巨大化したダーク、発狂したヴァージニア、それに立ち向かうのはなんと……!?
触手だらけの巨大な怪物、ダークとの戦いが始まった。
「……殺しますわ」
ヴァージニアはその恐ろしい姿を見て、小さな声でぽつりと呟いた。
あまりにうねうねしすぎていたため、ヴァージニアの精神は壊れそうになっていた。
ヴァージニアはメイスを構え、
ふらつきながら最も近くにいるとぐろを巻いた触手に向かってよろよろと歩いていた。
「やめろ、ヴァージニア!」
バルダは大急ぎでヴァージニアに組み付いた。
「ぐっ……放しなさい!」
「放さない! 落ち着け!」
「仕方ない……俺が、代わりにやる!」
グロックは激しい叫び声と共に、渾身の力を込めて剣を振り下ろした。
力強い刃は、斧が石に叩きつけられるような音を立てて触手に突き刺さり――二つに折れた。
グロックは茫然と折れた剣を見つめていた。
何が起こったのか信じられないようだった。
洞窟に響き渡る、掠れた唸り声にも反応しなかった。
傷ついた触手が動いても、グロックは動かなかった。
「グロック! 気をつけて!」
ジャスミンは叫んだ。
触手の先端が上向きに突き上げられ、蛇のように襲いかかった。
ぬめりのある白い糸がグロックの首に絡みつき、鉤は肉に深く食い込んだ。
グロックは苦痛に叫びながら膝から崩れ落ちた。
一瞬のうちに触手はグロックの体に巻き付き、空中に持ち上げられた。
ジャスミンは飛び出した。
「ダメだ、ジャスミン!」
リーフは叫んだ。
しかし、ジャスミンは聞こえなかった、あるいは聞こえようとしなかった。
頭上でクリーが悲鳴を上げている中、
ジャスミンはかつて沈黙の森で木から木へと飛び移ったように、上昇する触手に飛びついた。
ジャスミンは一瞬じっとしがみついたが、
やがて短剣を歯の間に挟み込み、指を硬くぬめりのある表面に食い込ませながら登り始めた。
「短剣は役に立たないぞ、ジャスミン! グロックは、もう助からないかもしれない!」
しかしジャスミンは既にグロックのぐったりとした体に辿り着き、
その上を這い上がり、触手の先端へと辿り着いていた。
先端は曲がり、白い糸がぴんと張り詰め、
呻き声を上げるグロックの首を締め付け、刺すような力で掴んでいた。
ジャスミンは口から短剣をひったくると、白い糸の根元を切り裂いた。
糸は一本ずつ剥がれ落ち、荒れた傷口からは濃い緑色の液体が泡立った。
ダークは怒りの叫び声を上げた。
傷ついた触手は身悶えした。
グロックへの掴みが緩み、グロックは石のように倒れた。
ジャスミンはクリーに向かって叫びながら、グロックの後を追った。
恐怖に身を震わせ、バルダとリーフは下を向いた。
ジャスミンの黒い頭が水面から現れ、
ダークのまだら模様のとぐろの中でよろめきながら立ち上がるのが見えた。
彼女はグロックの肩を掴み、頭を水から出していた。
ヴァージニアはバルダの組み付きを解こうと暴れ出す。
「殺す……殺す、殺す!!」
「落ち着け、ヴァージニア!」
ヴァージニアは何があってもダークを、自分一人だけで倒したいらしい。
明らかに無謀だったが、ヴァージニアは発狂状態で、バルダの声が聞こえなかった。
「……すまない、ヴァージニア。しばらく寝てろ」
バルダは仕方なく、ヴァージニアの後頭部を殴って気絶させた。
クリーは悲鳴を上げながら、傷ついた触手の先端に飛びかかり、突き刺した。
そして、グロックが襲い掛かろうとするのを横に避けた。
ジャスミンを救える望みはなかった。
グロックにできるのは、ダークの注意を逸らし、
ジャスミンが自力で助かる時間を稼ぐ事だけだった。
(大丈夫かな、グロック)
リーフには分からなかった。
しかし、渦巻く水面に銀色のギザギザの切れ目が走るのを見て、
心臓が喉まで上がってきたように感じた。
グロックの巨大な手は、生死に関わらず、
決して手放さないかのように、まだ剣を握りしめていた。
ダークの耳をつんざくような恐ろしい咆哮が洞窟中に響き渡った。
咆哮は水面を激しく打ち、グロックとジャスミンは泡の渦に巻き込まれて姿を消した。
巨大な波がうねり、洞窟の入り口へと押し寄せ、
リーフの脳裏に岸辺で待ち構えるプリューム族の姿が浮かんだ。
檻の周りの触手が締め付けられ、格子が小枝のように割れた。
