転生したら、超次元技が存在しない世界だった件! 作:スライみゅ
雷門ベンチside
「──だれが、諦めるかぁっっ!!」
彼──葦考センパイの、その峻烈な瞳。
絶望という泥沼に膝まで浸かりながらも、帝国を射抜こうとする、彼の目を見た瞬間──
私の脳裏に、昔、センパイと初めて出会った時の記憶が、鮮烈にフラッシュバックしていた。
──狂ったように桜が舞い散る、あの春の日の記憶が。
✤✤✤
私が葦考センパイと出会ったのは三年前。私が中学一年生になったばかりの、四月の半ばだった。
狂ったように舞う桜の花びらが、校舎の窓をせわしなく叩き、春の浮ついた空気を拒絶するように激しく散っていたあの日。
新聞部への入部を決めた私は、顧問の先生に呼び出され、期待と不安を交互に踏みしめながら古い廊下を歩いていた。
コツン、コツン、コツン――。
硬い床を叩くローファーの音が、早まる心臓の鼓動と重なって聞こえる。
(どんな先輩が居るんだろう……上手くやって行けるかな......?)
胸の奥で、期待と不安がせめぎ合う。
初めての部活。失敗したくない。嫌われたくない。ちゃんとやらなきゃ――。そんな緊張が、背中をギュッと締め付けていた。
新聞部部室の入口前に着いた。
扉の前で、私は一度深呼吸する。
古びた木製の扉の擦り減った取っ手に手をかけ、ガラガラと――扉を開けた。
扉を開けると、ツンとしたインクの香りと乾燥した紙の匂いが鼻をくすぐった。
窓から差し込む午後の日差しが室内を斜めに切り裂き、その光の柱の中でホコリがキラキラと、意志を持っているかのように舞っていた。
「初めましてね、音無さん」
そこにいたのは、春の陽光をそのまま形にしたような、柔らかな微笑みを湛えた女性教師だった。三十代半ばだろうか。
気品と母性を感じさせる、優雅な佇まい。
「私は新聞部顧問の司場紀子。そして彼が――」
紀子先生が指し示した先を見た瞬間、私は「ひっ......!」と声を漏らした。
「──あなたの教育係として付いてくれる2年生の、司場葦考くんよ」
司場先輩の顔は、まるで何百何千と平手打ちを繰り返されたのように、見るも無惨に顔が腫れ上がっていた。
右目は肉に埋もれて半分しか開いておらず、頬はどす赤くパンパンに膨らんでいる。
切れた唇からは血が滲み、顎に伝う血の筋がまだ乾ききっていない。
(え……? 虐待? それとも、いじめ……?)
背筋が、ゾクリと冷たくなった。何が起きたのか――理解が追いつかない。
紀子先生の声が、不自然なほど明るく響く。
まるで、司場先輩の顔が腫れ上がっていることなど、何でもない日常の風景であるかのように。
「しびゃ……あししゃか……でひゅ……」
彼は霜のついた氷袋を頬に押し当て、情けない声で自己紹介をしてきた。
「あ、あの……先生、その……先輩の、お顔は……」
「ん? ああ、これ? この子、私の息子なんだけどね」
紀子先生が――にっこりと笑った。
その笑顔は、慈愛に満ちた天使のように美しかった。
「『教育係なんてヤダ!』なんて、言うこと聞かないもんだから――ちょっとお仕置きしちゃいました〜♪」
ニコッ――と。一点の曇りもない、満面の笑み。
「当たり前だろ! 僕は新聞部じゃないんだからさ!」
突然、先輩が氷袋を頬に当て、声を裏返しながら声を上げた。
「なんで僕が教育係なんて……僕は、入部届なんて出してない!」
「ま〜だそんなこと言ってるの?」
紀子先生の声が、一段低くなった。
瞬間、窓から差し込む暖かな日差しすら、冷たく無機質な刃に感じられた。
「あなたは新聞部。これは『決定事項』なのよ」
「僕の意見は無視なのかよ……!」
「無視じゃないわ。『却下』よ〜」
春風のような笑顔で断言される「却下」。
葦考先輩は、もう何も言えなくなった。
力なく肩を落とし、深く俯く。
その背中はあまりに小さく、そして、頼りなかった。
(何、この変な親子......)
