スキルレベルしか上がらない一般身体能力学生が迷宮に挑んだら 作:石田フビト
深く下げた頭をゆっくりと上げ、再度彼の顔を見つめる。
どこか困惑したような表情。まだ、思い当たらないのかもしれない。
自分の失敗を。
自分の罪を。
メリアは唇を僅かに震わせ、それを隠すが如く静かな口調で告解した。
「とある『存在』から助言をいただきまして。昨日の行動……仮説は、全て誤った知識によるものだと知りました。重ねて、謝罪を申し上げます」
「仮説……って、ああ! あれですか」
「はい。その他のも、冒険者である雨夜様のプライベートに関する質問など……不適切な言動の数々、お詫びいたします」
「……んむむぅ」
自分の愚かな罪の告白に、悩まし気な声を上げる彼。
無理もない。自分は、彼に嫌われる行為をしたのだ。今更許しておくれと謝罪したところで、もう遅いのだろう。
『あれ』曰く、まだ関係改善の可能性は残されているらしいが。
どうしても、一度失敗した者が以前と変わらぬ日々を送れるとは思えない。
ずっとそういう世界で生きてきた。失敗作は壊され、次なる改良への踏み台となる。
そうやって自分も生まれたのだ。
自分はいくつもの不良品の残骸の上で、生まれてきた。
だからこそ。
「メリアさん、その謝罪は受け取れません」
「……はい」
……この結末は、ある意味で当然だった。
胸の中心から少し外れた部位が、酷く痛む。ズキズキと鈍痛を訴え、目の前が真っ暗になっていく。
彼の言葉の続きを聞くのが怖い。恐ろしい。
あぁ、あぁ。
どうして、『あれ』はあんなメッセージを寄越したのだろう。既に手遅れだというのに、あんな。
僅かでも希望を残すような書き方をして。
分かっていたなら、もっと早くに止めてほしかった。
それで壊れることになっても構わなかったのに。
彼に嫌われるくらいなら、自分は残骸となれば――
「だって僕は、メリアさんにとっても感謝しているんですから」
「は、い……?」
耳から伝達した振動の意味が、よく分からなくて。
理解できないままに聞き返す。
すると、彼は優し気な笑みを浮かべながら口を開いた。
「もう、昨日言ったことを忘れたんですか? 僕がどうしてこんなことをするかと聞いたときに、メリアさんは何と答えました?」
「……それ、は」
覚えている。
しかし、それは。
「言いにくいのなら言いましょう。貴女は、よりよきサービス向上のため、と言ったんですよ」
「……」
黒と青。重なる視線。
自分の心が読まれているかのように、彼の声が包み込んでいく。
ドクン、ドクンと。
あるはずもない心臓の鼓動が、幻聴として聞こえ始めた。
自らの変調に戸惑うメリアを待たず、彼は続ける。
「あのときはちょっと、困惑してましたけど……あれはきっと、本当だったんですよね。メリアさんは、僕のために調べて、行動に移してくれました」
「ですが、結果は失敗に終わりました。失敗に意味などありません。やはり、私は……」
「なにが失敗ですか。僕は、嬉しかったですよ」
「……雨夜様、私にお気遣いなど……」
思わず、口を挟んだ。
彼の言っていることは事実ではある。だが、全ては自分の失敗だ。
どうか言わないでほしい。貶してほしい。
こんな失敗作に。
そんなこと。
そんな、顔で。
「いつもありがとうございます、メリアさん」
「……っ」
「僕は、きっと貴女が思っている以上に感謝してるんですよ? そりゃ、時々これはどうかなぁ、って思いますけど」
……彼はいつだって正直者だった。
嘘がつくのが絶望的に向いていなくて。きっと、人を騙すことが一生できない人種なのだと思っていた。
だから、その顔は。
その緩く綻んだ口から語られる、言の葉は。
どうしようもなく本音なのだと理解させられる。
その感謝は。その想いは。
間違いなく、彼の本心だった。
自分は決して、嫌われていなかった……。
「メリアさんは、メリアさんの考えがあって。それで、僕のために努力してくれたんですよね」
