当然、待つ気などさらさらなかった。イヴを一人残していることが、胸の奥で小さな刺のように疼いている。僕は、あのお節介な治安維持局の彼女から逃げるように、素早くあたりを見渡した。
「あれ、ここどこだろう」
意外と長い間、彼女と押し問答を演じていたらしい。気づけば、見慣れた石畳の道は途切れ、潮風に混じって錆とカビの匂いが漂う、見覚えのない路地へと迷い込んでいた。
とりあえず来た道を戻ろうと、踵を返して歩みを進める。その時、視界の端に、周囲の無機質な倉庫群とは明らかに異質な、ひどく廃れた建物が入り込んだ。
今まで一度も意識したことのない場所だったが、今日の――あるいは、イヴと出会ってからの――奇妙な胸のざわつきのせいか、その古びた石造りの輪郭が、磁石のように僕の視線を吸い寄せた。
それは、街の発展から取り残され、深い眠りについたままの教会だった。
かつては白かったであろう外壁は、工場の煙突から吐き出される煤煙に幾年も晒され、今では老人の肌のようにどす黒く変色している。尖塔の頂に掲げられた十字架は、塩害に蝕まれて無残に折れ曲がり、空を呪う指先のように見えた。壁面を這い上がる枯れた蔦は、血管の浮き出た細い腕のように建物を締め付け、ステンドグラスの窓はことごとく割れ、暗い洞穴のような口を開けている。そこには信仰の輝きなどは微塵もなく、ただ過去という名の巨大な亡骸が横たわっているかのようだった。
抗いがたい誘惑に駆られ、僕はその巨大な、湿って重たそうな木製の扉に手をかけた。
軋む音が、静まり返った路地に不吉な悲鳴となって響き渡る。力を込めて押し開けると、冷たく淀んだ空気が、僕の頬を撫でて外へと漏れ出した。
一歩足を踏み入れる。そこは、時間が結晶化し、沈殿したようであった。
天井は高く、暗がりに消えてしまいそうなほど遠い。並んだ円柱は、巨大な獣の肋骨を思わせ、埃を被った長い会衆席が、主を失った墓標のように整然と並んでいる。
頭上の割れた窓からは、微かな光が差し込み、その光条の中を、無数の塵がまるで魂の欠片のようにゆるやかに舞っていた。外の世界の喧騒は嘘のように遮断され、聞こえるのは僕の、場違いなほど高鳴る鼓動の音だけだ。
かつては神聖な香を焚き染めていたであろう空間には、今や古紙が腐ったような臭いと、冷え切った石の匂いが立ち込めている。祭壇の奥、色褪せた布が垂れ下がるその場所には、祈りを知らぬ者の虚無だけが鎮座していた。
僕は、自分の足音にさえ怯えを覚えながら、その静謐な深淵のなかへと、吸い込まれるように進んでいった。
祭壇へと続くネイヴを歩む僕の足音は、誇りをかぶった沈黙を乱雑に切り裂いていった。
一歩進むごとに、背後の入り口から差し込む光は遠のき、影の深度が増していく。それはまるで、かつて誰かが綴った古い詩編のように、地上のあらゆる光から見放され、すり鉢状の深淵へと一階層ずつ降りていくような錯覚を僕に抱かせた。
辿り着いた祭壇は、かつての栄華を嘲笑うように崩れ落ちていた。僕はその冷え切った石の階段に腰を下ろし、仰ぎ見る。かつて人々が救いを求めて見上げたであろうその場所には、今はただ汚れ切った空虚が居座っているだけだ。
ふと、自分という存在について考える。僕の生きるこの街、この工業区域、そしてあの湿った天幕。毎日、同じような排気ガスを吸い、同じような欲望を捌く。ここには真の意味での変化がない。ただ、同じ場所をぐるぐると回り続けながら、少しずつ熱を失い、底へ、底へと沈んでいく。
それを罪と呼ぶには、おこがましく、イヴの読んでいた一節には僕を救う力などなかったのだった。
僕は自分の心を守るために、心を天幕の中に閉じ込めた。その瞬間に、僕の旅は終わっていたのだ。
僕はもう、どこへも行けない。
ただ祭壇の影に座り込み、通り過ぎていく者の背中を、割れたステンドグラスの隙間から眺めるだけの、風景の一部。
「皮肉だなぁ」
割れた天井から降り注ぐ微かな光が、空中の塵を照らしていた。それは、かつて高名な詩人が旅の果てに仰ぎ見たという、あの清冽な星々のなり損ないのようだった。僕はその光を掴もうと手を伸ばしたが、指先を通り抜けたのは、ただの冷たい静寂と、古びた石のにおいだけだった。
せめて、イヴ。君の不器用な足取りが止まらないことだけを、神もいないこの廃墟で、僕は願うべきなのかもしれない。
