転生したら、必殺技が存在しない世界だった件! 作:スライみゅ
【葦考side】
尾刈斗高校の偵察から一夜が明けた、放課後。
西日が容赦なく差し込む部室には、部屋の隅に積み上げられた段ボールから舞い上がった細かなホコリが、金色の粒となって光の帯の中に漂っていた。
僕たち雷門高校サッカー部は、机の上に置かれた一台のノートパソコンを、息を詰めるようにして取り囲んでいる。
ただでさえ狭い部室だ。
少しでも画面を近くで見ようと半田が前へ出れば、後ろから染岡がその肩を押し、大柄な壁山くんが二人の背中越しに巨体を丸めて首を伸ばす。
栗松くんに至っては、壁山くんの脇腹の隙間からどうにか顔だけを覗かせようと必死になっていた。
その中心で、春奈がマウスへ手を添える。
いつもなら周囲を明るくする彼女のトレードマークの笑顔は、今はなかった。
「皆さん。これが昨日、私と葦考センパイが撮影してきた、尾刈斗高校の練習試合の映像です」
低く、真剣な声でそう告げると、春奈は静かに再生ボタンをクリックした。
小さな内蔵スピーカーから、ザラついたノイズ混じりの音が流れ始める。
泥を蹴るスパイクの鈍い音。
遠くのピッチで交わされる選手たちの不明瞭な声。 マイクが拾った風の音に混じる、荒い息遣い。
画面の中で展開されていたのは、尾刈斗高校が自陣深くまで一方的に押し込まれている試合だった。
スコアボードの表示は、ゼロ対二。 試合時間は既に、後半二十五分を過ぎている。
「おい」
画面へ顔をくっつけそうになっていた染岡が、怪訝そうに細い眉を寄せた。
「これ、試合の途中からじゃねぇか。最初からは撮れなかったのかよ?」
「あ、本当だ。後半の頭どころか、もう終盤に入ってるぞ?」
半田も画面の隅に表示された経過時刻へ目を向け、それから僕と春奈を振り返る。
「なんだ二人とも、試合開始に間に合わなかったのか?」
「ゔっ……」
胸の奥を、目に見えない鋭い指で突かれたような衝撃が走った。
「そ、それは……その......バ、バスが、少し遅れて――」
「センパイが校門の前で駄々をこねたうえに、校舎裏で盛大に道を間違えたからです」
僕の情けない言い訳が完成するより早く、春奈の声が容赦なくそれを両断した。
「春奈ぁ!?」
案の定、染岡と半田の視線が、ギチギチと音がしそうなほどゆっくりと僕へ向けられる。
責めているわけでも、怒っているわけでもない。
ただ、どこか憐れむような、あるいは救いようのない生き物を観察しているような、何とも言えない温度の低い目だった。
ゔゔう……やめて。お願いだから、そんな濁った目で僕を見ないで。
「まあ、遅れた理由は分かったとして……」
半田が小さくため息を吐き、視線を再び画面へと戻した。
「それにしても、普通だな。なぁ染岡?」
「ああ」
染岡も腕を組み直し、鼻を鳴らす。
「どこからどう見ても、普通のどん詰まりサッカーだぜ」
「噂で聞いたような、その、呪いっぽいものも……」
「全然見当たらないでやんすね」
壁山くんと栗松くんも、肩を寄せ合いながら恐る恐る画面を覗き込む。
映像の中では、対戦校が前線から激しくプレスをかけ、尾刈斗を完全にハーフコートに閉じ込めていた。
尾刈斗の選手がボールを持てば、すぐに二人がかりで鋭いチェックが入る。
苦し紛れに出したパスは面白いように途中で奪われ、何度も自陣へと押し戻されていく。
突風が吹くわけでもない。
誰かが突然、倒れるわけでもない。
走る足が動かなくなるような気配さえ、そこにはなかった。
画面に映し出されているのは、拍子抜けするほどに泥臭く、実力差の出た普通のサッカーだった。
「フフンッ......やはり、僕の予想通りでしたね!」
目金くんが待ってましたと言わんばかりにメガネのブリッジを押し上げ、得意げに胸を張った。西日を反射したレンズが、きらりと白く光る。
