男娼ニウ   作:涼月秋名

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ニウ

 

「ここだよ、いま開けるね」

 

 月と海が塗られた悪趣味な木製扉の前に二人は立っていた。フロントの長身男に渡された鍵を鍵穴に差し込み、扉を開ける。

 

「あまり、ドアノブ以外を触らない方がいいよ、ニスが溶けていて手が汚れちゃうから」

 

 イヴはてくてくと僕の後をついて部屋に入る。部屋の中心には天井から垂れ落ちる天幕に覆われた、大きなベッドが据えられている。

 四本の柱は深い色つやを帯び、長い年月夜と吐息を受け止めてきた木の静かな疲労を孕んでいる。

 部屋に入ってすぐ横に設置された石油ランプに少し湿ったマッチで火をともすと、薄絹の天幕は淡く光をすかし、ランプの炎を揺らぐ影へと変える。

 扉の開閉によって布はわずかな気流によって空を撫でるように呼吸していた。

 ベッドを中心に据えた円環のように、生活感のない家具は控えめな距離を保って並んでいる。

 天幕の内側は、外界から切り離された別の時間が流れる場所である。

 そこでは、夢と現実が互いの輪郭を借り合う。厚い寝台は身体を迎え入れるために存在しているというより、そこで幾夜に渡って行われてきた情事を蓄積した器のように見える。

 この部屋は、生活を誇示するために整えられているのではなく、中心にある天幕付きのベッドを核として、すべてが沈黙と余韻に従属している。

 ここの管理人が日々継ぎ足しているランプのオイルに混ざり、独特な香の匂いが鼻をつく。

 それを受け、僕の身体は準備を始めていた。

 

「じゃあ、客人が来るまでここで待機するよ。そこの引き出しにある香水をとってくれる?」

「はい」

 

 イヴはベッドの横に置かれた木製の収納棚から、派手なガラス細工が施された瓶を取り出し、僕に渡す。

 ランプの光に照らされ、淫靡なピンクの波影を天幕に映し出す。

 僕は栓を手で押さえ瓶を傾けたあと、栓を抜き、裏側に染みた香水を耳の後ろと首、鎖骨に擦りつける。

 つんと鼻を刺激するローズマリーの香りが僕を包む。

 ひとしきり香水のつけ方をイヴに見せると、イヴの今後のために一連の流れを再現するように伝え、一度栓をはめて瓶をイヴに渡す。

 

「あんまりつけすぎると具合悪くなっちゃうから、気を付けてね」

「はい」

 

 イヴは、僕が見せた通りの手順で瓶を傾ける。すると、栓がぽろっと抜けて香水が無慈悲にも床に零れ落ちる。

 

「あっ」

 

イヴは、素っ頓狂な声を上げ、少し慌てた様子で瓶を持っていない左手で栓を拾おうと屈むと、さらに瓶が逆さまになり、中身すべてが床に零れ落ちた。

 またも、それに焦ったイヴは、大慌てで瓶を上に戻し、その反動で左手が栓にぶつかり、栓はたちまちベッドの下の方へころころと転がっていった。

 イヴの視線は、右手に持った瓶と、ベッドの下を行ったり来たりし、最後は僕の顔に視線をやった。

 存外、イヴは粗忽者かもしれないと、良い意味で印象が変わった。

 

「まぁ、あと少ししか残ってなかったし、気にすることないよ」

「……はい」

 

 心なしか、表情を暗くしたイヴを見て、これはまた面白い少女だなと思った。

 

 

 

 僕は、備え付けの布巾で水たまりを作っていた香水をふき取り、ベッド横に置かれた籠に放り投げた。

 一応ベッドの下を覗いてみたけれど、埃まみれだし僕より何倍も重いベッドを動かすなんてことは現実的ではなかったため、栓は諦めることにした。

 一通り、後処理を終えて、イヴに視線を向けると、イヴはベッドの隅っこに腰掛けて俯いていた。

 

「少し、部屋がいい匂いになっただけで、そんな落ち込むことはないと思うよ」

 僕は苦笑し、数度目にもなる励ましの言葉をイヴにかける。

「すみません。私、不器用で」

「イヴにも、ちゃんと可愛いところはあるね。これなら、問題ないかな」

「そうですか?」

 

 イヴは俯いた顔を上げて僕の方を見る。少しは立ち直ったようにも見えた。

 

「うん。実はね、少し心配してたんだ」

「心配ですか」

「イヴがあまりにも不愛想だと、今後客人を選ぶことになるから」

「……」

 

 今度は、イヴが心なしか不服そうな顔をしていると僕にも分かった。話していると、だんだんとイヴの表情や、話し方の微小な違いがわかってきて、僕はイヴとの会話に楽しみを覚えてきた。

 

「そうだ、イヴは結局香水つけてないよね」

「そうですね」

 

