男娼ニウ   作:涼月秋名

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ミカ

 客人が去り、重厚な木製扉が閉まった後の部屋には、澱のような静寂が沈殿していた。安酒の濁った匂いと、男の荒い吐息、そしてそれらを無理やり覆い隠そうとする香水の芳香。

 それらが混ざり合い、天幕の中は呼吸するのも躊躇われるほどに、不潔な熱を帯びていた。

 僕は、乱れたシーツの上に力なく身を投げ出していた。喉奥には、粘りつく男の淫情と、先ほどまで吐き出していた偽りの喘ぎが苦い後味としてこびりついている。

 ずっとこうしてもいられない。

 僕は重い体を引きずり、湿度を吸って肌にまとわりつくシーツの不快感に耐えながら、ベッドの端から床を見下ろした。

 イヴは冷たい床の上に横たわっていた。

 はだけた胸元や乱れた髪を整えようともせず、ただ一点、虚空を見つめている。

 愛撫しようにも、乱暴しようにも、彼女の反応はどこまでも希薄だった。

 それが客人のサディズムを逆撫でしたのだろう。

 男は一方的に彼女を辱め、飽きるとゴミのように床へ転がした。

 その後は、残った鬱憤をすべて僕に叩きつけて楽しんでいた。

 

「おつかれ、イヴ」

「……お疲れ様です、ニウ」

 

 イヴは寝返りを打ち、僕をその暗い瞳に映した。存外、その声に震えはなく、先ほどまでの蹂躙を感じさせないほどに平坦だった。

 

「ごめんね。僕の持ち客は、嗜好が偏ったのが多いから」

 

 それが、イヴが床に転がされることになった、もう一つの理由だった。

 僕は男娼として、この場所では歪な端数として数えられる身の上だ。

 当然、同僚のほとんどは少女であり、僕が未だにここに置かれているのは、特定の、そして執拗な需要があるからに他ならない。

 僕を指名する客は、好奇心で覗きに来るか、あるいは僕でなければ満足できないほどに心が歪んでいるかのどちらかだ。

 今回の客人は、明確に後者だった。

 本命である僕の横に、不慣れな新入りの少女が添えられている。男にとって、それは格好の「腹いせ」の対象でしかなかった。

 僕に執着する男の毒を、彼女が肩代わりさせられたのだ。当然、その後の付けは僕にも回ってきたけれど。

 これまで僕が手ほどきしてきた子たちも、皆、同じように無残な夜を過ごしていった。

 上の人も、相当に意地悪だ。それはある種の洗礼とも取れなくはなかったが、教育というよりは選別、あるいは僕という歪な商品を際立たせるための、悪趣味な演出な気もする。

 その真意は、僕の知るところではない。

 

「私は大丈夫です。ニウは……」

「僕は慣れたものだからね。少し腰が痛いけど」

「そうですか」

 

 僕は、苦笑し応えた。自分も無傷ではないはずなのに、僕の心配までしようとするイヴに対し、素直な感心が胸を掠める。

 

「イヴも初めてだし、今日はこれで終わりでしょ?」

「はい」

「じゃあ、行こっか」

「……何処へですか?」

 

 僕は、少しだけ悪戯っぽくはにかんでみせた。

 

「お風呂だよ」

 

 

…………

……

 

 

 この館は公衆浴場としての側面も持っているが、客人が浸かる湯と、僕たちが身体を沈める場所は厳格に分けられていた。

 かつては客人と娼人がひとつの浴槽で睦み合う文化があったらしいが、近年の島におけるシフィリス等の蔓延が、その蜜月を切り裂いた。

 僕たちが利用する浴場は、客人が愛でる煌びやかな大理石のそれとは対照的に、酷く無機質で簡素なものだ。

 館の地下深く、剥き出しの配管がのたうち回り、蒸気機関の排熱を再利用した湿っぽく薄暗い空間。

 そこには病魔を拒絶するためのきつい薬品や硫黄の匂いが絶えず立ち込めており、お世辞にも安らぎの場とは呼び難い。

 けれど、娼人同士の交流が容易い場所で居心地が悪いというわけでもない。

 何より、汚れてしまった体を洗い流すことができる。

 

「ほらっ、目閉じてないと沁みるよ」

「あの……」

「イヴ、髪綺麗だね。指に吸い付くのに、驚くほど滑らかで」

「……ニウ」

「手入れとか大変じゃない?僕はこんなに長くないから、尊敬するよ」

「…………」

 

 僕は地下の浴場で、指の間をすり抜ける、煤煙に汚れた街におよそ似つかわしくない艶やかな黒髪の感触を楽しんでいた。

 最初は少し抵抗していたけれど、目下(もっか)のイヴは、ついには諦めたのか従順にされるがまま目を閉じてじっとしている。

 少し勝ち誇った気分になり、上機嫌でイヴの髪に指を絡める。

 

「こんな感じで大丈夫?痛かったりしないかな」

「……ニウは上手ですね」

「慣れてるからねぇ」

「……」

 