「尾刈斗の呪いなど、オカルト好きの連中が話に尾ひれをつけただけの、根も葉もない噂だったのでしょう!」
「な、なんだぁ……」
壁山くんの巨体から、目に見えて緊張の糸が抜けた。大きな腹の底から、溜め込んでいた息を排気音のように一気に吐き出す。
「やややっぱり、呪いなんてないんスね!」
「そうだよな! 呪いなんて、そんな非科学的なことが現実で起こるわけないもんな!」
宍戸くんも壁山くんに続いてほっと胸を撫で下ろした。
部室に張り詰めていた冷たい空気が、僅かに緩む。栗松くんの強張っていた肩もすとんと下がり、半田も呆れたように笑みをこぼした。
──その、直後だった。
『――な、なんだこれッッ!!?』
ノイズに塗れた絶叫が、パソコンのスピーカーから爆音で飛び出した。
「「「っ!?」」」
部室にいた全員の肩が、一斉に跳ね上がる。
画面の中で、信じられない光景が起きていた。対戦校の選手たちの動きが、一瞬で、完全に止まっているのだ。
あまりにも唐突な静止だった。
ダッシュをしていた姿勢のまま。 ボールを奪おうと軸足を踏み出したまま。 まるで世界からその人物の時間だけを切り取られたように、彼らはピッチへ縫いつけられている。
けれど、映像のバグによる完全な静止画というわけではなかった。
ユニフォームの下の腕が、ガタガタと恐怖で震えている。
呼吸をする肩だけが、激しく上下している。
顔を真っ赤にさせながら、必死に脚へ力を込めているのが画面越しでも伝わってくる。
それでも、地面に吸い付いた足だけが動かない。
一歩も。ほんの数センチメートルさえも。
彼らの顔は、自分の身体に何が起きたのか理解できない、圧倒的な恐怖に歪んでいた。
尾刈斗の選手たちは、そんな石像と化した相手選手たちの間を、あざ笑うようにボールを転がしながら悠々と進んでいく。
誰にも邪魔されない。
誰も追いかけてこない。
その異常な光景を当然の権利として受け入れているかのように、不気味な薄笑いを浮かべながら、最後は恐怖に目を血走らせて硬直したゴールキーパーの横へ、あてつけのようにゆっくりとボールを転がし、ゴールネットを揺らした。
「み、みんな急に止まったぞ!?」
円堂が、画面に額をぶつけそうなほど身を乗り出す。
「音無! 今のが、あの噂の呪いなのか!?」
「はい......」
春奈は静かに頷いた。
けれど、マウスを握る小さな指先には、白くなるほどに僅かな力が込められている。
「少なくとも、他校から聞いていた
春奈は呪わしい映像から目を逸らさず、淡々と、しかし警告するように続ける。
「尾刈斗の選手は、誰一人として相手に接触していませんでした。ですが、迫られた相手選手たちは全員、突然金縛りにあったように足が動かなくなっています」
部室の中から、完全に音が消えた。
画面のスピーカーから聞こえる、対戦校の控え選手たちの悲鳴だけが、やけに生々しく響いている。
「まさか、本当に呪いが……」
栗松くんの顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのがわかった。
「あったなんて……!」
「「ひいいいいいいッッ!!」」
壁山くんと栗松くんの悲鳴が重なり、部室の天井を揺らす。
それを引き金にするように、一年生たちの間に爆発的な動揺が広がっていった。
目金くんは先ほどまでの得意げな表情を綺麗に消し去り、間抜けに口を半開きにしたまま完全にフリーズしている。
少林寺くんも無意識に自分の両腕をきつく抱きしめ、影野の長い前髪の下から覗く口元さえ、恐怖で僅かに引きつっていた。
目に見えない、得体の知れない怪異が、じわじわと部室の空気を侵食していく。
その時だった。
――バンッ!!
