男娼ニウ   作:涼月秋名

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日常

 乱れたシーツの海に身を沈め、僕はただ、窓の外に浮かぶ月を眺めていた。薄い雲の帳越しに零れる月明かりは、この街の毒気を孕んで澱み、それでいて直視できないほどに眩しく僕の瞳を刺した。

 そっと目を閉じ、熱を持った瞼の裏側に透ける光を感じながら、先ほどまでこの部屋を支配していた喧騒を反芻する。

 行為の最中、ミカは僕の耳元で、何度も「好き」という言葉を零していた。

 以前、その言葉の真意を彼女に問うたことがある。それは、ミカにとって普通のことで、食事前後の挨拶と同じことだという。

 それは、特に考えて出す言葉ではないということだと僕は理解した。

 わざわざ口に出さない人だっているし、毎度儀式的に口に出す人だっている。

 しかし、意味が分かりにくいことだ。

 かつて初めて食事の挨拶という文化に触れた時、僕はその滑稽さに喉の奥が震えるほどの違和感を覚えたものだ。死した獣や植物を口に運ぶ直前、何に対して、誰に対してその許しを乞うのか。

 けれど、一度その意味を知ったふりをしてしまえば、あとは習慣という名の檻が僕を縛る。

 今では僕も、無意識のうちにその儀式をなぞっている。

 「好き」という言葉は、果たしてそうなのだろうか。

 

「わからないよなぁ」

 

 独り言が、冷えた空気の中に霧散する。

 再び目を開けると、月はちょうど雲の裂け目からその全貌を現していた。

 しかし、期待していたほどの劇的な変化はない。

 先ほどまでの朧げな光と、本質的には何も変わらないように見えた。

 僕がそれを眩しく感じたのは、そこに何らかの啓示を期待してしまった、僕自身の脆さのせいかもしれない。

 地動説が真理として語られ始めて、まだ間もない。

 天が回るのではなく、この足元の大地が狂ったように回転しているのだという。

 夜を越えて眺める昼の明るさは、理論上は理解できても、僕の空虚を照らしてはくれない。

 夜を僅かに、申し訳程度に縁取るだけの青白い光は、僕が求めている答えなど何一つ教えてはくれなかった。

 

 月の向こうで、昼の明るさを思い出す。

 

 屋敷での一幕を。

 

…………

……

 

 そこは、巨大なバルコニーのような場所だった。

 張り出した屋根が陽光を遮り、心地よい影を落としている。

 しかし決して暗くはない。

 それは計算し尽くされた、意図的に抑えられた明るさだった。

 視界を遮る建造物はなく、外の景色は果てしなく遠くまで見渡せる。

 あの白亜の塀まで近づけば、僕が働く娼館さえ視界に入るのだろう。

 僕の狭い部屋には収まりきらないほど長い、白を基調としたテーブル。

 その南側に、僕は座らされていた。

 全体を覆うテーブル掛けにはシミ一つなく、家具の一つ一つに至るまで、行き届いた管理と矜持が伝わってくる。

 テーブルを挟んだ向こう側から、声がかけられた。

 気品を帯びた、おしとやかな声。

 これも設計の妙なのだろうか。距離があるはずなのに声はよく響き、その魅力を損なうことなく、僕の耳に最適な音量で届く。

 

「ニウ、考えなおしていただけましたか?」

「えーと……」

「契約書に目を通していただければ、良い条件だとは思いますが」

「一応、見ましたけど……」

「では……」

「ごめんなさい。身請けはできないです」

「……なぜですか」

 

 彼女が口にしたのは、所謂身請けの交渉だった。

 

「理由は二つあります。一つ目は、少なくとも僕が働いている娼館では、個人への身請け交渉は禁止されています」

「そんなこと……、問題にはなりません。(わたくし)の家に来れば、そんなこと後からどうとでもなります。それくらいの自信はあります」

「そうだとしても。僕に直接、交渉をするのはどうしてですか?」

「それは……」

 

 契約書の内容は、本来の身請けとは似て非なるものだった。

 僕が娼館との縁を切る代わりに、彼女が僕の今後の人生を保障するという、いわば夜逃げの勧めでしかない。

 彼女の自信が虚勢でないことは、その振る舞いを見ればわかる。

 僕がその条件を呑むことが、どれほどの致命的なリスクを招くか。彼女は分かっていない。

 書面に並ぶのは、実情を知らない無垢さが透けて見える、子供の空想のような文章だった。

 僕より年上だが、客としてはかなり若い。加えて女性だ。こうした裏社会の文化に、一度も触れずに生きてきたことは自明だった。

 

「私は、あなたを一人の人間として扱いたいのです!そういった場所から、買い取るという行為ことは、私の美徳に反します!」

 

 感情の昂った彼女の生声が、鼓膜を突く。

 

「それは、何が違うんですか」

「違うのです!今は、わからなくとも、私のところに来ればニウもきっとわかるはずです。私は、そこいらに蔓延るあなたを性の対象としか見ていないうつけ共とは違うのです!」

 

 彼女は夢を語るように、あるいは癇癪を起こす子供のように、僕を説得しようとする。

 ただ、彼女の言う美徳が僕にはわからなかった。

 形式が変わることに、何の意味があるのか。

 平行線の議論を終わらせるため、僕は彼女に一石を投じる。

 

