転生したら、必殺技が存在しない世界だった件!   作:スライみゅ

15 / 23
原作第3話 あみだせ必殺技!
第15話 闇夜で交差する兄妹(ふたり)


 

 

【春奈side】

 

 

帝国学園との凄惨な練習試合が幕を下ろし、グラウンドを焼き尽くすようだった茜色が、しめやかな濃紺の暮れ闇へと沈みゆく頃。

満身創痍の雷門イレブンは、誰一人としてまともに言葉を交わす気力すら残せないまま、鉛のように重い足を引きずって帰り支度を進めていた。

 

 

そして古びたサッカー部の部室には、汗と泥のむせ返るような臭いに混じり、ツンと鼻を刺す消毒液の匂いが充満している。

 

 

「痛っ! ちょ、秋、それ沁みるって!」

 

「動かないの! ほんとにもうっ、いつも無茶ばっかりして! 少しは見守る側の気持ちにもなってよね!」

 

 

円堂先輩を叱りつける木野先輩の声が、静まり返った部室に痛々しく響く。

そのすぐ隣で、私は震えそうになる指先を必死に抑え込み、不慣れな手つきで葦考センパイの傷ついた腕へ慎重にガーゼを当てていた。

 

 

「い、痛ったぁ……! 春奈、もう少し優しく……」

 

「これくらい我慢してください。自業自得なんですから」

 

「じ、自業自得って……」

 

「自分からボロボロになりにいくような人には これくらいでちょうどいいんです!」

 

「そ、そんなぁ......」

 

心配する気持ちが強ければ強いほど、口をついて出る言葉は皮肉なほど尖ってしまう。 センパイは僅かに肩を竦めると、心底申し訳なそうに眉尻を下げた。

 

 

「わ、悪かったって春奈……」

 

「……謝って済む話じゃありませんよ」

 

「はい……」

 

 

素直に項垂れるセンパイを見ていると、それ以上厳しい言葉をぶつける気にはなれなかった。

雷門の選手たちは、誰もが目を覆いたくなるような有様だった。 けれど、円堂先輩と葦考センパイの怪我は、他の部員たちと比べても一際酷かった。

 

 

特に葦考センパイは、お世辞にも身体が頑丈な人ではない。

ハッキリ言ってひ弱な部類に入る人だと思う。

それなのに、帝国の残酷なまでの猛攻を前に、その細い身体で、円堂先輩を庇った。

 

 

結果として、ユニフォームから露出した腕や膝には、赤く腫れ上がった無数の擦り傷が痛々しく刻まれている。

泥と血の滲んだ傷口を見つめていると、胸の奥を締め上げられるような錯覚を覚えた。

 

 

「……ほんと、馬鹿ですよ」

 

「え?」

 

「……何でもありません」

 

 

小さく息を吐き、消毒液を染み込ませたガーゼを傷口へ近づけた――その瞬間。

私の脳裏に、一人の男の姿が鮮烈にフラッシュバックした。

 

 

真紅のマント。

表情を冷酷に覆い隠す奇妙なゴーグル。

無造作に束ねられたドレッドヘア。

 

 

先ほどの試合で、氷のような声を響かせながら雷門を見下ろし、センパイたちを徹底的に蹂躙した帝国学園サッカー部のキャプテン。

鬼道有人。

私と血の繋がった、たった一人のお兄ちゃん。

 

 

私──音無春奈には、一つ年上の兄がいる。

名前は有人。

私がまだ4歳だった頃、両親が飛行機事故で他界し、帰る場所を失った私たち兄妹は、二人寄り添うようにして養護施設へ預けられた。

 

 

当時、まだ幼かった私は施設での生活になかなか馴染めず、一番年下で泣いてばかりいたせいで、年上の男の子たちによく虐められていた。

両親を失った絶望も重なり、毎日が底なしの暗闇に沈んでいるようだった。

それでも、お兄ちゃんがいつも盾になって守ってくれたから、私はどうにかその暗闇を耐え抜くことができた。

 

 

施設で暮らし始めて一年が過ぎた頃、お兄ちゃんは日本有数の財閥である鬼道家に引き取られ、「鬼道有人」という名になったことを私が知ったのは、私たちが離れ離れになって間もない頃のことだった。

 

 

私は施設の先生に手伝ってもらいながら、拙い文字で何度も手紙を書いた。

 

 

――おにぃちゃんへ。

――わたしはげんきだよ。

――おにぃちゃんはげんきですか?

――またいっしょにサッカーしたいな。

 

 

当時の私は幼く、どうして兄妹が別々の場所で暮らさなければならないのかも、鬼道家という名がどれほど巨大な財閥なのかも理解していなかった。

 

 

ただ、手紙を送れば、きっと当たり前のように返事が届くのだと信じていた。

いつかお兄ちゃんが会いに来て、離れ離れになる前と同じように優しく頭を撫でてくれる。

 

 

当時の私は、何の疑いもなく、その日を待ち続けていた。

けれど、お兄ちゃんからの返事は一度も来なかった。

お兄ちゃんが私を訪ねてきてくれたことも、一度もなかった。

 

 

それから数年が経ち、私も施設を離れて音無家へ引き取られた。

新しい家族は、私を本当の娘のように愛し、大切に育ててくれた。

温かい食事があり、学校から帰れば「おかえり」と笑いかけてくれる人がいる。

私が寂しい思いをしないよう、惜しみない愛情を注ぎ続けてくれた。

それでも、お兄ちゃんのいない私の日常には、決して埋まることのない小さな穴がぽっかりと空いたままだった。

 

 

成長し、日々を重ねていくにつれ、幼い頃には形を持たなかった疑問が、徐々に黒い染みのように胸の中で広がっていった。

 

 

どうして、手紙に返事をくれなかったのか。

 

どうして、一度も会いに来てくれなかったのか。

 

それとも、私のことなんて、もう忘れてしまったのか。

 

 

いつか本人の目の前へ立ち、直接確かめたかった。 だから、中学校へ進学した私は新聞部へ入部した。

取材のノウハウや資料の調べ方を身につければ、お兄ちゃんが今どこで何をしているのか、自分の力で探し出せると思ったから。

 

 

色褪せた古い新聞記事。

過去の大会記録。

学校案内や、選手名鑑。

 

 

手に入る限りの資料を、砂金を探すように一つずつ丹念に辿り続けた。

気が遠くなるような作業の中で心が折れそうになるたび、記憶の底で優しく微笑むお兄ちゃんの顔を思い出した。

そして、長い時間をかけて、私はようやく一人の選手へ辿り着いた。

 

