男娼ニウ   作:涼月秋名

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神曲

「ごめんね、あんなの見せちゃって」

「……大丈夫です」

 

 イヴは短く答えたが、その顔はすっかり暗く沈んでいた。

 自動人形(オートマタ)という存在は、島全体に広まっていたが、表向きはあくまで工場の作業用や清掃用として紹介されていたはずだ。

 実際に動く個体を見たのは僕も初めてだったが、あそこまで執拗に人間に寄せる必要があるのかと胸が焼けるような不快感を覚えた。

 だが、愛玩用という名目の裏にある卑俗な需要を考えれば、あの精巧さこそが商品価値なのだろう。

 

 

 煤けた路地を抜け、巨大なクレーンが林立する一帯を過ぎると、不意に視界が開けた。

 立ち並ぶ建物は、工場地帯の黒煉瓦とは対照的な、外面だけを白く塗り固めた石造りへと変わる。

 

「この辺りは、雰囲気が違いますね」

 

 イヴが少しだけ顔を上げ、潮風に前髪を揺らした。

 

「そうだね。港の方は他国からの来客も多いから。国としての外面を繕っているだけな気もするけど」

 

 巨大な蒸気帆船が黒い煙を吐きながら接岸し、腹の中に詰め込んだ異国の香料や高級な煙草、琥珀色の洋酒を吐き出していく。代わりに積み込まれるのは、黒炉区で作られた精密な歯車や、この国特有の強力な石炭だ。

 この港には自由貿易区域という名目で、法律の目が届かない租借地が点在している。そこでは他国の通貨が飛び交い、禁制品の取引や、僕たちのような人間の売買さえ、貿易の一環として平然と行われている。

 内陸の工業区域へ一歩戻れば泥と煤の世界だが、この海沿いだけは、異国の活気という薄いベールでそれが覆い隠されていた。

 

 

「ここらへんの酒場で客引きしようかな。やり方はわかる?」

「娼館の位置と私の名前を伝えればよいのでしょうか」

「そうそう。イヴは見てくれが良いから、立っているだけで十分だよ」

 

 実際、港の男たちは常に飢えている。

 新入りだと伝えれば、値段も安いと思い引く手あまただろう。

 そうと決めると、僕は一軒の酒場の前で足を止めた。

 その店は、港の潮風に晒されてなお、外面を誇らしげに白く保っていた。

 石造りの壁には、かつて大型船で使われていたであろう巨大な真鍮製の舵輪が飾られ、看板には店名が古めかしい書体で彫られている。

 入り口の両脇には、曇り一つないガラスが嵌め込まれたガス灯が鎮座し、昼間でも微かな火を灯して客を誘っていた。扉は重厚なオーク材で、厚く蜜蝋が塗られ、鈍い光沢を放っている。

 この辺りの酒場にしては珍しく、入り口に泥落としのブラシまで備えられた、清潔で上等な店構えだった。

 僕がその重い扉に手をかけた、ちょうどその時。

 背後から、鼓膜を震わせるような凛々しい声が僕の耳を突いた。

 

「また、お前か」

 

 振り返ると、そこに立っていたのは、澱んだ空気にはあまりに不釣り合いな正義の姿だった。

 鉄紺色のタイトな制服に身を包み、胸元には黒炉区の煤煙を撥ね付けるような、磨き抜かれた真鍮の階級章が輝いている。

 ガスマスクを首元に下げて剥き出しにしたその素顔は、刃物のように鋭い眼差しを湛えた美しい女性だった。

 長く艶やかな黒髪を後頭部で厳格にまとめ上げ、一筋の乱れも許さないその佇まいは、まるでこの腐敗した港町を監視する番犬のようだった。

 彼女が所属するのは、治安維持局。

 もっとも、ここらでの治安維持局といえば、汚職と横領が常態化し、実質的には権力者の私兵と化した形だけの組織だ。

 まともな統率など取れていないというのが、僕ら裏通りの人間の共通認識だったのだが。

 

「『また』だなんて。僕がこの辺りに来たのは、まだ二回目なんだけどね」

「そんなことは知らん。お前の顔は、既に私の目に焼き付いている」

 