 力を入れすぎず、商売道具となる髪を傷めないように、丁寧に石鹸の泡の膜で絡めていく。

 改めてイヴの髪に意識を向けると、ふと、違和感を覚えた。

 それは、イヴの腰まで伸びた長い髪である。

 この島で、腰まで届くほどの長い髪を維持している娼婦なんて、まずいない。

 長髪の維持なんてものは、煤煙が舞い、石炭の粒子が空気に混じるここらでは、非常に困難なことである。

 ましてや、僕たちのような商品にとって、長い髪はただの重荷でしかない。

 客人に手折られ、引きずり回されるための取っ手に成り下がるのが関の山だ。

 

「もしかして、イヴっていいとこの出なの?」

「そんなことはありません」

「ふーん」

 

…………

……

 

「じゃあ、流すからこっちに来て」

「はい」

 

 目を閉じたままのイヴの手を引き、慎重に立ち上がらせると、そのまま剥き出しのノズルの下へ連れていく。

 壁面には蔦のように複雑に絡まり合った真鍮の配管が這い、その先で不格好な円盤状のノズルが不気味に突き出している。

 錆びついたバルブを回すと、外燃機関の余剰圧力を利用した熱水が勢いよく噴射された。

 イヴはその飛沫を全身に浴びながら、髪に付着した泡を淡々と洗い流していく。

 やがてイヴは顔の水滴を指先で拭い、振り返ると、意外な提案を口にした。

 

「今度は、私がしてあげます」

「え、うん。じゃあ、お願いしようかな」

 

 存外に積極的な彼女の申し出に、僕は戸惑いながらも、身を預けることにした。

 まだ出会って間もないし、自分の内側をさらけ出すことのなさそうな彼女が、折角見せてくれた歩み寄りが素直に嬉しかったのだ。

 

 けれど、その喜びはすぐに、形容しがたい物理的な衝撃へと上書きされた。

 イヴの力加減は、お世辞にも「人の髪を洗うもの」ではなかった。

 彼女が指を動かすたび、僕の頭は右に、左にと、抗えない力で揺さぶられる。

 そういえば、先ほどの香水の件でもひと悶着あったことを思い出し、僕は内心で冷や汗をかいた。

 しばらく様子を見ていたけれど、ついには音を上げてイヴに声をかけてみる。

 

「あ、あの……イヴ?」

「痛かったりはしませんか?」

「っ、……うん、大丈夫」

 

 僕の声はあまりイヴの耳に入っていないようで、集中した様子で僕の髪をいじくる。ここまでくると、もうどうでも良くなって、喉まで出かかった「待った」の声を飲み込んだ。

 すると、ささやかな願いが通じたのか、頭の揺れが止まった。

 立ち込める湿った蒸気の中で、背後から彼女の凪いだ声が響く。

 

「ニウは……」

「うん?」

「客人にも、ああいう顔を向けるのですね」

「どういう意味かな」

「あの、ローズマリーの顔です……」

 

 意味が分からず、僕は困惑に眉を寄せた。

 

「ニウは、あの男の人にも、あの時の同じ温度で接していました」

 

 なるほど、と少しだけ納得できた。イヴは僕の顔、というよりも行為そのものを言っているのだ。

 

「そうだね。僕にとっては、それが仕事か、そうでないかの違いでしかないんだ。どちらも役割をこなしている感覚だよ。……でも、全く同じってわけでもない。そこに不快感があるかないか、その程度の差かもしれないけれどね」

 

 実際、僕にとって客人と肌を合わせることは、義務感と自意識が溶け合って、もはや境界が曖昧になっている節がある。イヴにこうして悪戯を仕掛けたことも、僕にとってはその延長線上にあるだけのような気がして、明確な差異を見出せずにいた。

 

「それは……とても悲しいことだと思います」

 

 彼女の静かな、断罪のような一言の意味を、今の僕は正しく知ることはできなかった。けれど、心の隅で小さな悪戯心が鎌首をもたげる。

 

「かもしれないね。……でも、イヴ。今、君とこうして髪を洗い合っているこの時間は、客人に向けていた温度とは、ほんの少しだけ、違うつもりなんだけどな」

 

 びくり、とイヴの指先が震え、その微細な振動が僕の頭皮に伝わった。僕は、薄っぺらな嘘と悪戯で話を切り上げる。そのやり取りに、形容しがたいささやかな充足を感じていた。

 

 

 それは、ニウの無意識下で、イヴの言葉に共鳴した感情であった。

 

 

…………

……

 

