スキルレベルしか上がらない一般身体能力学生が迷宮に挑んだら 作:石田フビト
第二階層へと降り立った僕がまずしたことは、洞窟の観察であった。
眼球を右へ左へ、上下も忘れずに注意深く見ていく。
……第一階層との違いは、あまりないか。
次いで、壁を慎重に触る。
ゴツゴツとした固い触感に、ざらついた岩肌。仄かに光る灯り。これらもまた、第一階層のものと酷く似ている。
「……とりあえず、異常はないかな……?」
ここまでは事前に調査した迷宮の特徴通りだ。
何をそんなに警戒している、と馬鹿にされるかもしれないが。なにせスライムが宙を舞い、骨を折ってくる世界だ。
僕は今この瞬間、映画で見るような大きな岩が転がってきても驚かない自信がある。
最悪の想定をしろ。
まず水責めはやばい。僕は泳ぎがそこまで得意じゃないのだ。装備のこともあるし、大量の水が流れてきたら溺れて死ぬ。
あと、さっき言った岩も普通に詰む。今はまだ階段が近いから逃げられるが、もし道半ばで転がってきたら……ぞっとするね。
「落とし穴、矢、上から降ってくる槍……考えられるのはこれくらいか。どうしよう、全部詰むんだけど」
僕の身体能力は未だ人間の域を出ない。
いや、何なら平均以下の雑魚である。普通の冒険者が軽傷で済む攻撃が、僕にとっては致命傷になりかねないのだ。
とはいえ、ずっとこのまま観察しているわけにも……はぁ、辛い。
「大丈夫……慎重に、慎重にだ……」
油断なく刀の柄を握りながらゆっくりと歩きだす。
厚みのある靴底から感じる、地面の凹凸。加えて僅かに響く音、匂い、肌から感じる空気の流れ。
その一つ一つにすら注意を払って進み続ける。
とんでもなく集中力のいる行動だ。
もしかしたら今日は、扉にも着けないかもしれない。
そう、思っていたのだが。
「……?」
不思議なことに、疲労感はさほど感じなかった。
まるでそれが自然な習慣のように。警戒をしつつ歩くという行動が、体に染みついているようだった。
はて、僕はこんなに器用だったろうか。
心の中で頭を捻りながらも警戒は一切緩めていない。
穏やかに、されど僕ができる最大限の注意を払っている。それが何とも、違和感を覚えさせた。
「……まぁ、いいや」
だからといって困ることでもなし。むしろ現状を鑑みれば、好都合というものだろう。
一歩、二歩と。
視線を細かく移しながら、静かに歩みを進めていく。
遅くもなく早くもない。極めて一定のリズムで地を踏みしめる。
「……」
……それから数分、いや十数分歩き続けただろうか。時間の感覚が曖昧だ。
心穏やかな集中状態は時の流れを忘れさせる。
とにもかくにも、僕は『扉』の前へと到着した。
一面にびっしりと広がる岩の壁に、場違いな現代風の扉が埋まっている。
第一階層の扉は全て年季の入ったものだったが……これはあまりに新しい。
「……異常として、引き返すか。それとも進むか……」
扉が新品のように見える。
それだけで異常だと判断するのは、神経質すぎるだろうか。いやしかし、ここではほんの少しの油断が命を刈り取る。
考えろ。
この場における最適解はなんだ。
「……ふぅー」
煮えたぎった脳みそを冷やすように、息を深く吐く。
落ち着け、今回の目的はなんだった。
攻略じゃなく……様子見だって言ったろ? なにも焦る必要はないんだよ。
今はとにかく情報を集めることが大切だ。
命を懸けた攻略は、その後でいい。
「……うん」
決めた。
一応、ここまで来たから扉は開けるけど、スライムとの戦闘はしない。
あくまで扉を開けた先の状況を知ることを第一優先として進もう。
進む距離も、十歩だけに限定して引き返す。
これなら迷うことなく帰還できるはずだ。
「扉を開けて十歩だけ、扉を開けて十歩だけ……」
ぶつぶつ呟き、右手でゆっくりと扉の取っ手を掴む。
金属の冷たい感触。そのまま捻ると、僅かな抵抗を残しつつもカチャリと開く音がした。
「……」
数秒待って、腕に力を込めて押し出す。
扉はやはり新品の如くスムーズに開いた。キィ、と接続部が擦れる音が静かに響くだけで、抵抗はほとんど感じなかった。
奥に開いた扉の隙間から、その先をじっと見つめる。
なにか異常はないか。なにか違っている点はないか。瞳を忙しく動かすものの、特に違和感はなかった。
「……すぅ、はぁ」
深呼吸の後に、ごくりと唾を飲み込む。そろそろ行かねば。
