雄英選抜課程:THE SELECTION ―泥と弾丸の三年― 作:鯖缶詰
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。
雄英高校の正門を潜った一万人の若者に与えられたのは、最新のガジェットでも華美なコスチュームでもなかった。支給されたのは、無機質な紺色のBDU(戦闘服)。それを着た瞬間、彼らは「受験生」から、ただの「番号(ナンバー)」へと成り下がった。
「貴様らはゴミだ! ヒーローという輝かしい名前を汚しに来た、救いようのないクズ共だ!」
広い運動場に響き渡るブラドキングの咆哮。その足元では、数千人の候補生たちが泥に塗れ、腕立て伏せとディップスの無限地獄に喘いでいた。
「腹筋を止めんな! 足を浮かせろ! フラッターキックだ! 貴様らの腹は飾りか!」 相澤消太の冷徹な声が、スピーカー越しではなく、直接鼓膜を刺す。 教官たちは、蛇口に繋がれたホースから容赦なく冷水を散水し、候補生たちの頭から浴びせかけた。低体温症寸前の震えと、肺に入る水の苦しみ。
「ふざけんじゃねぇ……っ、こんなの、何の試験だよ!!」 爆豪勝己が、泥水を跳ね上げながら相澤を睨みつけた。その両手からは苛立ちの火花が散る。だが、相澤は一瞥もくれない。
「文句があるなら、あそこにある鐘を鳴らして帰れ、爆豪。ここは貴様の『個性』を褒める幼稚園じゃない。一万人のうち、残るのは40人だ。辞めたくなったら今すぐ辞めろ。貴様の代わりはいくらでもいる」
その「辞めていい」という言葉は、救いではなく、彼らの自尊心を切り刻む凶器だった。 一時間ごとに、一人、また一人と心が折れ、泥の中に膝をつく。 「ごめんなさい、もう無理……」 泣きながらBDUを脱ぎ捨てるモブ生徒たち。彼らは気づいたのだ。自分たちが憧れたのは「平和」であり、その平和を守るための「地獄」に耐える覚悟などなかったことに。
だが、その絶望の澱(おり)の中で、光を失わない一団があった。
「……緑谷、くん……。呼吸、止めるな……。吐き出せ……!」 フラッターキックの振動で腹筋が千切れそうな飯田天哉が、隣の緑谷出久に声を絞り出す。
「……わかってる……。飯田くんこそ、眼鏡が……曇ってるよ……。みんな、頑張ろう……! 僕たちは、ここで終わるわけには……いかないんだ!」 緑谷の震える声に、周囲の仲間が応える。
「そうだぜ! ヒーローが、水かけられたくらいで、負けられるかよ……!」 切島が、硬化の個性すら使えない極限状態で歯を食いしばる。 「……熱が、要るなら……俺の左側から……持っていけ……」 轟が、自身の体温を微かに周囲に分け与え、仲間の低体温症を防ごうと静かに抵抗する。
教官たちの罵声はさらに激しさを増し、屈辱的な言葉が投げかけられる。 「見ろ、そこの女はもう死体のような顔だ! ヒーローごっこは終わりだ、ママの元へ帰って温かいミルクでも飲んでろ!」 しかし、麗日お茶子は泥水を吐き出し、教官を真っ直ぐに見据えて笑ってみせた。
「……ミルクより……合格通知が、欲しいんで……っ!」
その士気の高さ。 モブ生徒たちが屈辱に耐えかねて去っていく中、後に「A組・B組」と呼ばれることになる彼らだけは、互いの視線を交わし、目に見えない絆で繋がっていた。 エリートとは、天賦の才を持つ者ではない。他人が「屈辱」と感じる場所を「通過点」に変えられる狂人のことを指すのだ。
冷たい水が、夕暮れの運動場を永遠に濡らし続けていた。
選別試験の最終局面。肉体の限界を超えた候補生たちに突きつけられたのは、単なる運動能力の誇示ではなく、ヒーローとしての「業」を背負う覚悟を問う、残酷な持久走でした。
【選別課程:最終局面――「命の重み」】
五日間におよぶ地獄のセレクション、その最終種目は、疲労困憊の候補生たちにさらなる絶望を突きつけた。
「……なんだ、これ」
上鳴電気が、目の前に置かれた約30キロのダミー人形を見て、力なく呟いた。 人形は子供のサイズを模しており、ズッシリとした重みと、妙にリアルな質感が腕に伝わる。
「最終課題だ。その『子供』を背負い、指定されたコースを完走しろ」 相澤消太の声には、もはや罵声すら混じらない。ただ、絶対的な事実だけを告げていた。 「途中で人形を落とす、あるいは引きずることは禁止だ。それをやった瞬間、お前はその子供を見捨てたものと見なし、即刻失格(ドロップアウト)とする」
一万いた候補生は、すでに数百人にまで減っていた。しかし、この「30キロ」という数字は、限界を超えた彼らの肉体にとって、鉛の塊に等しかった。
「い、行こう……みんな……!」 緑谷出久が、泥と汗でボロボロになった背中に人形を括り付け、最初の一歩を踏み出す。 ぐらりと視界が揺れる。膝が笑い、足の裏の皮が剥ける。
コースの至る所には、脱落者たちの姿があった。 「……もう、無理だ……。これ以上持てない……!」 ある候補生が、泣きながら人形を地面に置いた。その瞬間、教官たちの冷徹な宣告が飛ぶ。 「ゼッケンを外せ。お前は今、救えるはずの命を捨てた」
