■プロローグ:時を描く女
踊り場の空気は、時を閉じ込めた絵の匂いで満ちていた。
油彩と古木と蝋の混じった、長い年月を溜め込んだ匂い。
洋館の階段を一段登るごとに、足音は闇に吸い込まれ、
壁に立てられた蝋燭の炎が、ためらうように揺れる。
壁に掛けられた肖像画。
名は、ペネロープ。
深紅のドレス。
曇天の庭園を背に立つ女。
ただし、顔の部分だけが割れた鏡で覆われていた。
何も映さない鏡。
見る者の姿も、灯りも、時間さえも拒むような空白。
画家は、長く息を吐いた。
この館に招かれて三日。
彼はまだ一度も、その鏡の奥を見ていない。
鏡を剥がす音は、想像以上に軽かった。
絵の上で、鏡は砕け、剥がれ、床に落ちることなく消えた。
そこに現れたのは──
頬の曲線。
唇の艶。
瞳の深み。
夜の花が、闇の中で咲くように、
女の顔が、絵の中で完成した。
画家は、筆を走らせる。
修正ではない。
追認だ。
その瞬間、階段が、軋んだ。
■第一話:時計を持つ男
現れたのは、道具商だった。
年齢は曖昧。
燕尾服は時代を裏切り、
革靴はこの館の床板と同じくらい古い。
彼の手には、黒光りする懐中時計があった。
「これを、絵に添えるといい」
低い声。
提案というより、確認に近い。
画家が理由を尋ねる前に、道具商は言った。
「彼女が、鏡を割った時の凶器だ」
次の瞬間、額縁が軋んだ。
木が悲鳴を上げ、
キャンバスが呼吸する。
白い指先が、絵の表面からにじみ出る。
一瞬の躊躇もなく、
深紅の裾が闇を払い、
ペネロープは額縁を抜け出した。
金糸の髪は炎を宿し、
肌は雪よりも冴えている。
瞳は深海の闇を含み、
見返すたび、空気が凍りつく。
彼女は、道具商の手から時計を受け取った。
針が──
カチリ、と動いた瞬間。
館の影が、一斉に濃くなった。
■第二話:動き出す夜
カチ……
カチ……
音は、ひとつではなかった。
振り子時計の低い唸り。
壁掛け時計の乾いた針音。
置時計の、呼吸のような刻み。
長く止まっていた時間が、
一斉に歩き始める。
その響きは、館を越え、
庭を抜け、
石畳の路地へと広がっていった。
丘の上にそびえる古い時計塔が、
鈍い鐘を打つ。
一度。
二度。
三度。
夜の街の屋根を渡り、
人々は窓を開ける。
だが、誰もその理由を知らない。
ただ一人、
踊り場に立ち尽くした画家だけが知っていた。
この街の時は、
ペネロープと共に、再び動き出したのだと。
■第三話:奪う者の微笑
ペネロープは、ふと視線を滑らせた。
道具商の胸元。
金色に光る、小さな戦闘機のブローチ。
時代錯誤なそれを、
彼女は指先で摘み取る。
抵抗はない。
道具商は、ただ見ている。
「これは──」
問いかけは、最後まで形にならなかった。
ペネロープは、踊るような足取りで階段を降り始めた。
深紅のドレスの裾が、一段ごとに揺れる。
足音は、絵の具が乾く音のように静か。
背後に残るのは、
絵の香りと、
時間が揺らいだ気配だけ。
階下の闇に溶ける直前、
彼女は一度だけ振り返った。
その瞳は、
男たちの胸の奥を正確に探り当て──
すべてを自分のものにした者の目で、
微笑んだ。