「……ハァ」
黒衣の存在は短く息を吐き、非常階段の踊り場からそのまま身を投げた。ためらいは一切ない。高層ビルの高さなど意味を持たないかのように、重力へ身を預ける。
外は雨。土砂降りではないが、粒は重く、街灯の光を鈍く滲ませる。落下する黒い影に、雨粒が斜めに叩きつけられる。
「……(何者かは不明だが……) 事情を聞かせて貰うぞ! 【ハイジャンプ】」
ララクは非常口の縁を蹴る。脚部に魔力を集中させ、爆発的に跳躍。垂直に空を裂き、雨の中へ飛び出す。体は一瞬、雲の下の灰色に溶け込む。
落下する黒衣の背へと迫り、その肩を掴む。
触れた瞬間。
「っが、やはり何か有害な魔力を……!」
全身に焼けるような痛みが走る。相手の体表を巡る不可思議なエネルギー。触れた箇所から神経を刺すような刺激が伝播する。単なる魔力ではない。歪んだ波長。
黒衣の仮面が、わずかにこちらへ傾く。
「……振り払っても、死ぬなよ」
機械で加工されたかのような異質な音声。感情の起伏が削ぎ落とされている。
次の瞬間、体表から濃い魔力の煙が噴き出す。爆発的な噴射。黒衣は空中で一回転し、遠心力と共にララクを振り払う。その動作の中で、刃だった腕は滑らかに通常の人の腕へと戻る。変質と復元が、あまりにも自然。
「っく、【雷蛇魔操撃】!」
ララクは即座に魔力を編み、空中に雷の蛇を顕現させる。電光が渦を巻き、落下する黒衣へと噛みつく軌道を描く。同時に【空中浮遊】で姿勢を制御し、落下速度を抑える。
だが黒衣は静かに呟いた。
「……魔素切断」
再び腕が刃へと変質する。今度はより鋭く、薄い光を帯びる。
一閃。
雷蛇が、真っ二つに裂けた。
魔力で構成された存在が、物理的な断面を持って消滅する。雷光が弾け、雨粒と共に散る。
「!! 鉄系統で雷を断ち切ったのか……? いや……もっと頂上的なギミックか」
ララクは目を見開く。属性相性の問題ではない。魔力そのものを断ち切る概念的な刃。
ここは最先端の国。
自分の常識以上の事が起きても、それはそういうものだと飲み込むことが出来る。
雨の中、黒衣の存在は無音で落下を続ける。灰色の空と街の灯りを背に、その輪郭だけが鋭く浮かび上がっていた。
「〈エアイドロ・バレット〉」
刃だった腕が内部から再編され、骨格が軋みながら収束し、先端が円形に開く。銃口。内部で圧縮された空気が悲鳴を上げ、水圧が一点へ凝縮される。雨粒がその周囲で弾かれ、真空に近い歪みが生まれる。
発射。
爆縮した空気と水の質量が一体となった砲撃が、灰色の空を一直線に裂く。軌跡に沿って雨が蒸発し、白い尾を引く。
ララクは即座に回避動作を取るが、完全には間に合わない。肩を撃ち抜かれ、衝撃が骨を震わせる。浮遊制御が乱れ、体が数メートル沈む。
「空中戦が、得意か……」
黒衣は返答しない。代わりに背部から魔力の噴射が走る。重力を無視するかのような急加速。雨粒が後方へ流れ、都市の輪郭が引き延ばされる。瞬時に上を取る。
「空域制圧、継続。対象、適応速度高」
機械的でありながら、わずかに愉悦を含んだ音声。
「【土鉄魔弾】」
黒衣の掌に土と鉄の魔力が圧縮される。ララクも扱えるスキル。しかし黒衣はそれを銃口へ装填する。構造化、固定、加速。
連射。
弾丸は音より速く雨を裂き、空気を焦がす。都市の窓ガラスが遠くで震える。
「【合気・魔弾返し】」
ララクは空中で体をひねり、衝撃の流れを読む。弾丸を逸らし、反転させ、相殺する。だがすべては防げない。腹部、脇腹、太腿に直撃。衝撃が連続し、視界がぶれる。ビルの壁面を掠め、火花が散る。
「ぁぁああ! 空戦は勉強中なんだ! 【大網羅】!!」
魔力が空に広がる。
【大網羅】獲得条件……獲得可能な紋章物の一定レベルの到達。または、【チェインホールド】【ストロングネット】【豪糸縛り】を組み合わせる。効果……鎖、網、糸を同時展開し、相手の体を重複拘束する。
重鎖が雨を弾き、強靭な網が空を覆い、無数の極細糸が霧のように拡散する。三重拘束。異なる強度と性質が同時に襲う。
「ブレードモード・ツイン」
黒衣の両腕が再びブレードへ変質する。高速で切断。鎖が弾け、網が裂ける。だが細糸は断ち切れない。糸を優先すれば網が絡み、網を裂けば鎖が食い込む。
「多層拘束……解析不能。物理突破に移行」
関節へ糸が巻き付き、膝と肘がわずかに制限される。その一瞬。
ララクと黒衣の体が糸で連結される。
ララクは浮遊出力を意図的に下げる。
重力が2人を掴む。
都市が広がる。暗雲に覆われたヌールの高層群。ネオンは雨に滲み、道路は黒く光り、車列のヘッドライトが細い線となって流れる。遠くで雷が低く鳴る。
2人は絡み合ったまま、ビルの側面を滑るように落下する。雨粒が顔を打ち、風圧が呼吸を奪う。高度が一瞬で削られていく。
「高度急減。損傷予測、上昇」
黒衣の声は変わらない。
「こんなところで、捨て身をするとは……」
ララクは歯を食いしばる。肩の痛み、腹部の衝撃、全身に走る振動。それでも視線は逸らさない。
灰色の空と光る都市を背景に、2つの影が高速で落ちていく。雨と風と重力が混ざり合い、空中戦はさらに苛烈さを増していった。