リーフ、バルダ、ワソの頭上の触手は解け、下方へと這い始め、
その白い下面は蛇の腹のように畝を刻み込んだ。
光がちらつき、そして消えた。
「飛べ!」
「うん!」
檻が崩れ落ちると、リーフとワソは命からがら飛び上がった。
ワソは気絶したヴァージニアの手を引いていた。
泡立つ水面に突っ込み、水中に沈んでいった。
冷気の中、無力に転がり落ち、口と鼻には獣の味と匂いが充満した。
砕けた檻の破片と、遥か昔にダークに殺された犠牲者達の骨が、
悪臭を放つ泡の中でリーフとワソと共に渦巻いた。
リーフの右肩が何か硬いものにぶつかり、激痛が腕を伝った。
彼は盲目にもう片方の手を伸ばし、指の裏に岩を感じ、何とか立ち上がった。
ワソも何とか泳いでいた。
リーフとワソは洞窟の壁に押し流されていた。
震え、息を切らし、腰まで泡立つ水の中で、岩にしがみついていた。
目は固く閉じていたが、ゆっくりと瞼に揺らめく光を感じ始めた。
波が島を打ち付ける中、プリューム族の小さな集団が再び力を呼び覚ましたのだ。
リーフは刺すような目を無理矢理開け、赤い霞の向こうに、悪夢のような光景を目にした。
ヴァージニアが見たら本当に壊れてしまうほど巨大な触手が洞窟を埋め尽くしていた。
水は触手のうねりで波立ち、沸騰していた。
ジャスミンが襲った触手の一本は、他の触手よりも激しくうねり、
鈍くなった先端が酷く震え、壁や天井に緑色のぬめりの塊を撒き散らした。
リーフは後ずさりし、その時になって初めて、
洞窟の壁から水面まで突き出た分厚い岩棚を掴んでいる殊に気づいた。
ゆっくりと、苦痛に耐えながら、リーフはその棚によじ登った。
這って立ち上がり、岩に体を押し付け、
ジャスミン、バルダ、ヴァージニア、ワソ、クリーの痕跡を必死に探し始めた。
しかし、何も見えなかった。
とぐろを巻く触手だけが、静かになり、より辛抱強く、より徹底的に捜索を始めていた。
傷ついていない九本の腕の先端の糸は、岩壁をかき分け、暗赤色の水を梳きながら、
まるで醜悪なミミズのようにうねり、伸び、脈打っていた。
この濁った水面のすぐ下には、どれだけの押し潰され、
溺れた死体が漂い、発見されるのを待っているのだろうか。
リーフは目を閉じ、自分を飲み込みそうになる絶望と戦った。
生き残る事以外の全てを頭から遮断しようとした。
痛みに顔をしかめながら、慎重に傷ついた腕を動かした。
その時になって初めて、
リーフは自分の手が麻痺しているだけでなく、空っぽである事に気づいた。
剣は失われていた。
パニックを抑え込み、リーフは考え込んだ。
水に落ちた時、剣を握っていたのは確かだった。
泡の中で翻弄された時、手に握っていた柄の感触をリーフは覚えていた。
だがその時、リーフは岩に激突した――今、立っている岩棚に
リーフは足元を洗う、泡の散りばめられた暗い水面をじっと見つめた。
青白い筋のある肉がゆっくりと長く回転していくのを見て、胃がキリキリと痛んだ。
獣の触手の一本が岩棚のすぐ下で蠢いていた。
(もし、僕がまだそこに立っていたら……)
触手の先端が水面を割った。
リーフは、虫のような指が岩棚に向かって伸び、触れ、
そして前方に這い出そうとするのを、魅了されながらも恐怖に震えながら見ていた。
彼は硬直したまま立ち尽くし、息をするのもやっとだった。
もしリーフが身をかわそうとすれば、指は動きを察知して、
グロックの時のように襲い掛かってくるだろう。
しかし、もしリーフがその場に留まれば、指はすぐにリーフの足元に届くだろう。
そして足首まで這い上がってくるだろう。
そして、温かい肉に触れるや否や……。
「じっとして」
声はただの息だった。
リーフはぎこちなく右を向き、
洞窟の壁の浅い穴からバルダとワソが腕一本分のところから這い出してくるのを見た。
バルダは血を滴らせ、みすぼらしく汚れていた。
顔は血で汚れ、びしょ濡れの髪も血で覆われていた。
ワソはボロボロながらも、何とか立っていた。
しかし、彼が剣を高く掲げると、剣は輝いていた。
リーフは再び下を向いた。
ブーツの爪先は、蠢く鉤状の糸の塊で覆われていた。
額に冷や汗がにじみ出て、胃が嫌悪感でむかむかした。
糸が前方に滲み出て、糸の根元から伸びた触手の先端が水面からさらに高く上がり、