 僕もイヴの隣に腰掛ける。

 二人が立っていた時と同じように、僕がイヴを見上げる状況になった。イヴは、僕の意図がわからず、呆然としている。

 少し悪戯したくなった僕は、少し背伸びしてイヴに近づく。イヴは少しだけ身を震わせて固まった。

 ランプの灯が爆ぜ、天幕に落ちた影が大きく揺れた。

 僕は、固まったままのイヴの肩にそっと手を置き、逃げ道を塞ぐようにして顔を近づける。

 イヴは後ろに下がろうにも、ベッドの端に行き着いた。

 至近距離で交わる視線。イヴの瞳の奥には、困惑と、それから自分でも気づいていないような熱が小さく灯っている。

 

「ほら、動かないで」

 

 囁きながら、彼女の耳の後ろへと自分の肌をゆっくりと滑らせた。

 触れた肌は驚くほど熱く、そして吸い付くように滑らかだった。

 ローズマリーの鋭い芳香が、二人の体温に温められて、より深く、より濃密に立ち昇る。

 

「……っ」

 

 イヴの喉が小さく鳴る。

 僕は構わず、今度は自分の首筋を、彼女の白く細い首筋に押し当てた。

 体重をゆだねるように、甘え好きの猫のように、イヴに抱き着く。これは単なる接触ではない。互いの鼓動が皮膚の薄い膜を隔てて共鳴し合うのを感じるまでに、深く、執拗に。

 僕が動くたびに、天幕の影が僕たちを飲み込むように揺れ、外界の音をすべて遮断していく。

 

「イヴ、その調子」

「あっ」

 

 耳元で吐息を漏らすと、イヴの肩が小さく跳ねる。

 僕はイヴの鎖骨のくぼみに、自分の鎖骨を這わせるようにして、香りの粒子をこすりつけた。摩擦が生む微かな熱で、ただの香水が情欲を孕んだ潤滑油へと変わってゆく。

 僕の体温と、イヴの体臭、そして零れた香水の残り香が混ざり合い、天幕の内側は目眩がするほどの芳香に満たされた。

 最後にもう一度、イヴの耳朶に触れるか触れないかの距離で、深く息を吸い込む。僕のつけたローズマリーは、今や彼女の肌にも住み着いていた。

 

「これで大丈夫」

 

 顔を離すと、イヴの頬は、先ほどの瓶の影よりもずっと鮮やかな朱に染まっていた。

 

…………

……

 

 僕とイヴは、芳香に包まれた天幕の中、部屋に来たばかりの時よりも、互いに近い距離で横並びに腰掛けていた。

 無言の時間は相変わらずだが、先ほど肌を寄せ合った熱の残滓が、静寂から刺々しさを奪い去っていた。

 漂う香気は、もはや鼻をつく刺激ではなく、僕たちの境界を曖昧にする心地よい澱みとなっている。

 

「ところで、イヴは初めてじゃないって言っていたけど、こーいう仕事はやったことあるの?」

「ありません」

 

 迷いのない、淡々とした否定だった。その言葉の響きから、彼女が過去に経験したのは慈しみでも仕事でもなく、ただ避けられなかった事象に過ぎないのだと察する。

 

「じゃあ、客人が来る前に一つだけ……」

 

 家庭事情や、抗えぬ環境の果てにその行為があったとしても、ここではそれと奉仕者として向き合わなくてはならない。

 ここでは、心は石のように固く、体は絹のように柔らかくあることが求められる。己を一個の人間ではなく、精巧な自動人形へと作り替え、客人の歪な欲望を映し出す鏡になる作業——。それが初めての者にとって、どれほど魂を削る振る舞いであるかは、これまでに崩れ去っていった多くの子たちの背中が物語っていた。

 

「いい、イヴ。一番大切なのは、自分をここに残さないことだよ。……心までこの天幕の中に閉じ込めちゃいけない」

 

 僕の言葉を聞いたイヴは、ただじっと、僕の顔を見つめていた。

 先ほどまで耳元で熱を吐き、蒸気を発するかのように朱く染まっていた頬は、いつの間にか、初めて出会った時のあの無機質な静謐さを取り戻している。

 だが、今の彼女からは、確かに温度が感じられた。それは生物が放つ脈動する熱というより、静かに、しかし絶え間なく稼働し続ける機械が帯びる、一定不変の排熱に似ていた。

 僕がイヴに、ここで生き抜くための処世術を説いているはずだった。

 それなのに、彼女の瞳に見つめられていると、自分の口から出た言葉の端々が自分自身の胸を突き刺す。鏡の中に閉じ込められた自分の嘘を、何よりも純粋な真実に暴かれているような、形容しがたい後ろめたさが胃の奥を攪拌(かくはん)する。

 

「……心、ですか」

 

 イヴは唇をわずかに動かした。その声には、悲しみも諦念も混じっていない。ただ、そこに存在しない概念を定義しようとする試みのような、空虚な響きがあった。

 その時、重厚な廊下の向こうから、床をたたく不規則で卑俗な足音が聞こえてきた。

 

「来たよ……イヴ」

 

 ふと、イヴの瞳の奥をのぞき込む。そこには、鏡のように明瞭に、今の「僕」が映し出されていた。

 それは、イヴが実際に見ている今の「僕」と同じ「僕」である。

 イヴは何も言わない。

 ただ、僕が意識の底に沈めて殺したはずの何かを、彼女の濁りのない黒い瞳が、あまりにも鮮明に、残酷に、僕の目の前へと引きずり出していた。

 

 

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