 

鬼道有人。

当時から高等部同様に、中学サッカー界の頂点に君臨していた名門――帝国学園中等部サッカー部の選手。

 

 

一年生でありながらレギュラーの座を実力で奪い取り、チームの絶対的な司令塔としてフットボールフロンティア優勝に大きく貢献した、日本屈指の天才ミッドフィルダー。

 

 

新聞記事に掲載されていた写真は、無骨なゴーグルによって顔の大半が覆い隠され、幼い頃の面影はほとんど抜け落ちていた。

それでも、名前も年齢も、鬼道家の養子であるという経歴も、すべてが残酷なまでに一致していた。

間違いなく、私のお兄ちゃんだった。

 

 

居場所を突き止めた私は、意を決して帝国学園まで足を運んだ。 けれど、事前の約束がない部外者を校内へ通すことはできないと、そびえ立つ無機質な校門の前で無情にも追い返されてしまった。

 

 

『鬼道有人の妹です。一目だけでいいので会わせてください』

 

 

何度頭を下げて訴えても、鉄の扉が開くことはなかった。 その後、帝国学園のサッカー部宛てにも、鬼道家の本邸宛てにも、改めて手紙を送った。今度こそ返事が来るかもしれないと、祈るような気持ちで毎日のように郵便受けを開けた。

それでも、お兄ちゃんから手紙が届くことはなかった。

 

 

もしかしたら、お兄ちゃんは本当に、私とは会いたくないのかもしれない。

そんな鋭利な考えが脳裏をかすめるたび、心臓が凍りつくように冷たくなった。

それでも、諦めることはできなかった。

だから、雷門高校と帝国学園が練習試合を行うと聞いた時、私は密かに期待していた。

 

 

今度こそ、お兄ちゃんに会えるかもしれない。私に気づいてくれるかもしれない。

昔のように、「春奈」と名前を呼んでくれるかもしれない。 そんな淡く儚い期待を、どうしても手放せずにいた。

 

 

けれど――。

実際に目の前に現れたお兄ちゃんは、私の記憶の中で微笑む兄とは、あまりにもかけ離れた存在だった。

 

 

氷のように冷酷に響く声。

対戦相手を虫けらのように見下ろす傲慢な振る舞い。

帝国の選手たちを、盤上の駒のように血の通わない正確さで動かす指揮。

そして、ボロボロになって倒れ込む雷門の選手たちへ、幾度となく容赦のないシュートを浴びせ続ける姿。

 

 

私の知っているお兄ちゃんは、あんな非道なサッカーをする人ではなかった。

施設で虐められて泣いていた幼い私を、いつも自分の小さな身体を盾にして守ってくれた。

自分が傷ついても、私に向ける顔だけはいつも優しかった。

誰よりも優しくて、温かくて、純粋にサッカーを愛している人だったはずなのに。

 

 

鬼道有人がお兄ちゃんだという事実は、調べ上げた時点で分かっていた。

それでも心の奥底では、その現実を受け入れることを激しく拒絶していた。

 

 

私が調べた情報が、どこかで間違っていたのではないか。

鬼道有人という選手は、ただ偶然同姓同名で、経歴が似ているだけの別人なのではないか。

目の前で無慈悲にボールを蹴るあの男が、私のお兄ちゃんな筈がない。

 

 

そんな都合のいい逃げ道に縋っていた。

けれど、その僅かな希望さえも、彼が見せた一つの仕草によって完全に打ち砕かれた。

ボールを受ける直前、ほんの一瞬だけ左肩を引いてリズムを取る癖。

幼い頃、施設の庭で一緒にボールを蹴っていた私だけが知る、お兄ちゃん特有の癖だった。

 

 

(やっぱり、あの人は……私のお兄ちゃんなんだ)

 

 

胸の奥が、音を立てて崩れ落ちていく感覚があった。

そして、雷門が帝国から奇跡の一点を奪い取った、その直後。

グラウンド全体がどよめきと歓声に揺れる中、お兄ちゃんが不意に雷門のベンチへ顔を向けた。

 

 

ゴーグルに隠された瞳の光を見ることはできなかった。

それでも、お兄ちゃんが真っ直ぐに私を見つめていることだけは、肌が粟立つような感覚で分かった。

数十メートルの距離を越えて、私たちの視線が確かに重なり合った。

 

 

その瞬間、お兄ちゃんの動きが完全に止まった。

時間にすれば、ほんの数秒。

けれど、私にはその静寂が永遠のように長く感じられた。

きっと、すぐに分かったのだと思う。

雷門ベンチに立つ私が、10年前に離れ離れになった妹――春奈(わたし)だと。

 

 

胸の底から、堰を切ったように熱いものがせり上がってきた。

お兄ちゃんは、私を覚えていてくれた。

ただそれだけの事実が、長い間ずっと心の奥底へ押し隠してきた寂しさと愛おしさを、今にも決壊させそうだった。

 

 

どうして手紙に返事をくれなかったの?

 

どうして会いに来てくれなかったの?

 

今まで、どこで、どんなふうに暮らしていたの?

 

 

問いかけたい言葉は、喉の奥に数え切れないほど詰まっていた。

けれど、今はただ、その声で名前を呼んでほしかった。

昔と同じ、あの優しくて温かい声で。

たった一言、「春奈」と。

 

 

けれど――。

お兄ちゃんは、微かに開いた唇を動かすことなく、硬く結んだ。

そして、逃げるように私から視線を外すと、そのまま二度とこちらへ顔を向けようとはしなかった。

 

 

私がどれだけ強く見つめ続けても。

祈るように念じても。

再び目が合うことはなかった。

まるで、最初からそこに私など存在していなかったかのように。

私が立っている空間だけが、彼の視界から残酷に切り取られてしまったかのように。

 

 

その時、胸の片隅に巣食っていた嫌な予感が、確定的な絶望へと変わった。

 

 

手紙の返事が来なかったのは、届いていなかったからじゃない。

 

会いに来てくれなかったのも、何か事情があったからじゃない。

 

 

今、お兄ちゃんが私から目を逸らしたのも――私が妹だと分かったからだ。

もう、私とは目を合わせたくないんだ。

お兄ちゃんにとって、私はもう守るべき妹ではない。

遠い過去に置き去りにした、ただの煩わしい他人になってしまったんだ。

――そうとしか、思えなかった。

 

 

胸の中にすがりついていた僅かな希望が、音もなく灰になって崩れ去っていく。

分からない。

何もかもが、理解できなかった。

 

 

どうして、お兄ちゃんは私から目を逸らしたのか。

 