破裂するような音が響き、円堂の両手が机を力強く叩きつけた。
ノートパソコンの筐体が僅かに跳ね、春奈が慌てて両手でディスプレイを押さえる。
「呪いだろうが何だろうが、関係ない!!」
勢いよく立ち上がった円堂が、狂おしいほどに眩しい太陽みたいな目を輝かせた。
さっきまで部室を支配していたあの冷たい澱みが、彼のたった一言の熱量によって綺麗に押し流されたような気がした。
「呪いが何だっていうんだ! 本当にそんなものがあったとしても、俺たちがグラウンドでやることは一つも変わらないだろ!!」
「そ、それはそうでやんすが……」
栗松くんがカメのように小さく身体を縮める。
「でも、本当に動きを止められたら、勝ち目なんて一ミリもないっスよ……」
壁山くんも、泣き出しそうな顔で自分の太い足へ視線を落とした。
「何か、対策を考えないと……まともに試合にならないッス……」
「……あいつらの何が、
風丸が腕を組み、鋭い眼差しで静止した画面を睨みつける。
円堂の根性論だけでは埋められない脅威を、冷静に見極めようとしている顔だった。
「豪炎寺さん……何か、何か方法はないでしょうか?」
少林寺くんが、藁にも縋るような悲痛な目を豪炎寺へ向ける。
豪炎寺くんはしばらく腕を組んだまま画面を見つめていたが、やがて、静かに首を横に振った。
「……悪いが、映像を見ただけで今すぐ出せる対策はない」
「豪炎寺さんでも……っ」
「だが──」
落胆しかけた少林寺くんの言葉を遮るように、豪炎寺の低い声が鼓膜を叩く。
「呪いなんて非科学的なものが、本当に存在するとは思えない」
その声には、微塵の迷いもなかった。
「相手の動きを止める、何かしらの『原因』が必ずあるはずだ。動けなくなる瞬間、そのきっかけが」
「だったら、試合の中でそいつを見つければいい!」
円堂が、すぐさまその言葉を笑顔で引き継いだ。
「相手がどんな手を使ってきても、俺たちが最後まで諦めなきゃ、絶対に何とかなる!」
「でも、もし全員動かなくなったら……!」
「俺が絶対に、ゴールを守ってみせる!」
円堂は自分の胸を、ドンと拳で力強く叩いた。
「何度攻め込まれたって、全部俺が止めてやる! だからみんなは、点を取ることだけを考えてくれ!!」
論理的な根拠なんて、どこにもない。
呪いの正体も、それを打破する方法も、僕たちは何一つ分かっていないままだ。
それなのに、円堂が一切の曇りなく言い切る姿を見ていると、不思議と「本当に何とかなるんじゃないか」という奇妙な錯覚に囚われてしまう。
「へっ。だったら話は単純だな!」
壁際で腕を組んでいた染岡が、不敵に口元を吊り上げた。
「円堂が後ろで全部守って、俺が点を取る。それだけだろ!」
「染岡……?」
染岡はカゴに入ったボールを取り出した。
手のひらの上で軽く弾ませ、ぴたりと片手で掴み取る。
その横顔に、先ほどまで部室を覆っていた映像への恐怖は微塵もなかった。 そこにあるのは、昨日までの猛特訓で掴みかけた、自分だけの新しいシュートへの確かな手応え。
そして、それを実戦で早く試したくて仕方がないという、野生的な高揚感だけだった。
「昨日のシュートを完璧にモノにしちまえば、尾刈斗の呪いなんざ関係ねぇ」
染岡はボールを小脇へ抱え、獰猛に歯を見せて笑う。
「怪しげな術を使われる前に、俺が何点でもぶち込んで、あいつらの戦意をへし折ってやるよ」
「随分な自信だな......」
半田が、驚き半分、呆れ半分といった様子で呟く。
「当然だ!」
染岡はフンと鼻息を鳴らし、豪快に胸を張った。
「今の俺なら、帝国相手にだって点を取れる自信がある!!」
染岡は勢いよく踵を返し、部室の重い鉄扉へと向かう。
