スキルレベルしか上がらない一般身体能力学生が迷宮に挑んだら   作:石田フビト

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閑話 メリアの誓い 3

 深く下げた頭をゆっくりと上げ、再度彼の顔を見つめる。

 どこか困惑したような表情。まだ、思い当たらないのかもしれない。

 自分の失敗を。

 自分の罪を。

 

 メリアは唇を僅かに震わせ、それを隠すが如く静かな口調で告解した。

 

「とある『存在』から助言をいただきまして。昨日の行動……仮説は、全て誤った知識によるものだと知りました。重ねて、謝罪を申し上げます」

「仮説……って、ああ! あれですか」

「はい。その他のも、冒険者である雨夜様のプライベートに関する質問など……不適切な言動の数々、お詫びいたします」

「……んむむぅ」

 

 自分の愚かな罪の告白に、悩まし気な声を上げる彼。

 無理もない。自分は、彼に嫌われる行為をしたのだ。今更許しておくれと謝罪したところで、もう遅いのだろう。

 『あれ』曰く、まだ関係改善の可能性は残されているらしいが。

 

 どうしても、一度失敗した者が以前と変わらぬ日々を送れるとは思えない。

 ずっとそういう世界で生きてきた。失敗作は壊され、次なる改良への踏み台となる。

 そうやって自分も生まれたのだ。

 自分はいくつもの不良品の残骸の上で、生まれてきた。

 だからこそ。

 

「メリアさん、その謝罪は受け取れません」

「……はい」

 

 ……この結末は、ある意味で当然だった。

 胸の中心から少し外れた部位が、酷く痛む。ズキズキと鈍痛を訴え、目の前が真っ暗になっていく。

 彼の言葉の続きを聞くのが怖い。恐ろしい。

 

 あぁ、あぁ。

 どうして、『あれ』はあんなメッセージを寄越したのだろう。既に手遅れだというのに、あんな。

 僅かでも希望を残すような書き方をして。

 

 分かっていたなら、もっと早くに止めてほしかった。

 それで壊れることになっても構わなかったのに。

 彼に嫌われるくらいなら、自分は残骸となれば――

 

「だって僕は、メリアさんにとっても感謝しているんですから」

「は、い……?」

 

 耳から伝達した振動の意味が、よく分からなくて。

 理解できないままに聞き返す。

 すると、彼は優し気な笑みを浮かべながら口を開いた。

 

「もう、昨日言ったことを忘れたんですか? 僕がどうしてこんなことをするかと聞いたときに、メリアさんは何と答えました?」

「……それ、は」

 

 覚えている。

 しかし、それは。

 

「言いにくいのなら言いましょう。貴女は、よりよきサービス向上のため、と言ったんですよ」

「……」

 

 黒と青。重なる視線。

 自分の心が読まれているかのように、彼の声が包み込んでいく。

 ドクン、ドクンと。

 あるはずもない心臓の鼓動が、幻聴として聞こえ始めた。

 

 自らの変調に戸惑うメリアを待たず、彼は続ける。

 

「あのときはちょっと、困惑してましたけど……あれはきっと、本当だったんですよね。メリアさんは、僕のために調べて、行動に移してくれました」

「ですが、結果は失敗に終わりました。失敗に意味などありません。やはり、私は……」

「なにが失敗ですか。僕は、嬉しかったですよ」

「……雨夜様、私にお気遣いなど……」

 

 思わず、口を挟んだ。

 彼の言っていることは事実ではある。だが、全ては自分の失敗だ。

 どうか言わないでほしい。貶してほしい。

 こんな失敗作に。

 そんなこと。

 

 そんな、顔で。

 

「いつもありがとうございます、メリアさん」

「……っ」

「僕は、きっと貴女が思っている以上に感謝してるんですよ? そりゃ、時々これはどうかなぁ、って思いますけど」

 

 ……彼はいつだって正直者だった。

 嘘がつくのが絶望的に向いていなくて。きっと、人を騙すことが一生できない人種なのだと思っていた。

 

 だから、その顔は。

 その緩く綻んだ口から語られる、言の葉は。

 どうしようもなく本音なのだと理解させられる。

 

 その感謝は。その想いは。

 間違いなく、彼の本心だった。

 

 自分は決して、嫌われていなかった……。

 