持っていた扉の取っ手を突き放すように離し、扉を完全に開ける。
キィ、ィ……。
慣性のまま動く扉を静かに見つめ。
念のため、右手は刀の柄に添わせ、左手はいつでも鯉口を切れるよう鍔に親指を乗せる。
これで準備は整った。
「……」
ドクン、ドクンと心臓が高鳴っている。
どうしてだろうか。何故か、胸の中がざわついている。
緊張とも異なった、怖気の走るような感情の発露。それが何なのかも分からず、僕は溢れ出る何かを必死に押し留めた。
まずは、一歩。一歩だけ前に出よう。
右足を音もなく上げ、そっと前に落とす。これで半歩。僅かに体が前進した。
「ふぅ、ふぅ……」
続いて、少し開いた右足の後ろに、左足を拳一個分開けて近付ける。これでようやく、一歩。
所謂、摺り足というやつだ。
左足は決して前に出さず、右足を常に先頭に置いて進む歩法。
更に三歩、四歩。
扉を通り抜け、注意を払いつつ地面を踏みしめる。
洞窟の中は何も変わらない。第二階層は、記憶にある第一階層と瓜二つの内装だった。岩肌も、その色も、洞窟の大きさも。
事前に本で調べた情報と同じだ。
変化するのは、出現する魔物の強さだけ。今までが異常だったので半信半疑であったが、ようやく正誤がはっきりした。
とりあえず、現時点においてこの情報は正しい。
これで槍とか大岩が降ってきたら、僕はもう何も信じられなくなるけど、その時はその時だ。
警戒は怠らずに進むことにしよう。
「……っと、止まってる場合じゃないな」
考察に割いていた意識を現実に戻し、摺り足を再開する。
えーと……何歩進んだっけ。たしか四歩を、進もうとしたんだっけか。それとも次が五歩目かな。六歩ってことはないだろうけど。
まぁ、いいや。一歩少なかったところで問題はない。
両足を静かに動かし、五歩目の前進を終える。あと、半分か。
「くぅ、きっついなぁ……」
この緊張感の中で、あと五歩。流石に扉を開けた後だと疲労感が凄いな。
なんで十歩とか言ったんだろう。
馬鹿なのか?
とはいえ今後は第二階層を中心に潜るのだ。
今のうちに、この感覚に慣れておかないと大変なことになる。
全身に小さな針が刺さっているような、この感覚に……。
「……」
六歩、七歩。
終わりが近付いている。だのに、緊張感が増していくのはどういうことなのか。
何か僕は、重要な見落としをしている気がする。
ピリピリと肌が焼ける感覚。
さっきから嫌な予感が止まらない。
八歩目。
恐ろしい。怖い。
今にすぐにでも逃げ出したい。
嫌だ、怖い、恐ろしい。もう無理だ。次で引き返そう、何かとても、嫌な感じがする。
そして九歩目――
「――ぁ?」
それはまるで、背筋に氷柱をぶち込まれたような。底のない海を見てしまったような。
全身が酷く粟立ち、警鐘という警鐘が大音量で脳みそに伝えた。
避けないと――死ぬ。
「っ!? ぁ、あ!?」
やばいやばいやばいやばい。
何がやばいか分からないが、とにかく不味い!
避けろ、何から? どうやって、避けるって何を。
いいから避けろ!
「ぉ、おおおっ!!」
本能に導かれるまま。
僕は思考する暇もなく、思いっきり前転をした。流動する視界。背中を伝う岩の感触。
そして……轟音。
圧倒的な振動の嵐。空気を震わす、絶望の到来。
「――はぁ!?」
転がりながら、思わず困惑の叫び声を上げる。
まさか。
まさかまさかまさか。
『ピ、ギ……』
「ふざ、けんなよ……! くそっ!」
スライムだ。
姿勢を整えて、後ろを振り返った先にはスライムがいた。
バスケットボール大の、青色のぽよぽよ。我が愛すべきクソ野郎。
何故、どうして、どうやって。
そんな思考は奴の姿を見た瞬間葬り去られた。
少しでも気を抜けば、殺られる。
数多のスライムを倒してきた僕だから分かる。
このスライムは……明らかに、今までの奴らとは違う。
「はぁっ、はぁっ、はっ……!」
『ピ、ピ、ピ……ッ』
削ぎ落とせ。
戦闘に必要なもの以外、全て捨てろ。
恐怖、困惑、驚愕、慢心、疑問。全ていらない。
代わりに思考を回せ。考えろ。どうやったら逃げられるのか、全力で考えろ。
『ピッ……!』
「っ!」
しかしその時間を、スライムが与えてくれるわけもなく。
突進の予備動作を確認した僕は、ポーチの中に手を突っ込んで、魔石袋二号を放り投げた。
その場凌ぎだが仕方がない。
今はとにかく、時間を稼がねば……!