「俺は先にグラウンドで練習してるぜ。1分でも早くあのシュートをモノにしてぇからな!!」
「おう! 俺たちもすぐ行くから、先に行っててくれ!」
円堂が満面の笑みで送り出す。
「おう、待ってるぜ!」
染岡は扉を開けると、最後に振り返って親指で自分の胸を指した。
「明日の試合、俺が全部決めてやるっ!!」
そう言い残し、嵐のように意気揚々と部室を出ていった。
バタンッ、と大きな音を立てて扉が閉まる。 しばらくの間、部室には誰も口を開かなかった。コンクリートの廊下を遠ざかっていく、力強いスパイクの足音だけが響いている。
「全部決める、か……。なんか張り切り過ぎてないか? 染岡のやつ......」
半田が、やれやれと肩を竦める。
「いいじゃないか! あいつがああ言ってくれるだけで、頼りになるってもんだ!!」
円堂は染岡が去った扉をいつまでも見つめながら、本当に嬉しそうに白い歯を見せて笑った。
昨日まで、自分だけの武器を求めて、泥に塗れながら必死にもがいていた染岡。
そんな彼が今は、何の後悔も迷いもなく「俺が決める」と言い切っている。
少し自信過剰になっている気はする。
いや、客観的に見れば、かなり調子に乗っている。
それでも。 あの迷いのない、熱を帯びた背中は、昨日までの彼よりずっと大きく、頼もしく見えた。
「よし!」
円堂がパンと手を叩き、勢いよく立ち上がる。
「俺たちも負けてられないぞ! 練習だ!!」
「「「「「おう!!」」」」」
円堂の号令に、部員たちが腹の底から力強く応じた。 部室を満たしていた不気味な恐怖は、完全には消え去っていない。それでも、さっきまでのようにつま先を見て怯えている者は、もうここには一人もいなかった。
✤✤✤
運命の翌日。
今にも泣き出しそうでありながら、最後の一滴だけを頑なに堪えているような、どっちつかずの空。
湿気を含んだ生温い突風だけが、雷門高校の土のグラウンドをゆっくりと横切っていく。
僕たちサッカー部は、試合開始を目前に控え、それぞれの方法で最後の準備を進めていた。
念入りにグローブの締め具合を確かめる円堂。 静かに腰を下ろし、黙々とスパイクの紐をきつく結び直す豪炎寺くん。
その少し離れた場所では、染岡が昨日から何百回と繰り返してきたであろうシュートの感触を反芻するように、足元のボールを小刻みに転がしていた。
「よし……」
染岡はボールをわずかに斜め前へと押し出し、軸足を踏み込んで右足をコンパクトに振り抜いた。 強烈なインサイドの回転がかかったボールが、鋭い弧を描いてゴールの右上隅へと吸い込まれていく。 バサッ、と乾いたネットの音がグラウンドに響いた。
「へっ。悪くねぇ」
染岡は満足そうに鼻を鳴らす。
一昨日まで彼を覆っていた焦燥感は完全に消え去り、纏っているオーラがまるで違っていた。
シュートがネットを揺らすたびに、彼の足元に自信という名のレンガが積み上がっていく。
いや、今の彼にとってそれは、自信というよりは「獲る」という純然たる確信に近いのかもしれない。
今日の自分なら、どんな呪いがあろうと、誰が相手だろうとゴールを奪える。
本気でそう信じている漢の顔だった。
「染岡、調子いいみたいだな。その調子で今日は頼むぞ」
「ああ、分かってるよ」
風丸に声をかけられ、染岡は転がってきたボールを足の裏でピタリと止める。
そのまま、少し離れた場所に立つ豪炎寺くんへ鋭い視線を向け、挑発するようにニヤリと口元を吊り上げた。
「今日のゴールは全部、俺がもらうからな。邪魔すんじゃねぇぞ」
「......」
豪炎寺くんは、その挑発に表情一つ変えず、ただ静かに沈黙を守る。
「チッ......」
2人の様子を見ていた僕は、これから始まる試合が心配になっていた。
