■灰色の部屋2
再びの灰色の部屋に、淡い光が揺れていた。
壁も天井も床も、すべてが色を失い、輪郭だけが世界を形作っている。
三つの影が足を踏み入れた瞬間、空気がわずかに震えた。
先頭に立つのは、ヨーギニー──アディティ。
かつて怪物として立ちはだかった存在は、今や神話の女神のごとき姿を取り戻していた。
右腕には、赤宝石を宿した曲線の剣。
刃は炎の舌のように揺れ、脈打つたびに低い熱を放つ。
左腕には、蓮模様の盾。青石の中心に、水面の静寂が閉じ込められている。
腰には虎・象・蓮の仮面を象った金具。
歩くたびに鈴が鳴り、灰の静寂に細い旋律を刻んだ。
さらに、左腕にはガルーダの羽根を模した腕飾り。雷紋が一瞬ずつ光を孕む。
深紅から藍へと移ろう衣。
炎と夜の境界を歩くようなその姿に、灯は息を呑んだ。
アディティは部屋の中央に腰を下ろす。
その所作には、揺るぎない自負があった。
灯とペネロープも視線を交わし、三角を描くように座る。
最初に口を開いたのは、灯だった。
灯は懐から一つの面を取り出した。
「増女の面」。老女の皺と鋭い眼差しを刻んだ木彫りの面だ。
「母の顔を……思い出せないんでありんす」
声はかすかに震えていた。
「この面を持ってから、余計に……母の貌と、この貌とが、重なって、離れていくでありんす」
アディティは面を受け取り、指先で皺をなぞる。
そして、静かに被った。
「顔とは、血肉ではない」
重く、しかし優しい声。
「祈りと記憶が映すものだ。忘れてもよい。形を失ってもよい」
面を外し、灯に返す。
「だが、これはお前のものだ。抱えるも、返すも──選ぶのはお前だ」
灯は面を受け取り、目を閉じた。
胸の痛みは、確かに形を変えつつあった。
そして、そっと面を被る。
次に口を開いたのは、ペネロープだった。
「私の顔……もう誰も覚えていないでしょうね」
曖昧な微笑み。
「霧みたいに、溶けてしまった」
「曖昧なのではない」
アディティは断言する。
「禁具のせいだ」
彼女の指が、ペネロープの胸元──錆びた懐中時計を示した。
「時を操る道具。お前は老いを拒んだ。その代償として、顔という象徴を失った」
ペネロープは、震える声で語り始めた。
顔の無い自画像。
鏡を貼り、全盛期だけを映し続けたこと。
老いを見つけ、怒りに任せて鏡を砕いたこと。
「その瞬間からだ」
アディティは頷く。
「お前は時間を砕いた。だから、顔もまた定まらぬ」
沈黙。
真実は、刃よりも深く胸を抉った。
灯は、震えるペネロープに向き合った。
「わっちは……ずっと、ペネロープ殿の顔を見失っておりんした」
そして、アディティを見る。
「けれど、そなたの顔は、はっきり見える。……それが苦しみだと知って、胸が痛むでありんす」
ペネロープは顔を上げる。
その眼差しに宿る慈しみと嘆きに、灯は言葉を失った。
二人の間に、小さな結束が芽生えた瞬間だった。
空気を裂く声。
「備えは、整ったか?」
バステトの声と共に、装身具が現れる。
黄金、銀、仮面、宝石、鏡、鈴。
欲と祈りの残滓が、部屋を満たした。
灯は「増女の面」を群れの中へ戻す。
「母の呪いは抱かぬ。想いだけで、十分でありんす」
アディティは動かない。
「私は何も要らぬ」
ペネロープは迷い、そして銀の短剣と金の指輪を取る。
「……美しい。欲しい」
三者三様の選択。
やがて、灰色の壁に扉が浮かび上がった。
亀裂から溢れる黄金の光が、三人の影を長く伸ばす。
それぞれの選択を抱えたまま、三人は立ち上がる。
扉の先に待つのは──
圧倒的な黄金の世界。