恐ろしいほどに動いていた。
「行け!」
バルダは叫び、刃を振り下ろした。
その刃は、根元から髪の毛一本分ほどの白い糸を、綺麗に切り裂いた。
ワソもヴァージニアを守りながら、刀でダークの触手を切り裂いた。
壁の凸凹した足場に足を滑らせながら、リーフは避けた。
岩棚の下の水が、まるで沸騰するかのように波立ち、泡立ち始めた。
「貝殻の後ろに隠れろ!」
バルダの叫び声が聞こえた。
リーフは肩越しに振り返った。
傷ついた触手の巨大な渦が上向きにうねり、水しぶきを上げて水面から飛び出していた。
鈍く痙攣した先端は、粘液を滲ませながら、リーフが立っていた岩棚に激しくぶつかっていた。
バルダとワソは急いで浅瀬の隠れ場所に戻ろうとした。
しかし、そこで安全でいられる時間は長くないだろう。
どこも長くは安全ではない。
ダークは再び触手で水を叩きつけ、凶暴な叫び声を上げた。
光がちらつき始めた。
波がリーフに打ち寄せ、リーフは膝から崩れ落ちた。
傷ついた腕は激しく脈打った。
息を切らしながら、リーフは半分水の中に、半分水の中に入ったまま這っていった。
後ずさりする事も、そこに留まる事もできなかった。
リーフに残された道はただ、進む事だけだった。
長く苦痛に満ちた数分間、リーフは這いずり、一瞬が空へと奪われていくのを覚悟していた。
しかし、ついにリーフは傍らの水面が穏やかになっている事に気づいた。
岩棚は広がり、白く漂白された骨がリーフの周りに山積みになっていた。
リーフは勇気を出して見上げた。
洞窟の奥、ダークの心臓部に到達したのだ。
今、リーフは巨大な触手の群れの背後に何があるのかをはっきりと見る事ができていた。
残酷な、引き裂く嘴。
そして、虚ろに前方を見つめる小さく青白い瞳さえも。
形のない体と、洞窟の天井までそびえ立つ、鈍い青色の巨大な石のような殻。
何世紀にも渡る成長によって隆起した、その殻は洞窟の壁の一部となっていた。
ダークは動く事ができなかった。
しかし、動く必要はなかった。
その強大な腕は、その縄張りの隅々まで届くほど長かった。
どんな獲物もそこから逃れられない。
甲羅の上で小さな動きがリーフの目に留まった。
リーフはじっと見つめ、思わず叫び声を上げそうになった。
「ジャスミン!」
なんと、その動きはジャスミンだった。
ジャスミンは短剣を手に、青い石の尾根を這い上がっていた。
リーフの視線を感じたのか、ジャスミンは下を見下ろした。
二人の目が合うと、ジャスミンの顔に満面の笑みが浮かんだ。
リーフが自分が生きているのを見て喜んでいるのが分かったのかもしれない。
もしかしたら、ジャスミン自身も喜んでいるのかもしれない。
しかし、ジャスミンは何も言わなかった。
ただ下を指差し、掌を外側に向けてリーフに手を差し出し、甲羅に登っていった。
心臓が激しく鼓動する中、リーフはジャスミンが指差した方向を見た。
グロックが甲羅に倒れ込み、折れた剣をまだ手に握っていた。
「……グロック……」
グロックは浅く、苦しそうに息をしていた。
大きく腫れ上がった傷が、首と顔に赤く燃えていた。
クリーは警戒するかのように、グロックの傍らにじっと立っていた。
リーフが再び顔を上げる頃には、ジャスミンは既に甲羅の頂上に到達していた。
「大丈夫か、ジャスミン」
リーフが恐怖に震えながら見守る中、ジャスミンは甲羅からこぼれ落ちる肉に軽やかに飛び乗り、うつ伏せになって前方へ身をよじり始めた。
ダークの小さな目には、ジャスミンを感知する様子はなかった。
もしかしたら、気づいていないのかもしれない。
あるいは、人間が這うハエを気に留めない程度に、
ジャスミンの事など気に留めていないのかもしれない。
半ば滑るように、半ば這うように、ジャスミンは獣の目のすぐ後ろにまで近づいた。
ジャスミンはわざと短剣を振り上げた。
リーフは身動きが取れなくなり、無力感に苛まれ、ただ見守る事しかできなかった。
ジャスミンが渾身の力を込めて短剣を突き刺し、
その柄までダークの目の間に突き刺した時、リーフの心臓は高鳴った。
だがその時、恐怖に震えると同時に、
青白く虚ろな瞳がジャスミンの顔に釘付けになるのが見えた。
ジャスミンは信じられないといった様子で、短剣がジャスミンの手の中で跳ね返るのを見た。
