1. バージョン0.90への微調整
カレンダーの数字が、また一つ書き換えられた。
異世界に降り立ってから、29回目の冬が近づいている。
「……っつ、あぁ……。またか」
深夜、俺は執務室の片隅で、こめかみを押さえて呻いた。
脳の奥で熱い鉄を流し込まれるような感覚。これが「解放」の予兆だ。
復旧率は現在、約90パーセント。
最近戻ってきたのは、前世で最も嫌いだった**『税務調査への対策』と『リスク管理の極意』、そして『部下のメンタルケア(という名の誘導術)』**だった。
「おじさん、また変な顔してるわよ。……これ、今日の進捗」
隣から、少しだけ落ち着いた声がした。
ミリアだ。
彼女はこの数ヶ月で、目覚ましい成長を遂げていた。
かつては「紙遊び」と馬鹿にしていた事務作業だが、今では俺が教えた『複式簿記』の基礎を使いこなし、ギルドの出納記録を整理している。
「……ミリアさん。この案件、なぜ保留にしたんですか?」
「『鉄の牙』パーティーのポーション支給申請でしょ。彼ら、最近の討伐成功率が異常に高い割に、怪我の報告が少なすぎるわ。これ、自分たちで使うんじゃなくて、闇市に横流しして小銭を稼いでるんじゃないかしら?」
俺は内心で舌を巻いた。
かつての彼女なら、英雄願望のままに「すごいわね!」とハンコを押していただろう。だが今の彼女は、数字の裏に潜む「悪意」の匂いを嗅ぎ分けられるようになっている。
「……正解です。貸与品の管理規定違反として、明日の朝一で彼らのランクを一時停止してください。嫌がらせ……いえ、教育です」
「性格悪いわね。おじさんの色が移ったのかしら」
彼女はフンと鼻を鳴らしたが、その表情には、以前のような俺を見下す色はなかった。
2. 嵐の予感:スタンピードの報せ
平和な事務作業を切り裂いたのは、血相を変えて飛び込んできた偵察員の叫び声だった。
「報告! 北の『静寂の森』で魔力溜まりが決壊! 大規模な魔物の暴走(スタンピード)が発生しました! 予想進路はこの街、エルムドです!」
事務室が、一瞬で喧騒に包まれる。
ギルドマスターであるアルベルトが奥から飛び出し、壁に掛けられた大剣を手に取った。
「野郎ども、聞いたな! 戦の時間だ! 街の冒険者を総動員しろ。全ての依頼を中断し、防衛戦の準備に取り掛かるぞ!」
「おおおーっ!」と沸き立つ冒険者たち。
戦う力を持つ者たちの瞳には、恐怖よりも高揚が宿っていた。名誉、功績、そして魔物素材。彼らにとってスタンピードは祭りに近かった。
だが、俺は一人、震える手で電卓(魔法具)を叩いていた。
脳内の「0.90」が、警鐘を乱打している。
「……マスター。待ってください」
「ゼン! 何だ、お前も準備を手伝え。備蓄しているポーションを全部出せ!」
「……ダメです。全部は出せません。それと、冒険者の総動員も『今は』却下してください」
静まり返るギルド。
アルベルトが、信じられないものを見るような目で俺を睨みつける。
「何を言ってるんだ、お前は! 魔物が来るんだぞ! 戦わなければ街が滅びる!」
「戦わなければ滅びますが、戦い方を間違えれば勝っても滅びるんです。……ミリアさん、現在のギルドの現金保有高と、予備の食糧備蓄、それから負傷者が出た場合の治療費のシミュレーションを出せますか?」
「……え、ええ。ちょっと待って」
ミリアが戸惑いながらも、素早く帳簿をめくる。
その姿を見て、俺はアルベルトの鼻先に指を突きつけた。
3. 社畜の戦略:算盤(そろばん)を弾いて国を救う
「いいですか、マスター。現在の備蓄を全て出し切り、総動員をかければ、確かに街は守れるでしょう。ですが、その後のことを考えていますか? 防衛戦が3日以上続いた場合、ギルドの資金は底を尽きます。冒険者への報酬が払えなくなり、装備の修理も滞る。……結果、街は守れても、冒険者は去り、エルムドは経済的に死ぬんです」
「……そんなこと、今考えてる場合か!」
「今考えるのが事務員の仕事です!」
俺は怒鳴り返した。前世で、無茶な新規事業をぶち上げようとする上司を黙らせてきた時と同じ、腹の底からの怒声だった。
「マスターは前線で剣を振ってください。ですが、誰をいつ出すか、ポーションをいつ配るかは、私の『事務』が決めます。……ミリアさん、計算は?」
ミリアが震える手で、一枚の紙を差し出した。
「……今のまま総動員したら、一週間でギルドは破産。街の小麦価格は5倍に跳ね上がるわ。……ゼン、これ、戦う前から負けてるじゃない」
「負けさせませんよ。……マスター、冒険者を3つの交代制(シフト)に分けます。第一陣は防壁の維持。第二陣は温存。第三陣は後方のロジスティクスに回します。……そしてミリアさん、あなたには特別な仕事を頼みます」
「私に? 魔法で戦うんじゃないの?」