祭壇の冷気に肌を刺され、立ち上がろうとしたその時だった。
背後の、倒れ伏した長椅子の影から、湿った呼吸のような音が聞こえてきた。
それは祈りの言葉ではなく、魂の最後の一滴を絞り出すような、ひどく虚ろな喘ぎだった。
僕は導かれるように、音の主へと歩みを進める。
埃の積もった影の中に、一人の少女がうずくまっていた。
彼女は、かつては色鮮やかだったであろうボロボロのドレスを纏い、むき出しの細い腕には、無数の針の跡が星座のように刻まれいてる。
彼女の瞳は、僕を見ているようで、その実、ここではないどこか遠い場所をさまよっていた。瞳孔は極限まで散大し、その奥には、地獄の底で見る偽りの楽園が映り込んでいるかのようだった。彼女の指先には、安価な合成麻薬の、鼻を突くような甘酸っぱいにおいがこびりついていた。
「…………ねぇ、あなたも『星』を見に来たの?」
彼女の声は、擦り切れた蓄音機の針が奏でる旋律のように掠れていた。
彼女は震える手で、何もない虚空を指し示す。
そこには、割れた天井から降り注ぐ煤けた光があるだけなのに。
「見て、あんなに綺麗……」
僕は、その光景に既視感を覚えずにはいられなかった。
彼女が陶酔の中で見ているのは、子の深淵から逃れるための偽りの昇天だった。
魂を切り売りし、その対価として得た一時の忘却。それは、出口のない迷宮への逃避である。
僕は彼女の隣に膝をついた。彼女の肌は驚くほど冷たく、けれど薬の熱で内側から焼かれているようだった。
「そこには、何もないんだよ」
僕は残酷な真実を口にしたが、彼女には届かない。彼女は僕の言葉を救いではなく、ただの雑音として聞き流しながら、光悦とした表情で虚空を掴もうとしていた。
救いようのない、けれど、この街のどこにでも転がっている日常の断片。
「ああ、行かなくちゃ……。あっちの光が、私を呼んでいるの」
彼女は力なく笑い、そのまま僕に頭を預けて目を閉じた。眠りについたのか、それとも意識が再びあの偽りの楽園へと旅立ったのか。
僕はただ、彼女の細い方が浅く上下するのを眺めることしかできなかった。
僕は彼女に何も与えず、何も奪わない。ここでは、誰かを救おうと手を伸ばすことさえ、傲慢な罪になりえると思ったから。
僕は再び、彼女を影の中に残したまま祭壇を後にした。
教会の重い扉を開け、再び表通りの煤けた空気の中へ。
背後で閉まる扉の音は、まるで一つの墓碑銘を刻む音のように重く響いた。
イヴの元へ戻る足取りは、先ほどよりも一層、泥のように重く感じられた。
…………
……
大分日が傾き、世界の輪郭が煤けた紫苑色に溶け始める頃、僕はようやく夜のほとりでイヴと再会した。
空は、工場の煙突が吐き出す濃密な煙に蓋をされ、沈みゆく太陽の残光を無理やり押し潰している。その色は、熟しすぎた果実が腐り落ちる直前のような、あるいは酸化した銅が放つ鈍い輝きに似ていた。昼と夜の境界が曖昧になるこの刻、街はまるで熱病に浮かされたような、不穏な静寂に包まれる。
「ごめんね。少し、迷っちゃって」
僕の言葉に、佇んでいたイヴがゆっくりと首を振った。
「大丈夫です。何事もなかったですから」
「……そう。よかった。それで、上手くいったかな?」
「はい。来られるかは分かりませんが、数人に声を掛けました」
「そっか。まあ、きっと来るよ。そもそも、この街では話すら聞いてくれないことの方が多いんだから」
僕がそう言うと、彼女は「そうですか」と短く、感情の読み取れない声で応じた。彼女の瞳には、燃えるような夕焼けも、路地を這うどす黒い影も、等価値の事象としてただ映り込んでいる。
「日も暮れてきたし、今日は帰ろうか。僕も、そろそろ仕事の支度をしなきゃいけないからね」
「はい。そうですね」
僕たちは、もと来た道を戻り始めた。
先ほどまでの廃教会の静謐とはうってかわり、工業区域の心臓部は、夜の営みに向けて卑俗な活気を取り戻しつつあった。通りのあちこちから蒸気が噴き出し、錆びた歯車が軋む音が、人々の卑屈な笑い声と混ざり合う。
石畳を打つ僕たちの足音は、湿った夜気の中に沈み込んでいった。それは、いつもの日常へと一歩ずつ降りていく足取りのようでもあった。
娼館へと続く、入り組んだ細い路地に入った時のことだ。
不意に、湿った壁に肉が叩きつけられるような鈍い音と、男たちの下卑た笑い声が聞こえてきた。