右へ飛んでいく魔石袋二号。この間、僕は一切動かない。
今までの経験上、スライムはより動きのある物体を狙う習性がある。
賢い個体はそれがダミーだと気付くこともあるが、初見で見破られることはまずない。
とりあえず、壁に突っ込んだ隙に逃走。もしくは攻撃を……。
『ピ……ギ、ィ』
「……は?」
戦闘中にも関わらず、間の抜けた声が口から洩れた。
振動が……止まった?
いや違う、こいつは、止めたんだ。自分の意志で、突進を止めた。
突如分かれた魔力の動きに疑問を感じて。
罠の可能性を
『ピピ……ッ』
「や、ば……っ!」
再び振動を始めるスライム。
どうする、動くべきか。いや、まだ罠を見破られているかは分からない。ここで動けば、確実にバレてしまう。
じゃあもし、罠だと勘付いていたらどうする?
棒立ちの僕はいい的だ。確実に頭を吹き飛ばされて、死ぬ。
『ピ、ピギ、ギ……!』
「~~!!」
どちらにせよ、扉に近づかなきゃ逃げられない!
この溜めの長さからして、攻撃する場所は顔か胴体だと仮定! もう一度前転して、なんとか躱すしかない!
『ピギィッ!』
「っ、ぉおおっ!」
左斜め前方。
頭を抱えるように体を丸め、被弾面積を限りなく減らしながら前転をする。
頼む、避けてくれ……!
スライムの体から解放された暴力の嵐が、空気を震わす。
間髪入れずに、着弾。
洞窟内が揺れたと思うほどの衝撃。
……僕は、無事だった。
「よ、っし……!」
無茶な姿勢で前転をしたため、背中が少し痛むが問題はない。
素早く周囲の確認をする。距離が離れているなら、このまま逃げて……。
「……?」
しかし見渡しても、スライムの姿は見当たらなかった。
あの轟音からしてどこかに着弾したのは確実。だのにどうして、見つからない。
焦りと共に、じっとりと嫌な汗が背中を流れる。
ふと、僕は最初の状況を思い出していた。
突如として現れたスライム。あれは一体、どこから来たのか。
否、一体どこに潜んでいたのか。
答えは、その突進によってひび割れた地面が教えてくれる。
「……そう、か」
まるで蜘蛛の糸のように陥没した地面。
それはスライムが、真下に直撃したということを表している。
つまりスライムは……。
『ピギ、ギ……!』
最初から真上に潜んでいた。
そして今、この時も。奴は上に張り付いている。
僕は心の中で失態を悟った。
こいつは、一番確実で堅実な方法をとったんだ。罠の可能性のあるどちらかに突っ込んで、距離が開くのならば。
真上に飛んで、対象が動くのを確認しようと。
だが僕にとっての失態はそこじゃない。
僕の一番の間違いは、今、走り抜けなかったことだ。スライムの位置関係を把握しようと、探してしまったことだ。
今までの経験が、かえって足を引っ張った。
「……あぁ、くそ」
悪態をつく。
おかげで僕は、スライムに与えてしまった。ほんの数秒、されど致命的な、溜めの時間を。
ここまで頭の回るなら、それをしないはずがなかった。
最も堅実で、最も効果的な戦略。
それは……。
『ピギッ!』
天井からスライムの姿が消え、青色の軌跡を描きながら
斜め下に突撃したその粘性を含んだ体は、ボールが弾かれるように前へと進む。
二回、三回。
勢いよく跳ね回ったスライムの終着点は。
開いたままの、扉であった。
「そうだよね……そりゃ、そうするわ」
ダン、とスライムの突進を受けた扉が強く閉まる。
これで逃走は極めて困難になった。あの扉を開けるにはスライムに背を向けて、なおかつ数秒間無防備な姿を晒さねばならない。
そんな隙、殺してくれと言ってるようなものじゃないか。
青色のぷよぷよが、目の前で蠢く。
かつてないほどの強敵。力、速さ、賢さともに尋常ではない。
「……あー」
こりゃ、詰んだか。