「メリアさんは、メリアさんの考えがあって。それで、僕のために努力してくれたんですよね」

「……」

「……なら、怒る理由なんてないですよ。迷惑だとか、謝ってほしいだとか、そんなの全く思いません」

「……では、私は」

 

 突如として切り払われた暗闇に、困惑して。

 メリアは体の内から去来する熱に浮かされるまま、回らぬ頭で口を動かした。

 

 怒ってないと言われた。

 ありがとうと言われた。

 自分は嫌われていなかった。

 

 ならば。

 ならば。

 

「私は、どうすれば……雨夜様に、喜んでもらえるのでしょうか。このような私に、一体何が、できるのでしょうか」

「うーん、それは……」

 

 途方もないほどに膨らむ、この熱。

 今にも凍えそうだった体は溶け落ちるほど燃えて、何かを期待している。

 

 教えてほしい。

 どうか、貴方を。

 貴方を喜ばせる方法を、今度こそ。

 

「メリアさんがしたいこと、ですかね」

「……? 私の、したい……こと?」

「はい。いや、色々考えたんですけどね。やっぱり一番嬉しいのは、メリアさんが自分で、これがしたい! って思ったことを、するっていうか。あー、難しいな……」

「……」

 

 ……パチパチと、脳の回路が弾けているのが分かる。

 彼の伝えようとしていることは、正直あまり理解できていない。

 けれど、確信がある。

 

 これを理解した瞬間、自分は終わる。

 

 全てが終わり……そして、生まれるのだ。

 不思議なことに、それは欠片も恐ろしくはなかった。いや、寧ろ喜ぶべきことのように思える。

 

 彼の口が、また動いた。

 

「メリアさんが喜ぶことは、僕も嬉しいんですよ。うん、これだな。これが一番しっくりくるや」

「……私が、喜ぶこと」

「はい。僕、人の幸せそうな顔が好きなんですよ。だからメリアさんも、僕を助けると思って幸せになってください。その手伝いなら、いくらでもしますから」

 

 喜ぶ、こと。幸せに、なる。

 彼は自分に、幸せになってほしいのか。

 そう、なのか……。

 

 パチパチと視界に小さなスパークが起こる中、何とか思考回路を動かして言葉を紡ぐ。

 己惚れるなと。求めるなと。

 所詮、自分は失敗作でしかない。そんな自分が、幸福だなんて。

 なれるはずがない。

 そもそも、自分に幸福を感じる機能などはないはずだ。

 だから、だから。

 

「ですが、私には」

「……ん? ちょっと待てよ。メリアさんは僕が喜ぶことがしたい、でも僕もメリアさんに喜んでほしい……」

 

 彼が少し、思い悩んで。

 

「まぁ、とにかく! メリアさんはメリアさんがしたいことをすればいいんですよ。それでも見つからないなら、その時は一緒に探しましょう。きっと何か、見つかるはずです」

「……私のしたいこと。私、は……」

 

 駄目だ。

 考えるな。したいことなどない。

 自分は失敗したのだ。彼がいくら気にしていないと言っても、自分は失敗した。

 感謝されたからなんだ。

 許してもらえたからなんだ。

 

 求めるな。

 彼が喜ぶことをするのが、自分の役割だ。それ以上でもそれ以外でもない。

 自分はアルストロメリアだ。

 感情という機能はなく、ただ命令に従っていればいい存在。

 

 ……でも、彼はそのメリアが。

 自分が喜ぶことが、喜びと言っていた。

 幸せになってくれと。したいことをしろと。

 

 あぁ、ならば。駄目だ。そんなこと。しかし、彼は求めている。

 駄目だ。言うな。喜び。考えてはいけない。幸せ。

 駄目だ。

 駄目だ。

 

 駄目、なのに……。

 

「……私は、雨夜様のサポートがしたいです。ずっと、貴方の冒険を、支えていきたいと思います……」

 

 気付いた時にはもう、言葉は紡がれていた。

 昨日シミュレーションで、彼の告白に答えた時と同じように。

 

 ……あぁ、そうなのか。

 

「……それが貴女の『したいこと』ですか?」

「はい。これが私の……生まれて初めての、願いです」

 

 漸く理解した。

 これが、願いなのだ。彼を支え、彼のために学び、彼のために生きること。

 これこそが幸福。

 これこそが生まれてきた理由。

 