どうして、十年以上もの時を経て再会した実の妹を、いなかったもののように扱えるのか。

 

どうして、あんなにも温かかった人が、誰かを徹底的に傷つけるようなサッカーをしているのか。

 

 

答えのない疑問が、濁流のように頭の中を渦巻く。

どれだけ考えても、納得できる理由など一つも見つからない。

それでも、考えることをやめられなかった。

 

 

どうして。 どうして。 その言葉ばかりが、壊れたレコードのように何度も繰り返される。

そして、その果てに――。

もし、葦考センパイがこの事実を知ったら、どう思うのだろうか。

 

 

目の前で痛みに耐えながら眉をひそめている、このどうしようもなくお人好しなセンパイをここまで凄惨に傷つけたのは、ほかならぬ私の兄だった。

 

 

私は、敵のキャプテンが実の兄だと知りながら、その事実を誰にも打ち明けなかった。

お兄ちゃんがセンパイたちの身体を傷付けていく姿を、ベンチから黙って見ていることしかできなかった。

 

 

お兄ちゃんがしたことに、私は一切関与していない。

私に責任なんてない。

頭では、そう分かっている。

それでも、目の前でセンパイの生々しい傷を見つめていると、兄の蛮行を他人事として切り離すことはどうしてもできなかった。

 

 

もし、私が鬼道有人の妹だと知られたら。

葦考センパイは私に、どんな冷たい目を向けるのだろう。

今までと同じように、屈託のない笑顔で「春奈」と呼んでくれるのだろうか。 それとも――

お兄ちゃんがしたように、居ないものとして私から視線を逸らしてしまうのだろうか。

 

 

「……っ」

 

 

ガーゼを持つ指先が、微かに震えた。

無意識に力が入りすぎたのか、葦考センパイが小さく息を呑む。

 

 

「うぅ〜……は、春奈......い、痛いよ……」

 

「えっ!? ああっ、ご、ごめんなさい!」

 

 

慌てて手を緩める。

センパイは痛みに顔を引きつらせながらも、私を責めるような言葉は決して口にしなかった。

 

 

「春奈、大丈夫?」

 

「……どうして、私の心配なんかするんですか」

 

「え?」

 

「怪我をしてるのは、センパイの方なのに……」

 

「......?」

 

 

掠れた声で漏らした言葉に、センパイは不思議そうに目を瞬かせる。

私はそれ以上何も言えず、震えそうな指先を隠すようにガーゼを強く握り直した。

そして、押し黙ったまま。

センパイの傷ついた腕へ、ゆっくりと、祈るようにガーゼを当てた。

 

 

✤✤✤

 

 

すっかり日が落ちた帰り道。

葦考センパイは、全身を軋ませる痛みに耐えるように、僅かに右足を引きずりながら私の隣を歩いていた。

 

 

「あー……明日は確実に、筋肉痛でベッドから起き上がれないなぁ、これ……」

 

「筋肉痛だけで済めば御の字ですよ」

 

「あはは……珍しくドライだぁ……」

 

 

そう。 普段の私なら、もう少し小気味よい軽口を返せていたはずだ。

けれど今は、言葉を発するだけで、胸の底に無理やり封じ込めた感情まで一緒に決壊してしまいそうだった。

 

 

私は俯いたまま、街灯に照らされて流れていくアスファルトの無機質な模様だけを見つめ続けていた。

すぐ隣を歩くセンパイの身体には、帝国の選手たちが刻み込んだ傷が残っている。

それなのに私は、何も知らない顔をして、その隣を歩いている。

私は、いったいどんな顔でこの人向き合えばいいのだろう。

 

 

「……春奈?」

 

 

不意に、隣から穏やかな声が降ってきた。

ハッとして顔を上げると、葦考センパイが歩みを止め、心配そうな瞳で私の顔を覗き込んでいた。

 

 

「どうしたの? さっきからずっと下向いてるけど……元気ない?」

 

「えっ!? あ、いや、何でもないですよ!」

 

 

心の内を見透かされそうになり、私は反射的に両手を振った。 無理やり口角を引き上げ、貼り付けたような笑顔と明るい声を作る。

 

 

「ほ、ほら! 今日はあんな大変な試合だったじゃないですか! さすがの私も、少し疲れちゃっただけです!」

 

「でも、春奈は試合に出てないよね?」

 

「せ、精神的に疲れたんです!」

 

「あ〜……なるほど……」

 

 

私の苦しい言い訳を、疑う様子もなく受け入れかけるセンパイを見て、胸の奥がチクリと痛んだ。

この人は、他人の言葉の裏を疑おうとしない。 これ以上、その真っ直ぐで淀みのない瞳で見つめられたら、隠していた秘密をすべて吐き出してしまいそうだった。

私は話題をすり替えるように、強引に言葉を継いだ。

 

 

「そ、そうだ! センパイ、今日はお祝いしましょう!」

 

「お、お祝い?」

 

「帝国から一点をもぎ取ったお祝いですよ! 今日は特別に、私が晩ご飯を奢ります!」

 

「ええっ!? いやいや、いくらなんでも後輩の女の子に奢ってもらうわけにはいかないって!」

 

「遠慮しなくていいです!」

 

「そ、それに......あの一点は豪炎寺くんのおかげだし……」

 

「豪炎寺先輩へラストパスを繋げたのは、葦考センパイでしょう?」

 

「それは、そうだけど……」

 

「だったら、十分お祝いする理由になります! ほら、何が食べたいですか?」

 

「う、うーん……」

 

 

半ば強引に背中を押され、センパイは困惑気味に眉尻を下げた。

しばらく考え込んだ末、遠慮がちに答える。

 

 

「……じゃあ、ラーメンかな?」

 

「決まりですね! 早速行きましょう!!」

 

 

✤✤✤

 

 

私たちが向かったのは、商店街の通りに佇む中華料理屋『雷雷軒』だった。

年季の入った赤い暖簾をくぐると、店内には食欲を刺激する醤油と鶏ガラの温かな香りが満ちている。

私たちはカウンターへ並んで腰掛け、湯気を立ち上らせる醤油ラーメンをすすった。

 

 

「お、美味しい……」

 

「ですよね! ここのラーメン、昔から大好きなんです」

 

「春奈、よく来るの?」

 

「たまにですけど。今日は特別ですよ」

 

「そ、そっか」

 

 

温かいスープが、強張って冷え切っていた身体の隅々へじんわりと染み渡っていく。

センパイは猫舌なのか、熱いスープに口元をハフハフさせながら麺をすすり、私はそんな飾らない姿を見て、思わず小さく吹き出した。

 

