男娼ニウ   作:涼月秋名

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境界

 次の日、僕はまたあの離れのお屋敷にお呼ばれした。

 巨大なバルコニーに差し込む光は、あの日と同じように計算し尽くされていた。

張り出した屋根が落とす心地よい影と、シミ一つない白いテーブルクロス。視界の端には、僕を閉じ込めるための白亜の塀が、この世界の境界線として泰然と横たわっている。

 僕は前と同じ、南側の席に座らされていた。

 

「ニウ、考え直していただけましたか?」

 

 テーブルの向こう側から、声が届く。

 テーブルの上には、以前約束した冷えた苺のゼリーが乗ってあった。

 銀の器の中で、それは宝石のような輝きを放っている。透き通った紅色の果肉は、昨夜廃棄場で見たあの群青の結晶とは対極にある、健康的で、正しく管理された美の象徴だった。

 

「この前、あちらの棟にニウのための書斎を整えさせました。もう、あのような湿った場所で夜を売る必要はありません。これからは、私の視界の中で、正しく磨かれるだけでいいのです」

 

 彼女の指先が、ゼリーの器の縁を優しくなぞる。

 彼女の語る未来は、甘く、冷たく、そして揺るぎない。

 彼女の世界において、僕は守られるべき愛玩物であり、この屋敷はそのための鳥籠に過ぎないのかもしれない。

 

「……」

 

 僕はスプーンを取り、一口そのゼリーを口に運んだ。

 舌の上で溶ける芳醇な甘み。それは驚くほど美味で、それゆえに酷く空虚だった。

 昨夜、ルチアが「これが羽根だ」と笑ったあの場所には、こんな清潔な甘みはなかった。そこにあったのは、肺を焼くような不快な毒気と、明日をも知れぬ狂気だけだ。

 けれど、今の僕には、彼女が用意した厚遇が、羽根をもぎ取られた鳥が一生を過ごすための、豪華な標本箱に見えて仕方がなかった。

 

「このゼリー、とても甘いですね」

 

 僕が呟くと、彼女は満足そうに微笑んだ。

 

 

 

 結局、契約書への答えを言い淀んだまま、昼食の時間は幕を閉じた。

彼女は僕の沈黙を「迷い」という名の肯定として受け取ったのか、それとも単に僕を自分の時間の中に繋ぎ止めておきたかったのか、いつになく強引に街への散策を提案した。

 いつもより早く屋敷を出て、僕たちは重厚な紋章の刻まれた馬車に揺られ、港町へと運ばれた。

 車窓の外、白亜の壁に守られた富裕層の居住区から、潮風と錆びた油の匂いが混じり合う港湾地区へと景色が移り変わる。馬車の車輪が石畳を叩く規則正しいリズムだけが、僕たちの間に流れる沈黙を埋めていた。

 馬車を降り、潮騒が遠く響く波止場近くを歩き始める。

 彼女は日傘を差し、僕の半歩前を軽やかな足取りで進んでいたが、ふと足を止めて僕を振り返った。

 

「ニウ、今日はいつにもまして元気がありませんね。私が用意したゼリーが、お気に召さなかったのかしら。それとも……まだ、あの場所への未練が断ち切れませんか?」

 

 その声には純粋な心配と、それゆえの残酷な独占欲が滲んでいる。

 僕は答えに詰まり、視線を海へと逃がした。

 

「ふふ、そんなに難しい顔をなさらないで。……実は私も、最近少し、胸が騒ぐことがあったのですよ」

 

 彼女は視線を落とし、日傘の柄を白手袋の手で握り直した。彼女の柔らかな表情に、初めて微かな陰りが差す。

 

「私の友人のお話です。ここから程近い場所に屋敷を構えている、古い家柄の娘さん。彼女とは、夜会のたびにテラスで話し込むほど仲が良かったのです。彼女はとても想像力が豊かで、私にこの海の向こう側にある、名前も知らない国の寓話をよく聞かせてくれました」

 

 潮風が、彼女のドレスの裾を揺らす。彼女の話は、どこか遠い異界の出来事のように響いた。

 

「けれど、彼女……急にいなくなってしまいました。ある日を境に、屋敷の門は固く閉ざされ、夜会にも姿を見せなくなりました。私、心配になって彼女のご家族にお手紙を差し上げました。でも、返ってきたお返事は、身の毛もよだつものでした」

 

 彼女は一度言葉を切り、震える指先で日傘の柄を強く握りしめた。その瞳には、港の穏やかな青空ではなく、暗い底なしの淵が映っている。

 