(試合が始まる前から、これかぁ……)
今回ツートップを組む二人が、険悪な空気を纏っていた。
凄まじい不安が胃のあたりをチクチクと刺すのを感じながら、僕は改めて今日のフォーメーションを頭の中で反芻した。
今日、前線を任されるのは染岡と豪炎寺くんの二人。
個人の爆発力だけを見れば、間違いなく今の雷門で最も得点を期待できる、最強の二枚刃だ。
しかし、この二人が歯車を噛み合わせられるかどうかは、まったく別の次元の話だった。
先日の帝国学園戦で試した、攻撃時に可変してスリートップへと変化する、あの複雑なシステムは今回は採用していない。
ポジションを入れ替える流動的なタイミングも、ボールをロストした後の攻守の切り替えも、今の僕たちには難解すぎたからだ。
だから今回、僕たち雷門は攻守で形を崩しにくい4-4-2を選んだ。
前線には染岡と豪炎寺くんの2人を置き、
僕は左サイドハーフに入り、その背後を左SBの風丸が支える。
チーム随一のスピードを持つ風丸は、守備だけでなく、左サイドを一気に駆け上がり、攻撃へ厚みを加える役割も期待されていた。
その風丸と、僕が左側の縦のラインでコンビを組む。
どう連動するかについては、昨日の居残り練習で一応話し合った。
……話し合いはしたけれど。
本当に僕なんかに務まるのかと聞かれたら、胸を張って頷ける自信なんて、これっぽっちもなかった。
「司場」
不意に真横から鼓膜を揺らされ、ビクッと肩が跳ねる。 振り向くと、風丸が軽く足首を回しながら、すぐ隣に立っていた。
「昨日話した戦い方、頭に入ってるよな?」
「い、一応……は」
「ははっ。一応じゃ困るんだけどな」
風丸は困ったように、しかし僕の緊張をほぐすように優しく笑った。
「今日は相手の出方を見て、俺も積極的に高い位置まで上がるつもりだ。左サイドは、俺たち二人で崩すぞ」
「うぅ……やっぱり、僕には自信がないよ、風丸……」
「おいおい、弱気だな。お前はあの帝国を相手に、豪炎寺へ完璧なラストパスを通した張本人だぞ?」
「あ、あれは豪炎寺くんのフィジカルと技術が凄かったからだよ! 僕は本当に、あの時何となく動いただけというか……」
「何となく?」
風丸が少し意外そうに、綺麗な眉をピクリと上げた。
「うん……」
自分でも、あの瞬間のことを上手く言語化できないでいた。
円堂が必死で止めたボールを受け取り、前線へボールを運びながら、ふと顔を上げたあの刹那。
不意に、耳の奥からスタジアムの喧騒や、余計な雑音がすべて消え去った。
目の前を走る選手だけじゃない。
少し離れた逆サイドにいる味方の位置も、自陣に急いで戻る帝国の選手たちも、誰もいないただの『空間』の広がりまでもが、一枚の絵画みたいに、脳内にボヤけ気味で浮かび上がったんだ。
一つ一つの動きを、理論やセオリーで計算していたわけじゃない。
誰がどこへ走れば、相手の守備陣がどう崩れるのか。そんなことを思考する余裕なんて、あの極限状態の僕にはなかった。
そもそも頭を使うのは苦手な分野だし。
ただ。
「ここへ動けば、何かが起きる気がする」
「このタイミングで、ここにボールを出せば、点に繋がる気がする」
そんな、異様な直感が、突然脳髄の奥底にパッと閃いた。
だから、その閃きに従って身体を動かした。
感じた場所へ、ただボールを送り出した。
本当に、それだけだった。
「何ていうか……ここに出せば点を取れそうだなって直感したことを、そのままやっただけなんだよ」
「点を取れそうだと思ったから、蹴った?」
「うん。でも、どうしてあの瞬間そう思ったのかは、僕自身にも全く分からないし……今、もう一度同じことをやれって言われても、できるかどうか……」