「……ッ」
足を止めた僕の視界に入ってきたのは、壁際に追い詰められた自動人形、ルカの姿だった。
彼女を囲んでいるのは、獣のような体臭を漂わせた三人の男たちだ。
一人はルカの細い両手首を頭上に押さえつけ、もう一人はそのはだけた胸元に、脂ぎった指先を這わせている。
押さえつけられてなお、ルカは身動き一つ取らなかった。抵抗どころか、拒絶の意志さえ見当たらない。されるがままに揺れるその体は、魂の抜けた器そのものだった。彼女の瞳は虚空のどこか一点を見つめたまま固定され、光を反射することもなく、ただ深い闇を湛えている。まるで精巧に作られた標本のように、彼女はこの蹂躙さえもただの物理的な事象として受け流していた。
ルカの衣服が裂ける乾いた音が路地に響いた。
夕闇のなかで、ルカの肌は陶器のように白く、それゆえに男たちの汚れた掌との対比が、見るに堪えないほど扇情的な残酷さを際立たせている。あらがう力すら奪われたその姿は、嵐に翼をもがれ、泥濘に墜ちた小鳥のようだった。
男の指先がルカの首筋を乱暴になぞり、鎖骨のくぼみに深く食い込む。ルカが苦しげに喘ぎ、その細い喉が震えるたびに、男たちは征服感に満ちた哄笑をあげた。
官能的でありながら、そこには愛も慈しみも欠片もない。ただ、強者が弱者を蹂躙し、その尊厳を剥ぎ取るという、この階層におけるもっとも原始的で醜悪な儀式が執り行われていた。
僕はその光景を前にして、自分の指先が微かに震えるのを感じた。
これは、僕がさっきまでいたあの教会の祭壇とは、対極にある光景だ。
祈りも、星も、旅人の資格も。そんなものは、この暗い路地裏の湿った石畳の上では、瞬時にして無に帰してしまう。
イヴは、僕の隣でただ無言のまま、その惨状を見つめていた。その瞳には、昼間のような動揺も浮かんでいない。
僕は彼女に、この地獄を見せたくなかったのだろうか。それとも、これこそが彼女の旅路の正体なのだと、突きつけたかったのだろうか。
その時だった。
「――無粋な真似してんじゃねぇ、このクズども!」
湿った空気と男たちの哄笑を切り裂いて、凛とした声が響いた。
反射的に声のした方を見上げると、路地の積み上げられた木箱の上に、月を背負って一人の人影が立っていた。
深いネイビーのキャスケット帽を眉深にかぶり、体に見合わないほど大きな革鞄を背負った少女――昼間、僕と治安維持局のお姉さんの間を疾風のごとく駆け抜けていった、あの物取りの少女だ。
「ああ?なんだ餓鬼、お前も可愛がられたいのか?」
男の一人が鼻を鳴らし、彼女に向かって一歩踏み出す。
だが、彼女の動きの方が数段早かった。
彼女は木箱から軽やかに飛び降りると、背負っていた巨大な鞄を遠心力を利用して振り回し、男の顔面に叩きつけた。
鈍い衝撃音とともに、脂ぎった男の体がくの字に折れ、石畳に転がる。
「……っ、この野郎!」
残りの二人がルカを放り出し、少女につかみかかろうとする。
少女はキャスケットの鍔を指先でくいと上げると、不敵な笑みを浮かべた。
その瞳は、この澱んだ街には似つかわしくないほど、強く、澄んだ光を放っている。
「悪いけど、あたしは忙しいんだ。あんたたちみたいな駄犬に構っている暇はないんだよね!」
彼女は踊るようにして男たちの攻撃をかわすと、再び重たい鞄を振りぬき、もう一人の脇腹を正確に捉えた。
一瞬の出来事だった。
三人いた男たちは、一人は悶絶し、二人は少女の予想外の身のこなしに気圧され、たじろいでいた。
少女は僕とイヴの存在に気付くと、一瞬だけ目を丸くした。
だが、すぐに茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せる。
「見世物じゃねえよ。見たところ、お前らは関係なさそうだし、もたもたしてねえでさっさと逃げるぞ!」
彼女はそう言い残すと、まだ壁際で呆然としている――あるいは、人形のように静止したままのルカの腕を掴んだ。
「ほら、お人形さん。いつまでそんなところで汚い連中の相手してんの。行くよ!」
少女の掌から伝わる生命力に満ちた熱量が、沈滞していた路地の空気を鮮やかに塗り替えていく。僕はその圧倒的な光景を、ただ見送ることしかできなかった。
「あっ、そっちは……」