 僕が体を洗い合おうと提案したら、イヴが逃げ回るものだから、別々に体の汚れを洗い流し、浴場を出た。

 その後、フロントで諸々の報告等を終わらせると、自室への帰還が許可された。

 今度は、左側の螺旋階段を昇り、イヴと二人で素朴な廊下を歩いていた。

 歩いているときでも、最初の頃よりイヴとの距離は縮まり、今は僕の半歩後ろをてくてくと着いてきていた。

 イヴの足が一つの扉の前で止まった。どうやらその部屋がイヴに設けられた宿部屋らしい。

 接客部屋とは異なり、あちこちに隙間風が入り込みそうな、年季の入った木の扉だ。

 ここでの生活は、贅沢とは程遠い。一年目の新入りは大抵、窓もない狭い一部屋を二人で共有し、寝るためだけの場所として押し込められるのだ。

 

「じゃあ、また明日」

 

 僕が短く別れを告げると、イヴは扉の取っ手を握ったまま、不思議そうに首を傾げた。

 

「明日ですか?」

「うん。暫くは僕がイヴの面倒を見ることになったから」

「そうですか」

 

 イヴの返答は、やはり相変わらず無機質だった。

 フロントで長身男から、そういう旨を言い渡された。

 新入りの手ほどきは、一、二週間は付きっ切りになるのが通例だ。

 客人の評価や振る舞いを上が精査し、独り立ちできると判断されるまで、彼女は僕の所有物として扱われる。

 

「おやすみ、イヴ」

「おやすみなさい。ニウ」

 

…………

……

 

 廊下の突き当たりにある、自分の部屋の鍵を開ける。

 扉を押し開け、使い古された燭台の蝋燭に火を灯すと、狭い自室の輪郭がぼんやりと浮かび上がった。

 

 一人部屋として宛がわれているはずのその場所には、先客がいた。

 蝋燭の赤みを帯びた灯りと、煤けた窓から差し込む青白い月光。

 その二つが混ざり合う境界で、彼女の髪はくすんだ銀色に鈍くきらめいていた。

 その透き通るような質感は、まるでこの島の排気ガスにさらされて変色してしまった真珠のようでもあり、僕は不意に目を奪われる。

 

「おつかれ、ニウ」

「おつかれさま、ミカ。僕に何か用かな?」

「そんなつれないこと言わないで。ちょっとだけニウと話しに来ただけ」

 

 ミカは透明感のある淡い声で、そう言った。

 

「そっか」

「いいから、横座って」

 

 ミカは、ポンポンとシーツを叩いて僕を促した。

 

「はいはい」

 

 僕は、ミカのすぐ隣に腰掛けると、彼女は僕との距離を縮める。

 

「ニウ、今日も疲れた。私、たくさん頑張った」

「そうだね、偉いよミカ」

 

 ミカは甘えたように、僕の肩に頭を預ける。

 僕は彼女の髪にそっと指を通す。

 煤煙と石鹸の匂いが混じったその髪は、毛先が酷く傷んでいたけれど、指を滑らせるたびに雲母の薄片のように繊細な光を放つ。

 

「ニウはどうだった?今日はあの人のところ行ってきたんでしょ?」

「あー……」

 

 僕は、昼間の光景を思い出す。

 息の詰まるような豪華な調度品、重苦しい静寂が支配する高い天井。

 外界から隔絶されたあの空間には、僕たちの住む路地裏にはない何かが停滞しているようで、思い出すだけで肺の奥が重くなる。

 

「……いつも通りだったよ。今日は、特に何事もなく終わったよ」

「そう……」

 

 返る声が沈んでいた。

 僕の部屋に、澱のような重い空気が充満する。

 心配されているはずの僕よりも、ミカの方がずっと、逃げ場のない何かに追い詰められているように見えた。

 ミカは祈るような、あるいは呪うような小さな声で囁いた。

 

「ニウ、どこにも行っちゃだめだ……」

 

 僕の腰に回された腕に、ぎゅっと力がこもる。細い指が僕の衣服を掴み、その震えが肌に伝わってきた。

 ミカの顔を覗き込むと、銀の髪の隙間から覗く瞳には、今にも崩れ落ちそうな哀しみが色濃く浮かんでいる。

 

「行かないよ。行く場所もないしね」

 

 根拠のないその言葉を、僕は縋り付く彼女のために紡ぐ。彼女が今、あまりにも脆く、今夜の風でさえ壊れてしまいそうに見えたから。

 

「それに、また新入りの面倒見なきゃいけなくなったからね。だから、大丈夫」

 

 空気を和らげようと口にしたその言葉が、間違いだった。

 

「ふーん?」

 

 腰に回されていた腕の力が、一瞬だけ、ふっと抜ける。

 次の瞬間、視界が乱暴に反転し、煤けた天井が目の前に現れた。

 ミカが僕を押し倒したのだ。

 彼女は無言のまま、僕に覆いかぶさった。

 熱を帯びた舌が首筋を這い、輪郭をなぞる。

 それは愛撫というより、それが自分のものであることを確かめるための、動物的な刻印のように感じられた。

 僕を見下ろすミカの顔が、至近距離に迫る。幼さを残しながらも、冷たく端正なその貌は、月の光を受けて残酷なほど美しく見えた。

 

「あの……もう、お風呂入ったんだけどなー」

 

「知らない」

 

 

 

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