イヴ
満月の光を頼りに、仄暗い路地裏を重い足取りで歩いていた。だいぶ夜風が吹き込み、肌寒く感じたが、それでもゆっくりと歩いていた。
背後の表通りからは音や光が路地に差し込み、未だに賑やかな様子で、この通りの静謐さを強調している。
この場所は島の工業区域の中心部に位置し、表通りの方では、仕事の鬱憤を晴らすように人々が騒々しく交流を続けていた。酒の入りを感じさせる、たどたどしくも耳につく声や、ここら一帯を包み込むように演奏されるエスタンピーに背中を押され、歩を進める。
しかし、この路地裏もまた、未だに眠らない場所であることは、先方に見える僅かな光源から伝わってくる。
日常的にここらに蔓延する排気ガスの影響で、夜目にもはっきりわかるほど、すっかり黒ずんで変色したレンガ壁に手をつき、体を支えながら、一歩一歩、ゆるりと狭い路地裏を歩く。通路の石畳は、数えきれない靴底に磨り減らされ、歴史とともに平たく押し固められている様子で、躓く要素は特に見当たらない。
しかし、この先を思うと、腹の底から湧き出る憂鬱のせいか、体幹が幾ばくか不安定にもなるのだ。また考えることを中止し、最近巷で流行している
するとその時、背後で小さな物音が鳴った気がした。
「……ひっ!?」
その小さな物音に驚嘆し、僕は声にならない声を上げた。恐る恐る振り返ると、そこに異変はなく、先ほどまで僕が歩いてきた路地裏と、少し遠くに見える暖かな光のみだった。地面に目を向けると、日中であっても光が届きにくいためか、石畳の端には油と雨水が混ざった黒い水溜まりが、そこらかしこに居場所を作っていた。おそらく、先ほどの物音も、そこいらを水源にして生活している小動物のせいであろうと、前向きに目処をつけ、再び進路を向いた。
だいぶ前方の光源に近づいたことで、目的の建造物の輪郭がはっきりとしてきた。すでに、背後からは、街の喧騒は消え去り、逆に目の前の建造物から、僅かに聴き馴染んだ物音が聞こえてくる。さらには、こんなにも廃れた路地裏には似つかない、真紅の絨毯が夜の石畳からゆるやかに持ち上がり、絢爛な扉が目前に現れた。真鍮の手すりは磨き上げられ、灯りを受けて鈍く艶めいている。扉の上には横に吊るされた、石油ランプの光に照らされ金色に輝く、いっとう下品で大きな看板が僕を見下ろしていた。
重い溜息をつき、僕の二倍はあろう巨大な扉の、仰々しい装飾の取っ手を掴み、ゆっくりと手前に引いた。すると、鼎の沸くが如き雰囲気が場を満たしていた。中は昼のように明るく、香と音楽が混じり合った甘い気配が滲み出し、この場所がただの建物ではないことを告げていた。
僕は、昼夜の境界線を越えて、建物の中へと足を踏み入れた。
そこには、客人をもてなすために設けられたエントランスが広がっていた。こんな夜中であるにもかかわらず、そこは大勢の人々で賑わっていた。天井は高く、暗赤色の布が幾重にも垂れ下がり、蒸気灯の光を柔らかく受け止めている。灯りは直線を描かず、金縁のシェードを通して波打つように揺れ、空間そのものを曖昧に溶かしていた。
床一面には厚手の絨毯が敷かれ、足音は吸い込まれる。踏み出すたびに沈み込み、ここでは急ぐという行為そのものが無意味であることを身体に教える。絨毯の文様は見たこともない植物模様と歯車意匠が絡み合い、視線を落とすほどに細部へと引き込まれていく。
壁面は濃色の木材で覆われ、その上から金糸の刺繍が施されたタペストリーが掛けられている。描かれているのは神話とも寓意ともつかぬ図像で、意味は即座には読み取れない。ただ、長く見つめるほどに、意図的な曖昧さがこの場所の格を支えていると分かる。
広間の中央には円形の応接区画があり、深い色合いの長椅子が放射状に配置されている。布張りの背もたれは柔らかく、しかし姿勢を崩しすぎない硬さを残している。小卓の上にはガラス細工の杯と、名も記されない酒瓶が置かれ、選択肢の多さよりも質の確かさを主張していた。
伏し目がちに、中央を直線状に通る深紅の道標を頼りに、僅かに脇を通り、奥へと進む。
多方面から向けられる、淫靡で好奇の混じった視線を無視して、やっとこさフロントにたどり着くと、机を挟んで長身な男から声をかけられる。
「ご苦労。この後、もう一人入っている。いつもの部屋で待機しておけ」
「……はい」
端的に、帰還の挨拶を済ませ、部屋の鍵を手渡された。真鍮で作られた歪な形で、どことなく嫌悪感を抱く鍵だった。行き場のない意志から漏れ出た力で鍵を握りしめ、長身男に背を向けたところで、再度背後から声がかかり、会話が引き延ばされた。
「そうだ。せっかくだから、あいつの手ほどきも頼む。……お得意様だから、一人増えたところで問題はないだろう」
長身男が、首をしゃくって指した方向には、ここから少し離れた長椅子に、こぢんまりと腰掛け、虚空を見上げている少女がいた。
「……わかりました」
僕には、否定は許されていなかった。余計な作業が増えることに、心中で項垂れた。仕方がないと、まだ僕に残っているのかもわからない義務感だけを頼りに、その少女に話しかけに向かった。フロントから離れているためか、少女が座っている長椅子の周囲には、客人は見当たらなかった。
