目が覚めたのは、正午を回る少し前だった。
日中に客人が入ることもあるが、主な稼ぎ時はやはり夜だ。僕のようにある程度の指名を抱えていれば、昼間は自分のために時間を使える。
ここは一応、指名制を謳っている。だが、客が僕ら個人を知るきっかけは、街での客引きや酒場への遠征など、自分から動かない限りは無きに等しい。娼館側が積極的に引き合わせをしてくれることなどまずなく、僕らはただ、帳場から指名が入った旨を伝えられるだけだ。当然、新入りの初夜だけは例外だが。
また、僕が属する系列の娼館では、一人一人の営業成績が厳格に管理されている。
僕らに具体的な数字が明かされることはないが、そこには明確な底辺の基準が存在する。成績が一定期間下回り続ければ、その者は容赦なく他の娼館へと払い下げられていくのだ。
ここは、この工業区域でも最大規模の娼館だ。同業者の間では、他所の店の陰惨な噂が絶えない。今いる場所の待遇が客観的に見てどうなのかは知る由もないが、ここを追い出されて次に行く場所が、今より好条件であるはずがない。
それは、ここにいる全員が経験上、嫌というほど理解している共通認識だった。
当然、この娼館が求める基準は高い。だが、僕のように多数の常連を抱えていれば、必死に街角で客を拾ったり、過剰な奉仕に身を削る必要はない。安定した商品として、静かに夜を待てばいい。
新入りを所有している今は、決してその限りではないのだが。
僕は一通り身なりを整えると、娼人用の食堂へ向かった。
この娼館は、仮にもかなり大きな組織である。商品の健康を損なわないよう、僕らの食事はある程度まで保証されている。お世辞にも質のいいものとは言えないが、飢える心配がないだけマシなのだろう。
階段を降りて食堂に入ると、中は娼女たちの賑やかな声で溢れていた。ここは単なる食事の場ではなく、出番を待つ者たちが暇を潰すための、数少ない溜まり場でもある。
内装は清潔とまではいかないが、広々としていて居心地は悪くない。地下の土壁を剥き出しの鉄板が覆い、さらにその上を、館を支える多種多様な配管が蔦のように這い回っている。
所々に置かれた不揃いなテーブルと椅子。それらはいくつもの島を作り、娼女たちは思い思いに、質素な食事を囲んだり、とりとめのない噂話に興じたりしていた。
配給窓口で名前を告げ、昼食を受け取る。盆の上には、案の定、石のように硬いライ麦パンと、泥のようなスープが乗っていた。外皮の混ざったパンは、スープに浸して無理やりふやかさなければ喉を通らない。
スープは塩漬け肉やくず肉を、ジャガイモや玉ねぎと一緒にドロドロに煮込んだもので、彩りなど皆無の茶一色だ。昨日、あのバルコニーで見た色彩豊かな食卓とは、同じ世界の出来事とは思えないほど遠い。
どこに座ろうかと食堂を見渡したところで、昨夜に出会った少女を見つけた。
壁際の小さな島に一人きり、彼女は喧騒から切り離されたように本を読んでいた。
「おはよう、イヴ」
少女は、ゆっくり目線を本から僕へと移した。
「おはようございます。ニウ」
ここでは珍しい、清廉で温度の低い挨拶が返ってきた。
僕は許しを得たことにして、盆を置いて彼女の隣に腰を下ろした。イヴは表情一つ動かさず、すぐにまた本へと視線を戻す。
その無機質な反応が、僕の中の少し意地悪な好奇心を突いた。
「イヴは、何読んでるの?本なんて珍しいね」
少しだけ腰を浮かせ、彼女の視線を追いかけるようにページを覗き込んだ。
すらりとした指先で押さえられたその本は、薄い紙にびっしりと小さな文字が並んでいた。
「聖書です」
イヴは再び本から僕に視線を移すと、使い古された本の表紙を見せてくれた。
「聖書って、イヴは宗教家だったりするの?」
「いいえ。これはもらったものです」
「誰に?親とか?」
「いいえ、街で。黒い服を着た方から」
あぁ、なるほど。
この工業区域やスラムでは、宣教師がたびたび立ち入る。おそらく彼らにパンやスープの引換券と交換でもらったのだろう。
僕も宣教師とはよく話す。
それも、この娼館の中でだ。