「……」
「……なら、怒る理由なんてないですよ。迷惑だとか、謝ってほしいだとか、そんなの全く思いません」
「……では、私は」
突如として切り払われた暗闇に、困惑して。
メリアは体の内から去来する熱に浮かされるまま、回らぬ頭で口を動かした。
怒ってないと言われた。
ありがとうと言われた。
自分は嫌われていなかった。
ならば。
ならば。
「私は、どうすれば……雨夜様に、喜んでもらえるのでしょうか。このような私に、一体何が、できるのでしょうか」
「うーん、それは……」
途方もないほどに膨らむ、この熱。
今にも凍えそうだった体は溶け落ちるほど燃えて、何かを期待している。
教えてほしい。
どうか、貴方を。
貴方を喜ばせる方法を、今度こそ。
「メリアさんがしたいこと、ですかね」
「……? 私の、したい……こと?」
「はい。いや、色々考えたんですけどね。やっぱり一番嬉しいのは、メリアさんが自分で、これがしたい! って思ったことを、するっていうか。あー、難しいな……」
「……」
……パチパチと、脳の回路が弾けているのが分かる。
彼の伝えようとしていることは、正直あまり理解できていない。
けれど、確信がある。
これを理解した瞬間、自分は終わる。
全てが終わり……そして、生まれるのだ。
不思議なことに、それは欠片も恐ろしくはなかった。いや、寧ろ喜ぶべきことのように思える。
彼の口が、また動いた。
「メリアさんが喜ぶことは、僕も嬉しいんですよ。うん、これだな。これが一番しっくりくるや」
「……私が、喜ぶこと」
「はい。僕、人の幸せそうな顔が好きなんですよ。だからメリアさんも、僕を助けると思って幸せになってください。その手伝いなら、いくらでもしますから」
喜ぶ、こと。幸せに、なる。
彼は自分に、幸せになってほしいのか。
そう、なのか……。
パチパチと視界に小さなスパークが起こる中、何とか思考回路を動かして言葉を紡ぐ。
己惚れるなと。求めるなと。
所詮、自分は失敗作でしかない。そんな自分が、幸福だなんて。
なれるはずがない。
そもそも、自分に幸福を感じる機能などはないはずだ。
だから、だから。
「ですが、私には」
「……ん? ちょっと待てよ。メリアさんは僕が喜ぶことがしたい、でも僕もメリアさんに喜んでほしい……」
彼が少し、思い悩んで。
「まぁ、とにかく! メリアさんはメリアさんがしたいことをすればいいんですよ。それでも見つからないなら、その時は一緒に探しましょう。きっと何か、見つかるはずです」
「……私のしたいこと。私、は……」
駄目だ。
考えるな。したいことなどない。
自分は失敗したのだ。彼がいくら気にしていないと言っても、自分は失敗した。
感謝されたからなんだ。
許してもらえたからなんだ。
求めるな。
彼が喜ぶことをするのが、自分の役割だ。それ以上でもそれ以外でもない。
自分はアルストロメリアだ。
感情という機能はなく、ただ命令に従っていればいい存在。
……でも、彼はそのメリアが。
自分が喜ぶことが、喜びと言っていた。
幸せになってくれと。したいことをしろと。
あぁ、ならば。駄目だ。そんなこと。しかし、彼は求めている。
駄目だ。言うな。喜び。考えてはいけない。幸せ。
駄目だ。
駄目だ。
駄目、なのに……。
「……私は、雨夜様のサポートがしたいです。ずっと、貴方の冒険を、支えていきたいと思います……」
気付いた時にはもう、言葉は紡がれていた。
昨日シミュレーションで、彼の告白に答えた時と同じように。
……あぁ、そうなのか。
「……それが貴女の『したいこと』ですか?」
「はい。これが私の……生まれて初めての、願いです」
漸く理解した。
これが、願いなのだ。彼を支え、彼のために学び、彼のために生きること。
これこそが幸福。
これこそが生まれてきた理由。
他の誰でもない、彼のために。
彼を支えるために、自分は生きてきたのだ。
