徒花
イヴが娼館に来て一週間が経った。
たった七日。
それだけの時間で、空気の色はわずかに変わっていた。
「お姉ちゃん、みて! あそこにお花屋さんがある!」
弾む声が、石畳の通りに響く。
「本当ですね」
イヴは足を止め、看板の先に目を向ける。蒸気と煤に縁取られた町並みの一角に、場違いなほど鮮やかな色彩が揺れていた。
「こんなところに花屋があるのなんて随分珍しいね」
僕は呟く。
油と鉄のにおいが染みついたこの界隈に、柔らかな花弁は似合わない。
僕はイヴとルカを引き連れ、街を歩いていた。
理由は二人が街を見て回りたいと言い出したからで、僕はただの案内人に過ぎない。
昼間は特にやることもなく、夜のために身体を温存しておくだけの時間だ。だからついてきただけ。──本当に、それだけ。
ルカは店先に咲き乱れる色の群れへ、小走りに駆けていった。
イヴはその背中を見つめ、ほんの少し口元を緩める。
それから、僕と目配せをかわし、静かに後を追った。
僕は肩をすくめる。仕方ない、とでも言いたげに。
だがその実、胸の奥が落ち着かなかった。一週間前なら、こんな穏やかな昼を過ごすことなど考えもしなかった。
娼館の外で、商品でもなく、観測者でもなく、ただ歩いている自分。
それが、どこか不自然だった。
花屋は、煉瓦造りの小さな店だった。
煤けた壁面に、蔦が絡み、色とりどりの花が無造作に並べられている。
深紅の薔薇。薄紫のリラ。名も知らぬ小さな白い花。
店先の桶からは、水滴が陽を受けてきらめき、この街では珍しく湿った土の匂いが漂っていた。
それは鉄の匂いを押しのけるほどではない。
だが確かに、そこに別の世界があった。
「あら、可愛いお嬢さんですね」
店の奥から、明るい声が響く。
顔を出したのは、年の頃十六、七ほどの少女だった。
麦色の髪を三つ編みにし、頬には陽に焼けた健康的な赤みが差している。
この街にしては、随分と素朴な顔立ちだった。
「この辺りでは見かけない顔ですね」
「最近来たのです」
イヴが、いつもの調子で答える。
「お花、好き?」
看板娘がルカにしゃがみ込み、視線を合わせる。
「うん! これ、なんていうの?」
ルカが指差したのは、青く小さな花弁を持つ一輪だった。
「それは勿忘草。『私を忘れないで』って意味があるの」
「わすれないで……」
ルカが復唱する。
イヴの視線が、わずかに揺れた。
僕はその様子を、黙って見ていた。
「これはどうですか?」
今度はイヴが問いかける。
指先で触れたのは、棘を持つ深紅の薔薇だった。
「それは、愛とか情熱とか……そういう意味かな」
「そうですか」
ルカは花を抱え、くすくす笑う。
看板娘も釣られて笑う。
その輪の外で、僕だけが少しだけ距離を置いて立っていた。
花の匂いは、柔らかく、甘く、それでいてどこか現実離れしている。
この街に、こんな色があっていいのか。そんなことを考えてしまう自分に、僕はまたわずかに困惑した。
「これはおまけ。ルカちゃん、また遊びに来てね」
看板娘はそう言って、勿忘草を一輪、ルカの胸元に優しく挿した。
その光景は、この地獄のような街において、奇跡のように無垢なものに見えた。
だが、彼女が髪をかきあげた拍子に、店の中に漂う百合の香りに混じって、どこかで嗅いだことのある甘酸っぱい匂いが鼻腔をくすぐった。
彼女の指先に残るその微かな匂いと、過剰に研ぎ澄まされたような彼女の笑顔が、消えない棘となって胸に刺さる。
「イヴ、ルカ、行こう」
僕は短く促し、二人を連れて店を離れた。背後で、花屋の小さな鈴がちりん、と冷ややかな音を立ててなった。
ルカを先導に、僕とイヴが何気ない会話を交わしながら歩いていた時だった。
「いた! ……あ、ごめんなさい」
ルカが前方の人物に正面からぶつかった。
衝撃でよろめいたその人物が、ゆっくりと振り返る。首からは無骨なガスマスクを下げ、胸には治安維持局の紋章が光っていた。
「ん? ……怪我はないか。お嬢ちゃん、しっかり前を向いて歩きなよ」
低くハスキーな声。彼女はルカの視線に合わせるように少し膝を折ったが、すぐに保護者を探すように背後の僕とイヴへ鋭い視線を向けた。その瞬間、彼女の眉間に深い皺が寄る。