「彼女の家の方は、ただ一言『娘は死んだものだと思ってください』とだけ書き残して、それ以降、一切の接触を拒まれました。……でも、私は諦めきれず、家格にふさわしくない手段を使って彼女の行方を追いました。そして、ようやく彼女を見つけ出したのは、この付近にある廃教会の中でした」

 

 僕は、びくりとした。

 彼女の声から、気品という名の鎧が剥がれ落ち、生々しい恐怖が漏れ出す。

「そこにいたのは、私の知っている彼女ではありませんでした。かつて寓話を語り、知性に輝いていた瞳は虚空を泳ぎ、その体からは、吐き気を催すほど甘酸っぱい匂いが立ち込めていたのです。彼女は、治安維持局が血眼になって探しているあの……麻薬に、骨の髄まで侵されていました」

 

 僕は息を呑んだ。廃教会でみたあの女性、そして廃棄場で嗅いだあの群青の毒の匂いが、記憶の底から這いあがってくる。

 

「彼女はボロボロになった祭壇の前で、もう動かない指を必死に動かして、目に見えない何かを掴もうとしていました。私がお名前を呼んでも、彼女はただ、うわ言のように『あそこへ行かなきゃ」と繰り返すばかり。彼女を繋ぎ止めていたこの世界の理は、すでにあの毒によって完全に壊されてしまったのです」

 

 彼女は僕に一歩近づき、すがるような視線を向けた。

 

「ニウ、私は恐ろしいのです。もし、あなたが、私の知らない向こう側へ行こうとして、彼女のように壊れてしまったら……私、どうすればいいのでしょう。あの廃教会の冷たい床で、独りぼっちで空を掴もうとするあなたなんて、見たくありません」

 

 彼女の指が僕の袖をつかむ力に、狂気にも似た執着が混じる。

 彼女が友人に見ていた向こう側とは、この地獄からの脱出だったのか、それともただの美しい破滅だったのか。

 僕たちは、穏やかな陽光の下で散歩しているのではない。

 一歩踏み外せば、そこには廃教会の床が広がっている。

 僕は彼女の手を優しく払いもせず、ただ、遠い潮騒の中にルチアの笑い声を聞いていた。

 

 

 

「申し訳ありません。突然、暗い話をしてしまいました」

「大丈夫ですよ」

 

 彼女は、この話を誰かに聞いてほしかったのだろう。

 自分一人では抱えきれない現実の重みを、僕に分かち合うことで、僕をこの地面に繋ぎ止めようとしているのだろう。

 

「せっかくの、機会ですのに。これではいけません。街に来たのですから、楽しみましょう」

「そうですね」

 

 彼女はちらちらと、僕を横目で見ていた。

 

「あ……ニウ、ご覧になってください。あそこで焼き菓子を売っています」

 

 彼女が指差したのは、路地の角にある小さな屋台だった。

 石炭の匂いに混じって、バターと砂糖が焦げる匂いが漂ってくる。

 

「一つ、買ってみましょうか」

 

 銀貨を数枚払い、紙に包まれた温かな菓子を受け取る。

 彼女はそれを大切そうに両手で持ち、半分に割って僕に差し出した。

 指先がわずかに触れる。生きている人間の温度。

 

「おいしい……。ニウ、口の横に粉がついていますよ」

 

 彼女はいたずらっぽく笑うと、ハンカチを取り出して僕の頬を軽く拭った。

 その瞬間、柔らかな布越しの感触と、彼女から漂う香水の香りが、脳裏に焼き付いた甘酸っぱい匂いを一瞬だけかき消した。

 

 

 

 僕たちはそれから、あてもなく港町を歩いた。

 時計塔の影がゆっくりと伸びるのを眺め、古本屋の店先で色褪せた地図を一緒に覗き込み、道端に座り込む野良猫のあくびに二人で顔を見合わせた。

 

「こうしていると、なんだか……悪い夢を見ていたみたいですね」

 

 彼女は独り言のように呟いた。

 ただの年相応な少年と少女だ。

 

「……そうですね」

 

 僕は、昨夜廃棄場で、拾って入れたままだったポケット内のネジの破片を握りしめた。

 その鋭い角が掌に刺さり、痛みが「ここはお前の居場所なのか」と囁く。

 それでも僕は、隣で幸せそうに歩幅を合わせる彼女に合わせて、ゆっくりと、地を這うように歩き続けた。

 

 

 