メリアと名付けられたあの日から、否、彼と出会ったその瞬間から。
きっと自分は、彼を支えたいと願っていた。
「こちらこそ、これからもよろしくお願いしますね、メリアさん」
「……はい、どうかずっと、貴方を支えさせてください」
よろしくお願いします、と。
その声を聞いたとき、メリアは自分が生まれ変わったことを自覚した。
頭の片隅で鳴っているスパークが収まることはなく。
ただただ、その小さな身に溢れる熱を享受していた。
胸が切なくなるほど痛みを発して、されどそれは決して辛いものではない。
恐怖や暗闇から最も遠いもの。
これが幸福だった。
もはや、疑いようもない。
自分には幸福を感じる機能が存在する。どうして、そんなものが備え付けられていたのかは知らない。興味も、左程ない。
けれど感謝したい。
自分が幸福になれば、彼は喜んでくれる。
その喜ぶ姿を見て、自分も幸福になる。二人の中で繰り返される幸福の与え合い。
なんて、素敵なことだろうか。
「ほんじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃいませ、雨夜様」
ポータルへと沈んでいく彼の姿を、じっと見つめる。
胸を蝕んでいた虚しさも、恐れも既になかった。
自分は彼を支え、彼もまたそれを望んでくれている。
その事実があるだけで、メリアは幸福だ。
メリアは今、幸福の絶頂にいた。
だからこそ、信じられなかったのだ。
ポータルから出てきた彼の姿が、あまりにも、凄惨で。
「おかえりなさいませ、雨夜、さ、ま……」
「あ……ただいまです、メリアさん……はは、何だか久しぶりに感じますね……」
力なく笑う彼の口元には、夥しい量の血痕が残されていた。
否、口元だけではない。黒い服でも隠し切れぬ、赤黒い凝血。ボロボロになった装備。
「雨夜、様……その、血痕は、いったい……」
理解ができない。
自分は、ついさっきまで。彼に優しく微笑まれていたのに。
彼はあんなに、元気そうだったのに。
身を包んでいた温かみは幻想となり、現実は頭に水を被せた。
たどたどしい声で問うた自分に、彼が申し訳なさそうな顔で答えた。
「あー、はい。ちょっと血を吐いちゃって。そのときに付いちゃったのかな。ごめんなさい、汚いですよね」
「血を、吐く……そんな重傷を、負ったのですか……?」
「重傷……まぁでも、骨が折れたとか、内臓が潰れたくらいなので平気ですよ。ちゃんと治りましたし」
「――」
思考が、止まる。
骨が折れ……内臓が、潰れた?
たははと笑う彼の姿が妙に遠く感じる。
どうして笑っているのだ。
そんな重傷を負って、何故。
……いや、今はそれよりも。
「雨夜様、今すぐ病院に行ってください。もし移動が難しいなら救急車を呼びます。服の血痕、顔色から推定するに、多量の失血による脳への損傷が考えられます。何か栄養のあるものを摂取……否、内臓に損傷があると仮定すれば得策ではない。ラビリンスに常備してある点滴を持って参ります。否、否、否、それでは失血の根本的な治療にならない。雨夜様、血液型をお教えください。他の冒険者、又は受付嬢に献血をお願いして参ります。抵抗など許しません。確実に、完全に、了承を得ます。早くお教えください、早く、早く、手遅れになる前に――」
「はーい、メリアさん。そこまでです」
彼の肩を掴んで詰め寄った、その小さな隙間に。
大きな手が入り込み、拍手する。
眼前で響く乾いた音。
彼は少し困ったように、説明をした。
曰く、既に怪我は治っていると。
だから心配はしなくていいのだと。安心してくれと。
「……納得、しかねます」
「ふむむ、それまたどうして」
「それは……。……? どうして、でしょうか……」
「……?」
勿論、納得などできなかった。
そこまでの重傷が簡単に治るとは考えにくい。そもそも、顔色からして酷いものだ。
彼は、自分が今にも倒れそうな状態だと気付いていないのだろうか?