僕は情けなく眉を下げて笑い、自分のスパイクのつま先へと視線を落とした。
「本当に、奇跡的に上手くいっただけだと思う。パスだって少し浮いちゃったし、豪炎寺くんじゃなかったら絶対に繋がってなかったよ」
「たまたま、ねぇ……」
風丸は少し顎に手を当て、考えるように僕の横顔を見つめた。
「でもお前はあの修羅場で、誰よりも早く、誰よりも正確に『チャンスが生まれる瞬間』に気づいたんだろ?」
「それは……そうかもしれないけど」
「理屈は説明できなくても、そこへ出せば点につながると身体が直感した」
「う、うん……」
「だったら、今日もその『感覚』を信じればいいさ」
あまりにも呆気なく、簡単に言いきられて、僕は思わず目を丸くした。
「そ、そんなアバウトなものでいいの!? 偶然、一回勘が当たっただけなんだよ!?」
「少なくとも、難しく考えすぎて足が止まるよりは、よっぽどいいと思うぞ?」
「うっ……」
痛いところを突かれ、何も言い返せなくなった。
風丸は視線を僕から外し、グラウンドの左サイド、白線が引かれたタッチラインへと向けた。
「俺が前線へオーバーラップした時も、難しく考えようとしなくていい。
俺にパスを出せばチャンスになる、そう感じたら出せ」
「でも、もし出したら危ないかもって思ったら……?」
「その時は出さなければいいさ。
俺が走ったからって、必ず使わなきゃいけない決まりはないんだからな。お前がその目で見て、感じた通りに選択しろ」
「そ、そんな曖昧な、その場の空気みたいな決め方でいいの……?」
「その『曖昧な感覚』で、あの帝国から一点をもぎ取ったんじゃないか」
風丸はそう言って、僕の肩をポンと軽く叩いた。
「俺は、
真っ直ぐに僕の瞳を射抜く彼の瞳には、一点の曇りも迷いもなかった。
「司場は、自分が感じたことを、そのまま信じればいいんだ」
「風丸……」
「これでもお前のこと、頼りにしてるんだからな。頼むぜ!」
それだけを告げると、風丸は後ろで1つに結んだ長い髪を滑らかに靡かせながら、ウォーミングアップに戻っていった。
僕はそのスマートな背中を、しばらくの間、呆然と見送ることしかできなかった。
自分が感じたことを、自分自身で信じる。
それは、サッカーの技術も経験も足りない、自分に自信の持てない僕にとって、何よりも高くて険しいハードルだった。
それでも。
風丸が、僕のあの曖昧な直感を信じて走ってくれると言うのなら。
せめて、その信頼だけは裏切りたくない。
そう、強く心に決めた。
✤✤✤
「……来たぞ」
僕たちは弾かれたように、一斉に校門の方角へと顔を向ける。
尾刈斗高校の選手たちが、陽光の遮られた曇天の下を、ゆっくりとこちらへ向かって歩いてきていた。
先頭を歩くのは、仕立ての良いスーツを不気味に着こなした細身の大人。
事前に春奈が共有してくれた偵察データにあった写真の通りだ。
彼が尾刈斗高校サッカー部の監督、地木流監督。
そして、その後ろには、薄紫色の逆立った髪を揺らし、一つ目の紋様が不気味に描かれたバンダナで目元を覆った選手が続く。
彼もデータにあった。
1年生ながらキャプテンを務める、尾刈斗高校サッカー部のFWの幽谷博之。
さらにその背後には、顔の半分を痛々しい包帯で覆い尽くしたMFの木乃伊 魔美や、高校生とは思えないほど異様に肥大化した体格が特徴のDFの屍藤美が連なっていた。
ただユニフォームを着て歩いているだけなのに、彼らの歩みは、どこか陰惨な葬列を思わせた。
誰一人として、試合前の高揚感を楽しそうに話している者はいない。ただ全員が、青白い顔に薄気味悪い笑みを浮かべながら、こちらを値踏みするように見つめていた。
(うぅ……怖わぁ……というか、近くで見ると余計に不気味だぁ......)