私は2人の異常なやり取りを前にして、呆気にとられていた。
私にも、血の繋がりはないけれど、自分を心から愛してくれている義理の両親がいる。
けれど、こんな顔がボコボコになるまで叩かれることもないし、激しい口喧嘩をすることもない。
互いに気を使い、壊れ物を扱うように接する優しい日々を過ごしている。
自分の知る「穏やかな親子像」とは掛け離れたた2人のやり取り。
暴力的なまでに強引で、理不尽で、一方的。
でも――そこには隠しようのない濃密な愛情が、体温を伴って漂っていた。
歪んでいるけれど、確かに繋がっている剥き出しの絆。
私にはもうない、血の繋がった本物の温もり。
羨ましい――
その感情が、泥のように心の底からどろりと湧き上がるのを止められなかった。
✤✤✤
新聞部に入って一ヶ月が過ぎた頃。
私は日々、自分でも制御できないほどの「苛立ち」を募らせていた。
カチャカチャカチャカチャ――
不機嫌なタイピングの音が、放課後の静かな部室に突き刺さるように響く。
その原因は、教育係である先輩だった。
司場先輩は、とにかく要領が悪かった。
写真はどれもこれもピンボケ。構図も光量も何も考えていない、ただ考え無しにシャッターを押しただけの写真に過ぎなかった。
文章を書かせれば接続詞はどこかへ迷子になり、主語と述語はちぐはぐ。何を伝えたいのか判然とせず、読み手を暗闇に置いてけぼりにするような代物だった。
校正を頼めば誤字脱字を平然と見逃し、レイアウトもガタガタ。
入部してわずか一週間で、新入生の私の方が余っ程「仕事」が出来るようになってしまった。
「もうっ、いい加減にしてください!」
私は堪えきれず、机を強く叩いて立ち上がった。
バンッ――という乾いた音が、部室の淀んだ空気を震わせる。
「ご、ごめん……」
ビクッと肩を跳ねさせ、先輩は背中を縮こまる。それが、あまりにも情けなくて、無性に腹が立った。
「何で同じミスを繰り返すんですか! この前も注意したじゃないですか!!」
「う、うん……気をつけるよ……」
「気をつける、じゃないんです! ちゃんとメモ取ってくださいよっ!!」
「……ごめん」
また、謝る。ただ、反射で謝る。
そこには改善への意志も、反骨心も、悔しさも、何も感じられなかった。
まるで、ただ嵐が過ぎ去るのを待つように――ただ無力に謝るだけ。
「……はぁ」
重く深い溜息が、制御できずに唇から漏れた。
先輩が、自分は何をやっても無駄だと諦めきったような、「死んだ魚のような目」をしているのが、私はたまらなく不快だった。
その酷く濁った目を見ると――胸の奥が、どす黒くザワザワと波立ってしまう。
施設の冷たい洗面台の鏡で見た、あの日。
両親が死んで、大好きだったお兄ちゃんも私を捨てていなくなって、本当の意味で「独りぼっち」になってしまったばかりの頃の、私の目と――あまりに酷似していたからだ。
孤独。絶望。喪失感。
それらの重い感情に沈み、光を完全に閉ざした目。
何もかもどうでもいいと、魂の底から絶望しきった虚無の目。
(……なんで、よりによってこんな人が、私の教育係なのよ……っ!)