僕がだいぶ少女に近づいても、未だに虚空から視線を戻さなかった。僕は、今日何度目かもわからない溜息をつき、覗き込むようにして少女の視界を遮った。
「君、新入り?」
「…………はい」
少女は、虚空を彷徨っていた視線をゆっくりと僕に合わせ、肯定の意を示した。意外と芯のある、凛とした少女の声に僕は少し驚いた。意外というのも、僕はこれまでに新入りの指導を任されることは多々あり、ここに来たばかりの子は、程度はあるが、凄惨な過去や慣れない環境によって、挙動不審な子がほとんどである印象だった。そのため、見たところ動じている挙動を見せないこの少女に、少なからず疑念を抱いていた。少女の無機質な返答は、すでに壊れた子とも違うそれだと感じた。
商品として管理される僕たちは、最低限の衣食住だけは保証されている。
そのため少女の身なりは小綺麗だったが、身体はひどく細く、奇妙なほど青白い肌は、どこか人間離れして見えた。僕の目をじっと見つめ返す少女の瞳は、僕の影のせいか、黒瑪瑙のように深く黒く、何ひとつ光を映していない。その視線の奥で、彼女が本当に僕を認識しているのか、不意に不安になる。気まずい沈黙が生まれたが、僕はそれを振り払うように、用件を続けて伝えた。
「君の手ほどきを任されたから。ついてきて」
「はい」
少女は立ち上がり、僕を見下ろした。先までは、座っていたからわからなかったが、少女は僕より一回り高身で、僕の頭が丁度少女の胸の位置にきた。少女はまだあどけなさが残る童顔であり、僕と同年代、もしくは年下であると思っていたので、またも驚かされた。
「背、高いね。羨ましいなぁ」
「規格に則っていますので」
「?」
前言撤回。少女は、やはりどこか壊れているのか、普通の会話は望めそうにないことは理解させられた。
フロントの右側にそそり立つ、煌びやかな螺旋階段を昇り、部屋が並ぶ仄暗い廊下を歩いていた。横目で後ろを確認すると、三歩ほどの間隔をあけて少女はついてきていた。歩幅に差があるためか、若干歩きにくそうにしている少女に、研修がてら振り返って話しかける。
「そういえば、名前きいてなかったよね。僕は、ニウ。君は?」
「……イヴです」
「いい名前だねぇ」
僕は少女、イヴと、名を交換した。普通は親がつけるものらしいのだが、僕は他人からつけられた名を自分の証とすることにひどく違和感を持っていた。ニウというのも、自分で名乗り始めたものだ。おそらく、こんなところに来る人間に、誇らしい名づけ親がいるなんてことは無いだろう。
「じゃあ、イヴ。ここが何をする場所かわかるかな?」
「……大人を喜ばせる場所、と聞いています」
「うん。合ってるよ。ここは、そういう場所なんだ」
少し言葉は濁されているが、己の境遇を正面から理解しているイヴに好感を持った。
「事前知識はあるみたいだから、あとは実践で教えるよ。心配はしなくていいよ……慣れてない方が好まれることだってあるからね」
「そうですか」
イヴの表情は未だに読めず、緊張している様子もない。気にかける必要は特になさそうで僕は何となく心強く感じた。そんなイヴに対して、僕は少し意地悪なことを言ってみることにした。
「ちなみに、初めてだったりする?」
「いえ」
「そ、そーだよね……」
少しは動揺するかと考え、経験の有無を尋ねてみたが、こんな場所にいる時点で似たような過去はあるだろうと、今になって思った。それにしても、反応は軽薄で、本当は少女の皮をかぶった大人なのかもしれないと、へんてこな想像が膨らんだ。全く興味なさそうに応えるイヴに、不思議とつまらなさこそ抱かなかったが、もう少し愛想よくないとここではやっていけないよと、意味のない悪態を心の中でついた。さらに居心地が悪くなり、再び進路を向いた。
「ニウ」
「……え?」
先ほどまで不愛想な単語しか発していなかった声で、急に僕の名前が聞こえため、驚き振り返った。
「ニウはどのくらい此処にいるのですか」
「うーン、数えたことはないけど二、三年くらいかな」
「……そうですか」
納得いってないのかもわからない反応が返ってきた。
考えてみると、僕がここに来てからだいぶ時間が経っていたことに気が付いた。
こんな場所で年を数えることなんて何の意味もないと思っていたから。
「ニウは不服では無いのですか」
「?」
「……」
「あー、まぁここでの出来事は面白くもないし、色々面倒だけど、それだけだよ」
「……そうですか」
またも納得いっているのかもわからない反応が返ってきた。
日々、面倒な作業を強いられるせいで、憂鬱ではあるけれど、僕はそれが不服だったり、理不尽だったりと思ったことはない。
しかし、実際はそうでないことは知っている。
ここでは僕やイヴと同じような子が大勢いるのだから、毎日のようにみんなからの愚痴を耳にすることはある。
特に、イヴのような新入りはみな揃って失望したような表情をしているのだ。イヴは特別そうでもないけれど、普通はそうであることを僕は知っていた。
イヴはそれっきり沈黙してしまい、再び二人は歩き始めた。