 

食事をしている間だけは、お兄ちゃんのことを考えずに済んだ。

どんぶりの底が見える頃には、限界まで張り詰めていた心も、ほんの少しだけ解れていた。

 

 

――これで、なんとか誤魔化せた。

そう思い込んでいたのは、どうやら私だけだったらしい。

店を出て、すっかり夜の闇に包まれた帰り道。 オレンジ色の街灯がアスファルトへ二人分の影を濃く落とす中、葦考センパイはふと歩みを止めた。

 

 

「……で、本当は何があったの?」

 

「え……?」

 

 

振り返った先に、いつもの気弱な笑みはなかった。

静かで、本気で私を心配する真剣な瞳が、逃げ場を塞ぐように真っ直ぐ私を見据えている。

 

 

「春奈、さっきからずっと、無理して笑ってるでしょ」

 

「そ、そんなこと……」

 

「僕はよく鈍いヤツだって言われるし、自覚もあるけど……それでも、今日の春奈が無理してるのは分かるよ」

 

「……」

 

 

ドキリッと、心臓が大きく跳ねた。

センパイの穏やかな瞳は、私が心の奥へ必死に隠そうとしていた痛みを、正確に見抜いていた。

 

 

(……言っちゃおう、かな)

 

 

喉元まで、言葉がせり上がってきた。

帝国学園のキャプテン──鬼道有人が、私の実の兄であること。

ずっと前から、その事実を知っていたこと。

今日、試合の中で兄と目が合ったこと。

それなのに、まるで汚いものを見るように目を逸らされてしまったこと。

すべてを打ち明けてしまえば、この胸を押し潰す泥のような重荷から、少しは解放されるかもしれない。

 

 

葦考センパイなら、きっと途中で遮ることなく、黙って私の話を聞いてくれるはずだ。

でも――

 

 

『……鬼道有人が、春奈のお兄さん?』

 

 

その瞬間、脳裏に最悪の想像がフラッシュバックした。

驚き。

戸惑い。

そして、ほんの僅かに混じる警戒の色。

私を見るセンパイの瞳から、それまで向けられていた温かな信頼がすっと消え去っていき、お兄ちゃんが私にしたのと同じように、静かに、無表情に視線を逸らす。

 

 

そんな想像をしただけで、全身が氷に浸かったように強張った。

私は無意識に息を呑み、一歩だけ後ずさっていた。

駄目。

言えない。

自分たちの仲間をあれほど惨たらしく傷つけた敵の妹が、何食わぬ顔で隣を歩いている。

そう思われてしまうのが、何よりも怖かった。

 

 

頭では分かってる。

葦考センパイは、底抜けにお人好しで、優しい人。

お兄ちゃんがしたことと私を重ね合わせ、理不尽に責め立てるような人じゃない。

そんなことくらい、分かってる。

 

 

それでも――怖かった。

ほんの少しでも、私を見る目が変わってしまうことが。

今までと同じ距離には、もう二度と戻れなくなることが。

胸が激しく締めつけられ、呼吸が浅くなる。

 

 

「……何でも、ないです」

 

 

私はふいっと顔を逸らし、精いっぱいの虚勢を張って笑ってみせた。

 

 

「ただ、今日の試合が……あまりにも怖かっただけです! サッカーが、あんなに危険で暴力的なスポーツだなんて思わなかったので!」

 

「……そっか」

 

「はい! それだけです!」

 

 

わざと甲高い声を出し、強引に会話の扉に鍵をかけようとした私を見て、センパイは一瞬だけ悲しそうに目を細めた。

きっと、それが取り繕った嘘だと気づいている。

けれど――

 

 

「でも、帝国との試合は、かなり特殊なケースだと思うよ……?」

 

「そう、ですよね……」

 

「普通のサッカーは、もっと安全で、楽しいものだから」

 

「今のセンパイに言われても、説得力ありませんけどね」

 

「えぇ……」

 

 

センパイは、それ以上無理に踏み込んではこなかった。

私が恐怖から何重にも鍵をかけた心の扉を、無理やりこじ開けようとはしない。

ただ困ったように眉を下げ、先ほどまでと変わらない距離感で、私の隣を歩いてくれる。

その不器用で誠実すぎる優しさが、今の私には、たまらなく息苦しかった。

 

 

✤✤✤

 

 

音無家の自室。

制服も着替えずベッドへ倒れ込んだ私は、部屋の明かりも点けないまま、暗い天井の一点を虚ろな瞳でじっと見つめていた。

 

 

「お兄ちゃん、どうして……あんな風に、なっちゃったの……?」

 

 

ぽつりと零れ落ちた呟きは、夜の静寂へ吸い込まれて虚しく消えた。

鬼道有人が兄であることに、疑いの余地はない。

新聞部で執念深く追い続けた記録も。

ボールを受ける直前に左肩を引く、昔からの癖も。

冷たい声の底に僅かに残っていた、記憶の中の兄の響きも。

すべてが、あの人を私の兄だと示していた。

 

 

でも、本当に分からない。

どうして、あんなにも変わってしまったのか。 どうして、対戦相手を徹底的に痛めつけることに何の躊躇いも見せないサッカーをするようになったのか。

どうして、私がどれだけ手紙を送っても、一度も返事をくれなかったのか。

そして、どうして――今日、私と目が合ったのに、何も言わずに視線を逸らしたのか。

 

 

(お兄ちゃん……私は、もう要らない子なの……?)

 

 

答えの出ない問いが、刃となって頭の中を巡り続ける。

どれだけ傷ついても優しく笑いかけてくれた、葦考センパイの穏やかな顔。

真紅のマントを揺らし、雷門を冷たく見下していた兄の姿。

正反対の二人が、脳裏で何度も交差する。

 

 

私は布団を頭からすっぽりと被り、暗闇の中で身体を小さく丸めた。

けれど、どれだけ強く目を閉じても。

私から冷たく視線を逸らした兄の姿だけは、決して消えてはくれなかった。

 

 

✤✤✤

 

 

【鬼道side】

 

 

同時刻。

夜の闇に静まり返る豪邸――鬼道邸。

 

 

照明を落とした自室で、俺は革張りのソファへ深く腰を沈めていた。

広い空間を照らしているのは、壁掛けの大型モニターから放たれる青白い光だけ。

 

 

画面には、帝国学園サッカー部の練習映像が繰り返し再生されている。

だが、俺の意識は映像の中の選手たちへ向いていなかった。

脳裏で何度も反芻していたのは、数時間前に行われた雷門高校との練習試合。

そして真っ先に浮かんできたのは、豪炎寺修也でも、円堂守でもない。

雷門ベンチに立っていた、一人の少女。

 