苛立ちと、底知れぬ失望。
そして、必死に忘れようと蓋をしたはずの「昔の自分」を無理やり見せつけられているような、同族嫌悪に近い悲しさが、私の胸の中でどろどろと激しく渦巻いていた。
✤✤✤
部活を終えた帰り道。
燃え落ちるような残照が街全体を飲み込み、住宅街を毒々しいまでのオレンジ色に染め上げていた。
長く伸びた不気味な影が足元にまとわりつき、時折吹き抜ける冷たい風が、露出した肌を鋭く刺す。電線に止まったカラスの鳴き声が、何かの予兆のように不吉に響いていた。
「ただいま……」
自宅の玄関を開け、淀んだ沈黙を振り払うように声を出す。
奥から聞こえるお義母さんの「おかえりなさい」という柔らかな声。いつもなら心を安らげてくれるその響きも、その時の私の耳にはどこか遠く、虚ろに聞こえた。
自室に入り、制服を脱ごうと鏡の前に立った、その時──
「……え?」
全身の血の気が、凄まじい勢いで足元から引いていくのが分かった。
無意識に頭を触れるが、指先が
──ない。
私の、あの赤い眼鏡がない。
音無家の養子になって初めて、お義父さんとお義母さんが「春奈ちゃんに一番似合うよ」と笑って選んでくれたもの。
それはただの眼鏡じゃない。私が私のままで、この新しい家族の中に居てもいいのだと――そう証明してくれる、たった一つの宝物。
「嘘……うそ……っ!?」
喉の奥が引き攣れる。
私は狂ったように鞄を引き寄せ、床の上に中身を出した。
教科書、ノート、筆箱――無機質な音を立てて散らばるそれらを掻き分けるが、どこを探しても、あの鮮やかな赤色は見つからない。
「どこ……どこにいったの……!」
心臓が早鐘を打ち、肺をきつく圧迫する。視界がチカチカと点滅し、思考が混濁していく中、必死に今日の記憶を遡った。
──帰り道。
「……公園っ!」
まだ
誰かに踏まれて壊される前に、夜の闇に飲み込まれてしまう前に。
私は震える手で乱れた制服を整え直すと、夜の静寂へと沈みゆく街へ、弾かれたように飛び出した。
✤✤✤
夜の帳が完全に下りた公園は、昼間の喧騒が嘘のような、底知れない静寂に支配されていた。
点在する街灯は、湿った闇を照らすにはあまりに非力で、ぼんやりとした不確かな光の輪を地面に落としているに過ぎない。
「はぁ……っ、はぁ……っ、はぁ……」
肺を焼くような熱い呼気が、冷えた夜気に白く混ざる。
私はスマホの心許ないライトで夜闇を照らしながら、湿り気を帯びた茂みを、爪が剥がれんばかりの勢いでかき分けた。
「お願い……見つかって……っ!」
膝をつき、手のひらを泥に汚しながら、私は地を這った。
爪の間に湿った土が入り込み、おろして間もない制服が、汚れていく。
けれど、あの眼鏡を失うことに比べれば、そんなことはどうでもよかった。
「見つかってよっ……お願いだからっ……!」
視界が熱い涙で歪み、ライトの光が滲む。
堪えきれなかった雫が頬を伝い、冷たい土の上へとぽたぽたと吸い込まれていった。
いよいよ絶望が、ひたひたと足元まで迫りつつあった、その時──
──ズッ……、ズッ……。
暗闇の向こうから、今にも暗がりに溶けて消えてしまいそうな、ひどく重くて頼りない足音が近づいてきた。
「……あの、大丈夫ですか?」
「……司場先輩……!?」
顔を上げると、そこには街灯の逆光を背負い、まるで幽霊のように佇む司場葦考の姿があった。
「......音無だったのか」
最悪だ、と反射的に思った。
一番見られたくない人に、こんな姿を見られてしまった。
仕事もできない、要領も悪い、私がいつも「死んだ魚のような目をしてる」と心の底で軽蔑していたあの人に。泣きじゃくり、地面を這いずり回る、こんなにも惨めで滑稽な姿を。
「……っ」
恥ずかしさと屈辱、そして自分自身の不甲斐なさがごちゃ混ぜになり、喉の奥が石を飲み込んだように硬く締まる。
先輩は、私の泥だらけの惨状をじっと見下ろすと、ぽつりと呟いた。
「何か探してるのか? ……もしかして、赤いメガネを無くしたとか?」
「――っ!?」
心臓が、嫌な跳ね方をした。
何のヒントも与えていない。それどころか、いつも部室では私のことなんて見てもいないと思っていたのに。なぜこの人は、よりによって「それ」を、一瞬で言い当てたのか。
「当たり? いつもしてた赤い眼鏡がないから、もしかしたらって思ってさ」
司場先輩はそう言うと、ためらいの素振りすらも見せず。
