか道はない。戻れるのならば贅沢は言えない。
「分かりました。それでいいですから、今すぐに戻してください!」
「よかろう。では少し待て。束の間不在にする折の諸々を済ませて来る」
「はいっ!」
こうしてサチは元の世界に戻れる事となった。ただし、偉大なるお供と共に。
なぜネルゲルが考えを変えたのか。
それは、この先サチがどのような行動に出るか見てみたかったから。
本能のままに使命を全うして来たネルゲルだが、サチに出会い自我が芽生えた。
世界征服以外の自我が。
そして興味を持ってしまったのだ。
自分が使命を反故にした時、この世界で何が起こるのかを。