「あっ! お前、あの時の!」
「げっ……」
思わず声が漏れた。治安維持局の「お姉さん」だ。
「『げっ』じゃない! この前はよくもぬけぬけと逃げやがったな。公務執行妨害でぶち込んでもいいんだぞ!」
彼女は獲物を逃さない猟犬のような勢いで詰め寄り、僕の襟首を掴み上げた。鉄と革の、いかにも官憲といった匂いが鼻をつく。
「いやいや、待ってよ。そもそも僕は何も悪いことなんてしてないよ」
「淫行の引導をしているだけでも十分、連行の理由になるんだよ!」
彼女はぐいぐいと僕の襟を揺さぶる。
僕は苦笑しながら、わざとらしく視線を逸らして問いかけた。
「そんなことより、あっちの仕事はどうなったのさ。あのキャスケット帽の物盗り」
「ぐっ……。それは……今、追っているところだ」
「ふーん。逃げられたんだ」
僕がニヤニヤと笑いかけると、彼女は顔を真っ赤にして僕の襟をさらに激しく揺さぶった。
「黙れ! この界隈は逃げ道が多いんだよ! お前みたいな奴らが非協力的だから、捜査が進まないんだろうが!」
ひとしきり暴れた後、彼女はふぅ、と深く、重苦しい溜息をついた。その横顔には、隠しようのない疲労の色が滲んでいる。
「……本来なら今すぐお前をしょっ引いて、みっちり絞り上げたいところだが」
彼女は僕の袖から手を放し、乱暴に制服の皺を伸ばした。そして、視線だけを周囲の民家や商店──先ほど僕たちがいた花屋の方角──へと投げた。
「今はこっちも特別任務で忙しいんだ。……今日のところは見逃していやる。さっさと消えろ」
「え?」
意外な言葉に、僕は拍子抜けして声を上げた。いつもならしつこく食い下がってくる彼女が、どこか投げやりな態度を見せたからだ。
「いいの?」
「うるさい。……上からの命令だよ。今は小さなネズミよりも、民衆に示しがつくような分かりやすい獲物を優先しろってな。反吐が出るぜ」
彼女は吐き捨てるように言うと、首から下げたガスマスクを無造作に弄った。その視線は、正義を遂行する者の誇らしげなものではなく、まるで汚れ仕事を押し付けられた労働者のように淀んでいた。
「……おい、お前ら。用がないなら、今日はもう家に帰って鍵を閉めておけ。この辺りはこれから、少しばかり騒がしくなるからな」
忠告とも脅しともつかない言葉を残し、彼女は思い軍靴の音を響かせて去っていった。
治安維持局のお姉さんが残した不穏な言葉を背負いながら、僕たちはあてもなく歩き続けた。
にぎやかな表通りを避け、さらに奥へ。巨大な配管が内蔵のようにのたうち回り、常に蒸気が悲鳴を上げている黒炉区の端へと、僕たちの足は無意識に向かっていた。
やがて、絶え間なく響いていた機械の脈動が、少しずつ遠ざかっていった。
立ち並ぶ煤けた赤煉瓦の壁が途切れ、錆びついた鉄柵の向こう側に、不意に広い空白が姿を現した。
「……建物が、なくなりましたね」
イヴが立ち止まり、細い目をさらに細めて呟いた。
そこは、街を囲む巨大な外壁と工業区域の隙間に取り残された、名もなき草原だった。
草原といっても、陽光を浴びて輝くような類のものではない。煤交じりの雨に打たれ、どこか灰色がかった、痩せた草地だ。けれど、この島で空を遮る屋根も煙突もない場所は、それだけで異様だった。
僕たちは誘われるように、その中央に盛り上がった緩やかな丘へと足を踏み入れた。
一歩進むごとに、足元で枯れ草がかさかさと乾いた音を立てる。鉄の匂いは次第に薄れ、代わりに冷たく、ひどく無機質な風の匂いが鼻をかすめた。
丘の頂にたどり着いたとき、ルカが「わあ……」と小さく息を呑んだ。
遮るもののない視界の先。幾重にも重なる雲の層を突き破るようにして、巨大な影が鎮座していた。
山だ。この平坦な島において、唯一空を支配する権利を与えられた、峻険なる神の座。
山の斜面には、街の灯とは比較にならないほど気高く、冷徹な光がいくつも灯っている。それが皇帝の居城であり、この世界の中心地だ。
「……ねえ、お兄ちゃん。あのお山、とっても光ってる。なんだか、ここまでポカポカするよ」
ルカが頬を染めて、うっとりと山を見上げる。
