■赤の部屋
赤の部屋に足を踏み入れた瞬間、灯の喉を焼くような香が流れ込んだ。
蓮を模した香炉が幾つも浮かび、絶え間なく煙を吐き出している。
甘く、濃く、逃げ場のない香り。
それは祈りであり、欲であり、怒りであった。
壁は血肉のように脈打ち、床は生き物の体温を持ち、天井は吐息のように震えている。
ここは部屋ではない。
選択を迫るために作られた、生きた問いそのものだ。
その中心に立つ存在を見て、灯は息を呑んだ。
ヨーギニー──アディティ。
二つの頭、四本の腕。
右の頭は烈火のごとく目を光らせ、嗤っている。
左の頭は水面のように静かに伏し、祈るように唇を閉ざしていた。
右手には赤宝石を抱いた曲線の剣。
左手には蓮模様の盾。
背の腕は虎の仮面とガルーダの羽根を掲げている。
怒りと静けさ。
獣と神鳥。
祈りと破壊。
相反するものすべてが、ひとつの肉体に同居していた。
「四つの選択──斬るか、守るか、変わるか、飛ぶか」
重なり合う声が、二重にも三重にも響く。
空間そのものが震え、問いが骨に染み込んでくる。
灯は深く息を吐き、黒き蜘蛛の装身具を取り出した。
指で撫でると、脚がカチリと開き、黒糸の影が床を走る。
「……この命綱、繋いでみせんす」
その声は震えていたが、迷いはなかった。
一方、ペネロープは白銀のトンボを手に取る。
翅が光を弾き、空気を切り裂くように震えた。
「なら、私は飛ぶ。自由は、掴み取るものよ」
二人は並び、同時に一歩を踏み出した。
剣が床を打ち据える。
ガンッ、と赤い火花が散った。
アディティは虎の仮面をかぶる。
瞳が黄金に燃え上がり、唸り声が空気を引き裂いた。
「怒りは隠さぬ──ならば、斬る!」
剣閃。
ギィンッ、と音が鳴り、床石が裂ける。
灯は蜘蛛糸を張り巡らせ、舞うように跳んでかわした。
「速すぎんす……ッ!」
盾が薙ぎ払われ、ペネロープの身体が宙を舞う。
だが白銀の翅が羽ばたき、ぎりぎりで体勢を立て直した。
「正面は無理ね」 「背から攻めんす!」
蜘蛛の糸とトンボの翅が交差する──その瞬間。
ガルーダの羽根が震えた。
暴風が巻き起こり、神鳥の咆哮が二人の動きを縫い止める。
次に、象の仮面。
声が低く澄み、盾から蒼光が溢れた。
「守ることは、忘れること。痛みを流せ」
衝撃波が放たれ、蜘蛛糸が焼き切れる。
灯は膝をつき、胸を押さえた。
「……心臓ごと削られるようでありんす……ッ」
「忘れさせようなんて、傲慢ね!」
ペネロープの白銀のトンボが盾へ迫る。
だが一閃で弾かれ、翅に深い傷が走った。
そして、蓮の仮面。
風が凪ぎ、顔が幾重にも揺らぐ。
獣、神、無面──定まらぬ姿。
「変わることは、選ぶこと……私は……何を……」
その迷いが、部屋を震わせた。
「ここで、退くわけにはいかんす!」
灯は蜘蛛を前へ投げ出す。
黒糸が幾重にも張り巡らされ、剣をわずかに縛めた。
「トンボ! 今よ!」
白銀の翅が閃き、仮面の縁を噛み砕く。
だが──
轟音。
蜘蛛は四肢を砕かれ、トンボは翅を裂かれた。
「……お役目、ご苦労でありんした……」
灯の声は、哀惜に震えていた。
その犠牲が、確かに裂け目を作った。
灯は鈴付き帯留めを打ち鳴らす。
シャリン、と音が重なり、幻惑が二つの頭を揺らす。
「今の一瞬、迷うておりんす!」
ペネロープの銀の腕輪が鞭となり、剣を逸らす。
灯は杵型かんざしを大杵へ変え、踏み込み、振り下ろした。
「生きるためなら──人は皆、顔を偽り、選び取ってきたんす!」
鈴、鞭、杵。
連撃。
仮面が砕け、赤い煙の中へ崩れ落ちた。
静寂。
四本の腕が溶け、二つの頭が重なり合う。
そこに残ったのは、一人の女性。
「選ぶことは、祈ること。私は祈りの者でありたい」
灯は汗を拭い、かすかに笑った。
「顔が多いんは……苦しゅうても、強うなれる証にありんす」
赤の部屋は、やがて灰色へと沈んでいった。