彼らに対して特別な忌避感はない。だが、煤けた壁の中で熱心に神を説き、愛を語る彼らの姿には、拭いきれない偽善の印象しかなかった。
僕の周りの連中ならなおさらだ。同僚のミカあたりなら、受け取りこそすれ、宣教師の背中が見えなくなった瞬間に火にくべて捨てるだろう。それほどまでに、僕らと教えの相性は最悪だった。
当然、中には救いを信じる者もいる。けれどそういう人は、懐疑の果てに絶望という現実を知るか、あるいは信仰の果てに正気を失って現実を去るか。二つに一つだ。
「結構、読み込んでいるみたいだけど」
表紙だけでなく、ページの端も手垢で黒ずみ、かなり使い込まれた様子だった。
「はい。暇なときに読んでいます」
「何度も読んで、楽しい?」
「……楽しくはありませんが、勉強になります」
「ふーん」
「でも、信仰してるわけではないんだよね?」
「はい。おかしいですか?」
彼女は、首を傾げた。
「いや、そういう人がいてもいいと思うよ」
「……そうですか」
僕は聖書を覗き見ながら、ライ麦パンをスープに浸してかじった。相変わらず、石を噛んでいるような硬さだ。
ふと気づくと、僕が食事をしている間、イヴの視線はずっと同じページの一節に釘付けになっていた。文字を追うというより、その一画一画を眺めて、何事かを量っているような、奇妙な静止。
彼女の細い指先の下には、こう記されていた。
『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』(ルカによる福音書 7章47節)
「ニウは、誰かに愛されたことはありますか?」
イヴは視線を本に向けたまま、僕に話しかけた。
「……わからない」
「……そうですか」
彼女は再び言葉が並ぶ無機質なページへと没入していった。
石のようなパンをようやく胃に流し込んだところで、背後から見知った気配が近づいてきた。
「ニウ、その子が?」
ミカは当然のような顔をして、僕の隣に腰掛けた。
「そうだよ、イヴっていうんだ」
「そっか」
ミカは僕越しに、本に目を落としていたイヴを一瞥した。値踏みするような視線だ。
「初めまして、イヴ。私はミカ」
「初めまして。ミカ」
イヴは本から視線を移し、短く挨拶を返した。ミカはそれ以上彼女に深入りするつもりはないらしく、すぐに興味を失ったように僕へと向き直った。
「おはよう、ニウ」
「おはよう、今日はどうしたの?ミカ」
「約束」
「え?」
「昨日、一緒に街行こって約束した」
……そんな約束をしただろうか。
思い返されるのは、昨夜の激しい情事の断片ばかりだ。
実際のところ、僕は行為の最中、自分の意識がどこか遠くへ霧散してしまうような感覚に陥ることがある。
高まる熱に浮かされ、僕の口からは僕自身の意志とは無関係な言葉がとめどなく溢れ出すのだ。それは快楽に魂を削られた結果の、意味を持たない残響に過ぎない。
だから、その最中にどんな睦言を吐いたとしても、僕の脳裏には掠りもしないのが常だった。
「……してたかな」
「してた。嘘?」
「いやぁ……ごめんね」
素直に謝罪すると、ミカは呆れたように肩をすくめた。
「そういうとこあるよね」
「否定はできないね。悪気はないんだけど」
「結局無理なの?」
ミカの問いに、僕は首を振った。
「うん。イヴの客引きにいかなきゃ。昔、ミカにもしてあげたでしょ?」
「あー」
その言葉に、それまで他人事のように本を見つめていたイヴが、びくりと肩を揺らして顔を上げた。
「客引き、ですか?」
…………
……
僕とイヴは、フロントにいる長身の男に外出の旨を伝え、路地裏を抜けて街へと向かった。
ミカにも声をかけたが、「ニウと一緒でも、客引きなんて御免だ」と一蹴された。
工業区域「黒炉区」。
娼館から少し離れたこの区域には、昼も夜もない。
空は巨大な煙突群が吐き出す濃密な煤煙に覆われ、太陽は褪せた真鍮の効果のように、鈍く力なく光を放っているだけだった。
立ち並ぶ黒煉瓦工場からは、血管のような配管が街路へとはみ出し、継ぎ目からは常に真っ白な蒸気が悲鳴のように噴き出している。