 他の誰でもない、彼のために。

 彼を支えるために、自分は生きてきたのだ。

 メリアと名付けられたあの日から、否、彼と出会ったその瞬間から。

 きっと自分は、彼を支えたいと願っていた。

 

「こちらこそ、これからもよろしくお願いしますね、メリアさん」

「……はい、どうかずっと、貴方を支えさせてください」

 

 よろしくお願いします、と。

 その声を聞いたとき、メリアは自分が生まれ変わったことを自覚した。

 頭の片隅で鳴っているスパークが収まることはなく。

 ただただ、その小さな身に溢れる熱を享受していた。

 

 胸が切なくなるほど痛みを発して、されどそれは決して辛いものではない。

 恐怖や暗闇から最も遠いもの。

 これが幸福だった。

 

 もはや、疑いようもない。

 自分には幸福を感じる機能が存在する。どうして、そんなものが備え付けられていたのかは知らない。興味も、左程ない。

 けれど感謝したい。

 

 自分が幸福になれば、彼は喜んでくれる。

 その喜ぶ姿を見て、自分も幸福になる。二人の中で繰り返される幸福の与え合い。

 なんて、素敵なことだろうか。

 

「ほんじゃ、行ってきます」

「行ってらっしゃいませ、雨夜様」

 

 ポータルへと沈んでいく彼の姿を、じっと見つめる。

 胸を蝕んでいた虚しさも、恐れも既になかった。

 

 自分は彼を支え、彼もまたそれを望んでくれている。

 

 その事実があるだけで、メリアは幸福だ。

 メリアは今、幸福の絶頂にいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だからこそ、信じられなかったのだ。

 

 ポータルから出てきた彼の姿が、あまりにも、凄惨で。

 

「おかえりなさいませ、雨夜、さ、ま……」

「あ……ただいまです、メリアさん……はは、何だか久しぶりに感じますね……」

 

 力なく笑う彼の口元には、夥しい量の血痕が残されていた。

 否、口元だけではない。黒い服でも隠し切れぬ、赤黒い凝血。ボロボロになった装備。

 

「雨夜、様……その、血痕は、いったい……」

 

 理解ができない。

 自分は、ついさっきまで。彼に優しく微笑まれていたのに。

 彼はあんなに、元気そうだったのに。

 

 身を包んでいた温かみは幻想となり、現実は頭に水を被せた。

 たどたどしい声で問うた自分に、彼が申し訳なさそうな顔で答えた。

 

「あー、はい。ちょっと血を吐いちゃって。そのときに付いちゃったのかな。ごめんなさい、汚いですよね」

「血を、吐く……そんな重傷を、負ったのですか……?」

「重傷……まぁでも、骨が折れたとか、内臓が潰れたくらいなので平気ですよ。ちゃんと治りましたし」

「――」

 

 思考が、止まる。

 骨が折れ……内臓が、潰れた?

 

 たははと笑う彼の姿が妙に遠く感じる。

 どうして笑っているのだ。

 そんな重傷を負って、何故。

 

 ……いや、今はそれよりも。

 

「雨夜様、今すぐ病院に行ってください。もし移動が難しいなら救急車を呼びます。服の血痕、顔色から推定するに、多量の失血による脳への損傷が考えられます。何か栄養のあるものを摂取……否、内臓に損傷があると仮定すれば得策ではない。ラビリンスに常備してある点滴を持って参ります。否、否、否、それでは失血の根本的な治療にならない。雨夜様、血液型をお教えください。他の冒険者、又は受付嬢に献血をお願いして参ります。抵抗など許しません。確実に、完全に、了承を得ます。早くお教えください、早く、早く、手遅れになる前に――」

 

「はーい、メリアさん。そこまでです」

 

 彼の肩を掴んで詰め寄った、その小さな隙間に。

 大きな手が入り込み、拍手する。

 眼前で響く乾いた音。

 

 彼は少し困ったように、説明をした。

 

 曰く、既に怪我は治っていると。

 だから心配はしなくていいのだと。安心してくれと。

 

「……納得、しかねます」

「ふむむ、それまたどうして」

「それは……。……? どうして、でしょうか……」

「……?」

 

 勿論、納得などできなかった。

 そこまでの重傷が簡単に治るとは考えにくい。そもそも、顔色からして酷いものだ。

 彼は、自分が今にも倒れそうな状態だと気付いていないのだろうか?