 

記憶の中よりも伸びた髪。

幼い頃の面影を残しながらも、大人びた顔立ち。離れ離れになったあの日から、確かな年月が流れている。

それでも。見間違えるはずがなかった。

 

 

春奈。

一日たりとも忘れたことのない。

俺の、たった一人の妹。

 

 

雷門に一点を奪われた直後。

無意識に視線を向けたベンチで、俺は春奈と目が合った。

その瞬間。

世界から、あらゆる音が消失したように感じた。

今すぐピッチを蹴り、駆け寄りたかった。

彼女の名を呼びたかった。

抱き締めて、これまでのことを、すべて話したかった。

 

 

――春奈。

あの時、声は、喉元までせり上がっていた。

あと僅かでも自制心が緩んでいれば、実際にその名を叫んでいただろう。

だが、俺はその熱い衝動を理性の底へねじ伏せた。

動揺を悟られる前に視線を外し、その後は二度と雷門ベンチへ目を向けなかった。

今、春奈へ接触するわけにはいかなかった。

ここで妹へ手を伸ばせば、これまで血を吐く思いで積み上げてきたものが、すべて水泡に帰す。

 

 

「…………」

 

 

膝の上で、爪が食い込むほど強く拳を握り締める。

そんな俺の脳裏に、遠い昔の記憶が、鮮明に蘇った。

 

 

✤✤✤

 

 

俺が鬼道家に引き取られたのは、六歳の頃だった。

 

 

影山零治。

俺を鬼道財閥会長――後に義父となる人物へ推薦した男。

現在、帝国学園サッカー部を率いる総帥であり、俺が幼い頃からサッカーを教わってきた人物でもある。

 

 

後に聞いた話では、当時の影山総帥は、俺を初めて見た時から、異常なほど高く評価していたらしい。

 

 

『面白い少年がいる』

 

 

影山総帥は、義父さんへそう告げたという。

 

 

『まだ六歳ですが、サッカーの才能に恵まれている』

 

 

ただ、影山総帥が本当に評価したのは、ボールを蹴る技術ではなかった。

 

 

『この少年は、自分よりも周囲を見ています。誰が何を得意としているのか。誰をどこへ動かせば、全体が最も上手く回るのか。それを教えられるでもなく、感覚だけで理解している』

 

 

子供同士の遊び。

まともな戦術など存在しない。

誰もがボールへ群がり、自分でゴールを決めたがるような年齢で、俺は、自分がボールへ触れるよりも先に、周囲の人間を見ていた。

 

 

足が速い者には、フィールドを広く使わせるように助言した。

身体の強い者には、ゴールに近い場所を。

ボールを扱うことが苦手な者にも、できることを探して役割を与える。

そうすれば。

十一人どころか、五人や六人の子供が集まっただけの遊びでも、一つの集団として機能していた。

 

 

当時の俺には、それが特別なことだという自覚など欠片もなかった。

だが、影山総帥は違った。

まだ六歳だった俺のことを、義父さんを前に、こう言ったという。

 

 

『あの子は、人の上に立つ才能に溢れている。その資質だけを見れば、既に骨格は完成していると言っていいでしょう』

 

 

その言葉が、俺が鬼道家へ迎え入れられる大きな理由の一つになった。

巨大な財閥を継ぐ後継者候補として、影山零治が、鬼道有人という人間を推薦した。

そして義父さんは、影山総帥の人を見る目を深く信頼した。

 

 

『影山さんが、そこまで言うのなら』

 

 

そうして俺は、鬼道家の養子となった。

それと同時に、影山総帥の勧めによって本格的にサッカーを学び始めた。

 

 

義父さんが、俺にサッカー選手として大成することを望んでいたわけではない。

あくまでも、俺の中にある才能を伸ばす教育の一つ。 そして将来、人の上に立つ人間として役に立つ経験になる。

影山総帥から、そう強く勧められたからだった。

 

 

サッカーに関することは、影山総帥に任せておけばいい。

そう、義父さんは考えていた。

事実、俺はサッカーを続ける中で、技術だけではなく、人を見ること。

人を動かすこと。

試合という絶えず状況が変化する場所で決断を下すこと。

そうした統率力を着実に磨いていった。

だが、鬼道家へ迎えられた俺には、一つだけ、どうしても譲れない願いがあった。

 

 

春奈。

俺が鬼道家へ引き取られたことで、たった一人の妹を、施設へ残してきてしまった。

だから、鬼道家で暮らし始めて間もない頃に俺は義父さんへ懇願した。

 

 

『義父さん』

 

『何だ、有人』

 

『春奈も……鬼道家に迎え入れて欲しいのです』

 

 

幼い俺に、駆け引きなどできるはずもない。

ただ必死だった。

 

 

『春奈は僕の妹です。僕が守るって、約束したんです』

 

 

義父さんは、そんな俺をしばらく無言で見つめていた。

 

 

『……いいだろう』

 

『本当ですか!?』

 

 

思わず顔を上げた俺に、義父さんは冷静に続けた。

 

 

『だが、今すぐというわけにはいかん』

 

『……え?』

 

『有人』

 

『お前はいずれ、私の後を継ぐ。鬼道財閥という巨大な組織の頂点へ立つ人間だ』

 

 

当時の俺には、その言葉の重さなど到底理解できなかった。 ただ、義父さんが何を言おうとしているのかも分からず、黙って聞いていた。

 

 

『鬼道家の人間は、己の願いだけを優先することは許されない。力には、それに伴う責任がある。お前が本当に妹を鬼道家へ迎えたいのなら――まずは、お前自身が鬼道家の人間として相応しい者になれ』

 

「……僕が?」

 

『学べ。努力しろ。そして、結果を示せ』

 

 

義父さんは、俺の願いを頭ごなしに拒絶したわけではなかった。

春奈を嫌っていたわけでも、俺たち兄妹を引き離すこと自体を目的としていたわけでもない。 ただ、自分の後継者となる人間へ、鬼道家を背負えるだけの強靭な器を求めていた。

 

 

『お前が、鬼道家を継ぐに値する人間であることを私に証明できた時、春奈ちゃんを鬼道家へ迎えることを約束しよう』

 

 

その言葉を俺は信じた。

義父さんは厳格な人だ。

妥協を嫌い、鬼道家の人間へ常に高い結果を要求する。 だが、一度交わした約束を自ら違える人ではない。 だからこそ、俺は義父さんの言葉を信じることができた。

 