それは、突き刺すはずのゴムのような肉が跳ね返したのだ。
そして、素早く触手を後ろに振り上げるとジャスミンの体に巻きつけ、
叫び声を上げながらジャスミンを宙へと引きずり上げた。
黒い影が上空を駆け上がった。
それはクリーだった。
金色の目は獰猛で、じっと見つめていた。
ジャスミンを捕らえたダークに襲いかかる事はなく、
代わりに大胆にも触手の先端に襲いかかり、そこに蠢く鉤状の白い指を突き刺し、引き裂いた。
しかし、ダークは今度は掴みを緩めなかった。
さらに多くの触手が巻き上がり、先端が宙を舞い、飛びかかるクリーを襲い、
ジャスミンのぶら下がった足を狙った。
リーフはジャスミンの危険以外何も考えず、勢いよく前に飛び出した。
岩の上に散らばった骨を掴み、左手で頭上の蠢く触手へと力一杯投げつけた。
骨は触手の先端に命中した。
触手はびくっと跳ね返った。
リーフは激しく叫びながら、骨をもう一本、そしてまたもう一本と投げつけた。
目の端に、地面で自分の近くを動く人影が見えた。
それが誰なのか、立ち止まって見届ける暇もなかった。
触手がまっすぐリーフに向かって巻き付いてきていた。
リーフは骨を回し、先端を掴んだ。
白い糸が何本か反り返り、痙攣しながら粘液を滲ませた。
リーフは勝ち誇ったように叫んだ。
しかし、目の前の渦巻く水面から別の触手が立ち上がると、声は途切れた。
それはあまりの速さでリーフに襲いかかり、リーフに巻き付く前には見えなかった。
リーフは振り落とされ、もがき、足を蹴り上げ、頭がくらくらした。
彼を捕らえていた触手の先端が、肩の横で揺れていた。
白い切り株がそこで揺れ、粘液を滴らせていた。
それは傷ついた腕の片方だった。
しかし、傷ついていようがいまいが、触手はリーフを捕らえていた。
胸に巻き付く触手が締め付けられ、肋骨を砕き、命を絞り取ろうとするのを感じた。
息を切らしながら、リーフは触手の塊の蠢く中心へと引き上げられた。
その時、下から唸り声のような叫び声が聞こえた。
そして、触手が伸び始めたまさにその真ん中、
獣の大きく開いた嘴の真正面に、グロックの巨体を揺らす姿が見えた。
グロックは隠れていた場所から這い出てきた。
苦痛も恐怖も無視し、恐怖の中心へと這い出てきたのだ。
今、身をかがめ、よろめきながら、グロックは砕けた剣を振り上げた。
「お前は俺達を引き裂いて、骨を捨てるのか! お前は柔らかい肉が好きなのか?」
そしてリーフは前に倒れ込み、腕と巨大な剣の尖端を獣の喉元に突き刺した。
恐ろしい、泡立つような咆哮が洞窟に響き渡った。
リーフを捕らえていた触手は、まるで空中で凍りついたかのようだった。
そして、触手は震え、痙攣し始めた。
リーフはクリーの悲鳴を聞き、自分を捕らえていた巻き付きが緩み、
自分が滑り落ちていくのを感じた。
水中に飛び込むと、指は触手の裏側のぬるぬるした、凹凸のある皮膚を掻きむしった。
リーフは水面に浮かび上がり、くるりと振り向き、
泡とダークの絡み合う巻き付きの中からジャスミンを見つけようと必死に試みた。
「おい、リーフ! ここだ! 急げ!」
ワソと、ヴァージニアを連れたバルダが、水しぶきを上げながらリーフに向かってきた。
バルダは、ヴァージニアをワソに任せた後、リーフの腰を掴み、
もがき苦しむ触手の上を岩へと無謀に引きずり込んだ。
リーフは弱々しくもがいた。
「ジャスミン!」
「大丈夫ですわ、リーフ! ジャスミンは無事ですわよ!」
リーフは首を捻り、水の霞の中を瞬きしながら見つめた。
ジャスミンが、うねるダークの体の傍に跪いているのが見えた。
彼女の髪は水と血で流れていたが、生きていた。
ジャスミンはフィリを腕で抱きしめ、クリーはジャスミンの肩に乗っていた。
リーフは見守る中、頭を上げ、まっすぐに見つめ、それから頭上を見上げた。
ジャスミンの表情が変わり、ジャスミンはよろめきながら立ち上がった。
「リーフ!」
ジャスミンは叫んだ。
リーフ自身も顔を上げて、突然理解した。
頭上では巨大な触手が内側に巻き付いていた。
そして、それは倒れそうな大木のように揺れていた。
「……倒れ、ますわ……」
ヴァージニアは、触手から逃れるために目を逸らす。
