「へぇ、ニウとイヴはここで働いてんのか。成金趣味な城だねぇ」
ルチアは感心とも呆れともつかない声を漏らし、きらきらとした照明に縁どられたエントランスを遠慮なく見渡した。磨き上げられた床に映る人影や、漂う甘い香の層までも、彼女にとっては珍しい見世物らしい。
僕ら四人は、自然と肩を寄せ合うような形で、ロビーの奥へと足を運んだ。
厚手の絨毯が音を吸い込み、歩調の揃わなさだけが妙に意識される。
途中、多方面から淫靡で好奇の混じった視線を向けられたが、その一つ一つに、ルチアは律儀なほど反応した。
「ああ?何見てんだ?」
低く唸るような声とともに睨み返され、視線は蜘蛛の子を散らすように逸れていく。
「…………はぁ」
僕は小さく息を吐き、ルチアの肘を掴んで引き寄せた。これ以上場を荒らされると、面倒になる。
「ちょっと、ルチア」
そう小声で告げながら、半ば引きずるようにしてロビーのカウンターへ向かう。
フロントには、長身男が立っていた。
「ようこそ、お嬢さん方」
長身男は、ルチアとルカに話しかける。
「おう」
ルチアは気負いなく返事をする。その態度に、長身男の眉がほんの僅かに動いた。
「ご利用でしょうか。でしたら、指名をお願い致します」
「……うん?」
ルチアは一瞬きょとんとした顔をしてから、言葉の意味を噛み砕くように首を傾げた。指名という単語が、この場所ではごく当然の手続きであることを、彼女だけがまだ理解していない。
その無自覚さが、逆にこの場ではひどく目立っていた。
「あー、そういうこと」
遅れて腑に落ちたらしく、ルチアはぽん、と軽く手を打った。
周囲の視線の意味、甘い香りの正体、この建物全体に漂う落ち着かない熱——それらが一本の線でつながったのだろう。
納得した途端、彼女の口元には、どこか愉快そうな、そして少しだけ厄介そうな笑みが浮かんだ。
「ニウ、お前だ」
ルチアはそう言って、ためらいもなくこちらを指差した。
「え?」
間の抜けた声が、思わず喉から漏れた。
指先の向こうにあるのが自分だと理解するまで、ほんの一拍の遅れがあった。
「あたしは、お前にする。顔が好みだ」
理由はそれだけだと言わんばかりに、彼女は言い切った。
値踏みも、逡巡もない。
まるで市場で果物を選ぶかのような、あまりにも直線的な選択だった。
「…………」
突然の指名で僕は驚いた。
「そうだな」
ルチアは一人で納得したように頷き、今度は何でもないことのように続けた。
「ルカは、イヴと寝ろ」
あまりに乱暴な割り振りだった。
人の意思も、この場所の流儀も、まとめて踏み越えるような物言い。
空気が、ぴしりと音を立てて張りつめる。
フロントの男も、周囲の客も、誰一人としてすぐに口を挟めなかった。
次の瞬間。
ルチアは懐から無造作に金を掴み出し、カウンターの上へ叩きつけた。
硬質な音が、静かなロビーにやけに大きく響く。
金貨と紙幣が散らばり、整えられたカウンターの上で無遠慮に転がった。
「朝までだろ? あたしとルカの分」
計算などする気もないらしく、視線も合わせずに言い放つ。
それは支払いというより、場を押し切るための力の提示だった。
僕はその光景を、ただ立ち尽くして見ていた。
名前を呼ばれ、金を置かれ、逃げ場のない位置へ押し出される——そのすべてが、あまりにも一方的で、現実感に欠けていた。
この夜は、思っていたよりもずっと、厄介な方向へ転がり始めている。
…………
……
接客用の、淫靡な気配が澱む部屋に二人きり。
扉が閉まった途端、外界の気配は薄絹一舞を隔てた向こうへと押しやられた。
天井から垂れ落ちる天幕は、淡い光を孕んで静かに揺れ、月と海の絵が描かれた悪趣味な木製扉は、内側から見ると妙に安っぽい幻想を主張している。
部屋の中心には、記憶にあるのと同じ天幕付きの大きなベッド。
四本の柱は相変わらず深い艶を帯び、何年分もの吐息と体温を染み込ませた木の疲労を、無言のままさらしていた。
石油ランプの炎が灯ると、薄絹は光を拡散させ、影を柔らかく歪める。
空気には、オイルと甘い香が混ざった、逃げ場のない匂いが満ちていた。
──普通なら、ここで沈黙が落ちるはずだった。
