失意のまま娼館についた僕たちは、重い扉を押し開けた。
エントランスの空気はいつも通り淫靡で、それでいて、先ほど見てきた暴力の余韻が、僕の肌をチクチクと刺し続けていた。
「おお! 遅せぇぞ、どこ行ってたんだニウ!」
椅子から半身を乗り出し、淀んだ空気を切り裂くような大声で僕を呼ぶ者がいた。
ルチアだった。
彼女はこの場所に似合わない、煤けて油の染みたジャケットを羽織り、椅子に放り出した足は泥のついた編み上げのブーツを履いている。膝の上には得体の知れない真鍮の破片を広げ、汚れた布でそれを熱心に磨いていた。
「……ルチアか。声が大きすぎるよ」
「あ? 景気が悪い顔してんな。そんなんじゃ客に指名されねえぞ」
彼女は鼻を鳴らすと、手元にある部品を慈しむように見つめた。その指先には、落としきれない機械油が黒い線となって刻まれている。
「見てろ、これだ。これさえあれば、あんな煤けた煙突の先まで行けるんだ」
彼女が誇らしげに見せたのは、歪な形をした歯車と、細かなバネが組み合わさった「心臓」のような部品だった。
「飛行船の部品?」
「当たり前だろ。ガラクタ拾いの爺さんからくすねるのに三日かかったんだ。……さあ、ニウ。突っ立ってないで手を貸せ。今日は北の廃棄場に『羽根』の材料を探しに行くぞ」
僕はため息をついた。今さっき、地上という地獄の底を見たばかりだというのに。
けれど、彼女の瞳に宿る、根拠のない、けれど暴力的なまでの輝きに、僕は抗うことができなかった。
「……イヴとルカを部屋まで送り届けてからね」
「ああ、構わねえよ。早くしろよな。暗くなると治安維持局の奴らがうるさくなる」
ルチアはそう言うと、再び椅子にふんぞり返り、自慢の部品を磨き始めた。
彼女が求めているのは赦しでも愛でもなく、ただこの場所から自分を連れ出す力なのだ。
僕は二人の少女を連れて階段を上りながら、ルチアが持っていた真鍮の輝きを思い出していた。
それは、この暗い娼館の中で、唯一僕の目を焼く光だった。
あの夜、彼女は言った。
僕を空へ連れ出すと。
…………
……
湿ったシーツの感触と、微かに残る香水の匂い。
窓の外では巨大な煙突が、月の光を遮るように黒々とそびえ立っている。
隣で横になるルチアの呼吸は、この静まり返った部屋の中で、唯一生きているもののように規則正しく刻まれていた。
僕は天井の染みを眺めながら、ふと思いついた疑問を口にする。
「……ねえ。因みに聞いとくけど、どうやって行くつもりなの?」
僕の声は、狭い部屋の壁に当たって力なく跳ね返った。
ルチアは寝返りを打ち、細い腕を頭の後ろに組んで天井を見上げた。その瞳には、暗闇の中でも消えない強い光が宿っている。
「そりゃあ、飛行船だよ」
「飛行船?」
聞き覚えのない言葉に、僕は首を傾げた。
「そうだ。飛行船。そのまま空を飛ぶ船だ」
妄言とも言い切れないほど、自信満々にルチアは言う。
彼女の語る「空」の話は、この部屋の湿気た空気を一瞬で乾燥させるような熱を持っていた。
「船が空を飛ぶなんて……おとぎ話の読み聞かせでもされたのかと思ったよ」
「違う。本当にあるんだ。鳥みたいに自由に、煤煙に汚されることもなく飛べる場所がな」
彼女は空中で何かを掴むように手を伸ばした。
「いいかニウ。あたしはいつか、自分の手で組み上げた羽根で、この汚い天井を突き破ってやるんだ。その時は……お前も連れてってやるよ。そう遠くない未来に」
あまりにも突飛で、あまりにも子供じみた言葉。
けれどその瞬間だけ、僕の胸の奥で、長く凍り付いていた何かが、わずかに軋んだ。
彼女は本気なのだ。
この地獄のようなベッドの上から、本当に星まで届く梯子を架けようとしている。
僕は細く息を吐き、隣で熱っぽく夢を語る少女の横顔を、黙って見つめていた。
…………
……
湿ったベッドの上で交わしたあの夜の約束は、僕の胸の奥に小さな、けれど消えない火種を残していた。
「それにしても、ルカがあんなになるとはな。本当にあの時は、死人のようだったからさ」
隣を歩くルチアが、思い出したように口を開く。
「……そうだね」
ルカがあんな風に笑い、声を弾ませて話すようになったのは、あの夜が過ぎた朝からだった。
今では、嫌がるルカがイヴに引きずられるようにして地下浴場へ向かうのが、この娼館の新しい日常になっている。無機質だったイヴの存在が、凍りついていたルカの時間を少しずつ溶かしていったのだ。
そんな変化を眩しく思う一方で、僕の隣にいるこの少女は、相変わらず僕の時間を力ずくで奪っていく。
「で、僕たちは今、どこに向かってるんだっけ?」
わざとらしく溜息をついて尋ねる。ルチアはあの夜以来、僕の「夜」を指名で買い占め、客としての奉仕を求める代わりに、こうしてガラクタ探しの手伝いをさせていた。