リーフはバルダの腕から身をよじり解き放ち、
腕の痛みも気にせず、水中をかき分けて進み始めた。
ヴァージニア、ワソ、リーフ、バルダは共に前進しようと奮闘した。
四人は岩に辿り着き、安全な場所に倒れた。
その時、巨大な触手が地面に落ちてきて、水に大きな溝を刻み始めた。
水が天井に吹き上がり再び雨のように降り注ぎ、岩を叩き、震え、瀕死のダークの体を叩いた。
そして突然、水は止み、静寂が訪れた。
ヴァージニア、ワソ、リーフ、バルダ、ジャスミンは這って立ち上がった。
洞窟の中では、岩に打ち寄せる水音以外、何も動いていなかった。
赤い光がかすかに揺らめいていた。
既に灰色に変色していた触手は、まるで水没した巨木の幹のように、半ば水没していた。
そしてグロックは、ダークの心臓部にある斑点模様の肉塊の下に押し潰され、
動かずに横たわっていた。
頭と肩だけが自由で、目は閉じていた。
「……倒し、ましたの……?」
ダークを倒した事を確認したヴァージニア達はグロックのところによじ登り、傍らに跪いた。
そして、ヴァージニアは倒れているグロックに向けて手をかざし、呪文を唱えた。
「……これで、治ればいいんですけど……」
ヴァージニアも奇跡が通じるかどうか、まだ分からなかった。
その時、グロックの目が開いた。
ぼんやりとしていたが、その奥底で小さな火花が燃えていた。
「ヴァージニアが奇跡を使った。治るかな?」
「……俺は、もう治らないかもしれねぇ」
「そんな!」
ヴァージニアは奇跡で何度も助けてきた。
グロックが助かるのかと思ったのに、グロックはそれを自ら否定した。
「ダークの弱点を一つだけ見つけた。そこを突けば、倒れると思った」
洞窟の光がゆっくりと明るくなり始めた。
宝石のような光がグロックの顔に降り注いだ。
「剣を失ったジャリス族は、何の役にも立たないだろう?」
「グロック! 君は剣がなくても、勇敢に戦った!」
リーフの言葉に、グロックの口元は嘲るような笑みを浮かべた。
「今世ではな」
グロックの視線はジャスミンの顔に移った。
「あいつは知っている。あいつは俺にも、自分自身にも嘘をつかない」
ジャスミンはグロックの視線を受け止めた。
彼女の目は流し切れなかった涙で溢れていたが、ジャスミンは頷くように僅かに頭を動かした。
「お前を弱虫と呼んですまなかった。お前はジャリス族の心を持っている。
俺の首からお守りを受け取れ。今はお前のものだ。それがお前の役に立つ事を祈る」
ジャスミンは目を見開いたが、身動きもしなかった。
グロックの顔に焦りの色が浮かんだ。
「受け取れ。これが俺の、最期の贈り物だ」
ジャスミンは手を伸ばし、言われた通りにした。
グロックは小さく色褪せた袋を見つめ、再び口元を歪めて笑みを浮かべた。
「あまり役に立たなかったと思うかもしれないが」
「グロックは十分に役に立ったわ!」
「だが、覚えておけ。
ジャリス族の最大の願いは、偉大な大義のために戦ってその命を散らす事だ。
そして、俺はそれを成し遂げた」
洞窟の光はますます明るくなり、リーフには突然、虹が洞窟の中で踊り始めたように見えた。
まばたきをし、目が眩みながらリーフは見上げた。
リーフの目は欺かれていなかった。
ダークのゆっくりと崩れ落ちる体の向こうに、ついにトンネルの入り口が見えた。
トンネルからは虹色の光が流れ出し、
洞窟の真紅と混ざり合い、まるで空気そのものが輝いているかのようだった。
「あれが、洞窟……」
かすかな音がヴァージニア達の耳に届いた。
岸辺でプリューム族が熱狂的に歓声を上げる音。彼らは光を見たのだ。
「リーフ」
グロックの声は低く響いた。
リーフはグロックに覆いかぶさり、グロックの傷ついた顔に虹が浮かんだ。
「影の王国の道は開いた。俺達の仲間は見つかるだろう」
リーフは頷いた。
心は満たされ、言葉が出なかった。
「もし、奴らを見つけたら、俺の事を話してくれ」
「必ず話すと誓うよ、グロック」
グロックは満足そうに小さく頷いた。
そして目を閉じ、息を引き取った事は、ヴァージニアに分かった。
「わたくしは……奇跡を使えば、みんな助かると思っていた。
それなのに……ネリダも……グロックも……助からなかった。
わたくしは……どうして、奇跡を使えるんですの……?