「……そもそも、僕が働いている娼館では、この紙面に書かれてる条件はとても難しいと思います。このお屋敷を見れば、あなたの家系がいかに高尚なものかはわかります。それでも、リスクは拭えません」

「なぜ、そこまで言い切れるのですか」

 

 彼女は再び冷静さを取り戻し、前のめりだった姿勢を戻した。

 

「あそこは、皇権が噛んでいます」

「っ」

「こうして、あなたの屋敷に僕が一人で渡されているのもそういうことです。そもそも僕が逃げることなど考えられてないのです」

「……」

 彼女は、何かに打たれたように俯いた。

「……二つ目の理由は何なのですか?」

「それは、僕自身が、娼館とこの屋敷で、何が変わるのかがわからないことです」

「っ!」

 

 彼女は、何かひどく哀しいものでも見たかのように、瞳に涙を滲ませて僕を見つめた。その涙が、否定された自分自身への屈辱なのか、それとも……。

 

 僕には判別がつかなかった。

 

 

ーーーーー

 

 その日も結局決着はつかず、豪勢な食事をご馳走になり、それを終えると、彼女の誘いで庭を歩くことになった。

 バルコニーから緩やかな階段を下りた先に広がるのは、計算しつくされた美しさを持つ広大な庭園だった。

 手入れの行き届いた芝生、季節を違えて咲き誇る異国の花々。

 足元の砂利がサクサクと小気味よい音を立てるたび、僕が普段歩いている煤けた路地裏の感触が、ひどく遠いものに感じられた。

 並んで歩きながら交わすのは、最近の身の回りの出来事や食べ物の好き嫌いなど、同僚に聞かせたら目を覆いたくなるほど純真で、気恥ずかしい「おぼこい話」ばかりだ。

 だが、それはそれで、僕にとっては毒のない安らぎでもあった。

 彼女は一度として、僕に性的な要求をしたことがない。

 珍しい人種だと思う。

 毎回指名しては出張を命じ、半日という長時間の奉仕を希望する。

 それだけの高額な対価を払いながら、何もしない。

 僕にとっては手のかからない客だが、どこか胃の腑に落ちない空虚さが残る。

 

 

 

 

 屋敷から工業区域までは、彼女の紋章が入った馬車での送迎がついた。

 客としては少々厄介な立ち位置だが、このままこの揺れに身を任せていたいと思ってしまうほど、そのもてなしは厚遇を極めていた。

 車窓から差し込む夕日に紛れ、僕たちは他愛のない話を繰り返す。別れの刻が近づくほど、彼女はそれを惜しむように早口になっていった。

 やがて、見慣れた景色が近づき、馬車が止まる。

 扉を開けると、そこはすでに夕闇に沈んでいた。

 石炭の燃える匂いと、工場の吐き出す煤を含んだ重い空気が鼻を突く。ガス灯の明かりがなければ、互いの顔も見えないほどだ。

 それでも、わずかに残る真っ赤な夕日に照らされた彼女の金色の髪は、深紅を孕み、蜂蜜色の糸が燃えさしのようにほの暗く輝いていた。

 

「ニウ、今日もありがとうございました」

「はい。僕も楽しかったです。ぜひまた、呼んでくださいね」

「もちろんです!また、指名させていただきます」

「楽しみにしてます」

「ええ!……そうだ!あと、次私の屋敷に来られた際、何か食べたいものはございませんか?ニウが望むのであれば、私は、なんだってご用意いたします!」

 

 いつものことだが、別れ際、彼女は必死に言葉を紡ぐ。それは、物理的な距離に抗い、少しでも長く僕を引き留めるための、幼い抵抗のように見えた。

 

「うーん、そーですね……。じゃあ、今日お話したゼリーというものを食べてみたいです」

 

 少し考えると、特に遠慮はせず希望を口にした。それが、彼女と接してきて学んだ付き合い方の一つだった。

 

「承知いたしました!冷たくて、多分に苺の入った、とびっきり甘いものを用意しておきます」

 

 間髪入れず、彼女はさらに言葉を繋ごうとする。

 

「あ、あとは……」

「お嬢様」

 

 そこで、彼女の背後から低い声が割り込んだ。

 御者席からいつの間にかいつの間にか降りてきていた、屋敷の執事のものだった。

 恵まれた体躯に黒の燕尾服を纏った、壮年の男。その隙のない佇まいは、ここが彼女の私室ではないことを思い出させる。

「もう、日が暮れる頃合いでございます。それにニウ様も、この後()()()がおありのご様子」

「っ……。そう、ですね」

 

 彼女は何かを飲み込むようにして、不自然に会話を止めた。

 

「それでは、ニウ。名残惜しいですが、また次の機会に」

「はい。それじゃあ、また今度」

 

 彼女は踵を返すとキャビンに乗り込んだ。

 執事は僕を一瞥すると、形ばかりの礼をし、御者席に飛び乗る。

 馬車が見えなくなるまで、彼女は車窓から顔を出し、僕に手を振っていた。

 その姿が完全に闇へ溶けると、途端に街の喧騒が耳を刺し、自分が日常に立ち戻ったことを突きつけられた。

 

…………

……

 

 

 

 

 

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