 

 全く納得などできない。

 だが……どうしてか。それとは違う理由で、頷けない自分がいた。

 

 冷静に考えた客観的事実によるものではなく。

 胸の内側から湧き出る、これは何だ。

 納得できない。できるはずがない。

 

 そんな怪我をして、安心しろなんて。

 ……。

 

「だとしても、不可解な点はあります。納得のため、いくつか私の質問にお答えください、雨夜様」

 

 頭の中に浮かんだ、不可思議な熱は置いておくことにした。

 何にせよ、彼の状態を把握しなければ話にならない。

 

 メリアは思考を切り替え、いくつかの質問をする。

 

 その怪我は何で治したのか。

 ポーションを使って。

 

 何故、最下級のポーションで治ったのか。

 治りやすい体質だから。

 

 では、その怪我を負わせたのは誰か。

 二階層で出てきたスライムによって。

 

 スライムが、どうやって。

 天井からの奇襲、および骨折する威力の攻撃。

 

 

 ……聞けば聞くほど、信じられなかった。

 百年を軽く超える年月を生きる自分でさえ、聞いたことのない敵、体質。されどその顔に嘘はない。

 知らなかった事実が彼の口から語られる。

 知ろうともしなかった、彼についてのことが語られる。

 

 ……何が、彼を支えるだ。

 何が彼を喜ばせるだ。

 

 なんたる醜態。なんたる愚かさ。

 ここにきてメリアは、自分は雨夜和幸という青年について、何も知らなかったことに気が付いた。

 

「私は、雨夜様のことについて、何も知りませんでした。貴方が苦難にあっていることを。……知ろうとも、しなかった。貴方を支えると言っておいて、この体たらくです。申し訳ありません、雨夜様……」

「……」

 

 何度目か分からぬ謝罪と共に頭を下げる。

 否、もはや下げることすら叶わなかった。

 ただ俯くだけで。自分を許してくれた彼に、またもや失敗をしてしまったことが。

 情けなくて、情けなくて。

 けれど、嫌ってほしくなくて。

 

 ぐちゃぐちゃになった心が体を硬直させる。

 辛うじて謝罪した言葉も、もう覚えていない。

 カタカタと小さく震えながらスカートを知らず握り締める。

 

 そんな自分に対し、彼はあっけらかんと言った。

 

「僕のことを知らない……なら、これから知っていけばいいんじゃないですか?」

「……これ、から?」

 

 意味が分からず、聞き返す。

 彼の言っていることはいつも難解だ。

 自分には理解しがたくて。

 

「ええ、はい。最初にも言いましたが、大体のことは答えますよ僕。スリーサイズは秘密だけどね」

「ですが、私は。私は、貴方の言葉を、信じないでいて。甘えて、しまって……」

「それの何が悪いんですか」

 

 ……それでいて、とても優しい。

 

「スライムが人を吹っ飛ばすなんて、信じられなくて当然ですよ。最近の小説じゃあるまいに。それと人に甘えてしまうのも、人間として当然です。メリアさんは一つだって、負い目に感じる必要はありませんよ」

「……それでも、私は、誓いを破りました。貴方を支えるという契約を、成し遂げれなかった」

「はぁーっ? ちょ、今なんて言いました??」

 

 語気を強めて、彼の顔が近付く。

 これは……怒っているのだろうか。想像していたものとは大きく違う。

 

 自らの失敗を語る自分に対し、彼は怒り?を込めて口を開いた。

 

「メリアさん、僕が迷宮に入る前に言ってたこと、もう忘れたんですか? なら何度も言いますがね。僕は貴女に、すっごい感謝してるんですよっ」

「ぁ……」

「それなのに、成し遂げられなかった? ふざけないでくださいよ。それじゃあ僕が今まで貴女に助けられたのは、一体どうなるんですか」

 

 ……やめて、ほしい。

 それ以上言わないでほしい。

 貴方の怒りは、あまりに優しすぎる。

 

 駄目だ。彼の言葉は、自分を駄目にしてしまう。

 あれだけ自らを罰しようとしていた気持ちが、蕩けてしまって。

 

「いいですか、メリアさん。貴女は最高の受付嬢さんです。誰が何と言おうと、僕は貴女に支えられた。これまでも、きっとこれからも。だから……」

 