わたくしの奇跡は……意味がありましたの……?」
ヴァージニアは元の世界では様々な奇跡を使い、
デルトラの世界に飛ばされてからも奇跡でリーフ達を助けた。
しかし、いましめの谷ではダイヤモンドを盗んだネリダが命を落とし、
ダークとの戦いではグロックが命を落とした。
一体自分は何のために生きているのか、ヴァージニアは混乱していた。
「ヴァージニア、結果だけが奇跡じゃないよ」
そんなヴァージニアの前にそっと現れたのは、友人のワソだった。
ワソはゆっくりと歩み寄り、涙を浮かべたヴァージニアの手を優しく取った。
ヴァージニアは伏し目がちに視線を落としたまま、かすかに首を振った。
「でも、助けられなかったんですのよ! ネリダも、グロックも!」
ワソは静かに首を振り、ヴァージニアの目を見つめた。
「確かに救えなかった命もある。
でも、ヴァージニアの奇跡がなかったら、リーフ達も、私もここにいなかった。
ヴァージニアが与えてくれた希望は誰かの絶望を照らした。それって、奇跡じゃない?」
その言葉に、ヴァージニアの目が少しだけ揺れた。
ワソはさらに続ける。
「奇跡は完璧なものじゃない。ヴァージニアがその力を信じて、誰かのために使い続けた。
その気持ちが、もう十分に“意味”になってるんじゃない?」
ヴァージニアの肩が小さく震え、ヴァージニアはようやく、堪えていた涙を流した。
「ありがとうございますわ……ワソ。わたくし、もう少し……この力を信じてみますわよ……」
「そう、それでこそヴァージニアだよ。どんな時も、あなたは光を運ぶ人なんだから」
島はダークの猛威に容赦なく打ちのめされていた。
しかし、プリューム族は歌い続け、
ヴァージニア、ワソ、リーフ、バルダ、ジャスミン、グロックを乗せた船は、
風に吹かれた茶色の葉のように水面を滑るように岸へと向かった。
船が着岸すると、喜びに満ちた歌声は巨大な洞窟に響き渡った。
歌詞は輝く壁にこだまし、紅い海に美しい波を描いて押し寄せた。
我らが大地の上空では騒乱が吹き荒れ 闘争は時代を超えて響き渡る
そこでは争いは決して止まないかもしれないが ここ地上では我々は平和に暮らしている
時を超えた潮流が記憶を飲み込み 太陽の射さない牢獄が我々を自由にする
宝石のような輝きが岩壁を照らし 竜が輝く館を守っている
「これは死の歌ではなく、生の歌よ」
ジャスミンは、最後の清らかな音が空気に漂う中、静かに言った。
「そうだろうと思ったよ」
リーフとバルダは好奇心の目でジャスミンを見つめたが、問いただす事はなかった。
ジャスミンの視線は、ノルズ自身が操縦した船――
グロックの遺体が真紅に包まれて横たわっている船――に釘付けになっていた。
「グロックはここに残るのね」
「奇妙な話ですわね……」
「あなたの仲間は我々の間で尊敬されるでしょう。
グロックという男はプリューム族の笛吹き達と共に眠り、決して忘れられる事はないでしょう」
ノルズは前に出て、小さな手をジャスミンの腕に置いた。
ジャスミンは少し考え、それから軽く微笑んだ。
「グロックもそう願っていると思うわ。グロックは酋長達の傍らに居たいと願っているわ」
ノルズは頭を下げた。
「グロックとあなたへの恩義は決して返せません。
私達が与えるものは少ないですが、私達が持っているものは全てあなたのものです。
あなたの旅のための船と食料を」
「光よ、我々が供給できる限りで……」
ノルズは言葉を止め、待った。
リーフは深呼吸をした。
これはリーフが待ち望んでいた機会だったが、
いざその時が来たとなると、それを受け入れるのが怖くなった。
「あなただけが僕達に与えてくれるものが一つあります。
それは僕達が切実に必要としている宝物です。たとえ一時的なものであっても。
ピラの笛の吹き口です」
ノルズは悲痛な表情で後ずさりした。
彼女の背後の人々は、ざわめき、ささやき合った。
リーフは落胆し、ヴァージニア、ワソ、バルダ、ジャスミンにちらりと目をやった。
バルダは怒りと不信感で眉をひそめていた。
ピラの笛についてまだ何も知らないジャスミンは、ただ困惑していた。
「大変なお願いをしている事は承知しています。でも、どうか僕達の願いを考えてください。
影の大王から人々を救うためには、笛を元通りにしなければなりません。
あの笛は、影の大王が唯一恐れているものなのです」
リーフは、声を何とか落ち着かせながら言った。