「おいニウ、飯は出て来ないのか」
しかし、その沈黙は瞬時に破壊された。
ルチアは部屋に入るなり、靴も脱がずにベッドへ倒れ込み、天幕を揺らしたかと思うと、次の瞬間には起き上がり、今度は無遠慮に棚の引き出しを開け始める。
「…………」
引き出しの中身は、用途を限定された小物や、飾り気だけを優先した道具ばかりだ。
それを一つ一つ手にとっては、首を傾げ、元に戻し、また別の引き出しを開ける。
「なんでどこにも干し肉とか入ってないんだよ」
完全に的外れな不満だった。
次は部屋の隅に置かれた小さなテーブルに目を留め、覗き込み、からであることを確認すると、舌打ちする。
「酒は?水でもいい」
そしてまたベッドへ戻り、今度は天幕を指でつまんで揺らしながら、寝転んだまま天井を見上げた。
「なあ、この布、洗ってんのか?」
場の空気を構成したはずの艶やかな沈黙は、完全に形を失っていた。
この部屋が蓄積してきた幾夜分もの情事の記憶も、彼女の無邪気な不躾さの前では、ただの内装に成り下がっている。
僕は天幕の影越しにその様子を眺めながら思った。
──この女は、ここに連れて来られたのではない。踏み込んでしまっただけなのだ、と。
淫靡さのために設えられた舞台と、絶望的に噛み合わない彼女の呼吸。
そのあまりの乖離が、逆にこの空間を奇妙に歪ませていた。
「ルチア、食事が欲しいなら持ってくるけど」
「おお!早く」
「わかったよ」
僕は一度ロビーへと戻り、階下の厨房へ食事の用意を頼んだ。 しばらくして、数人の従業員が銀の盆を掲げて現れ、部屋の小さなテーブルは瞬く間に皿で埋め尽くされた。 ローストチキンの脂の香りと、冷えた白ワインの鋭い香りが、それまで部屋に漂っていた甘ったるい香を強引に塗り替えていく。 従業員たちが無機質な一礼を残して扉を閉めると、再び、密室に二人きりの時間が訪れた。
「うおお! こんなにか! ほら、ニウ、お前も食え!」
歓喜の声を上げるなり、ルチアは獲物に飛びかかる獣のような勢いで席についた。
「……うん、いただくよ」
僕の返事など待たず、彼女は厚切りのパンを千切り、チキンの足をつかんで豪快に食らいつく。
行儀作法など知るはずもない。指についた脂を舐め、口いっぱいに頬張り、喉を鳴らしてワインで流し込む。
淫靡な沈黙を演出するために設えられたこの部屋で、今、最も響いているのは、彼女が咀嚼する生気溢れる音と、皿とカトラリーがぶつかる硬質な響きだけだった。
本来なら愛を囁き合うはずの天蓋のすぐ傍で、彼女はただひたすらに、生存のための欠落を埋めていく。
僕はその光景に毒気を抜かれながら、小さく切り分けた肉を口に運んだ。
…………
……
やがて、狂乱のような食事の時間は終わりを告げた。
テーブルの上には、無残に散らばった骨と、空になったデキャンタ、そしてパンの屑が白雪のように散らばっている。
石油ランプの芯が短くなり、炎が小さく爆ぜるたびに、壁に映る二人の影が大きく揺れた。 外界の音は一切届かない。
満腹になったルチアは、今度こそ満足げにベッドの端へ腰を下ろし、ふぅ、と深い吐息をついた。 食欲という原始的な欲望が満たされたことで、部屋にはそれまでとは違う、重たい停滞感が忍び寄ってくる。
僕は、膝の上に置いた自分の手に視線を落としたまま、静かに声を掛けた。
「……落ち着いた?」
ルチアは、こちらを向かない。ただ、部屋の隅にある、用途の不明な細長い椅子をぼんやりと眺めている。
僕は言葉を繋いだ。
「ところで──ここがどういう場所か、本当はわかってないよね?」
僕の問いに、ルチアは膨らんだ腹をさすりながら、面倒そうに鼻を鳴らした。
「あぁ? そんなことどうでもいいだろ。屋根があって、飯が出て、寝る場所がある。それ以外に何が必要なんだ」
「……なんで、僕を指名したの?」
「それは、言っただろ。顔が好みだったんだ」
彼女は悪びれもせず、あけすけに言い放つ。
「それだけ?」
「ああ。お前はあたしの付き人か案内人みたいなもんだろ? だったら見てくれがいいに越したことはない」
「…………そっか」