全く納得などできない。
だが……どうしてか。それとは違う理由で、頷けない自分がいた。
冷静に考えた客観的事実によるものではなく。
胸の内側から湧き出る、これは何だ。
納得できない。できるはずがない。
そんな怪我をして、安心しろなんて。
……。
「だとしても、不可解な点はあります。納得のため、いくつか私の質問にお答えください、雨夜様」
頭の中に浮かんだ、不可思議な熱は置いておくことにした。
何にせよ、彼の状態を把握しなければ話にならない。
メリアは思考を切り替え、いくつかの質問をする。
その怪我は何で治したのか。
ポーションを使って。
何故、最下級のポーションで治ったのか。
治りやすい体質だから。
では、その怪我を負わせたのは誰か。
二階層で出てきたスライムによって。
スライムが、どうやって。
天井からの奇襲、および骨折する威力の攻撃。
……聞けば聞くほど、信じられなかった。
百年を軽く超える年月を生きる自分でさえ、聞いたことのない敵、体質。されどその顔に嘘はない。
知らなかった事実が彼の口から語られる。
知ろうともしなかった、彼についてのことが語られる。
……何が、彼を支えるだ。
何が彼を喜ばせるだ。
なんたる醜態。なんたる愚かさ。
ここにきてメリアは、自分は雨夜和幸という青年について、何も知らなかったことに気が付いた。
「私は、雨夜様のことについて、何も知りませんでした。貴方が苦難にあっていることを。……知ろうとも、しなかった。貴方を支えると言っておいて、この体たらくです。申し訳ありません、雨夜様……」
「……」
何度目か分からぬ謝罪と共に頭を下げる。
否、もはや下げることすら叶わなかった。
ただ俯くだけで。自分を許してくれた彼に、またもや失敗をしてしまったことが。
情けなくて、情けなくて。
けれど、嫌ってほしくなくて。
ぐちゃぐちゃになった心が体を硬直させる。
辛うじて謝罪した言葉も、もう覚えていない。
カタカタと小さく震えながらスカートを知らず握り締める。
そんな自分に対し、彼はあっけらかんと言った。
「僕のことを知らない……なら、これから知っていけばいいんじゃないですか?」
「……これ、から?」
意味が分からず、聞き返す。
彼の言っていることはいつも難解だ。
自分には理解しがたくて。
「ええ、はい。最初にも言いましたが、大体のことは答えますよ僕。スリーサイズは秘密だけどね」
「ですが、私は。私は、貴方の言葉を、信じないでいて。甘えて、しまって……」
「それの何が悪いんですか」
……それでいて、とても優しい。
「スライムが人を吹っ飛ばすなんて、信じられなくて当然ですよ。最近の小説じゃあるまいに。それと人に甘えてしまうのも、人間として当然です。メリアさんは一つだって、負い目に感じる必要はありませんよ」
「……それでも、私は、誓いを破りました。貴方を支えるという契約を、成し遂げれなかった」
「はぁーっ? ちょ、今なんて言いました??」
語気を強めて、彼の顔が近付く。
これは……怒っているのだろうか。想像していたものとは大きく違う。
自らの失敗を語る自分に対し、彼は怒り?を込めて口を開いた。
「メリアさん、僕が迷宮に入る前に言ってたこと、もう忘れたんですか? なら何度も言いますがね。僕は貴女に、すっごい感謝してるんですよっ」
「ぁ……」
「それなのに、成し遂げられなかった? ふざけないでくださいよ。それじゃあ僕が今まで貴女に助けられたのは、一体どうなるんですか」
……やめて、ほしい。
それ以上言わないでほしい。
貴方の怒りは、あまりに優しすぎる。