 手を握られる。

 大きな、男性の手だ。角ばっていて、とても硬い。

 ……頭が茹るようだ。

 

「だから……そんな悲しいこと、言わないでください。自分を責めないでください。貴女に悪いところなんて、一つもないんだから……」

「……」

「僕のことは……これから、知っていけばいいんです。過去は重要じゃありません。大事なのは今、どうすべきかなんです」

「……いいので、しょうか」

 

 だからつい、こんなことを言ってしまう。

 いけないことだと分かっていても、求めてしまうのだ。

 

「これからを望んで、いいのでしょうか。私はまだ、貴方と一緒に……」

「勿論、いいですよ。いいに決まってます。ていうか、それは本来、メリアさんが決めることでしょう?」

「……私、が?」

「はい。だってメリアさんがどうしたいかは、メリアさんの自由なんですから」

 

 当然のように、彼はそう言い切る。

 あまりに簡単に、単純に。

 事実そうなのだろう。彼にとって、自分の恐れはくだらないものだったのだ。

 

「……」

「……質問は、もうありませんか?」

「ぁ……はい。ありま、せん。ですが……」

「……?」

「……いえ、何でもありません。質問は以上です。長い時間、お付き合いいただき感謝します」

 

 自分は、貴方が思っているほど善良な存在ではない。

 その言葉が口から出ることはなかった。

 

 彼は、助かった、感謝していると語ってくれるが。自分は結局、どこまでも浅ましいだけだった。

 ただ、傍にいたいだけ。嫌いにならないでほしいだけ。自分のことしか考えない、最低の行動だった。

 けれどそう言ったら、彼はきっと怒ってしまう。

 

 あの優しい怒りで、またメリアは溶かされてしまう。

 だから口を噤んだ。

 もう既に、頭がおかしくなりそうなのだ。

 

「あはは、いいんですよ。……これからも、よろしくお願いしますね」

「……はい」

 

 一晩中悩み続け、恐れ続け、怖がり続け。

 だのにその恐怖は一瞬にして消し去られ、逆に幸せを教えられてしまう。

 脳の回路が弾けた至福の瞬間。

 しかし初めての幸福を知ってから数時間後、今度は血だらけの彼を見た。

 

 幸福は恐怖と変わり、暗闇が再び身を包む。

 かと思えば、安心させられて。自己嫌悪すら蕩けさせられて。

 

 もうメリアは限界だったのだ。

 これ以上の感情は、生まれ変わった彼女にとって劇薬すぎる。

 

「……ぁ、れ……?」

「――雨夜様?」

 

 故に、それは正しく絶望だった。

 

 揺らぐ彼の長身。目は焦点が合っておらず、膝から崩れ落ちるように体が倒れる。

 

「……」

「雨夜様」

 

 やめて。やめて。やめて。

 

 どうかやめてほしい。

 

 どうか、どうか。

 

 彼の名前を呼ぶ。答えない。

 

「……」

「あまや、さま」

 

 彼の名前を呼ぶ。答えない。

 

「……」

「あまやさま」

 

 彼の名前を呼ぶ。答えない。

 

 彼の名前を呼ぶ。答えない。

 

 彼の名前を呼ぶ。答えない。

 

 彼の名前を呼ぶ。答えない。答えない。答えない!

 

「あまやさま」

 

 顔から倒れこんだ彼。危険な倒れ方だ。生命の危機を感じさせる、そんな恐怖を覚える気絶。

 

 起こさねばならない。

 違う。まずは救急隊を呼ばねばならない。呼んで、呼んで。

 ……どうやって、呼ぶのだったか。

 

「あまやさま」

 

 人命救助の方法を学んだはずなのに、体が動いてくれない。

 名前を呼んでるのに、彼は答えてくれない。

 どうして。

 どうして動かない! 

 自分も、彼も! 