私が汚れるのを躊躇した、ひどくぬかるんだ泥だらけの茂みの奥へ、その細い両腕を無造作にと突っ込んだ。
「僕も探すの手伝うよ」
「いいですよ! 先輩には関係ないじゃないですか、放っておいてください!」
反射的に、拒絶の言葉が鋭い棘となって漏れた。
震える声で彼を追い払い、ひび割れそうな自分の惨めなプライドを必死に守ろうとした。
けれど――。
先輩の動きは、止まらなかった。
「後輩が困ってたら……出来るなら、助けになりたいだろ?」
その瞬間、私の胸の奥に、得体の知れない熱い塊が込み上げてきた。
信じられないほど、静かで、透き通った響きだった。
部室でいつも縮こまっていた、あの芯の通らない弱々しい声じゃない。
不器用なほどに真っ直ぐで。光の届かない深海の底で、ひっそりと、けれど決して消えることなく燃え続けている熱源のような……静かで揺るぎない強さを秘めた声。
「……っ」
また、涙が溢れそうになる。
でも、今度はさっきまでの絶望の涙とは違った。
絶望で冷え切っていた私の心に、ぽっと、小さな暖かい火を灯していた。
✤✤✤
司場先輩と一緒に赤い眼鏡を探し始めて、一時間が経過した。
夜の静寂が重くのしかかり、点在する街灯の鈍い光だけが、底なしの闇の中に私たち二人の姿を孤独に浮かび上がらせている。
私たちは言葉を交わすことも忘れ、無言のまま、ただひたすら湿った地面を這いずり回った。
凍える指先の感覚だけを頼りに、夜闇の中を探した。
「……諦めましょう。もう、十分です」
限界だった。
私はよろよろと立ち上がり、完全に感覚を失った手のひらの泥を力なく払う。
指先は氷のように冷え切り、私の心はもう、『見つかるかもしれない』という期待がもたらす痛みに、これ以上耐えきれなくなっていた。
「......大切な物を、そんな簡単に諦めていいのか?」
背後から届いた先輩の静かな問いに、びくりっと肩が跳ね、喉の奥が引き攣れるように震えた。
「──っ……同じものを買えばいいだけです! そんなに、高い物でもないですから!」
私は強引に口角を引き上げて笑顔を作り、司場先輩を誤魔化す。
私は泥だらけになった先輩の背中に手をかけ、無理やり公園の出口へと押しやる。
「だから、もう帰りましょう! 先輩だって、もうクタクタですよね?」
もういい。
これ以上、この人に、自分の"執着"に付き合わせたくない。
そう自分に強く言い聞かせた。
でも――。
先輩は、確かに見ていた。
街灯の逆光の中、振り返った彼の瞳は、私の、涙で若干赤くなった目を真っ直ぐに捉えていた。
「……音無」
「なんですか」
「本当に、諦めていいのか?」
その声は、驚くほど透明で、真っ直ぐに私の心の奥底を射抜いた。
いつもの情けない先輩の面影など、どこにもなかった。
「……っ」
私は、何も答えられなかった。
唇を強く噛み締めても、鼻の奥がツンと熱くなり、視界が再び歪んでいくのを止められなかった。
それでも、私は溢れそうになるものを必死に抑え込み、無言で司場先輩の背中を押して歩いた。
泥に汚れたその背中を、一歩、また一歩と。
情けなくて、不器用で、けれどどうしようもなく優しいその温かさから逃げるように、私はただ、暗い出口へと彼を促した。
✤✤✤
場所は変わり、深夜の音無宅。
私は自室のベッドに横たわり、暗い天井の木目をじっと見つめていた。
でも、そんな事になんの意味もなく、意識は冴え渡るばかりで眠気は一向に訪れない。
重い瞼を閉じれば、あの鮮烈な『赤色』がまぶたの裏側に焼き付いている。
――『春奈ちゃんには、赤が似合うわねぇ』
お義母さんが、春の陽だまりのような優しい声で私の眼鏡を選んでくれた、あの日。
私を見つめる、慈愛に満ちた横顔。頭を撫でてくれた掌の、確かな熱。
愛された記憶が耳の奥で何度も繰り返され、どうしようもない喪失感となって、枕をじわりと濡らしていく。
「……やっぱり、諦めきれないっ!」
私は弾かれたように起き上がった。
パジャマ姿のまま、手当たり次第にアウターを引っ掴んで羽織る。
諦められない。もし、あの眼鏡を諦めてしまったら、私は一生後悔する。
あの眼鏡は、私にとって、ただの眼鏡じゃない。
私が
「絶対に……見つける……っ!」
私は祈るように夜道を駆け抜けた。
冷たい風がパジャマの裾を揺らし、肺が軋むのも構わず、再びあの公園へと走り出した。
深夜の静まり返った公園は、さきほどよりもずっと深く、人を拒絶するような重い漆黒に包まれていた。
(誰かいる......?)