ノルズは手を上げてリーフを止めた。
「あなたは何も分かっていません。笛の吹き口を渡さないわけではありません。
渡せないのです。ずっと昔に失われたのです」
リーフは胃の底を殴られたようだった。
言葉が出ず、ノルズを見つめた。
「失われたのではなく、盗まれたのじゃ!」
ウォロンの鋭い声が言い、ウォロンは前に出た。
まだ脱ぎ捨てていなかった長い赤いローブと緋色の頭飾りを纏った、
威厳に満ちた姿のままだった。
「笛吹きの象徴は、七人の裏切り者――安全な海を捨てて地上へと去った邪悪な者達――が
人々から盗んだのだ」
「それは太古の昔、プリューム族が地上にいたのがまだ浅かった頃の事です。
当時の人々は、私達のように洞窟に慣れていませんでした。
裏切り者は安全な場所を見つけ、
戻ってプリューム族を太陽へと導こうとしていたと書かれています。
しかし、彼らは二度と戻ってきませんでした」
ノルズは溜息をついた。
「竜好きのドランは、私達の祖先に、彼らは皆、命を落としたと語っていました。
ドランはその逸話を知っていました。
それはジャリス族と呼ばれる野蛮な長髪の部族の人々がよく語る古い物語で、
彼らの祖先も殺戮を行っていたそうです」
「そうだ」
ウォロンは悪意に満ちた目で目を細めた。
「七人の裏切り者は滅ぼされ、笛の吹き口も共に滅ぼされたに違いない。
長髪の者よ、もし笛を探しに来たのなら、
お前の旅も、時間も、そして友の命も、全て無駄になった事になる」
リーフの脳裏に、エールのジョッキを傾けながらニヤニヤ笑うグロックの姿が浮かんだ。
ジャリス族の生き残り、グロックだ。
リーフの目は突然涙で熱くなり、リーフは慌てて視線を逸らした。
「……グロック……」
ジャスミンが首から小さな布袋を取り、開けようとしているのが見えた。
明らかにジャスミンもグロックの事を考えていた。
リーフはウォロンの方を振り返った。
「笛の三つの欠片が再び繋がらないのは、確かにダメだ。だが、ウォロン、ダークを倒したんだ。
プリュームはそこから自由になった。だから、何も無駄になっていないんだ」
「グロックが命懸けで倒した怪物なんですのよ」
「確かに無駄にはなっていない。俺達は……」
クレフはじっと見つめながら言葉を切った。
リーフはノルズもウォロンも、じっと見つめているのに気づいた。
そして、ヴァージニア達の後ろに群がるプリューム族も。
しかし、彼らはリーフをじっと見つめていたわけではない。
ジャスミンを見ていた。
いや、ジャスミンが差し出した掌に握っていた、埃まみれの奇妙な形の木片を見ていた。
一瞬、呆然とした沈黙が訪れた。
それからノルズが手を伸ばし、恭しくその木片を受け取った。
ノルズはゆっくりとしゃがみ込み、それを水に浸した。
何世紀にも渡る埃が崩れ、細かい雲となって舞い上がった。
そしてノルズが再び立ち上がると、ノルズの手の中のものは輝いているように見えた。
輝く木と奇妙な彫刻模様が織りなす、小さな奇跡のようだった。
「ピラの笛の吹き口です!」
「どこだ? どこだ?」
ウォロンの口は魚の口のようにパクパクと開いたり閉じたりしていた。
「グロックはずっとそれを持っていたのよ。家族から受け継いだお守りの一部だったの。
グロックはそれが単なる幸運のお守り以上のものだとは知らなかったわ。
私も、ついさっきまで知らなかったわ。その時でさえ、真実を疑っていただけよ」
賢明にも、ジャスミンはそれ以上何も言わなかった。
ジャスミンはグロックを笛の一部と共に国葬で埋葬してほしかった。
群衆が押し寄せて見ようとしているその品物を、
グロックの先祖がどのようにして手に入れたのかを、
ジャスミンは認めるべきではないと分かっていた。
ノルズの顔は喜びで輝いていた。
「奇跡です! 私達の宝が戻って来ました。これで、あなたへの借りを返せます」
リーフは、ノルズの輝く顔と、ノルズを取り囲む喜びに満ちた顔を見下ろしながら、
どうして自分がこの人達を醜いと思ったのか不思議に思った。
また、ピラの笛の吹き口を正当な持ち主の手に返した偶然についても不思議に思った。
そしてついに、これは偶然ではなく、何か別のものだったのではないかと考えた。
リーフはまだ光り輝く吹き口を驚嘆の眼差しで見つめているバルダの方を向いた。
「ヴァージニア、バルダ、ワソ、最初の目的地に到着したぞ。