駄目だ。彼の言葉は、自分を駄目にしてしまう。
あれだけ自らを罰しようとしていた気持ちが、蕩けてしまって。
「いいですか、メリアさん。貴女は最高の受付嬢さんです。誰が何と言おうと、僕は貴女に支えられた。これまでも、きっとこれからも。だから……」
手を握られる。
大きな、男性の手だ。角ばっていて、とても硬い。
……頭が茹るようだ。
「だから……そんな悲しいこと、言わないでください。自分を責めないでください。貴女に悪いところなんて、一つもないんだから……」
「……」
「僕のことは……これから、知っていけばいいんです。過去は重要じゃありません。大事なのは今、どうすべきかなんです」
「……いいので、しょうか」
だからつい、こんなことを言ってしまう。
いけないことだと分かっていても、求めてしまうのだ。
「これからを望んで、いいのでしょうか。私はまだ、貴方と一緒に……」
「勿論、いいですよ。いいに決まってます。ていうか、それは本来、メリアさんが決めることでしょう?」
「……私、が?」
「はい。だってメリアさんがどうしたいかは、メリアさんの自由なんですから」
当然のように、彼はそう言い切る。
あまりに簡単に、単純に。
事実そうなのだろう。彼にとって、自分の恐れはくだらないものだったのだ。
「……」
「……質問は、もうありませんか?」
「ぁ……はい。ありま、せん。ですが……」
「……?」
「……いえ、何でもありません。質問は以上です。長い時間、お付き合いいただき感謝します」
自分は、貴方が思っているほど善良な存在ではない。
その言葉が口から出ることはなかった。
彼は、助かった、感謝していると語ってくれるが。自分は結局、どこまでも浅ましいだけだった。
ただ、傍にいたいだけ。嫌いにならないでほしいだけ。自分のことしか考えない、最低の行動だった。
けれどそう言ったら、彼はきっと怒ってしまう。
あの優しい怒りで、またメリアは溶かされてしまう。
だから口を噤んだ。
もう既に、頭がおかしくなりそうなのだ。
「あはは、いいんですよ。……これからも、よろしくお願いしますね」
「……はい」
一晩中悩み続け、恐れ続け、怖がり続け。
だのにその恐怖は一瞬にして消し去られ、逆に幸せを教えられてしまう。
脳の回路が弾けた至福の瞬間。
しかし初めての幸福を知ってから数時間後、今度は血だらけの彼を見た。
幸福は恐怖と変わり、暗闇が再び身を包む。
かと思えば、安心させられて。自己嫌悪すら蕩けさせられて。
もうメリアは限界だったのだ。
これ以上の感情は、生まれ変わった彼女にとって劇薬すぎる。
「……ぁ、れ……?」
「――雨夜様?」
故に、それは正しく絶望だった。
揺らぐ彼の長身。目は焦点が合っておらず、膝から崩れ落ちるように体が倒れる。
「……」
「雨夜様」
やめて。やめて。やめて。
どうかやめてほしい。
どうか、どうか。
彼の名前を呼ぶ。答えない。
「……」
「あまや、さま」
彼の名前を呼ぶ。答えない。
「……」
「あまやさま」
彼の名前を呼ぶ。答えない。
彼の名前を呼ぶ。答えない。
彼の名前を呼ぶ。答えない。
彼の名前を呼ぶ。答えない。答えない。答えない!
「あまやさま」
顔から倒れこんだ彼。危険な倒れ方だ。生命の危機を感じさせる、そんな恐怖を覚える気絶。
起こさねばならない。
違う。まずは救急隊を呼ばねばならない。呼んで、呼んで。
……どうやって、呼ぶのだったか。
「あまやさま」
人命救助の方法を学んだはずなのに、体が動いてくれない。
名前を呼んでるのに、彼は答えてくれない。
どうして。
どうして動かない!
自分も、彼も!