 

俺が小学校を卒業する頃、影山総帥の勧めもあり、俺は帝国学園中等部への進学を決めた。

影山総帥のいる学校。

幼い頃から俺にサッカーを教えてきた影山総帥が総監督を務める、日本一の名門校。

俺の才能を伸ばす場所として、そして――俺が人を率いる能力を試す場所として、これ以上ない環境だと、義父さんも判断した。

 

 

初めてだった。

春奈を鬼道家へ迎えるための、明確な条件が俺へ提示されたのは。

 

 

✤✤✤

 

 

中等部への入学を控えた、ある日。

俺は義父さんの執務室へ呼び出された。

そこには、影山総帥の姿もあった。

 

 

『有人』

 

 

義父さんが、静かに口を開いた。

 

 

『これまでのお前の成長は見てきた。学業においても、その他の教育においても、十分な結果を残している。そして影山さんからも、サッカーにおけるお前の評価は聞いている』

 

 

隣に立つ影山総帥が、僅かに口元を上げた。

 

 

『有人くんは、必ずサッカー部の中心になります』

 

 

揺るぎない断言だった。

 

 

『技術だけではありません。試合を読み、人を見極め、人を動かす。12歳で、その資質を有人くんほど備えている子を私は知りません』

 

 

義父さんは、その言葉を聞いた上で俺へ問いかけた。

 

 

『有人。春奈ちゃんを鬼道家へ迎えたいという気持ちに変わらないか?』

 

『はい、もちろんです』

 

 

即答した。

それだけは、一度たりとも揺らいだことはない。

 

 

『ならば』

 

 

義父さんは俺へ、新たな課題を与えた。

 

 

『帝国学園中等部を率いろ』

 

「……帝国を?」

 

『三年間。全国の頂点に立ち続けてみせろ』

 

 

一瞬。

意味を理解するまで、僅かな時間が必要だった。

 

 

「三年間……全国制覇を?」

 

『そうだ』

 

 

一度だけではない。

中学一年、二年、三年。

三年間すべてを全国大会制覇。

 

 

『一度だけ結果を出す人間なら、珍しくない。優れた人材に恵まれれば、偶然でも大きな結果を得ることはある。だが、組織を率いる人間には、継続して結果を出すことが求められる』

 

 

一年経てば、上級生が抜ける。

新しい選手が入ってくる。

チームの形は変わり、人間関係も、戦力も、すべてが同じではない。

 

 

『人材が変化しても、状況が変化しても、それでも組織を勝たせ続ける。それこそが、上に立つ者の義務だ』

 

 

鬼道財閥も同じだ。

一つの成功だけで、永遠に続くわけではない。 時代が変わり、人が変わり、市場が変わる。

その中で、組織を正しく動かし続ける。

義父さんは、帝国学園中等部での三年間を通して、その資質を俺に証明させようとしていた。

そして、その課題にサッカーを選んだ理由も明確だった。

影山総帥だ。

 

 

『帝国でなら有人くんの資質を養うのに充分に適しています』

 

 

そう義父さんへ勧めたのは、影山総帥だった。

十一人がそれぞれ違う能力を持った選手を使い、絶えず変化する試合の中で、相手よりも早く状況を読み、必要ならば配置を変え、役割を変え、一つの結果――勝利へ導く。

個人の能力だけでは絶対に完結しない競技。

 

 

『巨大な財閥と比較すれば小さなものですが、組織を率いる訓練として、これほど分かりやすい教材もないでしょう』

 

 

影山総帥の進言を、義父さんは受け入れた。

なぜなら、俺を六歳の頃から見てきた影山零治が、俺ならできると断言していたからだ。

 

 

『帝国については、私にお任せください。有人ならば、必ずや結果を出すでしょう』

 

 

義父さんにとって、影山総帥は俺の才能を最初に見抜いた人物であり、鬼道家へ俺を推薦した人物であり、幼少期から俺のサッカー教育を担ってきた人物だった。

サッカーに関しては、影山総帥に任せておけば問題ない。 だから、義父さんはこの過酷な課題を俺へ与えた。

 

 

「……分かりました」

 

 

俺は。迷わず頷いた。

 

 

「三年間、全国制覇してみせます」

 

 

そして、春奈を迎えに行く。

そのためなら、どれほど絶望的な条件であろうと、俺は必ず達成する。

そう固く信じていた。

 

 

✤✤✤

 

 

一年目。帝国学園中等部――全国制覇。

二年目。再び――全国制覇。

二年間、俺たちは約束どおり全国の頂点へ立ち続けた。

残るは、あと一年。

中学三年の最後の全国大会さえ制すれば、課題は達成される。

春奈を、ようやく迎えに行くことができる。

そのはずだった。

 

 

3年の全国大会、俺たちは――ピッチに立つことすらできなかった。

帝国学園中等部サッカー部の部員が、重大な問題を起こした。

その処分として、サッカー部は公式戦への出場停止。

三年間全国制覇という課題は、最後の一年、試合に敗れることすらなく、あっけなく途絶えた。

 

 

納得なんてできるはずがなかった。

問題を起こしたのは俺ではない。

俺は規則を破っていない。

帝国学園は、サッカーで負けたわけでもない。 だから、義父さんへ結果を報告した時、俺は初めて食い下がった。

 

 

『義父さん』

 

『何だ』

 

『確かに、全国大会へ出場することはできませんでした。ですが……僕たちは、試合に負けたわけではありません』

 

『それで?』

 

『問題を起こしたのも、僕ではありません!』

 

 

声が、自分でも分かるほど語気を帯びた。

 

 

『それで僕の失敗になるなんて――』

 

『有人』

 

 

その一言で、俺は弾かれたように口を閉ざした。 義父さんは、怒鳴らなかった。ただ、静かに底冷えするような目で俺を見ていた。

 

 

『私は、お前に何を任せた?』

 

「……帝国学園を3年間優勝させろと」

 

『そうだ。私は、お前個人に全国大会で活躍しろと命じたのではない。帝国学園という組織を率い、三年間結果を出し続けろと命じた』

 

『…………』

 

『その組織に属する人間が問題を起こした。その結果、組織全体が活動を停止させられた』

 

 

義父さんの声は、どこまでも冷徹だった。

 

 

『有人。それは本当に、お前と無関係か?』

 

 

何も言えなかった。

 

 

『鬼道財閥を率いる者が、自分は不正をしていないから知らない、などと言えると思うか?

