「怪人、黒衣の怪人。この都市を中心に、ヌーツを騒がしている都市伝説だな」
プロフェッサー・モドムはそう言いながら、机の上にホットミルクのカップを置く。湯気が静かに立ち上り、研究室の白い照明の下でゆらゆらと揺れた。
その向かいでは、ララクがタオルにくるまって椅子に座っている。雨に打たれた体はまだ冷えきっていた。研究員用のインナーとアウターに着替えているが、髪の先からはまだ水滴がぽたぽたと落ちている。
ララクはカップを受け取る。
「温まります」
湯気の立つミルクを、そのまま口に含む。熱さを気にする様子もない。甘みが舌に広がり、冷えた体の奥へじんわりと落ちていく。
ゼマが腕を組みながら覗き込む。
「都市伝説って、でもララクは実際に見たんでしょ?」
ララクはカップを両手で包みながら、少し考えてから答える。
「自己紹介ははばかれましたので、同一人物かは判断しかねます。……けど、特徴的には合致しすぎていますね」
謎の人物。
黒いマント、仮面、変形する腕、複数系統のスキル。
雨の大通りで人々が口にした言葉も思い出す。あの反応を見る限り、都市で語られている存在と一致している可能性は高い。
モドムは不満げに舌打ちする。
「っく、何故停電中なんだ! ララクのレンズにも何も映ってなかった。 貴重な研究対象というのに」
彼の手には、ララクが装着していた記録型の眼鏡があった。実験のために装着していたモニターグラス。映像を全て記録する装置だ。
しかしこれは充電式ではない。この研究室の魔力回路と電力網から直接エネルギーを供給して動く仕組み。部屋の装置と密接に接続されているからこそ、高性能を維持できる。
だが逆に、それが弱点でもある。
停電が起きれば、全システムが一斉に落ちる。
他の機材も同じだ。机の周囲には再起動した装置の音が次々と響いている。魔力回路のランプが順に灯り、モニターが立ち上がる。
研究室の照明も完全に復旧した。
停電は終わった。
だが、肝心の瞬間だけが、綺麗に消えてしまっていた。
「もしかして、だからこそ姿を現したんですかね? モドムさんは、どれくらい怪人の事を?」
ララクはまだ温かいカップを両手で包みながら問いかける。研究室の照明はすでに安定し、機材の再起動音も落ち着いていた。雨に濡れた服は着替えているが、体の奥に残った冷えはまだ完全には抜けていない。
「……いや、得体のしれない者、ということしか知りえていないな」
モドムは椅子に腰を下ろし、腕を組む。
「つまりは、ノー情報だ。まぁ、伝説ってそんなもんだよね」ゼマが肩をすくめる。
「確かにそう考えると、ララク。君が目撃してくれたのは、存在の確定に繋がったな」
ララクは少しだけ視線を落とし、自分の鼻に指先で触れた。
「……この鼻スキル、やっぱり災いなんかじゃないですよね」
彼のパッシブスキル【嘘鼻】。嘘をつくと鼻が長くなる。滑稽にも見える能力だが、その分、言葉の信頼性が担保される。ララクが嘘を言っていないことは一目で分かる。
モドムもそのスキル情報を閲覧していた。初めて見たとき、彼は面白そうに呟いたものだ。
『言葉に関連するスキル……、利便性は不明だが、奇怪で面白い』
モドムは机に肘をつき、ララクを見つめる。
「それじゃあ、怪人と出会った感想を君から聞きたい。少し話をしたのだろう? どういう人物だった」
ララクはミルクを一口飲んでから答える。
「敵意は感じました。ボクを殺害できるほどの力を使用していました。けど、それは……ボクが捕まえようとしたからで。ビルなどに被害はないんですもんね?」
「ああ。警察が調べているが、停電以外の物理的損傷は見られないそうだ。君は雨の下、模擬戦闘以上の攻撃を仕掛けたんだろうが、外のため被害はない」
「……ええ。あの人が傷つけたのは、追跡者のボクだけ」
ゼマが口を挟む。
「あと、グレムリンでしょ」
「えぇ、そうです。ボクの取りこぼしを……」
ララクは少し考え込み、言葉を続ける。
「思い返すと、あの怪人はそこまで凶暴な存在ではないのかも。戦闘力は、ボクと同程度、または隠し玉がいくつあると考えられますが」
研究室の静かな空気の中で、怪人という存在が整理されていく。
都市伝説。だが実在する可能性が高い人物。高い戦闘能力を持ちながら、都市を破壊するような行動は取っていない。
少なくとも今の時点では、無差別の脅威ではない。
だが、得体の知れない存在であることには変わりなかった。
「すぐに追いかけようとよく思ったねぇ、あんたさ。怖いもの知らずっていうか、思考が体に繋がっているっていうか。その真っ黒怪人、爆発事故と関係あるか分かんないのに」
ゼマは椅子に体を預けながら、呆れ半分の顔で言う。
彼女は今、自分たちが受けているクエストの輪郭だけは理解している。
全ての発端は、ロックパンクバンド〈オチルレイン〉のギター担当・アカラヘアの捜索。
そして大きく括れば、爆発事故の真相。
「……少し無我でした。停電も、グレムリンの仕業で事件終了ですもんね」
ララクはタオルを肩に掛けたまま答える。ホットミルクの余韻がまだ体の奥に残っている。
「関係ないとは言い切れない。怪人の噂発生時期と、爆発事故は同時期だと記憶している」モドムが静かに口を開く。
「お、因果関係あり?」
ゼマが身を乗り出す。
「さっき話しかけた少年の事は覚えているか。映像に映っている、3人目の被害者」
「えっと、冒険者のアカラヘアさん、そして科学者のプロフェッサー・リードさん。彼女たちと話していた、若い男の子の事ですね」
「あ~、停電で、話が折られちゃったっけ」
「その少年は、リードが協力依頼をしたぐらいだ。天才、的な知能を保持しているのだろう。確か、この国でも有数の学園に所属していたはずだ。そして、怪人を見たという学生の噂もいくつかあるらしい」
「うわ~、今度は学校の不思議ってやつ。怪人さん、勤労だね~」 ゼマが笑いながら肩をすくめる。
ララクは静かに頷く。
「か細い糸ですが、繋がりがあるなら、調査をしてみたいですね」
モドムは少し考え、それから肩を竦めた。
「その学長とは研究提携していてね。私と同じように、類まれなる性質を持った冒険者を探していた。君たちを紹介するのは、自分だけが知っている名店を広めるようで避けたいがぁ、ここまで協力してくれた礼だな。望むなら、学園への立ち入りを仲介するが?」
ララクは少し驚いたように目を瞬かせる。
「最後まで、付き合い切れないのに、そこまでしていただけるなんて」
「君が気にすることではない。みな知っている、研究に最後がないのは。それでも気がかりなら、クエストを完遂させるんだな。私も、爆発事故の事を完全清算したいんだ」
ゼマが横から笑う。
「ララクはさ、持っている側の人間だから。期待していいと思う」
「すでに不明瞭だった怪人と邂逅したしなぁ」
モドムも少し楽しそうに言う。
ゼマがふと思い出したように顔を上げる。
「ねぇ、さっきの名店ってどこよ?」
「教えないさ。創作デザート、とだけ言っておこう」
「解決したら、教えろよ~」
そう言ってゼマはプロフェッサー・モドムの肩を小突く。研究室の空気が少しだけ和らぎ、雨音の向こうで都市の夜が静かに続いていた。