少女がルカを連れて駆け出した方向は、奇しくも僕たちの帰るべき場所だった。仕方なしに、僕とイヴも彼女たちの背中を追って夜の闇を走った。
…………
……
娼館の輪郭がはっきりとしてきた。すでに、背後からは、男たちの喧騒は消え去り、逆に娼館の中からは、僅かに聴き馴染んだ物音が聞こえてくる。
さらには、こんなにも廃れた路地裏には似つかない、真紅の絨毯が夜の石畳からゆるやかに持ち上がり、絢爛な扉が僕らの目前に現れる。真鍮の手すりは磨き上げられ、灯りを受けて鈍く艶めいている。
扉の上には横に吊るされた、石油ランプの光に照らされ金色に輝く、いっとう下品で大きな看板が僕らを見下ろしていた。
少女はそこまで辿り着くと、ようやく足を止め、扉前の段差にどっかと腰を下ろした。
「ふぅ……あいつら、全然追ってこねぇな」
「それは、娼館の近くだからだよ」
「あん?」
「あまり、ここらで騒ぎを起こして出禁にでもなったら困るのはあっち側だからね」
「よくわからないが、追ってこないに越したことはないな。シケた野郎どもだ」
少女は肩をすくめ、納得したように話し始めた。
「それで、お前。なんであんなことになってたんだ? 黙って突っ立ってるから、てっきり腰が抜けたのかと思ったぜ」
「…………」
少女は隣に座るルカの顔を覗き込む。しかし、ルカからの返答はない。ルカは乱れた衣類のまま、ただ遠くの空の一点を見つめていた。その瞳には、助けられたことへの安堵も、蹂躙されたことへの屈辱も映っていない。
「……なんだ? こいつ。どっか具合でも悪いのか?」
少女が困惑したように眉を寄せた。僕は彼女の隣で、静かに事実を告げる。
「彼女、ルカは自動人形なんだ。人間じゃないんだよ」
「……はあっ?」
少女は目を剥き、弾かれたようにルカの体を凝視した。信じられないといった様子で、ルカの二の腕や頬を、確かめるようにくにくにと指先で触る。
「……驚いた。これ、本当に作り物なのか? 触った感じも、匂いも、人間そのものじゃないか」
少女の驚愕の声を、夜の街が冷たく包み込んでいった。
「んで、こっからどーするかな。あたしは特に行き先なんて決めてねぇからさ。お前らを送り届けたら、また旅に出るかな」
少女は、事もなげに「旅」と言った。
煤煙に汚れたこの街において、その言葉はあまりに浮世離れしていて、僕の耳にはまるでお伽話の呪文のように響いた。ここではないどこかへ、自分の足で行くことができる。それは僕のような地獄の住人には決して許されない、特権階級の振る舞いのように思えた。
「……僕と、こっちのイヴは、ここが帰る場所なんだ」
僕は、少女の背後にそびえ立つ壮麗な、けれどどこか腐敗の臭いが漂う館を指差した。
少女は首を巡らせ、改めてその建物を凝視した。極彩色のステンドグラス、淫靡な真紅のカーテン、そして夜の闇を暴力的に照らす石油ランプ。
「まじか……。趣味わりぃな」
「僕に言われても困るよ」
少女は建物の大きさを測るように視線を上下させると、不敵な笑みを浮かべて扉前の石段を蹴った。
「こんだけデカいんならさ。……あたしら二人くらい泊める余裕はあるだろ? こっちは人じゃないんだっけか……まぁ、どっちでもいいや。雨風しのげりゃ文句はねぇしな」
彼女は、まるで宝の山を見つけた子供のような顔をして僕にそう言った。あまりの無鉄砲さに、隣に立つイヴを見れば、彼女もまた計算外の事態に直面した機械のように、呆然と口を半端に開けていた。
「……君は、ここがどういうところかわかってるの?」
「あん? 寝る場所だろ? 違うのか?」
僕はため息を飲み込んだ。彼女にとってこの館は、欲望と絶望が渦巻く終着駅ではなく、単なる大きな宿屋に過ぎないらしい。その無垢なまでの無知が、ここでは毒よりも鋭く僕の心を刺した。
「……まあ、いいや。それで、宿泊代くらいは持ってるの?」
「ああ? 金とんのかよ……まあいいけどな。あっても使い道がねぇし」
少女は背負っていた巨大な革鞄の側面ポケットを探り、一冊の分厚い手帳――いや、パンパンに膨れ上がった財布を取り出した。ポケットの口からは、他にも色も形も様々な財布が、戦利品のようにいくつも見え隠れしている。昼間、追われていた理由を、僕は改めて思い知らされた。
「じゃあ、行こっか」
「おう。頼むわ。あと――」
「名乗ってなかったな。あたしの名前はルチアだ」