部下が問題を起こし、会社全体が信用を失い、莫大な損害を出した時。

それは、その部下一人だけの責任か?』

 

『……違います』

 

 

喉から、ひび割れた声が出た。

 

 

『上に立つということは、自分だけが正しくあればいいという意味ではない。自分が率いる人間の行動が、組織へ何をもたらすか。

そこまで含めて責任を負うということだ』

 

 

胸の奥へ、鉛のような言葉が沈んでいく。

中学一年で全国制覇した。

二年でも全国制覇した。

三年でも戦えば優勝できたと、今でも思っている。

だが、その考え自体が、義父さんの課題の意味を根本から理解できていなかった証拠だった。

 

 

俺は、ピッチの中しか見ていなかった。

試合に勝たせることしか考えていなかった。

だが、組織を率いるということは、それだけではなかった。

 

 

『三年間、全国制覇を続ける。それが、お前へ与えた課題だった。だが、理由が何であれ、果たせなかった以上――失敗だ』

 

「……はい」

 

 

何も。

言い返すことはできなかった。

 

 

✤✤✤

 

 

本来ならばそこで春奈との約束は、さらに遠ざかっていたのかもしれない。

だが、義父さんは俺の中学三年間すべてを否定したわけではなかった。

 

 

『有人。中学でのお前は、二年間にわたり結果を出し続けた。その点については評価している。だが最後の一年、お前の組織は一人の人間が生んだ綻びによって崩れた。

ゆえに、同じ試験を繰り返すつもりはない』

 

 

一息置いて、義父さんは再び口を開く。

 

 

『次に私が見るのは、継続ではなく完成度だ。

高等部在学中に一度でいい。最初から最後まで一つの綻びも許さぬ組織を作り、フットボールフロンティアを無失点で制覇してみせろ』

 

 

義父さんは、俺のために、もう一度だけ次の機会を与えてくれた。

高校──帝国学園高等部で、もう一度俺自身を証明するための課題を。

 

 

ただ優勝するだけではない。

大会を通して一度もゴールを許さず、全国の頂点へ立つ。

 

 

攻撃。

守備。

選手の指揮。

試合中の判断。

選手の精神状態。

規律。

そのすべてに加え、一点の失点すら、組織のどこかに存在した綻びの結果として扱う。

常軌を逸した厳しい課題だった。

だが、不可能とは思わなかった。

なぜなら――影山総帥がいた。

 

 

『それでよろしいでしょう』

 

 

義父さんへそう告げたのも、影山総帥だった。

 

 

『会長。有人くんには、その程度の課題が相応しい。彼を一段上の人間へ成長させるでしょう。

高等部でも、彼は私が預かります。

有人くんを中心に据えれば、無失点での全国制覇は十分可能です』

 

 

義父さんも、その言葉を疑わなかった。

俺を鬼道家へ推薦し、幼い頃からサッカーを教え、帝国学園中等部で二度の全国制覇へ導いた影山総帥。

 

 

サッカーに関しては、影山へ任せておけば問題ない。

だからこそ、義父さんは俺へもう一度サッカーによる機会を与えた。

俺もまた、疑わなかった。

影山総帥のもとで帝国学園を率いれば、今度こそ、必ず春奈へ辿り着けると。

 

 

✤✤✤

 

 

そして昨年。高等部1年に進級した俺は、帝国学園高等部サッカー部のレギュラーとしてピッチへ立ち、司令塔としてチームの中心を任された。

 

 

中学時代の痛恨の失敗を繰り返さないよう俺は

ピッチの中だけではなく、選手の練習中の態度、選手同士の関係、精神状態、規律、その全てを徹底的に管理した。

以前よりも、遥かに深く選手を見るようになった。

 

 

そして、ピッチへ立てば十一人の能力を最大限に引き出し、帝国は機械のように勝たせ続けた。

 

 

一回戦。二回戦。準々決勝。準決勝。

一失点も許さず、完全無欠のまま、決勝まで辿り着いた。

あと一試合。

あと九十分、ゴールを守り切ればいい。

それだけだった。

それだけで、長かった約束を果たすことができる。

ようやく、春奈を迎えに行ける。

その時の俺は本気でそう信じていた。

 

 

決勝の相手は――木戸川清修高校だった。

俺と同じ1年でありながらチームトップの得点数をあげた豪炎寺修也が居る。

決して侮れる相手じゃない。

それでも俺は、死んでも勝つと誓い、フィールドに立った。

 

 

試合当日。

木戸川清修のストライカー、豪炎寺修也の姿はなかった。

決勝という最も重要な試合を目前にして、チームメイトへ十分な説明を残すこともなく、忽然と。

 

 

当時の俺たちは、理由など知る由もなかった。 だが、残された木戸川清修の選手たちがどんな感情を抱いていたのかは、ピッチへ立てば嫌でも分かった。

 

 

怒り。悔しさ。そして――意地。

自分たちを置いて消えた仲間への怒り。

豪炎寺一人がいなくなった程度で、木戸川清修は終わらないという矜持。

あいつがいなくとも、自分たちは戦える。

自分たちは強い。

そのことを血を吐くような執念で証明するかのように、木戸川清修は最後まで食らいついてきた。

 

 

そして――帝国は勝った。

フットボールフロンティア優勝。

一年生だった俺も、司令塔として全国制覇へ大きく貢献した。

結果だけを見れば、申し分のない大成功だっただろう。

だが、俺にとって、あの優勝は――完全な失敗だった。

 

 

決勝戦。

木戸川清修にたった一つのゴールを許した。

大会を通して、唯一の失点。

その一点によって、俺は再び条件を達成することができなかった。

優勝の翌日、義父さんの執務室で。

 

 

『有人』

 

 

いつもと変わらない、平坦な声だった。

 

 

『全国優勝。おめでとう 』

 

『……ありがとうございます』

 

『一年生で帝国の司令塔を務め、チームを全国の頂点へ導いたことは評価しよう』

 

 

一瞬、期待した。今度こそ、春奈を――。

 

 

『だが』

 

 

その一言で、すべてを理解した。

 

 

『課題は果たされていない』

 

「…………」

 

『私がお前へ求めたのは、全国優勝ではない。無失点での全国制覇だ』

 

 

たった一つの失点。

ほかのすべての試合を無失点で勝ち抜いた。

決勝で勝利し、全国優勝も果たした。

だが、求められた結果は果たせなかった。

 

 

『有人』

 

 

義父さんは、俺を責めるように声を荒らげることはなかった。

ただ、世界の真理を述べるように告げた。

 

 

『完璧とは、九十九を百に近いと評価することではない。百を要求されたのなら、百を出す。一つ欠けた九十九は、どこまで行っても不完全なんだ』

 