たった一つの街灯の下。
その薄暗い光の輪の中に、蠢く一つの影があった。
その影は、悪臭を放つ冷たい側溝のドブの中にズボリと両足を突っ込み、狂ったように泥を掻き分けながら何かを探している様だった。
「あったーーっ!!」
唐突に。
夜の静寂を真っ二つに引き裂くような、喉を枯らした歓喜の絶叫が響き渡った。
その叫びに、私の足が縫い止められる。
息を呑み、視線を向けた先の影が、街灯の光に照らされてゆっくりと立ち上がった。
側溝のドブに深く手足を突っ込み、全身を真っ黒な泥とヘドロに染めた司場先輩。
服はあちこちが引き裂かれ、髪もドロドロに肌に張り付いて汚かった。
けれど先輩は、ひどく汚れた手で私の赤い眼鏡を――まるで、世界一の財宝でも掘り当てたかのように高く、夜空へ向かって掲げていた。
顔中を泥まみれにしながら、一点の曇りもない、心からの笑顔で。
「先輩……っ」
私の中で張り詰めていた涙の堰が、音を立てて崩れ去った。
熱い雫がボロボロと溢れ出し、もう止める術なんてなかった。
視界が涙で滲み、世界の形がぐにゃりと歪んでいく。
けれど――あの泥だらけの姿で、世界中の誰よりも眩しく笑った先輩の横顔だけは。
私の記憶に、決して消えない鮮烈な記録として、深く、深く刻み込まれて離れなかった。
✤✤✤
夜の静寂に沈んだ、公園の隅にある古びた水道。
──ジャーッ
静かな園内に、冷たい水が泥を洗い流す清涼な音だけが響き渡る。
真っ黒な泥が透明な奔流に飲み込まれ、暗闇の奥の排水溝へと押し流されていく。
月明かりが細い水流を透かし、それはまるで砕かれた宝石のようにキラキラと、無機質な美しさを放っていた。
「はい、音無」
汚れを落とし、本来の鮮やかな輝きを取り戻した赤い眼鏡を、司場先輩が私に差し出す。
彼の濡れた毛先から落ちる水滴が、月光を反射してポタポタと地面を叩く。
その一定のリズムが、私の早鐘打つ鼓動をさらに煽るようだった。
「あ、ありがとう……ございます……」
震える指先で、私はその眼鏡を受け取った。
冷たい水で洗われたはずのひんやりとしたフレームから、確かな、そして切実な「
泥だらけになって探し続けてくれた、先輩の熱。それが指先から真っ直ぐに、私の心臓へと逆流していくような感覚があった。
少しの間、言葉が途切れた。
水滴が落ちる音。夜風がざわざわと木の葉を揺らす音。遠くの国道を走り抜ける車の走行音。
まるでこの広い世界の中で、今、私たち二人しか存在しないような――そんな不思議な錯覚に陥る。
「じゃ、じゃあ用も済んだし――僕、帰るね……」
この濃密で気まずい沈黙に耐えかねたのか、先輩は逃げるように踵を返した。
擦り切れた制服。泥にまみれた靴。疲労の色が濃く張り付いた、いつもの情けない表情。
けれど、街灯の逆光に照らされたそのボロボロの背中は、今の私には、どんな
「ま、待ってください!!」
「うわっ! な、なんだよ、いきなり……っ」
気がついた時には、司場先輩の袖を強く引っぱり、引き止めていた。
「あっ……す、すみません……っ」
咄嗟に手を離したが、私の心臓は耳元で爆発しそうなほど激しく鳴っていた。
頬が、耳が、痛いほどに熱い。冷たい夜風に晒されているはずなのに、呼吸が浅く、全身が熱を帯びていく。
「なんで……」
声が、情けなく震えた。
「なんで、そんな泥だらけになってまで……探してくれたんですか……?」
「え? だって――」
先輩は、まるで太陽が東から昇るように、さも当たり前のことを口にするように、言った。
「──その眼鏡って、大切な物なんだろ?」
その一言が、私の胸の奥を激しく貫いた。
「音無――」
センパイが、私を真っ直ぐに見つめた。