 彼女の苛烈な視線を受けながら、僕は苦い記憶を掘り起こしていた。

 以前、一度だけこの港町へ客引きに来たことがある。

 比較的治安が良く、金払いのいい客が多いため、今回のイヴの初陣には最適だと判断したのだが……どうやら僕は、この女の執念深さを過小評価していたらしい。

 あの時は、運が悪かったとしか言いようがなかった。

 治安維持局がどういうものなのかを知りたかった僕は、街頭で怠そうにうなだれていた若者を捕まえ、いつものように甘い言葉で商売文句を並べ立てた。

 だが、あろうことかその男は、非番中の彼女の部下だったのだ。

 背後から現れた彼女に猛獣のような勢いで追い回されたのだった。

 あれからかなりの期間が経っている。治安維持局の管轄など数ヶ月で変わるのが通例だが、どうやら彼女はこの外面だけは白い港の番犬として、長く居座っているらしい。

 それにしても、なぜ彼女が僕の顔をこれほど鮮明に覚えているのか、そこだけが腑に落ちなかった。僕のような薄汚れた娼人の顔など、彼女のような正義の徒には背景の煤と変わらないはずなのに。

 

「今日はまだ何もやってないんだけど」

「どうせ、また淫行の引導を振るうつもりだろう。そんな不潔な真似、私の管轄では断じて見逃せん」

「はぁ、それはどうも」

「いいから、ちょっと来い」

「いたた」

 

 彼女は一度スイッチが入ると視野が狭くなるタイプらしい。隣で固まっているイヴには目もくれず、僕の腕を締め上げたまま、ぐいぐいと強引に引きずり始めた。

 抵抗しても無駄だ。僕は連行されながら、首だけを後ろへ巡らせた。

 呆然と立ち尽くすイヴと視線が合う。僕は彼女にだけ伝わるよう、唇の動きと目配せで短く合図を送った。

 

(――先に、やっておいて)

 

 酒場に入り、自分で客を捕まえろ。

 そんな僕の意図を察したのか、イヴは一瞬だけ瞳を揺らしたが、すぐに覚悟を決めたようにこくんと小さく頷いた。

 僕はそれを横目で見送りながら、正義の番犬に引きずられ、潮風の吹く大通りへと連れ出されていった。

 

 

…………

……

 

 

 ニウが、女性に連れていかれて、そこには静寂とイヴだけが残されていた。

 イヴは意を決して、重厚なオーク材の扉を押し開けた。

 そこは、外観の端正さに違わず、非常に清廉な空気を纏っていた。

 高くとられた天井からは、陽光を反射して煌めく真鍮のシャンデリアが下がり、大きく開かれた窓からは、銀色に光る海面と行きかう白帆が絵画のように望めた。

 白煉瓦の壁には異国の寄木細工が飾られ、カウンターに並ぶクリスタルボトルは、差し込む光を透過して虹色の影を床に落としている。

 厚手の絨毯は、歩くたびにわずかな沈み込みをもって彼女の足音をやさしく奪い、同じ感触であっても、この場所が娼館とは遠く離れた場所であることを告げていた。

 光の粒が舞う店内に、イヴの緊張した気配だけが微かに揺れた。

 数少ない先客たちの冷ややかな視線を感じた。

 だがイヴは、立ち止まっていても事態が好転しないことを悟り、吸い寄せられるように、店の奥、一段と日当たりのよい席へと足を進めた。

 そこで、彼女の足が止まった。

 窓から差し込む一筋の陽光が、空気中の微細な塵を黄金に染め上げる角席。そこに、一人の男が腰かけていた。

 漆黒の外套を優雅に纏ったその男は、組んだ膝の上に一冊の本を広げていた。

 

「この店の酒はよくない。舌の上で踊るのは無機質なアルコールの棘ばかりで、赦しがまるでない。……そう思わないか?」

 