地面は石炭の粉塵とこぼれた機械油で常に黒くぬめり、歩くたびに微かな粘り気をもって僕らの靴を汚した。
道を行き交うのは、油の染みた作業着に身を包み、疲弊しきった労働者たちだ。
彼らの肌は煤で汚れ、その瞳からは生気が削ぎ落とされている。
「どうして、ここまで遠出するのですか?」
娼館付近の飲食店を無視して歩き続ける僕に、イヴが疑問を投げかけた。
「娼館の近くには、もう手垢のついていない客はいないんだ。新入りの君が接客するなら、まっさらな新規がいいと思ってね」
「なぜですか?」
「昨夜と同じことになりかねないし、なにより、常連になればなるほど、指名する相手は固定されていく。無理に奪えば、同僚との無用な揉め事に繋がるんだよ」
「なるほど」
イヴは納得したように頷いた。
「昼間は時間もあるし、こうして遠征するのがセオリーなんだ。夜になれば、予約なしで『誰でもいいから空いている奴を』という客も増える。その時は娼館のエントランスに立っていればいい」
僕らは灰色の群衆を横切り、黙々と歩いた。
すると、道の端に人だかりができているのが目に入った。
何かを中心に据え、男たちが卑俗な笑い声を上げている。
「なんだろう、あれ。ちょっと覗いてみようか」
「……はい」
近づくと、集団を形成する男たちの生々しい声が鼓膜を打った。
「おい、そいつはちゃんと『穴』は開いてんだろうな?」
「もちろんです。きっかり二つ。口も合わせれば三つ。注文とあらば、どこにだって増設できますよ」
人垣の中心、足首まで埋まるような黒い泥濘の中に、それは無造作に転がされていた。
一見すると、精巧な磁器人形のようだ。
工場地帯の闇を凝縮したような黒泥の中で、その肌だけが、病的なまでに白く、滑らかに浮き上がっている。
「ちょっと触らせろ。……ほう、意外と柔らかいじゃねぇか。本物みてぇだ」
最前列にいた労働者の一人が、コールタールで真っ黒に汚れた手で、人形の太腿を鷲掴みにした。
白い肌に、毒々しい黒い指跡がべっとりと残る。
「ええ。特殊な原液を焼き固めて作られた、最新の人工皮膚ですから。触れれば分かりますが、内蔵された機関の熱で、人肌に近い温かみすら持っています」
黒い背広を着た男が、自慢げに解説をしていた。男たちの間を割って覗き込むと、そこには異様な光景が広がっていた。
「で、どうやって動くんだ、こいつは」
「もう動いていますよ。ほら、挨拶をしなさい」
背広の男が、その足元に転がるものを、無造作につま先で小突いた。
それは緩慢な動作で上半身を起こすと、焦点の合わないガラス玉のような瞳で虚空を見つめた。
「…………ルカ、です」
完璧な造形の唇が動き、そこから漏れたのは、抑揚のない、オルゴールのような声だった。
周囲の男たちから、感嘆と興奮の入り混じったどよめきが上がる。
「すげぇな、本当に喋りやがった」
「おい、口の中はどうなってんだ? 歯ァいらねぇだろ、こういうのには」
別の男が、ルカの顎を乱暴に掴み、無理やり口をこじ開けた。
男の太い指が、ルカの口腔内を蹂躙する。
ルカは抵抗しない。
「どうなってんだ? 本当は人間を詰め込んでるんじゃねぇのか」
「いいえ。これは、れっきとした機械。皇帝直属の研究員らによって開発された、最高級の
背広の男が雄弁にセールストークを振るう。
男たちはルカを取り囲み、値踏みするように腕をねじ上げたり、胸の弾力を確かめるように強く押し潰したりしている。
泥にまみれ、男たちの手垢に塗れながら、ルカはただ虚空を見つめ、されるがままになっている。
その様子を呆然と眺めていた僕は、隣から聞こえてくる荒い呼吸音に気づいた。
見ると、イヴが激しい動悸を抑えられない様子で、全身を小刻みに震わせていた。
「イヴ、イヴ」
「…………あ、はい。すみません」
「もう、ここを離れよう」
「…………そう、ですね」
こんな見世物、見ていても何一つ得にならない。
それなのに、僕の背中には奇妙な感覚がまとわりついていた。まるで、後ろ髪を引かれるような……あるいは、鏡の中の自分を置き去りにしていくような、形容しがたい不快な抵抗感が。