1. 脳内ダウンロードの不協和音
朝、目が覚めると同時に、脳の奥で「ピロン」という幻聴が聞こえた気がした。
それと同時に、前世の記憶の一部が、まるで長年放置されていた圧縮ファイルが解凍されるように流れ込んでくる。
(……あぁ、そうか。接待の翌日は、ウコンの力じゃなくて、まず白湯を飲むんだったな……)
28歳と数ヶ月。俺の「前世復旧率」はおよそ85パーセント。
この世界のシステムは実に意地悪だ。4歳で転生した直後は、ひらがな(この世界の共通文字)を覚えるので精一杯だった。10代の頃は「中学生並み」の自意識と、前世の「課長に詰められた記憶」が混ざり合い、情緒不安定でキレ散歩を繰り返した。
そして今。俺の脳には、前世で培った「高度な事務処理能力」と「汚い大人の交渉術」が戻りつつある。しかし、まだ完全ではない。
あと15パーセント。そこに何が隠されているのか。おそらくは、極限状態での判断力や、土壇場での「図太さ」といった、30代の社畜が最後に手にする「悟り」に近い何かだろう。
「……頭が重い。あの家令、安い酒を飲ませやがって」
昨夜のガバルド子爵家での交渉は、成功に終わった。
単位の書き間違いという、ギルド側の一方的な過失。それを「子爵様の広大なる慈悲に甘える形での数値調整」という名目にすり替え、さらには「次回の魔石優先納品」という飴玉を提示することで、契約の巻き戻しに成功した。
これこそが、剣や魔法では解決できない、事務員という名の専門職の戦いだ。
2. ギルド・エルムドの裏事情
俺が働く「エルムド冒険者ギルド」は、この街の経済の心臓部だ。
異世界ファンタジーといえば、冒険者がドラゴンを倒して一攫千金、というイメージがあるが、現実はもっと泥臭い。
魔物を倒せば、その死骸の解体、素材の品質鑑定、流通経路の確保、そして税金の計算が発生する。
勇者が一振りで街を救っても、その後の「瓦礫の撤去費用」と「被害者への補償金」の計算が合わなければ、街は財政破綻して滅びる。
今のこの世界は、英雄の時代から「管理の時代」へと移行しつつあった。だからこそ、腕っぷしの強い冒険者よりも、計算の早い事務員が重宝される。
「おはようございます、ゼン主任。昨夜は……大変だったみたいですね」
出勤すると、昨日の「知らないふり」を決め込んだ同僚たちが、気まずそうに声をかけてくる。
彼らも悪い奴らではない。ただ、組織で生きる「小市民」なのだ。マスターの娘という劇薬に触れて、自分のキャリアに傷をつけたくないだけだ。
「ええ、二日酔いです。仕事に戻りましょう」
俺は素っ気なく返し、自分の席に座った。
そこには、昨日までガタついていたはずの椅子が、完璧な角度で調整され、さらに新しいクッションまで置かれていた。
「……おはよう」
隣の席から、硬い声がした。
ミリアだ。
彼女は銀髪をポニーテールにまとめ、昨日までの「ふんぞり返った態度」を少しだけ崩して、机に突っ伏すようにして書類を整理していた。
「おはようございます、ミリアさん。デスクの修理、ご苦労様でした」
「……当たり前でしょ。言われた通りにやっただけよ」
彼女は俺を見ようとしないが、耳の先が少し赤い。
昨日、俺が泥を被って子爵家へ向かった後、彼女は一人でこの事務室に残り、俺の指示通り「基本」の作業を繰り返していたらしい。
3. 第二の教育:悪意の選別
俺は昨日のお返しとばかりに、彼女の前に新しい資料の山を置いた。
今度は書き写しではない。
「今日の課題です。この一週間に提出された『冒険者の活動報告書』の中から、虚偽報告の疑いがあるものを3つ、ピックアップしてください」
「虚偽報告……? そんなの、本人が嘘をついてたら分からないじゃない」
ミリアが怪訝そうに眉をひそめる。
俺はコーヒー(今度は適温だ。彼女が淹れたらしい)を一口飲み、教鞭を振るうようにペンで書類を指した。
「分かりますよ、数字を見れば。例えばこのパーティー。昨日の討伐数はゴブリン20匹、移動距離は30キロ。ですが、彼らが購入したポーションの消費量と、装備の摩耗具合が計算に合いません。30キロ歩いてゴブリン20匹と戦ったなら、もっと防具が傷ついているはず、あるいは靴の張り替え時期が早まっているはずです」
ミリアは目を見開いた。彼女の持つ「天才的な魔力操作」や「剣術の才能」は、一点に集中する力だ。しかし、事務員の力は「広範囲の違和感」を捉える力だ。
「……事務って、ただの計算じゃないの?」
「いいえ。事務とは、世界の『嘘』を暴き、秩序を保つための監視です。ミリアさん、あなたは要領がいい。ですが、それは『自分にとって都合のいい近道』を見つけるのが上手いだけだ。プロの事務員は、『誰かが通った跡』に隠された不自然さを見逃さない」
俺はあえて突き放すように言った。
ここで甘やかせば、彼女はまた「マスターの娘」という盾を無意識に使うようになる。