ルチアは依然として満足げに、脂の浮いた唇を舌でなぞりながら、宙に視線を彷徨わせていた。彼女の瞳には、この部屋に染み付いた情事の陰影など、一欠片も映っていない。
僕は小さく吐息をつくと、椅子から立ち上がった。
その瞬間、部屋の空気がわずかに震え、温度が一段階上がったような錯覚に陥る。
「実はね、違うんだよ」
僕は視線を彼女の瞳に固定したまま、ゆっくりと上着のボタンに指をかけた。
厚手の布地が擦れる微かな音が、やけに鮮明に響く。一つ、また一つと、硬いボタンが穴を通り抜けるたびに、僕を案内人として縛り付けていた端正な輪郭が崩れ、剥がれ落ちていく。
脱ぎ捨てられた上着が、音もなく床に落ちた。シャツ一枚になった僕は、湿り気を帯びたランプの光を背負い、ベッドの端に腰を下ろす。
ギィ、と古びた木の骨組みが悲鳴を上げた。
その軋みは、先ほどまでの無邪気な跳ね回りを拒絶するような、ひどく艶めかしい響きを伴っている。
「お、おい……」
ルチアの喉が小さく動いた。
彼女の野生的な直感が、ようやく目の前の男が給仕でも付き人でもないことに気づき始めたらしい。
僕は彼女との距離を詰め、逃げ場を塞ぐように、ベッドに片手をついた。
天幕の影が、彼女の白い肌の上に濃く、長く伸びる。
僕は、指先で彼女の頬に残ったわずかな熱をなぞった。
「ここはね、お腹を満たすためだけの場所じゃないんだ。もっと別の、もっと深い空腹を埋めるために、皆ここへ来る」
僕の顔が、彼女の鼻先まで近づく。
混じり合う吐息からは、先ほどのワインの香りと、隠しきれない肌の匂いが立ち昇っていた。
指先を喉元へと滑らせ、脈打つ鼓動を確かめるように、そっと圧を加える。
「君が僕を選んだのなら──その代償を、ここで支払ってもらうよ」
ルチアの瞳の奥に、戸惑いと、それから火花のような光が灯る。
僕は彼女の腰を抱き寄せ、その身を沈めるように、ゆっくりと、しかし抗いようのない力で、深い艶を帯びた寝床へと押し倒した。
…………
……
「…………」
「……」
部屋には、イヴとルカの二人きり。
天幕は静かに垂れ、石油ランプの炎だけが、微かな呼吸のように揺れていた。
外の世界と切り離されたこの部屋では、時間は流れるというより、澱んでいる。
秒針の音も、遠くの足音も届かない。ただ、灯の揺らぎだけが、長い時間の経過を告げていた。
どれほどの沈黙が積もったのか、イヴにはもうわからなかった。
やがて、ルカがぽつりと、独り言のように口を開く。
「……お姉ちゃん」
その呼びかけは、確かめるようでいて、どこか祈りに近かった。
イヴは顔を上げ、ルカを見る。
「ルカ……あなたも、なのですか」
問いかけは曖昧だった。
気づいてしまったのか、こちら側へ来てしまったのか、そんな複数の意味を含んでいる。
ルカは答えず、ただ視線を落とす。
その沈黙の中で、イヴの意識は、自然と昼間の出来事へと引き戻されていった。
…………
……
「君が、抜け出してから上も大騒ぎだよ」
黒い外套の男は、感情を排した声でそう告げた。
顔は影に沈み、目だけが、イヴを正確に捉えている。
「そうですか」
イヴは、驚きも焦りもせずに答えた。
それが、すでに予測された結果であるかのように。
「一体、何が君をそこまで動かすのか……」
男は独り言めいた口調で言い、わずかに首を傾げた。
「君は、旅をしているつもりなのか?」
その問いに、イヴは一瞬だけ言葉を失った。
旅──それは、世界を歩くこと。出会い、迷い、選び、変わっていくこと。
男は続ける。
「いずれ、わかるはずだ。旅と言うのは、生者にのみ許された特権なのだよ」
その言葉は、宣告だった。
祝福ではなく、拒絶でもなく、ただの事実としての断言。
──君は、そこに含まれていない。
…………
……
記憶の底から静かに引き戻され、イヴは再び目の前の部屋を見渡した。
揺れるランプの灯。
天井から垂れ下がる天幕は、わずかな気流に合わせて微かに波打っている。
そして、その影の縁に寄り添うように、隣に座るルカの小さな身体があった。
ルカは、小さく息を吸うようにし、ようやく言葉を紡いだ。
「お姉ちゃんは、なんでここにいるの?」
あまりに真っ直ぐで、逃げ場のない問いだった。
