■黒の部屋
灯が足を踏み入れた瞬間、空気は質量を持った。
肺に入るはずのものが拒まれ、
代わりに胸の奥へと沈み込んでくる重さ。
墨を流し固めたような黒が、空間そのものを塗り潰していた。
壁も、天井も、床もない。
あるのは「部屋であろうとする闇」だけだ。
光は存在を許されず、
音すら途中で溶けて消える。
「……ここは」
言葉にした瞬間、声が歪んだ。
闇の中から、柔らかな足音もなく、
黒猫が現れた。
金色の瞳だけが、はっきりと灯を見据えている。
「ここは、あなたの“忘れたもの”が眠る場所です」
囁きは優しく、だが逃げ場はなかった。
問い返す暇もなく、猫はそのまま闇に溶ける。
残されたのは、灯ひとり。
能面を胸に抱いたとき、
今度は、内側から声が響いた。
「あなたが最後に見た母の顔は、涙ではなく微笑だった」
心臓が、ひとつ強く脈打つ。
「忘れたのは、痛みではない。──優しさだ」
その言葉に応じるように、
闇の底から、淡い影が浮かび上がった。
床のないはずの空間に、
舞台の輪郭だけが描かれる。
一歩、踏み出す。
その瞬間──
母の舞姿が現れた。
絹の袖、凛とした背筋、
だが、顔だけが空白だった。
「……母様」
呼びかけは、届かない。
次の刹那。
空間が、震えた。
闇が剥がれ落ちるように、
装身具が、無数に現れる。
耳飾り。
数珠。
指輪。
首飾り。
数え切れぬほどの宝飾が、
まるで呼吸するかのように一斉に震えた。
その中心で、
ひとつだけ異質なものが跳ね上がる。
黒曜石の腹を持つ、蜘蛛のブローチ。
糸を引き、
闇に降り立つ。
──女郎蜘蛛。
その瞬間、
母の影が、蜘蛛の姿に重なった。
灯の胸を、氷水のようなものが走る。
蜘蛛が、糸を放った。
ひゅん。
ひゅん。
ひゅん──!
細く、鋭い糸が空間を裂き、
衝突した場所から、光が散る。
そこに浮かび上がるのは、
灯自身の過去だった。
母の笑顔。
涙。
叱責。
抱き寄せる腕。
幻影が重なり、
現実と記憶の境界が溶けていく。
「母様……!」
杵形かんざしを振るい、糸を叩き落とす。
だが、かすっただけで皮膚が焼けるように痺れた。
──毒。
次の瞬間、
幻影の母が目の前に立つ。
「どうして置いていったの?」
胸を締めつける声。
「わたしを忘れるなんて、ひどい子」
言葉が、刃となって脳を叩く。
糸は止まらない。
舞うようにかわし続けるが、
細かな傷が積み重なり、毒が体を侵す。
やがて──
全身が、糸に絡め取られた。
灯は、繭の中へと閉じ込められる。
闇。
繭は、記憶を歪める。
母の笑顔は、涙に。
優しさは、憎悪に。
「違う」
能面の声が、鋭く響いた。
「それは偽りだ。
おまえが忘れたのは“痛み”ではない。
──“優しさ”だ」
優しさ。
その言葉が、胸の奥を打ち抜く。
思い出されるのは、
最後に見た舞。
袖の翻り。
足の運び。
見守るような眼差し。
母は──
確かに、微笑んでいた。
繭の内で、灯は舞い始める。
動けぬはずの体が、
記憶の舞をなぞるたび、震える。
ぶちん。
一本。
ぶち、ぶち、ぶち──!
糸が裂け、
白い破片が四散する。
灯は、するりと繭を抜け出した。
杵形かんざしを構え、叫ぶ。
「母様の顔は、ここにあるんす!」
蜘蛛が咆哮し、糸を乱射する。
空間が千切れ、幻影が幾重にも襲いかかる。
だが、灯の舞は止まらない。
袖でいなし、
足で踏み越え、
一歩ごとに、過去を越えていく。
「超えよ、母を──!」
能面の声が重なる。
舞とともに、杵が巨大化し、
雷鳴のような気配を帯びる。
蜘蛛が最後の檻を編もうとした、その瞬間。
灯は、宙を舞った。
「これが──
母様と、わっちの舞!」
──轟音。
大杵が、女郎蜘蛛を叩き潰す。
黒曜石の腹が砕け、
光と糸が弾け飛び、
幻影は霧のように消え去った。
静寂。
足元に落ちているのは、
ただの冷たい装身具。
黒曜石の腹を持つ、蜘蛛のブローチ。
動かない。
ただの禁具。
灯は、荒い息を吐き、涙を拭った。
胸に残るのは、
母の舞の余韻。
そのとき──
黒猫が、再び現れた。
何も語らず、
ただ金色の瞳に光を宿し、
灯を見守るように。
闇は、ゆっくりと静まり返っていった。