 男のどこか気品ある、しかしひどく冷徹な批評と問いにイヴは困惑して瞬きをした。

 一瞬、別の誰かに向けられた言葉かと思ったが、周囲の客は皆、自身の孤独を噛み締めるのに夢中だ。

 返事をすべきか、立ち去るべきか。

 判断がつかないまま呆然としていると、男はページの端を優しく愛撫するように捲り、さらに言葉を重ねる。

 

「それにしても、この一節はつくづく皮肉だ。魂が自ら歩むと書かれているが、実際には——歩いているのは魂の形をした何かに過ぎないこともあるというのに」

 

 イヴは、なぜか自分の奥を覗かれたような錯覚を覚えた。

 

「生きている者は迷う。死んだ者は止まる。だが君は、そのどちらでもない場所に立っている」

 

 男は、まるで結論を急がぬ裁判官のように、静かにページを閉じた。

 

「…………君に言っている。背の高い、硝子細工のような少女」

 

「…………」

 

 とっさのことで現実に引き戻されたイヴは、喉の奥に声が閊え、何も返せなかった。その沈黙すらも見越していたかのように、男は机を挟んだ正面の椅子を指し示す。

 

「掛けなさい。席に着くという行為は、存在の証明にもなる。案内がいるのだろう?」

 

 男は、机を挟んだ正面の椅子にイヴを促した。

 

 

…………

……

 

「ちょっと、お姉さんどこ連れてくの?」

「お姉さんと呼ぶな!」

 

 背後にひねり上げられた腕に、ぐいと力がこもる。僕はなかばつま先立ちの不安定な姿勢のまま、港の大通りを引きずられていた。

 彼女の革手袋越しに伝わる力は、その細身な外見からは想像もつかないほど強固で、容赦がない。

 

「ねえ、どこへ行くのさ」

「本部だ」

「そんなに悪いことしたかな、僕」

「してた。……少なくとも、あんな場所自体健全とは言い難い」

「うそだ」

「いいから、無駄な抵抗はよせ」

 

 僕がわざと大げさにじたばたと身をよじると、連動して彼女の真鍮の胸章が激しく揺れた。

 白亜の建物が並ぶ港町において、制服の女が若い男を連行する姿は嫌でも目を引く。通りすがりの貿易商や船乗りたちが、興味津々な、あるいは同情的な視線をこちらへ向けてくる。

 彼女は周囲の視線に気づくと、凛々しい眉を吊り上げながらも、耳たぶを林檎のように真っ赤に染めた。毅然とした態度を崩さないように努めているようだが、僕を引っ張る力が少しだけ、焦りで乱れているのがわかる。

 彼女は逃げるように歩を速めた。

 僕を引きずる彼女の背中は、正義感で武装されているはずなのに、どこか年相応の幼さが透けて見えていた。

 その時、背後から突き刺さるような怒号が響いた。

 

「どけろおおお!」

 

 突如として背後から猛烈な勢いで突っ込んできた影が、僕と彼女の繋ぎ目を無理やりこじ開けるように割り込んだ。

 繋がっていた腕が弾かれ、僕はバランスを崩して硬い石畳に尻餅をついた。

 

「なっ……!?」

 

 呆然とする僕たちの脇を、キャスケット帽を深くかぶった影が駆け抜けていく。

 そいつは、体に見合わないほど巨大な革鞄を脇に抱え、必死の形相で人混みを縫っていった。

 直後、さらに背後から別の怒声が追いかけてくる。

 

「おい!あいつを捕まえてくれ!」

 

 肩で息をしながら走ってきた男が、すれ違いざまにお姉さんの制服を見て、縋り付くように叫んだ。

 

「物取りだ! 俺の商売道具が入った鞄をもっていかれちまった!」

 

 お姉さんの視線が、一瞬だけ地面に転がっている僕と、遠ざかる背中の間で激しく揺れ動いた。だが、彼女の中の正義が即座に答えを出したようだ。

 

「……っ、よし、任せろ!」

 

 彼女は鋭く僕を一瞥し、逃げる影と男の背を追って地を蹴った。

 

「そこでじっとしてろよ! 逃げたら罪を重ねることになるからな!」

 

 遠ざかる背中に向かって、僕は「はいはい」と心の中でだけ返事をして、ズボンの砂を払った。

 

 

 

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