彼女が本当にこの職場で自立するためには、俺という「陰湿で口うるさい教育係」を乗り越える必要がある。
「……やってやるわよ。そんなの、私にかかればすぐに見抜けるわ」
ミリアはムキになって書類に食らいついた。
その様子を見ながら、俺は自分の仕事に取り掛かる。
だが、その時。
ギルドの重厚な扉が勢いよく開き、金属鎧の擦れる音が事務室に響き渡った。
4. 招かれざる「監査官」
「失礼する。王都から派遣された、魔力資源監査官のレオポルドである!」
現れたのは、鼻持ちならない金色の刺繍が入った官服に身を包んだ、恰幅の良い男だった。後ろには数人の兵士を従えている。
事務室の空気が一瞬で凍りついた。
監査官。
それは地方ギルドにとって、魔王よりも恐ろしい存在だ。
彼らの目的は、ギルドの運営に「不備」を見つけ出し、多額の罰金を課すか、あるいは利権を王都へ持ち帰ること。
「マスター・アルベルト。急な訪問だが、帳簿の全件調査を行わせてもらう。特に最近、魔石の取引に不自然な修正があったと報告を受けているのでな」
俺の心臓が、ドクリと跳ねた。
昨夜の子爵家との契約修正。
法的には問題ないはずだが、手続き上は「事後承諾」に近い。そこを突かれれば、マスターの解任やミリアの更迭もあり得る。
「……ゼン、どうする」
マスターが顔を青くして俺を振り返る。
同僚たちは、蜘蛛の子を散らすように自分の席で死んだふりを始めた。
ミリアは、自分のせいで事態が悪化したことを察し、顔を真っ白にして震えている。
監査官レオポルドは、俺のデスクまで歩み寄ると、汚いものを見るような目で俺を見下ろした。
「貴様が事務主任のゼンか。平民上がりの小役人が、子爵家と裏取引をしたそうだな。その帳簿、今すぐ出せ。1ペニーでも計算が合わなければ、貴様は監獄行きだ」
傲慢な悪意。
前世で、理不尽な理由で納入業者を叩いていたあの部長や、自分勝手なルールを押し付けてきた役所の担当者と同じ臭いがした。
脳の奥で、また「ピロン」と音がした。
「復旧率85パーセント」の枠を越え、何かが解凍される。
俺の中に眠っていた、30歳の社畜としての「怒り」と、それを隠すための「氷のような冷静さ」が混ざり合い、視界がクリアになっていく。
「……監査官殿」
俺はゆっくりと立ち上がった。
椅子の脚は、ミリアが直してくれたおかげで、一ミリの揺らぎもない。
「帳簿なら、全てこちらに揃っております。ですが、調査を始める前に、一点だけご確認を。監査官殿は、王都の『最新の魔石流通管理法』の第14条、第3項……去月の改正案は、既に熟読されていらっしゃいますよね?」
「……何?」
レオポルドが眉をひそめる。
俺は、まだ指先に残るインクの汚れを隠すことなく、机の上に一冊の古びた、しかし整理された分厚いファイルを開いた。
「もしご存じないようでしたら、この調査自体が王令違反になる可能性がありますが……。お調べになりますか? それとも、まずは私たちが用意した『正しい手順』での説明をお聞きになりますか?」
5. 背中を見せる
そこからの俺は、自分でも驚くほど饒舌で、かつ冷酷だった。
監査官が突きつけてくる「不備」の指摘を、法律の解釈と、過去の膨大な判例(前世の知識をこの世界の法体系に当てはめたもの)を駆使して、一つずつ、完璧に論破していく。
「この項目の修正は、現場判断の裁量権に含まれます。理由は、魔石の純度劣化に伴う時価調整。証拠の鑑定書はこちら。……不服であれば、王都の会計院に照会していただいても構いませんが、その場合、監査官殿の『調査能力不足』も同時に報告されることになりますよ」
レオポルドは顔を真っ赤にし、やがて「……チッ、今日はこのくらいにしておく」と捨て台詞を残して去っていった。
事務室に、再び静寂が訪れる。
今度は、恐怖の沈黙ではない。
俺という、たかが平民の事務員が見せた「プロの戦い」への、畏怖の混じった沈黙だ。
「……凄いわね、おじさん」
ミリアが、震える声で呟いた。
彼女は、俺の背中をずっと見ていた。
剣を振るうわけでもなく、派手な魔法を使うわけでもない。
ただ、言葉と数字という武器だけで、強大な権力を持った監査官を追い払った俺の背中を。
「……言ったでしょう。事務員を舐めるなと」
俺はそう言って、再び自分の席に座った。
どっと疲れが押し寄せる。
脳のアップデートは、精神的な消耗も激しいらしい。
「あの、ゼン。……今の、私にも教えてくれる?」
ミリアが、少しだけ、本当に少しだけ、素直な目で俺を見ていた。
彼女の手には、俺が指示した「虚偽報告」を見つけたらしい書類が握られている。
「……ええ。ただし、昨日の倍は厳しいですよ」
「……望むところよ」
俺は、淹れ直してもらった二杯目のコーヒーを啜った。
30歳まで、あと少し。
俺のフルパワーが戻る頃、この生意気な後輩は、どんな事務員になっているだろうか。
落花生で死んだ俺の第二の人生。
悪くないかもしれないと、ほんの少しだけ、思った。