装飾も、配慮もない。ただ事実だけを突きつける、その無垢さが、かえって残酷だった。
イヴは微笑もうとした。唇の端をわずかに持ち上げようとしたが、その形は途中で崩れ、表情になりきらなかった。
「私は……確かめたかったのです。この世界の在り方を」
言葉は、十分に整えられたものではなかった。だが、自分が最も知りたいことだけは、確かに含まれていた。
それはルカに向けて発せられたというより、部屋に、あるいは自分自身に向けられた、ほとんど独白に近い声だった。
「それで、なにかわかったの?」
ルカは躊躇なく続ける。無邪気でありながら、核心を外さない問い。
「いえ、まだ……」
イヴは一瞬、言葉を切り、ランプの灯に視線を預けた。
「ただ、私はここで、興味深い
「……そうなんだ」
ルカは短く応えた。その声には、驚きも失望もなく、ただ受け入れるという態度だけがあった。
「ルカは、どうしますか?」
イヴが問い返すと、ルカの漆黒の瞳が、ランプの灯を映し込んで揺れた。小さな光が、その奥で確かに生きている。
「わたしも、ここにいたい」
即答だった。迷いの痕跡すらない。
「本当ですか? あなたが想像するよりも、ここは……ひどい所ですよ」
「いいよ」
ルカは首を振る。
「わたしは、そうはおもわない。それよりも──」
一瞬、言葉を選ぶように間を置いてから、静かに続けた。
「お姉ちゃんと、いっしょにいたいよ」
ルカの瞳には、わずかに微笑んでいるイヴの顔が映っていた。
「そうだ、ルカ。あなたに、良いことをしてあげます」
「?」
イヴはベッドから静かに立ち上がった。床板は軋みもせず、彼女の動きだけが、部屋の空気をわずかに揺らす。
ベッドの脇に置かれた木製の収納棚。その最上段から、派手なガラス細工が施された小瓶を取り出した。
瓶は、彼女の記憶に深く染みついた匂いを、沈黙のまま放っていた。
「お姉ちゃん、それはなに?」
「ローズマリーの香水です。落ち着く匂いがするのですよ」
イヴはそう言いながら、どこか誇らしげでもあった。
今度こそ失敗しない、という顔で、片手で栓を抑え、もう片方の手で瓶を慎重に傾ける。
──が、角度が、ほんのわずかに急すぎた。
栓の隙間から液体が、勢いよく溢れ出し、彼女の指先を伝って、床へと一滴、二滴と落ちる。
「あ……」
小さな声が漏れた。
イヴは慌てて瓶を立て直すが、今度は力を入れすぎて、栓がきちんと閉まらない。ガラスとガラスが、微かに噛み合わず、心許ない音を立てる。
部屋には、装丁よりも濃いローズマリーの香りが広がっていった。清涼で、しかしどこか青臭く、逃げ場のない匂い。
「……少し、出しすぎましたね」
そう言ってから、イヴは自分の言葉を反芻するように、もう一度頷いた。
「でも、問題はありません。ええ、きっと」
ルカは床に落ちたしずくと、イヴの濡れた指先を交互に見てから、くすりと笑った。
「お姉ちゃん、へただね」
「……見たままやったのですが」
そう呟きながら、やり方を変えて今度は慎重に、ほんの一滴だけを掌に落とそうとして──香水は瓶の側面を流れ、彼女自身の袖口を湿らせた。
ローズマリーのにおいが、布に吸い込まれ、イヴの身体にまとわりつく。
しばらくして、ようやく彼女は観念したように息を吐いた。
「……難しいものですね。人に何かをしてあげる、というのは」
…………
……
同時刻、少し離れた部屋にて。
「す、すこし、休憩」
絞り出すような声だった。
数刻前までの空気とは一変し、部屋は濃く湿った気配に満ちている。天幕の内側に閉じ込められた吐息が、壁に、床に、絡みつくように漂っていた。
ルチアは肩で息をし、胸元を押さえたまま視線を彷徨わせる。
「えー、まだ全然足りないでしょう?」
からかうように言うと、彼女はかぶりを振った。
「いや、もうだめだ……」
先ほどまでの傍若無人は影を潜め、今はただ、必死にすがるような眼をこちらに向けている。涙が滲み、光を受けて揺れた。
「でも、わかったでしょ?」
僕は声を落とし、穏やかに続ける。
「ここは、そういう場所なんだよ」
「わかった、わかったから……」