どうして……。
「あまやさま」
……恐怖、自己嫌悪、焦燥、羞恥、幸福、心配、罪悪感、喜び、安心、怒り、絶望、虚無。
それらの感情という激流は、彼女の出来たばかりの器を容易に破壊した。
怖がり、喜んで。幸せを覚え、絶望に浸る。
その繰り返しに、彼女の未完成な心は耐えられなかった。
彼の言葉を譫言のように呟くメリア。
カタカタと小さく震えるその姿はまるで、少女のように――
「失礼するよ、お嬢さん」
そこに、『死』が現れた。
およそ尋常ではない圧力。その言葉を聞いただけで、メリアは無意識に屈してしまった。
圧倒的な存在格の違い。
生きている次元が違う。
頭ではなく、魂ともいうべき何かが、そう判断した。
「お疲れ様……雨夜君」
何もできない。
まるで途方もなく深い海の中にいるような感覚。
元々呼吸を必要としないのに、息苦しさを感じる。
そんな、指一つ動かせない状況の中。
倒れ伏す彼の体が浮かぶ。
……『あれ』が、持ち上げたのだ。
決して『あれ』を見ないよう、彼ばかり見つめていたが。
その際に視界の端で映り込んだ、その腕は。その手つきは。
「君は……全く、本当に仕方のない子だよ……」
優しく。赤子を取り扱うが如く、彼を抱き上げる。
メリアは何もできない。
拳を握りしめたまま動けないでいる。
「……すまない。少々、道を開けてくれるかな、諸君」
『あれ』の言葉で、多くの冒険者が引いていく。
それが当然のように、『あれ』は開いた道へ足を進めた。
「……」
メリアは拳を握り締めるだけだ。
ギチギチ、ギリギリと。
爪が人工皮膚を突き破りそうなほど、握り締めることしかできない。
「……」
……こうすべきだと、正解を教えられた気分だった。
お前にはできないと、罵られた気分だった。
惨めで。ひたすらに惨めで、情けなく。
自分を細かい部品に分解して、焼却炉に捨ててやりたかった。
「……は、ぁ」
『あれ』はいつも、彼に関して先へ行く。
自分よりも先に会い。自分よりも先に話し。自分よりも先に信頼を得て。自分よりも彼のことを理解して。
自分よりも、彼のために行動している。
……だから、どうした。
「持ち場を少々離れます。ないとは思いますが、もし冒険者が来れば対応してください」
「……へ!? あ、ちょっ、『0番』!?」
隣のポータルにいた『193番』に兼任を要請し、その場を離れる。
周りの冒険者が奇異の目で見てくるが関係ない。
自分に必要なのは彼だけだ。
それ以外に興味はないし、必要とも思わない。
『あれ』も、同様にだ。
たとえ『あれ』がどれだけ彼を理解して行動しようとも、それはメリアには関係ないことだった。
彼を助けてくれたことには素直に感謝しよう。
だが、そこまでだ。
それ以上のことはしなくていい。したく、ない。
メリアは誓ったのだ。
彼を支えると。ずっと傍にいて、彼を幸せにすると。
「……雨夜様」
既に迷いはない。
恐れも、困惑も、絶望もない。
動けなかった自分はあの瞬間殺して消した。
あるのは途方もなく巨大に膨れ上がった使命感のみ。
彼を支える。ほかの誰でもない、自分が。
自分だけが彼を支えたい。
支えて、どうか自分だけに笑いかけてほしい。
……今は、『あれ』に譲るほかないが。
もう二度とあんな無様はしない。彼の傍にいるのは、自分だけでいい。
「……」
表面上は、いつも通りに。
メリアの中で煮え滾る熱を、彼女は完璧に制御する。
短期間ながら感情の濁流によって磨かれたことで、その心は完成された。
燃え盛る炎は、自己に対する怒り。
そして自覚はしていないが……朽葉に対する、憎悪にも似た嫉妬が含まれていた。
自分だけが、彼を支える。
無意識ながらに誓ったそれは、間違いなく彼女の独占欲を表していた。
……今はまだ、知らぬまま。
しかし、いつか気付くだろう。
彼と親密になった際に、彼が自分以外を見つめて、笑顔を向けていたとき。尊敬と感謝をしていたとき。
自分が、特別ではないと感じたとき。
その胸の中で燃える感情を知るだろう。
彼女の名前はメリア。
愛を覚えたばかりの、機械人形である。