地木流監督が、僕たちのベンチの前でピタリと足を止める。
「初めまして。雷門高校サッカー部の皆さん」
耳当たりの良い、非常に愛想のいい声音だった。けれど、笑っているのは剥き出しになった口元だけで、その瞳の奥は一切笑っていない。
「私、尾刈斗高校サッカー部監督の、地木流灰人です。本日は急な申し出を受けていただき感謝します。どうぞ、よろしくお願いしますね」
「え、えぇ......どうも……」
冬海先生は地木流監督の放つ不気味な威圧感に完全に気圧されながらも、引きつった笑みで手を握り返した。
冬海先生との挨拶を終えた地木流監督の視線は、次、僕たちの後ろに立つ一人の男へと移り変わった。
「君が、豪炎寺修也くんですね。噂通りの素晴らしい風格だ。とても高校生とは思えない存在感だ」
「……どうも」
豪炎寺は短く、極めて事務的に応じる。
「帝国学園との練習試合での、君の素晴らしいシュート、ビデオで見せてもらいましたよ。全く持って、震えるほど素晴らしかった」
地木流監督が、粘つくような声で言葉を重ねた。
「
まるで、このチームには豪炎寺くん以外、存在していないかのような口ぶりだった。
「ちょっと待てッ! アンタ達の対戦相手は豪炎寺だけじゃねぇ!
染岡が激昂し、声を荒らげて割り込んだ。
しかし、地木流監督は眉一つ動かさず、フッと鼻で笑った。
まるで、羽虫の羽音をあしらうかのような、見下しきった態度だった。
「はぁ? ・・・フッ、これは面白い冗談を言う。帝国学園との試合は我々も精査させてもらいました。結果的に帝国に勝利したようですが、あれは帝国が途中で試合を放棄したことで、棚ぼたで勝利を得ただけの、ただの『奇跡(笑)』でしょう。そんな運頼みの弱小チームに、我々は一ミリの興味も持っていません」
グラウンドの空気が、ピシッと音を立てて張り詰めた。
「何だと……てめぇ……」
染岡の額に、青筋がドクドクと浮かび上がる。
「我々はただ、一級品のストライカーである豪炎寺くんと戦ってみたいからこそ、わざわざ練習試合を申し込んだのです。豪炎寺くん以外の皆さんは、せいぜい彼の足を引っ張って、我々の興を削がないように気をつけてくださいね」
染岡の右足が、一歩前へ激しく踏み出された。
「てめぇ……!」
「よせよ、染岡!」
円堂が、すぐさまその逞しい肩を後ろから強く掴んで制止する。
染岡は地木流監督を蛇のように睨みつけたまま、拳が白くなるほど強く握りしめていた。けれど、円堂の制止の手を無理に振り払うことはしなかった。
張り詰めた数秒の沈黙の後。
染岡は、歪んだ口元をゆっくりと、しかし信じられないほど不敵に吊り上げた。
「......言ってくれるじゃねぇか」
怒りを限界まで押し殺した、地を這うような低い声。
「その減らず口が、試合が終わった後も同じように叩けるかどうか……ピッチの上で徹底的に試してやるよ」
「フフフッ……」
地木流監督は、愉快そうに肩を揺らす。
そして、背後にいた尾刈斗の選手たちは一切の足音を立てずに自分たちのベンチへと去っていった。
僕は遠ざかっていく彼らの薄紫色の背中を見つめる。
怖い。
本当にこんな奴らと試合をして、無事に帰れるのだろうかと、今でも本気で思っている。
だけど、雷門のみんなを、僕たちの繋いできたサッカーを、豪炎寺くんのただの『オマケ』みたいに侮辱されたことが、自分のこと以上にどうしようもなく腹立たしかった。
隣を見ると、あれほど怯えていた壁山くんと栗松くんを始め、半田も、風丸も、瞳の奥に静かな怒りの炎を灯していた。
誰一人として、今の地木流の言葉を、聞き流している者はいなかった。
「みんな!」
円堂がパンと大きく手を叩き、全員の視線をその熱い瞳に集めた。
「あいつらに何を言われたって、俺たちがグラウンドでやることは変わらない!」
円堂は、尾刈斗のベンチへと真っ直ぐに視線を射抜く。
「俺たちは、俺たちのサッカーを全力でやる! それであいつらに勝って、フットボールフロンティアへ行くんだ!!」
「……おうよ! 円堂の言う通りだぜ!」
染岡が、誰よりも鋭く吼えるように応じた。
続いて、風丸が、半田が、そして一年生たちが、少し遅れて大きな声を上げる。
「よーし! アップの続きだ!」
円堂の弾けるような声に背中を押されるように、僕たちは再びグラウンドへと散っていった。
23話fin