 どうして……。

 

「あまやさま」

 

 ……恐怖、自己嫌悪、焦燥、羞恥、幸福、心配、罪悪感、喜び、安心、怒り、絶望、虚無。

 それらの感情という激流は、彼女の出来たばかりの器を容易に破壊した。

 怖がり、喜んで。幸せを覚え、絶望に浸る。

 その繰り返しに、彼女の未完成な心は耐えられなかった。

 

 彼の言葉を譫言のように呟くメリア。

 カタカタと小さく震えるその姿はまるで、少女のように――

 

 

「失礼するよ、お嬢さん」

 

 

 そこに、『死』が現れた。

 

 およそ尋常ではない圧力。その言葉を聞いただけで、メリアは無意識に屈してしまった。

 圧倒的な存在格の違い。

 生きている次元が違う。

 頭ではなく、魂ともいうべき何かが、そう判断した。

 

 

「お疲れ様……雨夜君」

 

 

 何もできない。 

 まるで途方もなく深い海の中にいるような感覚。

 元々呼吸を必要としないのに、息苦しさを感じる。

 

 そんな、指一つ動かせない状況の中。

 倒れ伏す彼の体が浮かぶ。

 ……『あれ』が、持ち上げたのだ。

 

 決して『あれ』を見ないよう、彼ばかり見つめていたが。

 その際に視界の端で映り込んだ、その腕は。その手つきは。

 

 

「君は……全く、本当に仕方のない子だよ……」

 

 

 優しく。赤子を取り扱うが如く、彼を抱き上げる。

 

 メリアは何もできない。

 拳を握りしめたまま動けないでいる。

 

 

「……すまない。少々、道を開けてくれるかな、諸君」

 

 

 『あれ』の言葉で、多くの冒険者が引いていく。

 それが当然のように、『あれ』は開いた道へ足を進めた。

 

「……」

 

 メリアは拳を握り締めるだけだ。

 ギチギチ、ギリギリと。

 爪が人工皮膚を突き破りそうなほど、握り締めることしかできない。

 

「……」

 

 ……こうすべきだと、正解を教えられた気分だった。

 お前にはできないと、罵られた気分だった。

 惨めで。ひたすらに惨めで、情けなく。

 

 自分を細かい部品に分解して、焼却炉に捨ててやりたかった。

 

「……は、ぁ」

 

 『あれ』はいつも、彼に関して先へ行く。

 

 自分よりも先に会い。自分よりも先に話し。自分よりも先に信頼を得て。自分よりも彼のことを理解して。

 自分よりも、彼のために行動している。

 

 ……だから、どうした。

 

「持ち場を少々離れます。ないとは思いますが、もし冒険者が来れば対応してください」

「……へ!? あ、ちょっ、『0番』!?」

 

 隣のポータルにいた『193番』に兼任を要請し、その場を離れる。

 周りの冒険者が奇異の目で見てくるが関係ない。

 自分に必要なのは彼だけだ。

 それ以外に興味はないし、必要とも思わない。

 

 『あれ』も、同様にだ。

 たとえ『あれ』がどれだけ彼を理解して行動しようとも、それはメリアには関係ないことだった。

 彼を助けてくれたことには素直に感謝しよう。

 だが、そこまでだ。

 それ以上のことはしなくていい。したく、ない。

 

 メリアは誓ったのだ。

 彼を支えると。ずっと傍にいて、彼を幸せにすると。

 

「……雨夜様」

 

 既に迷いはない。

 恐れも、困惑も、絶望もない。

 動けなかった自分はあの瞬間殺して消した。

 

 あるのは途方もなく巨大に膨れ上がった使命感のみ。

 彼を支える。ほかの誰でもない、自分が。

 自分だけが彼を支えたい。

 支えて、どうか自分だけに笑いかけてほしい。

 

 ……今は、『あれ』に譲るほかないが。

 もう二度とあんな無様はしない。彼の傍にいるのは、自分だけでいい。

 

「……」

 

 表面上は、いつも通りに。

 メリアの中で煮え滾る熱を、彼女は完璧に制御する。

 短期間ながら感情の濁流によって磨かれたことで、その心は完成された。

 

 燃え盛る炎は、自己に対する怒り。 

 そして自覚はしていないが……朽葉に対する、憎悪にも似た嫉妬が含まれていた。

 

 自分だけが、彼を支える。

 無意識ながらに誓ったそれは、間違いなく彼女の独占欲を表していた。

 

 ……今はまだ、知らぬまま。

 しかし、いつか気付くだろう。

 彼と親密になった際に、彼が自分以外を見つめて、笑顔を向けていたとき。尊敬と感謝をしていたとき。

 自分が、特別ではないと感じたとき。 

 その胸の中で燃える感情を知るだろう。

 

 彼女の名前はメリア。

 

 愛を覚えたばかりの、機械人形である。

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