 石畳の路地を抜けると、視界が急に開け、街で最も賑やかな広場に出た。

 広場を囲む建物は、どれも煤けた煉瓦造りだが、窓辺には色とりどりの洗濯物や鉢植えが並び、人々の生活の匂いが溢れている。

 中心には、巨大な噴水が鎮座していた。

 複雑な真鍮のオブジェから、幾筋もの水が放物線を描いて踊っている。

 水しぶきが午後の柔らかな光を反射して、まるで砕けた銀細工のようにきらきらと二人の足元に降り注いだ。

 

「わあ、虹が出ていますよ、ニウ」

 

 彼女が僕の袖をぐいと引き、噴水の縁へと駆け寄る。

 跳ねた水滴が彼女の頬に真珠のように乗り、彼女はそれを拭いもせずに、屈託のない笑顔を僕に向けた。

 あまりの眩しさに、僕は一瞬呼吸を忘れる。

 彼女が僕の手を取り、「こちらへ」と指を絡めてくる。その指先の熱が、先ほどまでの冷たい話を、さらに記憶の底へと押し流してくれた。

 上目遣いで僕を見つめる彼女の瞳には、空の青さがそのまま映り込んでいる。

 僕たちは、どちらからともなく肩が触れ合う距離まで寄り添い、一歩一歩、確かな地面を踏みしめて歩いていた。

 このまま、この時間が、どこまでも続いていくような錯覚。

 僕が彼女の貌を覗き込もうと少し顔を近づけた、その時だった。

 

「……あ!」

 

 前方から響いたのは、聞き覚えのある、凛としていて、それでいて少しドスの利いた声。

 そこには、治安維持局の黒い制服を隙なく着こなし、ガスマスクを首に下げた一人の女性が立っていた。彼女は手にした巡回用の書類を丸めて、眉間に深い皺を寄せている。

 

「げっ」

「『げっ』じゃない! 何してるんだお前!」

 

 彼女は、大股でこちらへ歩み寄ってくると、僕の鼻先に丸めた書類を突き付けた。

 お姉さんの迫力に、僕は思わず一歩後ずさる。

 隣では、さっきまで夢見心地だった彼女が、目を白黒させて僕と制服のお姉さんを交互に見ていた。

 

「……あの、ニウ? なんですか、この怖そうな人は。お知り合い……ですか?」

 

 彼女の声が少し震えている。

 

「いや、知り合いというか……」

 

 僕は言葉を濁した。

 

「お前こそ誰だ。見たところ娼館の娘ではなさそうだが」

 

 お姉さんは、隣の彼女を検品するように、鋭い視線を頭からつま先へと走らせる。

 手入れの行き届いた柔らかな金髪。汚れ一つない刺繍の施された靴。そして、何よりこの汚濁に満ちた街には不釣り合いな、無垢で真っすぐな瞳。

 お姉さんの口角が、皮肉めいた形に吊り上がる。

 

「お前、いつからそんな高貴な『お人形様』のエスコートを任せられるようになったんだ。娼館のネズミにしては、上出来な化け方だな」

 

 その言葉は、僕の胸の奥にある無いと思っていた罪悪感を揺さぶった。

 その時、震えていた彼女が一歩前に出た。

 彼女は僕の腕からそっと手を放し、背筋を伸ばして、優雅さを崩さず、黒い制服と対峙する。

 

「失礼な言い方はお止めなさい。私は、マテルダ・ポルティナリと申します」

マテルダ。その響きは、この広場に流れる噴水の音よりも清らかに響いた。

 

 ポルティナリ。この街の歴史に名を連ねる、古くから続く名家の名だ。

 

「ニウは、私の恩人です! 決して、あなたが仰るような……その、ネズミなどではありません!」

 

 彼女は凛とした声で言い放ったが、その指先はまだ小さく震えていた。

 お姉さんは驚いたように目を丸くした後、ふっと肩の力を抜き、やれやれと首を振った。

 

「ポルティナリ、ねぇ……。なんでまたこんな出来損ないの羽虫に」

 

 お姉さんは鼻を鳴らし、ひどく場違いなものを見たと言わんばかりに、興味なさそうに嘲笑う。その視線は、マテルダを世間知らずの産物として切り捨てているようだった。

 マテルダは、握りしめた拳を震わせながら、いまだにお姉さんを真っすぐに睨みつけていた。

 

「それで、お姉さん」

 

 僕はあえて、マテルダの背絵を隠すように一歩前に出て、茶化すような調子で声をかけた。

 

「『お姉さん』と呼ぶな!」

「はいはい。それで、最近、局の人たちがやけに血眼になって走り回ってるけど、何なの?」

 

 僕が問いかけると、お姉さんの鋭い瞳がさらに細められた。広場を流れる噴水の涼やか

な音が、一瞬、不気味な静寂に飲み込まれる。

 

「……」

「麻薬が横行してるんでしょ?」

 