 

何も言い返すことはできなかった。

だが、中学時代とは違う。

義父さんから与えられた条件は、高校在学中に一度。 まだ終わったわけではない。

 

 

だからこそ、今年は絶対に失敗できない。

中学では、仲間の一人が起こした問題によって組織そのものが全国大会への道を失った。

高校一年では、決勝で許したたった一つの失点によって、春奈へ伸ばした手が再び届かない場所へ弾き返された。

なら、今年は何一つ取りこぼさない。

一点たりとも許さない。

ピッチの中でも、その外でも。

誰一人として、帝国という組織に余計な綻びを生ませない。

それが、俺が春奈へ辿り着くために必要な、唯一にして絶対の条件だからだ。

 

 

✤✤✤

 

 

そして今日。

目の前に、春奈がいた。

あと少し。本当に、あと少しなんだ。

だから、俺は目を逸らした。

春奈がそこにいると分かっていながら、気づかなかったふりをした。

 

 

春奈がその瞬間、どんな表情を浮かべていたのか。

その後も俺を、どんな目で見つめ続けていたのか。

確かめることさえ、自分には許されなかった。

 

 

今、一時の感情に流されて声をかけてしまえば、それまでだ。

義父さんとの約束を自ら破ることになる。

春奈と再び家族になる未来を、自分自身の手で叩き潰すことになる。

そんなことだけは、絶対にできない。

強く握り締めた掌へ、爪が食い込み血が滲む。 その痛みで、今すぐ妹のもとへ駆け寄りたい衝動を無理やり封じ込めた。

 

 

(許せ、春奈)

 

 

今はまだ、何も話すことはできない。

なぜ俺がお前へ会いに行かなかったのか。

なぜ手紙へ返事を出さなかったのか。

そして今日、なぜお前から目を逸らしたのか。

だが、今度こそ約束を果たした時には。必ず、全部話す。

だから──

 

 

(もう少しだけ、待っていてくれ)

 

 

心の中で血を吐くように呟き、俺は再びモニターへ意識を戻した。

画面の中では、帝国の選手たちが寸分の狂いもない連携を繰り返している。

だが、俺の脳裏へ強く焼きついていたのは、今日の試合で出会った三人の選手だった。

 

 

一人目──豪炎寺修也。

咲山と成神のマークを身体能力のみでねじ伏せ、規格外の跳躍から放ったバイシクルシュートで源田からゴールを奪った。

 

 

二人目──円堂守。

帝国のシュートをどれだけ浴びても、何度無様に吹き飛ばされても、最後までゴール前へ立ち続けた男。

GKとしての実力は源田に遠く及ばない。

 

 

だが、あの異常なまでの諦めの悪さ。

そして周囲を巻き込む熱量。

理屈では測れない何かがある。

決して軽視すべき選手ではない。

そして、3人目――

 

 

「……司場葦考、か」

 

 

静寂に包まれた部屋へ、俺の声が低く落ちた。

第一印象は、ひどく頼りない男だった。

フィジカルは貧弱。

ボールコントロールも拙い。

走力も、キック力も、恐らくあのピッチの中で1番下。

試合の大半を通して、特別目を引くような存在でもなかった。

個人の能力だけを見れば、警戒する価値など微塵もない。

 

 

――しかし、 豪炎寺がピッチへ立った後、雷門が一点を奪ったあの攻撃。

司場葦考は、ボールを受けた瞬間。

まるで、ピッチ全体を遥か上空から俯瞰しているかのように動いた。

 

 

視線の向け方。

身体の僅かな傾き。

ボールの持ち出し方。

たったそれだけで、帝国の守備意識を強引に一方向へ引き寄せた。

そして、自分で意図的に作り出したスペースへ、豪炎寺をピンポイントで走り込ませた。

 

 

偶然。

そう断じることは容易い。

だが、同じく人を動かし、盤面を作る側の人間として。俺の直感が、それを強烈に否定している。

 

 

あの瞬間、ヤツには何かが見えていた。

俺と同じように、計算して選手を動かしたのか。

それとも、全く異なる感覚で、誰も気づいていないピッチの歪みを捉えたのか。

今の段階では判断できない。

だが、ただの偶然として切り捨てるには、あの一連の動きはあまりにも精密すぎた。

 

 

「豪炎寺の実力は想定どおりだったが……円堂守と司場葦考。思わぬ収穫が二つもあったな」

 

 

ソファへ深く身を沈め、腕を組む。

気づけば、俺の口元には微かな笑みが浮かんでいた。 自分の思いどおりに完璧に配置された盤面。その盤面へ突然投げ込まれた、未知の駒。 次に何をしてくるのか読めない。

それが、少しだけ――

 

 

「面白い......」

 

 

その言葉を口にした直後、俺は浮かんでいた笑みを完全に消し去った。

 

 

「......何を言ってるんだ、俺は。俺にサッカーを楽しむ余裕なんてないというのに......」

 

 

課題を2度も失敗している俺に、そんな青臭い感情は必要ない。

影山総帥から教わったサッカー。

義父さんから与えられた苛烈な課題。

そして、その先で待つ春奈。

俺が今やるべきことは、ただ一つ。

帝国学園を、今度こそ完全無欠の絶対王者として全国の頂点へ導くこと。

ただ勝つだけではない。

失点0の無失点優勝をしなければならない。

 

 

一つの綻びも、一つの失敗も絶対に許さない。 それを成し遂げて、義父さんとの約束を果たす。

そして今度こそ、春奈を迎えに行く。

 

 

開かれた窓から夜風が吹き込み、束ねた髪を静かに揺らした。

俺はモニターから視線を外し、夜空に細く浮かぶ三日月を見上げる。

 

 

「春奈……」

 

 

小さく、その名前を口にした。 今日、声に出すことの許されなかった妹の名前。

 

 

「もう少しだ」

 

 

今度は、誰にも届かないほど低く。けれど、鋼のような確かな誓いを込めて。

 

 

「今度こそ、必ずお前を迎えに行く」

 

 

だから。春奈。 あと少しだけ、待っていてくれ。

 

 

✤✤✤

 

 

同じ夜。

音無春奈は、兄に捨てられたのだと思い込み、独り暗闇の中で身体を丸めて震えていた。

鬼道有人は、妹と再び家族になる未来を掴み取る為、目の前にいた春奈から自ら視線を逸らした。

 

 

互いを深く想う気持ちは、全く同じだった。

それでも、兄妹の心は、交わることのない闇夜の中ですれ違っていた。

 

 

第15話 fin

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。