僕は眉をひそめた。ここから山までは、数マイルは離れているはずだ。それなのに、ルカが指差す先にある光は、確かに彼女の肌を黄金色に染め、この凍えるような風の中でも彼女にだけ「熱」を与えているように見えた。
「……ルカには、そう見えるのですね」
イヴが静かに、けれどどこか突き放すような声で言った。彼女の瞳は山を映しているが、その瞳は少しも輝いていない。
「うん? イヴ、君にはどう見えているの?」
「ただの、冷たい岩の塊です。高度ゆえに凍りつき、人工の電球が虚しく貼り付いているだけの、死んだ山です。……だから私には、一辺の熱も感じられません」
彼女がそう口にした瞬間、僕の肌を撫でていた微かな微温が、スッと引いていった。
代わりに、骨まで凍てつくような冷気が足元から這い上がってくる。
ルカが信じれば山は神々しく輝き、イヴが否定すれば山はただの石塊に成り下がる。 ──では、僕が見れば、どうなるのか。
僕が山を「恐ろしい」と思った瞬間、山の影がぐにゃりと歪み、空を覆い尽くすほど巨大に膨れ上がったように見えた。その圧倒的な質量に押し潰されそうになり、僕は思わず膝をつきそうになる。物理的な重力が、僕の肩にずしりとのしかかってきた。
「ニウ、どうしました?」
イヴが僕の肩にそっと触れる。その瞬間、膨れ上がっていた山の影は、元の遠くにある景色へと収束した。肩にかかっていた重圧も、霧散していく。
あそこには救いがあるのか。それとも、さらなる深淵があるのか。
灰色の草原を撫でる風が、僕の頬を冷たく叩いた。
この世界を繋ぎ止めているのが鉄や石のような強固な理ではなく、誰かがそうだと決めた不確かな視線の重なりに過ぎないのだとしたら。
──気づいたら僕の足元は、音もなく揺れ続けていたのだった。
丘を下り、再び鉄と煤の檻──工業区域へと足を踏み入れ、しばらくしたとき、耳を差したのは機械の音ではなかった。
怒号。そして、何かが激しく砕ける音。
「……お兄ちゃん、あれ」
ルカが僕の裾を強く引いた。指し示した先、往路で見かけたあの小さな花屋が、黒い群衆にのみ込まれていた。
群衆といっても、それは野次馬ではない。治安維持局の黒い制服を着た男たちが、まるで害虫を駆除するかのような手際で、店を包囲していた。
「やめて! お願い、何をするの!」
突き抜けるような悲鳴が響く。
三つ編みの看板娘が、二人の男に両腕を掴まれ、地面に膝をつかされていた。彼女の目の前では、先ほどまでルカが笑いながら眺めていた色とりどりの花々が、軍靴の下で無様に踏みしだかれている。
「黙れ。この店から、法で禁じられた麻薬が発見された」
男の一人が冷酷に言い放つ。その手には、不自然なほど白い粉が入った小袋が握られていた。
「嘘よ! そんなもの、見たこともないわ! 誰かが仕組んだのよ!」
彼女の必死の叫びに対し、男は無造作にその頬を殴りつけた。
鈍い音がして、彼女の身体は石畳に転がる。麦色の髪が泥に汚れ、端正だった顔が苦痛に歪んだ。
「お姉ちゃん!」
ルカが駆けだそうとするのを、僕は反射的に抱き留めた。
「放して! たすけなきゃ!」
「……ダメだ、ルカ。行っちゃいけない」
僕の声は自分が驚くほど冷たく、そして震えていた。
群衆の中に、先ほどのお姉さんの姿が見えた。彼女はガスマスクを弄りながら、視線を泳がせ、苦虫をかみつぶしたような顔でその光景を目視していた。彼女の視線が僕たちと一瞬重なり、そして、ひどく申し訳なさそうに逸らされた。
彼女も知っているのだ。これがわかりやすい獲物であり、皇帝の支持率という神聖な数字を守るための、汚い生贄であることを。
店から運び出された鉢植えが、次々と路上の溝に投げ捨てられていく。
深紅の薔薇は踏みつぶされて赤黒いシミとなり、青い勿忘草は泥水の中に沈んでいった。
「ひどい……」
イヴがつぶやく。その声に感情の色はなかったが、彼女の瞳は、連行されていく少女の背中を、まるで消えない罪が記録するかのように凝視していた。
少女を乗せた馬車が、蒸気を吐き出しながら走り去っていく。
あとに残されたのは、鉄の匂いに塗りつぶされた、色のない街角だけだった。
僕たちはただ、奪われることへの無力感だけを抱えて、重い足取りで娼館へと帰るしかなかった。