 僕の口から出たその言葉に、マテルダが小さく息を呑んだのが分かった。

 お姉さんは図星を突かれたように、一瞬だけ視線を泳がせ、それから舌打ちをして書類を脇に抱え直した。

 僕は何かを知らず、彼女は何かを知っている。

 

「お前らガキには関係のないことだ。首を突っ込むな」

 

 お姉さんはそれだけ言うと、マテルダには目をくれず、軍靴の音を石畳に響かせて去っていった。

 その背中に漂う、焦げたオイルと冷たい汗の匂い。

 噴水の虹はいつの間にか消え、広場には時計台の長い影が、不吉な指先のように僕たちの足元まで伸びていた。

 

 

…………

……

 

 その夜、自室の扉を開けた瞬間、空気の密度が一段上がったのを感じた。

背筋を走ったのは予感という名の微かな震えだった。

 使い古された燭台に火を灯すと、狭い部屋の輪郭がゆっくりと膨張するように浮かび上がる。そこには、やはり先客がいた。

窓から差し込む月光と揺れる蝋燭の橙。その二つの色が混ざり合う境界線上で、彼女の髪は、光沢を失った真珠のように、鈍く、けれど妖しくきらめいていた。

 

「おつかれ、ニウ」

 

 ミカの声は、冷たい硝子を撫でるような淡い響きを帯びていた。

僕は彼女の隣に腰を下ろした。

 彼女の体温が冷えた僕の肌に、独のように甘く浸透してくるのを感じた。

 

「おつかれさま、ミカ。……どうかしたの?」

「『どうかしたの』じゃない」

 

 ミカの指先が、僕の首筋に触れた。震える指は冷たいのに、そこから伝わる情動は沸騰した泥のように熱い。

彼女は僕の肩に顔を埋め、深く、飢えた獣のように呼吸を繰り返す。

 

「嫌な匂い。清潔で、退屈で、何も知らない女の匂い……」

 

 ミカの細い指が僕の服を掴み、爪が肌に食い込むほどに力がこもる。その痛みさえ、今の彼女にとっては僕をこの世界に繋ぎ止めるための楔なのだ。

 

「ニウ……どこにも行かせない」

 

 案の定、視界は乱暴に反転し、天井の染みが僕の視界を塞いだ。

 彼女は無言のまま僕に覆いかぶさり、銀色の髪が僕の顔に帳のように降り注ぐ。

月光を背負った彼女の貌は、幼さを残しながらも、地獄の淵に咲く花のような残酷な美しさを湛えていた。

 

「私の、ニウ。私の……」

 

 彼女の熱を帯びた舌が、僕の耳元から鎖骨にかけてのラインを、領土を刻印するように深く、執拗になぞった。それは愛撫というにはあまりにも暴力的で、悲痛な、生身の叫びだった。

 薄いシャツ越しに伝わる彼女の胸の高鳴りが、僕の鼓動を共鳴させる。

 シャツのボタンが弾け、床に転がる乾いた音が部屋に響く。

 むき出しになった肌に、冷たい夜気と彼女の熱い吐息が同時に触れ、僕は反射的に身を震わせた。

ミカは僕を見下ろしながら、その濡れた瞳に、今にも崩れ落ちそうなほどの愛憎を滲ませる。

 

「……私のニウ。……遠いよ」

 

 彼女はそう呟くと、僕の胸元に顔を寄せ、今度は深い爪を立てた。

 痛みと、それ以上に熱い痺れが全身を駆け抜ける。

 

「ミカ……苦しいよ」

「苦しめばいい。私と一緒に」

 

 彼女の唇が僕のそれに重なった。

 それは、今日食べた苺のゼリーや焼き菓子よりもずっと苦く、けれど喉が焼けるほどに濃厚な毒の味がした。

 ミカの銀髪が僕の指に絡みつき、雲母の薄片のような光を散らす。僕たちは、部屋の隅で、互いの存在を確認しあうように、むさぼるように、重なり合った。

 服の重なりが消え、肌と肌が密着する。

 彼女の肌は陶器のように滑らかで、それでいて激しい鼓動を打ち鳴らしていた。

 外部の世界を隔絶したこの閉ざされた空間で、彼女の湿った喘ぎだけが、僕がまだこの地獄という名の現実の中に生きていることを証明する唯一の旋律となっていた。

 窓の外では、あの忌々しいほどに美しい月が、僕たちの無様な愛執を嘲笑うように照らし続けている。

 だが今の僕には、その月よりも、僕を押しつぶす彼女の重みの方が、ずっと確かに感じられた。

 

 

 

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