そして、次の目的地への道が開いた。地図によると、次はオーロン島だ」
バルダはゆっくりと首を振った。
「いや、まずはデルへ戻る道を見つけなければならない。
ジョーカーが物資と戦士達を連れて、そこで俺達を待っている……」
「駄目! 時間はもうないのよ! 私達は……」
リーフとバルダがジャスミンの方を向くと、ジャスミンは言葉を切った。
「どうしてそんな事を言うんだ、ジャスミン?」
バルダが問いただすと、ジャスミンは唇を濡らした。
「聞いた……聞いたの、影の大王が人質をみんな、処刑しようとしているって。もうすぐよ」
「クリーが教えてくれたの?」
リーフは鋭く尋ねるが、ジャスミンは躊躇った。
嘘をつくのはジャスミンの性分ではない。
しかし、リーフに、自分が閉ざされた部屋に入った事、
リーフが隠そうとしていた「妹」と話した事を知られたくなかった。
リーフが嘘と裏切りを否定したり、釈明したりしようとする時、
ジャスミンはリーフの表情を見るのが耐えられないと分かっていた。
ジャスミンはそれを頭から追い出したかった。
目の前の仕事に集中するため。
行動に没頭するため。
そこでジャスミンは唇を噛み締め、頷いた。
「うーん……」
「何か、隠しているのかなぁ……」
「じゃあ、僕達だけで進まなきゃ」
「ダメだ。少なくとも君は……」
「僕はできる。それに、ずっとそうするはずだった」
「でも、あなたはデルトラの国王なのよ!」
リーフはジャスミンの不安げな視線をまっすぐに受け止めた。
「この事については、長い間、真剣に考えてきた。僕は国王だけど、それでもリーフだ。
やらなければならない事はやらなければならない」
「ダメだ!」
バルダは抗議したが、リーフは首を横に振った。
「僕は捕まるわけにはいかない。
過去の国王や女王に起こった事、そしてそれが彼らの破滅だった。
アディンがデルトラのベルトを作った時、それは不本意だったらしい。アディンは……」
腕に軽く触れられたのを感じ、リーフは振り返ると、ノルズが見上げていた。
「アザンに、まだ乾いている高台に寝床を用意するように頼みました。
傷の手当てをして、休んでください。ああ、アザン!」
ノルズは、息を切らして駆け寄ってくる若いプリューム族に、歓迎の笑みを向けた。
「大丈夫か?」
アザンは不安で顔をしかめ、首を横に振った。
「駄目だ!」
「恐ろしい……何もかも上手くいかないんじゃないかと」
「どうして?」
「唯一の寝床が、見た事もないような恐ろしい怪物二匹が占拠してしまったんだ」
ノルズは驚いた様子だった。
アザンはヴァージニア、ワソ、リーフ、バルダ、ジャスミンを哀れそうに見つめた。
「恐ろしい奴らだ。
私の頭と同じくらいの大きさで、巨大な牙と八本の足、そして赤い目をしている。
そして、奴らはまるで止まる気配もなく、激しく互いに戦っている!」
ヴァージニア達は顔を見合わせた。
「あいつらの事はよく知っていると思う。任せてくれ」
「家まで連れて行くぞ!」
アザンは熱心にそう言うと、飛び去っていった。
「ああ、英雄がいるって素晴らしい!」
「そうですね」
ノルズは満面の笑みを浮かべた。
リーフは、ヴァージニア、ワソ、バルダ、ジャスミンと共に、
クリーが頭上を舞う中、アザンの後を重々しく追いながら、陰鬱に言った。
「ダークを倒せれば、イラダチとキラメキも制御できるはずだ」
「期待はしていない」
ジャスミンはリーフの方を向いた。
「ノルズに邪魔された時、何を言っていたの?」
リーフは興奮のあまり、言いかけていた言葉をもう一度考え直した。
「それが何であれ、構わない。
僕達がデルトラのベルトの宝石を取り戻すという冒険を生き延びたのなら、
この冒険も生き延びるはずだ」
「これは影の王国で終わるだろう」
「……そうですわね」
「全てはピラの笛にかかっている。最初の部分は奇跡的に手に入れた。
二番目と三番目はどうなるんだ?」
リーフは振り返り、緋色の海に輝く洞窟を見た。
あの神秘的な門の向こうにはどんな危険が待ち受けているのか。
それはリーフには分からなかった。
しかし、見つめていると、再び澄み切った甘美な音楽がリーフを招いているのが聞こえてきた。
「僕達を待っているんだ。分かっている。僕達は探すんだ」
次回は第2章「幻想の島」となります。
ピラの笛の一つを取り戻しましたが、完全に戻るまでは、まだ準備はできないそうです。