あの、情けなくて死んだ魚のような瞳。
それが今は、信じられないほど深く、透き通った優しさを湛えている。
「──あの時は『新しいのを買えばいい』って強がってたけどさ――」
一拍、重く深い溜めを置いて。
「――目は、悲しそうだったよ……?」
その瞬間、せき止めていたはずの感情が、決壊した。
ポロポロと頬を伝う熱い雫を、もう止める術はなかった。
「うっ……ぐすっ……」
声にならない。子供のように、ただ、しゃくり上げた。
あの時、無理やり作った笑顔の裏にある、本当の気持ちをこの人は気付いていた。
強がりの向こう側で震えている、本当の私を。
「音無。大切な物なら、諦めちゃダメだよ」
その言葉が、祈りのように心の一番深い場所に染み込んだ。
私はその時――初めて、司場葦考という人の、本質を分かった気がした。
勉強も運動もダメ。気弱でおっちょこちょいだし、部活もミスばかり。
客観的に見れば、救いようのない、どこまでも情けない人。自分を価値のないものと思い込み、何をしても無駄だと諦めて生きている、日陰の住人。
でも――それは、彼のほんの一面に過ぎなかった。
司場先輩は、誰かの「大切」を守るためなら、普通の人には到底できない無茶が、平気でできてしまう。
ダメな部分のすべてを、純金の色に塗り替えてしまうほど――凄くて、眩しくて、美しい心がそこにある。
この人は、人のためなら、決して諦めない。
もう私は、目の前にいる、ドロドロに汚れて、ボロボロで笑う司場先輩──いや、葦考センパイから目が離せなくなっていた。
「……あっ、葦考センパイ!」
ありったけの勇気を振り絞って、初めて、彼の名前を呼んだ。
「なっ、なに!?」
先ほどまでの静かで底知れない包容力はどこへやら。
一瞬で今までの葦考センパイに戻った。
慌てふためいて、顔を真っ赤にして視線を泳がせた。
その情けなくて不器用なギャップが、不思議と今はたまらなく愛おしく思えてしまう。
「……も、もう夜の10時で、夜道も危ないので――」
心臓の爆発に耐えながら、声を絞り出す。
「──送ってくれませんか?」
「え、えっ!? あ、う、うん……! そ、そうだよね、女の子一人じゃ危ないもんな……!」
真っ赤な顔をして、視線のやり場に困りながら頷く葦考センパイ。
私は赤い眼鏡を、世界で一番誇らしい勲章のように、頭にかけ直すと、少しだけ歩幅を合わせて彼の隣を歩き始めた。
夜風が、二人のわずかな隙間を優しく吹き抜ける。
街灯の光が、二つの影を一つのように長く伸ばしていく。
私の恋路は――この、泥と水の匂いがする。温かくて、特別な夜から、始まった。
✤✤✤
(そして今――)
雷門ゴール前。
土と汗にまみれ、引き千切れそうな身体を無理やり突き動かして咆哮する葦考センパイの姿を、私はそれを、ただ祈るように見つめていた。
視界は熱い涙で歪み、何度も彼を鮮明な輪郭から奪っていく。
必死に戦うサッカー部のみんなには、そして雄叫びを上げている葦考センパイに対して、あまりに不謹慎で身勝手な願いだと分かっている。
けれど、私の心はもう、耐えきれずに悲鳴をあげていた。
(やめて......もう、負けでいいですから……お願い、葦考センパイ......やめて……っ!)
膝を震わせ、今にも命の灯火が吹き消されそうなほど消耗しきった背中。その満身創痍な姿を見るのは、自分の心臓を直接抉られるよりも辛かったから。
でも、私は知ってる。
そんな
それこそが、私の恋した司場葦考という人の眩いばかりの「本質」。
「……頑張って。頑張ってください、葦考センパイ……っ!」
私は震える声で祈りを捧げた。
第12話 fin