「いいえ。あなたは『物流の監督官』になってください。街の商人ギルドへ行き、この書類を突きつけて、彼らの備蓄を『適正価格』で徴用する。断られたら、ギルドが今後彼らの護衛依頼を一切受けないと脅して構いません」
ミリアが目を見開く。それは、彼女が最も苦手としていた「泥臭い交渉」だった。
「……そんなの、私にできるわけ……」
「できますよ。あなたは俺が育てた、このギルドで一番『性格の悪い』事務員候補ですから」
俺が不敵に笑うと、ミリアは一瞬だけ呆気に取られ、やがて不敵な笑みを返した。
「……分かったわよ、おじさん。後悔しても知らないんだから!」
4. 28歳の限界、そして……
スタンピードとの戦いは、地獄だった。
だが、それは剣を振るう者たちにとっての地獄ではなく、数字を管理する俺とミリアにとっての地獄だった。
「ゼン主任! 西門の矢が足りません!」
「第4倉庫から回せ! ただし、受領印をもらってからだ! 紛失は許さん!」
「ミリア様から報告! 商家からポーションの追加確保に成功したそうです! ですが、支払いの延期を求められています!」
「認めろ! その代わり、次期の関税免除の推薦枠をチラつかせろ!」
俺は不眠不休で書類を処理し続けた。
28歳の体は、前世の30歳の時よりも体力はあるはずなのに、脳が焼き切れそうだった。
やはり「段階的解放」の弊害か。処理速度が上がっているのに、肝心の「タフさ」が完全ではない。
防壁の向こうでは、魔物の叫び声が響いている。
だが俺の耳に届くのは、羽ペンの走る音と、計算機がカチカチと鳴る音だけだった。
これが、俺の戦場だ。
誰に称賛されることもない。英雄譚には一行も載らない。
だが、俺が数字を一箇所間違えれば、前線の兵士たちの食料が途絶え、剣が折れる。
「……っ、くそ……!」
視界が歪む。
意識が遠のきかけたその時、背中に温かい感触があった。
「……倒れるなら、勝ってからにしなさいよ」
ミリアだった。
彼女もまた、泥とインクにまみれながら、差し入れの不味い携帯食を俺の口に放り込んできた。
「商人の連中、黙らせてきたわ。おじさんの真似をして『おたくの帳簿、少し不自然ですね』って言ったら、顔を真っ白にして差し出してきたわよ」
「……はは、最高の後輩(悪党)ですね、あなたは」
俺たちは笑い合い、再び書類の山に向き合った。
5. 29歳の誕生日
スタンピードが去り、街に平穏が戻ったのは、それから一週間後のことだった。
エルムドの被害は最小限に抑えられた。
何より、ギルドの財政は「破産」どころか、戦利品の効率的な換金によって、むしろ黒字に転じていた。
「ゼン! お前は本当に……最高に可愛くないが、最高の男だ!」
アルベルトが俺の肩を叩く。骨が折れるかと思った。
街の人々は勇者たちを称え、宴を開いている。
俺とミリアは、そんな騒ぎを遠くに聞きながら、誰もいない事務室で後片付けをしていた。
「……おじさん。あ、もう『ゼン』でいいわね」
ミリアが、窓の外の月を見ながら呟いた。
「私、魔法で魔物を倒すのが一番格好いいと思ってた。でも、今回わかったわ。……おじさんがやってることって、魔法よりずっと残酷で、ずっと……凄いのね」
「褒め言葉として受け取っておきますよ、ミリアさん」
「ミリアでいいわよ。……それと、これ。誕生日でしょ?」
彼女が差し出してきたのは、小さな箱だった。
開けると、中には高級そうな……だが、少し不格好に包まれた『落花生』の袋が入っていた。
この世界では珍しい、東方の特産品だ。
「……あ。……これ」
「嫌いだった? 前に、うなされるように『落花生……』って言ってたから、てっきり好きなのかと」
俺は、思わず吹き出した。
前世の俺を殺した凶器が、今、この世界で最も信頼できる「部下」からの贈り物になった。
皮肉なもんだ。でも、嫌いじゃない。
「……いえ。大好きですよ。……ありがとう、ミリア」
俺が彼女の名前を呼ぶと、彼女は照れ隠しにパッと顔を背けた。
その時だった。
日付が変わり、俺が29歳になった瞬間。
脳の奥で、かつてないほど巨大な「音」が鳴り響いた。
【警告:最終フェーズへの移行を開始します】
【復旧率:95パーセント】
【最終スキルのダウンロードを開始……『全知の管理職(フル・マネジメント)』】
「……っ!!」
全身を駆け巡る、圧倒的な情報量。
今までの「断片的な記憶」ではない。前世の30年間と、この世界での29年間。
二つの人生が、一つの「プロフェッショナル」として完全に融合を始める。
俺のチート解禁まで、あと1年。
だが、俺の手には既に、この世界を「事務」で支配するのに十分な力が宿りつつあった。
「……さて。29歳の初仕事、始めますか」
俺はミリアからもらった落花生の殻を一つ、小気味よい音を立てて割った。
今度は、喉に詰まらせる心配はなさそうだった。