ヴァージニアとデルトラクエスト2   作:アヤ・ノア

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ハーメルンもBlueskyやnoteに対応していればと思う今日この頃。
ヴァージニアサイドで、島の怪物に遭遇します。


第14話 怪物アラクの縄張り

 リーフはオーロン島に向かって漕ぎ出していた。

 頭の中は音楽でいっぱいだった。

 肩は痛んでいたが、もう意識はなかった。

 ただ、刻一刻と強くなっていく音の事しか考えられなかった。

「リーフ、どうしたの?」

 ジャスミンが尋ねると、リーフはジャスミンを一瞥した。

 見慣れたジャスミンの顔が、まるで夢の中の顔のように、

 リーフのぼんやりとした目の前で揺れ動いた。

「ピラの笛の魔法を感じているのですよ」

 ペンがボートの前方から言った。

 彼女は身を乗り出し、リーフの膝を強く叩いた。

「リーフ!」

「起きなさい!」

 蛇口の音と鋭い声は、リーフの意識を曇らせていた夢見心地の靄をいくらか切り裂いた。

 リーフは瞬きをして呟いた。

 ペンは側面から手を出し、水をすくい上げてリーフに投げつけた。

 冷たい水滴が顔に飛び散り、リーフは息を呑んだ。

 突然、リーフは完全に意識を取り戻した。

 意識はあったが、混乱し、激しい怒りに駆られていた。

「どうしてそんな事をしたんだ?」

 リーフはペンを睨みつけ、制止するジャスミンの手を乱暴に振り払いながら叫んだ。

「必要だったのです。

 オーロンを初めて見る事ができなかったら、こんなところに連れてきたんじゃないですか」

 リーフは息を切らしながら、目から水を拭った。

 激しい怒りはゆっくりと消えていった。

 リーフは自分がどこにいるのか、そして何が起こったのかを悟った。

「ごめんなさい。悪いのは僕です」

 リーフは恥ずかしさでいっぱいになりながら、呟いた。

 ペンは相変わらず落ち着いた声で言った。

「警告しておくべきだったのに、不意を突かれてしまった。

 笛の魔法は今まで感じた事のないほど強力です。

 きっとあなたが持っている吹き口のせいでしょう。

 私もずっとそれに苦しんでいたのです」

 その時になって初めて、リーフは自分の顔が濡れている事、

 そして小さな刺青の手が鋭い爪を掌に突き刺した跡から血を流している事に気づいた。

「前に何かいるわ」

 ジャスミンは暗闇を指差しながら叫んだ。

 しばらく静寂が訪れた。

 それからヴァージニア、ワソ、リーフ、バルダが、

 ジャスミンが見たものと同じ光景を目にした瞬間、叫び声を上げた。

 薄暗い闇の中から、かすかな光が覗いた。

「あれはオーロン島です」

 ペンは少し震える声で言った。

「静かに行きなさい。一線を越えてはいけない」

「一線?」

「着陸はできませんの?」

「もう十分です、恐れないでください」

 ペンは呟いた。

 船はゆっくりと前進した。

 奇妙で不快な臭いがヴァージニア達の鼻孔に忍び寄り始めた。

 服に張り付き、肌に染み込み、髪にまとわりつくような、濃厚な腐敗臭だ。

 すると、穏やかな波の音が聞こえ始めた。

 他にも音があった。

 柔らかく、グジュグジュという音、そして硬直した関節が軋むような、カチカチという音。

 光は少し明るくなり、視界をほぼ埋め尽くすほどに広がった。

 リーフは目を細めて、その向こうに島が見えるかどうか探ろうとした。

 彼には、広大で高く、薄暗い光のドームしか見えなかった。

 そして光の左側、まさにリーフが見たいと思う場所に、海に突き出た険しい洞窟の壁があった。

「そこが線です」

 ペンは息を切らして言った。

「止まって!」

 ヴァージニア達は光から目を離し、前方の海を見下ろした。

 ボートの正面には、鮮やかなピンクと黄色の海藻が幅広に帯状に浮かんでいた。

 その帯は左右に伸び、

 輝くドームとそれを取り囲む奇妙な乳白色の海を囲むようにカーブを描いていた。

「警告のためにこの海藻を植えたのか?」

「ああ、もっと早く知っていればよかった!」

 しかし、ペンはジャスミンとリーフの事ばかり考えていた。

「船の側面を島に向けなさい。そして、命懸けで、警告区域に流されないように」

 ペンの口調はあまりにも緊迫していたので、リーフは逆らう考えさえしなかった。