「何度も言わせるなよ。北の廃棄場だ。あそこで『羽根』になる材料を探すんだ」
ルチアは煤けたジャケットの襟を立て、前だけを向いて歩く。
彼女にとっての「夜」は、抱き合って体温を確かめるための時間ではなく、いつかこの街を脱出するための準備期間に過ぎない。
「羽根、ね……。ただの鉄屑にしか見えないけど」
「お前の目にはそう見えるだろうよ。でも、私にはわかる。あそこには、重力に逆らうための欠片が埋まってるんだ」
石畳を叩く彼女のブーツの音が、力強く響く。
僕たちは表通りの喧騒を離れ、さらに空気が重苦しく、油の匂いが濃くなる北の境界へと足を踏み入れた。
北の廃棄場は、街のあらゆる「不要物」がうずたかく積み上げられた、鉄の墓場だった。
巨大なクレーンが骸骨のような影を落とし、折れ曲がった配管や、主を失った機械の残骸が、酸性雨に打たれて赤黒く錆びついている。
「さあ、着いたぞ。ニウ、お前はあっちの『蒸気ピストンの残骸』が固まってる辺りを探せ。薄くて丈夫なジュラルミンの板があるはずだ」
「わかったよ……。でも、あんまり汚すと、店に戻った後にミカに怒られるんだけどな」
僕はぼやきながら、膝まであるゴミの山を掻き分けた。
ふと、積み上がった鉄屑の隙間に、何かが挟まっているのが見えた。
それは、折れ曲がった真鍮のフレーム。……どこか、鳥の骨格を思わせる形をしていた。
「……ルチア、これ、使えるかな」
僕がそれを引き抜こうとした時、背後の物陰から、鋭い軍靴の音が聞こえた。
ルチアが即座に姿勢を低くし、僕の腕を掴んで影に引き込む。
「──静かに」
ゴミの山の向こう側。
積み上がった鉄屑の影に身を潜めると、湿った風に乗って、二人の男の低い声が聞こえてきた。
治安維持局の制服を乱暴に着崩した男たちが、周囲を警戒しながら、荷台から大きな木箱を降ろしている。
「本当に、こんなことが治安維持になるのか?」
一人が、吐き捨てるように言った。その声には、正義感というよりは、薄汚い作業を押し付けられたことへの嫌悪が混じっている。
「仕方ねぇだろ。上からの命令……任務なんだからよ」
もう一人の男が、苛立ちを隠さずに答える。
彼らが箱の蓋をこじ開けると、中から異様に甘ったるい、そして脳を痺れさせるような匂いが漂ってきた。
「だがよ、やっぱりおかしくねぇか? 摘発したはずのこんなもんを、俺たち自身に運ばせて……」
「うるせぇ。余計なことを考えるな、さっさと終わらせるぞ」
男たちは、中身の詰まった小袋の山を、無造作にゴミの深淵へと放り投げた。
「いいのかよ? そんな手前に捨てちまって」
「構やしねぇ。こんな最果ての掃き溜め、誰も見に来やしねぇよ。……どうせ明日には、研究所の奴らが拾いに来る手はずになってるんだ」
男たちは最後の一袋を投げ捨てると、煤で汚れた手をパンパンと払い、そそくさとその場を立ち去った。
静寂が戻った廃棄場に、捨てられた麻薬の甘い匂いだけが、死臭のようにこびりついている。
僕は息を止め、胸の高鳴りを抑えながら、彼らが去った方向をじっと見つめていた。
男たちが去った後、僕とルチアは泥にまみれたゴミの深淵に、大量の「それ」が捨てられているのを確認した。
「こりゃあ、すげえな……」
ルチアが、乾いた喉を鳴らすように呟く。
破れた麻袋の隙間から溢れ出していたのは、一粒一粒が深海を凝縮したような、禍々しくも鮮やかな群青の結晶だった。あるいは、砕かれた星屑のようにも見える。それが月光を吸い込むたびに、鈍い燐光を放ちながら周囲の煤けた景色を、病的なまでに美しい色彩で侵食していく。
あの花屋の娘の指先に残っていた、どこか甘酸っぱい香りが、今は肺を焼き切らんばかりの濃厚な毒気となって立ち込めていた。
ルチアは躊躇うことなく膝をつき、抱えていた大きな鞄の中に、その結晶が詰まった袋を押し込んでいく。
「ルチア、何してるの!? それは……」
僕は思わず声を荒げた。それは国家が禁じ、人を狂わせるものだ。
「何言ってるんだ、ニウ」
ルチアが顔を上げる。その瞳には、すでに現実の鉄くずなど映っていなかった。
彼女の視線は、この汚れた空を突き抜け、その先にある光をとらえている。
「これが『羽根』だよ。これこそが、あたしたちの骨にこびりついた重力をはぎ取ってくれる、唯一の鍵なんだ」
彼女は結晶を一掴みすくい上げた。
僕の目には、それはただの致死量を孕んだ毒塊に見える。しかし、彼女の手の中にあるそれは、重さを失った光の欠片のように、微かに宙を浮いているかのような錯覚を僕に与えた。
ルチアは歪な笑みを浮かべ、重い鞄を背負い直した。
僕たちは、禁忌という名の翼を手に入れた。あの日、ベッドの上で語ったおとぎ話は、もう、夢のままではいられなかった。