その言葉は、肉体の痛みよりも深く、彼らの心を抉った。 「あきらめていい」という悪魔の囁きと、「見捨てられない」というヒーローの矜持。 モブ生徒たちは、自分の命と他者の重みの天秤に耐えきれず、次々と「重荷」を下ろしていった。
「っざけんな……! こんな布の塊に、俺が……負けるかよ……!!」 爆豪勝己は、歯茎から血を流しながら人形を担ぎ、前を走る緑谷の背中を睨みつけていた。 普段なら「邪魔だ」と蹴散らすはずの彼が、今、必死に人形の腕を握りしめている。 彼にとって、この人形は「勝利」そのものだった。これを捨てることは、己のプライドを捨てることと同義だからだ。
「……飯田くん、……代わってあげたいけど……ごめん……今は、自分の……精一杯で……っ」 麗日お茶子は、個性の限界で指先が震え、今にも嘔吐しそうなほど顔色を悪くしていた。 それでも、彼女は人形を抱く力を緩めない。その腕の中にある「重み」こそが、彼女がヒーローを目指した原点だからだ。
「……麗日くん、……気にするな……。我々は、一人ではない……!」 飯田天哉が、エンジンが焼け付くような音を立てながらも、彼女と歩調を合わせる。
コースの脇では、ブラドキングが拡声器を構え、歩みを止める者たちに冷水を浴びせながら吼え続けている。 「どうした! その子供の命は、貴様らの都合で軽くなるのか! ヒーローは現場を選べない、被災者の重さも選べない! 背負え! 死んでも離すな!」
それはもはや試験ではなく、宗教的な儀式にすら見えた。 一歩、また一歩。 自分と他人の境界が曖昧になるほどの疲労の中で、彼らが背負っているのは、単なる30キロの綿ではない。 「自分を信じて待つ、見知らぬ誰かの未来」そのものだった。
最後の一人がゴールラインを越えたとき、運動場に響いたのは歓喜の叫びではなく、人形を抱きしめたまま崩れ落ちる、泥だらけの英雄たちの嗚咽だった。
冷たい雨と泥、そして絶え間ない罵声に支配されていた運動場に、ようやく静寂が訪れました。30キロの「命の重み」を背負い抜き、ゴールラインを越えた40人の少年少女たち。そこには、先ほどまでの冷酷な教官たちの姿はありませんでした。
【選別課程:終局――ようこそ、英雄の揺り籠へ】
最後の一人が震える足で白いラインを越えた瞬間、張り詰めていた空気がふわりと解けた。
「……終わった。終わったんだ……」
誰かの呟きと共に、40人の精鋭たちは、抱きかかえていたダミー人形と共にその場に崩れ落ちた。もはや指一本動かす力も残っていない。
そんな彼らに歩み寄ったのは、柔らかな白衣を纏ったリカバリーガールと、湯気の立つ巨大な鍋を抱えたランチラッシュ、そして、先ほどまで鬼の形相で罵声を浴びせていた教師陣だった。
「よく頑張ったねぇ、お疲れ様。さあ、まずはこれを。体温を上げなきゃいけないよ」
リカバリーガールが一人ひとりに分厚い保温毛布を掛け、傷だらけの手にそっと触れる。ランチラッシュが配る、野菜の甘みが溶け出した温かいスープの香りが、凍てついた五臓六腑に染み渡っていく。
「……あったかい……っ。……あ、あ、うぅ……」
麗日お茶子は、スープのカップを両手で包み込んだまま、堪えきれずに大きな涙をポロポロと落とした。隣では、泥だらけの爆豪勝己が毛布に包まり、震える手でスープを啜っている。彼は何も言わず、ただひたすらに温かさを噛み締めていた。
そんな彼らの前に、相澤消太が立った。その手にはもう、冷水ホースも拡声器もない。
「……お前たちは、5日間一度もその手を離さなかった」
相澤は、地面に転がっているダミー人形たちを見つめ、それから40人のボロボロな姿を真っ直ぐに見据えた。
「これはただの重りじゃない。お前たちが背負ったのは、理不尽な世界で助けを待つ者の命だ。もしお前たちが今日と同じようにその手を離さないのなら、救われる未来が必ずある」
相澤の声は、いつになく静かで、温かかった。
「……お前たちは今日、人を一人救った。胸を張れ」
その言葉は、5日間の地獄を全肯定するものだった。 「あ、ああああ……っ!」 緑谷出久は、顔を覆って嗚咽を漏らした。飯田天哉は、眼鏡を外して顔を歪め、子供のように泣きじゃくった。切島も、上鳴も、八百万も、轟も。
エリートとしての誇りでも、合格の喜びでもない。ただ、「誰かのために限界を超えた」という事実を認められた救いが、彼らの魂を震わせていた。
「ようこそ、雄英高校(ヒーローアカデミア)へ。地獄はここからだが……お前たちなら、やり遂げるだろう」
泥だらけの40人の顔は、夕闇の中で誇らしく輝いていた。彼らはもう、ただの志願者ではない。一度、命を背負い抜いた「英雄の卵」たちだった。
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。