 薄暗い中でもはっきりと見える海藻の眩いピンクと黄色は自身の警告であった記憶を蘇らせた。

「さあ、見なさい。よく見て、理解するのです」

 ペンは静かに言った。

 リーフとヴァージニアはじっと見つめた。

 目が光に慣れ、岩や丘、

 あるいは見覚えのあるものの形を無駄に探していたが、背筋がぞわぞわし始めた。

 ドームの下には何も見えず、ドームは揺らめくエネルギーの障壁で、

 その下にある全てを隠していた。

 油っぽく浅い水がかすかに湯気を立てながらドームの底を洗っていた。

 そこには、何かどろっとした物質の塊が潮に揺らめきながらゆっくりと動き、

 目に見えないものがぐしゃぐしゃと音を立てていた。

 全てがまるでカビのような乳白色の霞に覆われているようだった。

 悪臭が波のようにリーフを覆い尽くした。

 バルダが小さく悪態をつき、ジャスミンが信じられないといった呟きが聞こえた。

「何だか嫌な予感がしますわ……」

 ヴァージニアがこの不気味な光景を見て呟く。

 絶望が鈍い灰色の雲のようにリーフを覆い尽くした。

 リーフは椅子の上で体をひねり、ペンを見た。

 ペンは膝の上に組んだ手をじっと見つめていた。

「ドームは魔法で封印されています。分かりますか?

 私達、筏の住人は追放者です。私達の祖先はずっと昔にドームから追放されたのです」

「何故だ?」

「彼らは危険な存在でした。偽善にうんざりしていたのです」

 ペンは呟き、まるで言葉の一つ一つが無理やり引き出されているかのように、

 途切れ途切れに話した。

「彼らは望んでいたのです。

 慣れ親しんだ場所ではなく、しかし独特の荒々しい美しさを持つ場所で、

 外で生活を始めたかったのです」

 ヴァージニア、ワソ、リーフ、バルダ、ジャスミンは不安そうに辺りを見回した。

 この圧倒的な暗闇の中で、どうして美を見出せるのか、理解に苦しんだ。

 ペンもまた、悲しみに潤んだ目で辺りを見回した。

「最初に筏が作られた時、洞窟の壁は千もの色の星のように輝いていました。

 ウナギ達は煌めく虹色の海で踊っていました。

 言葉では言い表せないほど美しかったと文献に記されています」

 ペンは深く溜息をついた。

「私が子供の頃でさえ、その美しさは影を潜めていました。あの色彩はよく覚えています。

 でも今はもう、消えてしまいました」

 ヴァージニア、ワソ、リーフ、バルダ、ジャスミンは、プリューム族の島を初めて離れた時、

 航海しながら通り抜けた、この上なく美しいオパール色の海を思い浮かべた。

 プリューム族の光が消えるにつれ、眩いばかりの色彩も薄れていった。

 その時、ヴァージニア達は、

 オーロン族が何か邪悪な目的のために自らの光を弱めたのだと思っていた。

 しかし今、ヴァージニア達は違う事を悟った。

「どうしたの?」

 ペンは小屋から持ってきた羊皮紙の切れ端をゆっくりと、ほとんど不本意にも二枚取り出した。

 彼女はランタンと共にリーフに手渡した。

「物語の一部はここにあります。筏の子供達のために、簡単な形で書きました。

 これを持ってきたのは……あなた達がきっと疑問を持つだろうし、

 それに答えるのは私にとって苦痛になるだろうと思ったからです」

 ペンは再び自分の手を見下ろした。

 体は硬直し、口元は固く結ばれていた。

 ヴァージニア、リーフ、ジャスミンは最初の羊皮紙に目をやった。

 バルダとワソは忍び寄り、三人の肩越しに覗き込んだ。

 

 影の大王の到来後、ピラの三部族は古の地から逃れ、地下海の島々に避難した。

 オーロン島は敵対する「プリューム島」と「ケラス島」から遠く離れていた。

 島は広大で、天然の水があり、成長の早い菌類の木々に覆われており、

 そこから船や住居を作る事ができた。

 人々の魔法が働くと、島のある洞窟は虹のあらゆる色に輝いた。

 一部のオーロン族は島と輝く洞窟に奇妙で野性的な美しさを見出した。

 しかし、ほとんどの者は醜さしか見ず、すぐにピラの失われた美の幻影を作り始めた。

 しばらくして、彼らはさらに先へ進んだ。

 彼らは壮大な呪文を唱え、島を覆うドームを作り、魔法を封じ込めて幻影を完成させた。

 しかし、彼らの行為に同意しない者もいた。

 これらのオーロン族は、たとえどんなに奇妙であっても、

 自分達の心が作り出した夢の中に存在するよりも、現実の世界に生きたいと願っていたのだ。

 