その言葉が終わるより早く、僕の重みがふっと抜けたのを感じ取ったのだろう。
ルチアは隙を逃がさず、するりと身体を引き、ベッドの端へと転がるように距離を取った。
乱れた呼吸を整えようとしながら、彼女は天幕の向こうを一瞬だけ見やる。逃げ場を探す獣の目だった。
それも無理はない。経験の差は、こういう時、残酷なほどはっきりと形になる。
僕は追い詰めることも、手を伸ばすこともせず、ただベッドに腰を下ろしたまま、彼女を見ていた。
その沈黙が、何よりも雄弁だと知っているから。
また数刻後、ルチアは本当に満身創痍のように横たわっていた。
天幕の影が、汗ばんだ肌の上を緩やかに渡り、乱れた呼吸に合わせてその輪郭を揺らす。
僕はその姿を見下ろし、わずかな充足を得ていた。
満たされた、というよりは、確かに何かを刻みつけたという感覚に近い。
おそらく、彼女が憎たらしく見えたのだと思う。
僕の持つ加虐性とはまた別の、もっと静かな感情。
彼女があまりにも眩しく、あまりにも遠くに見えたから。
この場所の熱にのまれながらも、彼女の芯のどこかが、まだ濁り切っていないことが、僕にはわかった。
やがて呼吸が落ち着き、ルチアはゆっくりと身を起こす。
髪が肩から滑り落ち、薄く開いた唇から、まだ名残の熱が零れた。
ひどく、官能的に見えた。
「…………わかったよ」
「やっと?」
僕が微笑むと、彼女は睨むようにこちらを見る。だがその目は、どこか揺れていた。
「ずっと、わかってた!ニウが止めてくれなかったんだろ!あと、お前が意地悪なのも十分な!」
不貞腐れたようにそっぽを向く。
だが耳の先まで赤く染まっているのが透けていた。
「ごめんね」
僕は穏やかな声で言い、そっと彼女の肩に触れる。
指先に伝わる体温は、まだ高い。
抱き寄せると、彼女はびくりと小さく震えた。
だが押し返しはしない。
むしろ一瞬だけ、ほんのわずかに──自分から距離を詰めたようにも見えた。
二人で毛布にくるまる。
乱れた熱はすでに落ち着き、残るのは柔らかな疲労と、肌に残ったぬくもりだけだった。
ランプの炎はいつの間にか消え、窓から差し込む月明かりだけが、天幕の縁を淡く縁取っている。
銀色の光が、毛布の皺を静かに照らし、その下で絡まる二人の影を曖昧に溶かしていた。
「決めたぞ」
不意に、隣から声が落ちてくる。
「ん?」
僕は目を閉じたまま応じた。
「ニウ、お前が気に入った」
あれだけの痴態を晒しておきながら、ずいぶんと上からの物言いだ。
思わず、喉の奥で小さく笑いが漏れる。
「そう」
「ああ。だから決めた」
「何を?」
彼女は身体を少し起こし、毛布が肩から滑り落ちる。月明かりがその輪郭を縁取った。
「ニウを連れ出す。ここから」
幼稚で、とぼけた宣言だった。
けれど声色は、不思議なほど真剣だった。
「この地上から」
「どこへ?」
僕が問い返すと、彼女は窓の外を指さす。
夜の工業区域。煙突の影。鈍く光る蒸気。
そのさらに向こう、雲の裂け目に、冷たい月が浮かんでいる。
「──空へ」
あまりにも突飛で、あまりにも子供じみた言葉。
けれど。
その瞬間だけ、僕の胸の奥で、長く凍っていた何かが、わずかに軋んだ。
空。
この島の誰も、本気では見上げない場所。
僕は目を細める。
「空、ね……」
笑い飛ばすこともできた。
夢物語だと切り捨てることも。
けれど、なぜかそうしなかった。
一日分だけわずかに欠けた月が、まるでおとぎ話の肩を持つように、夜の空に浮かんでいたからか。
それとも、月明かりの下で、彼女の瞳だけが、やけに真っすぐに光っていたからか。
地動説が真理として語られ始めて、まだ間もない。
天が回るのではなく、この足元の大地が狂ったように回転しているのだという。
ならば──。
この島も、この娼館も、この閉じた寝床さえも、絶えずどこかへ運ばれていることになる。
夜を申し訳程度に縁取るだけの青白い光が、窓辺から静かに差し込む。
それは冷たく、頼りなく、それでも確かに存在していた。
僕の心は、ほんのわずかに、この天幕の中から動いた。
逃げ出すほどでもなく、信じるほどでもない。
ただ、ほんの指先ほど、世界の位置がずれた気がした。