「なるほど、そういう事だったのか……」

 リーフは最初の羊皮紙を置き、2枚目を取り上げた。

 

 こうして私達の祖先は魔法を剥奪され、裏切り者として追放された。

 当時の笛吹きであったイーランは、

 平和に去ればドームの中で血が流れる事がなくなり、洞窟は常に光で満たされると誓った。

 そして私達の祖先は彼を信じ、一言も文句を言わずに去った。

 彼らは流木を干し草の縄で縛り付けて筏を作り、泥の家を建て、

 故郷である輝く海の笛の中で暮らす事を学び、幸せに暮らした。

 長年、イーランの約束は守られていた。

 しかし、火をもたらすドランが現れて間もなく、戦いはゆっくりと、徐々に弱まり始めまた。

 数世紀が経った今、私達の領域はあなたが見ている通りである。

 ドームの住人達は死者も含め、自分達の美の概念を脅かすあらゆるものを追い出し続けている。

 こうして彼らはドームの周りで繁殖する生き物達の糧を得ている。

 そして、それらの生き物はアラクに追われている。

 かつては戦いから逃れ、洞窟の奥深くに隠れていた悪夢の怪物達。

 だが今や、ドームの海の暖かく薄暗い場所に巣食っている。

 ドームは、その中にいるオーロン族の魔法と、ピラの笛の胴体が守っている。

 魔法を持たない我々は、そこを突破する事はできない。

 多くの者が試み、命を落とした。

 私達は皆、戦いが完全に終わった時のために備えなければならない。

 暗い水の中で道を見つけ、

 決して越えてはならない危険線を触覚で知る事を学ばなければならない。

 木片一つ残らず大切にし、筏を巧みに修理し、無駄を憎み続けなければならない。

 そうすれば、私達は生き残れるだろう。

 

 リーフは顔を上げ、ペンの真剣な目を見つめた。

 彼は何も言わずに羊皮紙を返した。

 しかし、ジャスミンの目は細められていた。

「アラクって何?」

 ジャスミンが尋ねるとと、ペンは身を硬直させ、左右を見回した。

 抑えきれない叫び声と共に、ペンは椅子から半ば立ち上がり、そして後ろに倒れ込んだ。

「どうしちゃったの?」彼女は息を切らして言った。

「ああ、アーロン、許して! 慌てて見忘れていたの。境界線を越えてしまうわ!」

 ヴァージニア達は下を見た。

 ピンクと黄色の水草が辺り一面に広がっていた。

 青々と茂り、枝が密集し、水面のすぐ下を漂っていた。

 ヴァージニア達が正気を取り戻す前に、船首が水草からそっと抜け出し、

 その向こうの乳白色の水へと落ちた。

 そして、ドームの傍で何かが動いた。

 血も凍るような、吸い込むような、軋むような音がした。

「戻って! 急いで!」

 ペンはパニックで目がくらんだまま呟いた。

 リーフとワソは必死に背漕ぎを始めた。

 櫂は水しぶきを上げ、ぼろぼろの雑草の毛布に引っかかった。

 船は左右にぎこちなく揺れたが、動かなかった。

 ペンは何も言わずに水に飛び込み、雑草を引っ掻き、

 長い列をなぎ払い、道を開けようと無駄な努力をした。

 二つの巨大な影、それぞれが細く関節のある八本の脚で揺れる、

 巨大でゴツゴツした二つの体が、ドームの輝きを背景に暗く浮かび上がった。

 赤い目が光り、怪物は飛び出し、船に向かって走り始めた。

 水面を恐ろしい速さで駆け抜けた。

「向こうへ! 泳いで! 命懸けで泳いで!」

 ペンは叫んだ。

 リーフは躊躇わずにジャスミンを抱きしめ、水草が生い茂る水の中へと転がり落ちた。

 ワソは命懸けでこぎ続け、ヴァージニアはワソにしがみつく。

 水面に浮かび上がると、背後からバルダが水しぶきを上げて叫んでいるのが聞こえた。

 リーフは叫び返し、ジャスミンをしっかりと胸に抱きかかえたまま、

 水浸しのマントを蹴り飛ばし、水草の中をかき分けて突き進んだ。

 ジャスミンは息を切らし、むせ返り、何とか言葉を絞り出そうとしていた。

 

「何を言いたいのか分かっている。息が苦しいほど楽になるだろう」

「君を置いて行かない」

 バーダがリーフの傍に現れた。

 四人はジャスミンを支えながら、もつれた水草をかき分け、

 苦痛に満ちたゆっくりとした足取りで前に進んだ。

「何をしているの? 急いで!」

 水草の向こうの薄暗い場所からペンが叫んだ。

 すると、驚いた事に、ペンは安全な場所を離れ、

 魚のように水と水草を切り裂きながら、彼らに向かって突進してきた。

 ペンは頭を彼らの前に浮かべ、青白い目を恐怖で大きく見開いた。

 彼女はジャスミンに手を伸ばした。

「どこが怪我なの?」

「怪我はしていない。泳げないんだ!」

 リーフは息を切らし、歴史記録係が驚愕して顎を落としているのを見た。

 それからペンはジャスミンを巧みに引っ張りながら、泳ぎ去っていった。

 ヴァージニア、ワソ、リーフ、バルダは後ろで、

 心臓がドキドキし、胸が痛む中、水草の中を泳ぎ、ついに外海へと出た。

 そこでペンは立ち止まり、向きを変え、

 片腕でジャスミンを楽々と支えながら、水面を踏みしめていた。

「どうして止まったんだ?」

 バルダは息を切らして言った。

「ここは安全です。アラクは水草の向こうでは狩りをしません。

 ドーム状の海はアラクの縄張りです」

 それからペンの顔は苦痛に歪んだ。

「ああ、駄目! ああ、なんてもったいない!」

 枯葉がパチパチと音を立てる音がした。

 リーフは息を切らし、肺で荒い呼吸をしながら、水中でくるりと向きを変えた。

 アラクは海藻の帯の端で立ち止まっていた。

 一匹がボートを掴み、宙高く持ち上げ、紙のように押し潰していた。

 もう一匹は分け前を奪い合い、脆いボートを引っ張り、中をかき乱して獲物を探していた。

 リーフは呆然として見つめた。

 アラクは巨大で奇形の蜘蛛のようだった。

 膨れ上がった体は光沢のある黒い甲羅に覆われ、まるで鎧を纏っているかのようだった。

 細長く伸びた脚は、蹴爪や棘がちりばめられた鋼鉄のワイヤーのようだった。

 装甲で覆われた頭には、貪欲な赤い目と、滴る牙しか見えなかった。

「……別にウネウネはしてませんけど……下手に刺激してはいけませんわね」

 鈍く怒りに満ちた咆哮と共に、二匹目のアラクが激しく揺れ、ボートを真っ二つに引き裂いた。

 食料、バケツ、ランタン、そしてリーフが戦闘中の蜘蛛の檻だと気づいた二つの小さな物体が、

 空高く舞い上がり、鈍い水しぶきを上げて散り散りになった。

 イラダチの檻はリーフの目の前で水面に落ち、イラダチは檻の中で必死に身をよじっていた。

 リーフは檻を掴んで持ち上げ、息を切らしながら片手で何とか浮かんでいた。

 目の前でこの蜘蛛が溺れるのを見過ごすわけにはいかなかった。

 バルダもまた、キラメキを運命に任せるわけにはいかないようだった。

 彼はもう一方の檻に向かってもがき、まるで命がかかっているかのように手を伸ばしていた。

「アラクはもうたくさんよ」

 リーフは見上げると、怪物達がドームへと忍び寄ってくるのが見えた。

 船の残骸が雑草の茂みに散らばっていた。

 突然、ペンは頭を水中に沈めた。

 ジャスミンはペンの腕にしっかりと抱きしめられたまま、パニックに陥り、

 泡が勢いよく噴き出した。

 ペンの頭の周りに大きな泡が立ち上り、

 リーフは奇妙な、くぐもった叫び声が聞こえたような気がした。

「一体何をしているの?」

 ジャスミンが悲鳴を上げた。

 しかし、ペンは既に頭を上げ、目を覚まそうと振っていた。

 間もなく、周囲の水が渦巻いた。

 その時、ヴァージニア、ワソ、リーフ、バルダ、ジャスミンは驚いて叫び声を上げた。

 深みから四匹の巨大なウナギが、恐ろしいほど大きな口を開けて現れたのだ。

「……うぅ、ウネウネなんて……メイスで……」

 ヴァージニアは恐怖からメイスをぎゅっと握りしめていた。

「首を掴んでください。私の呼びかけに応えてやって来たのです。

 私達を家に連れて帰ってくれるでしょう」

 

 リーフが想像していたよりもずっと短い時間で、ヴァージニア達は筏に戻った。

 あんなに速いスピードを感じた事はなかった。

 あの旅は決して忘れないだろう。

 顔に打ち付ける波しぶき、ウナギの滑りやすい首に必死にしがみつく事。

 恥ずかしい事にリーフはウナギの首から引き上げられて場に運ばれた。

 どうする事もできなかった。

 足も腕も動かない。

 頭がくらくらする。

 場の端で水の中で魚のように身を屈めて遊んでいた子供達は、

 じっと見つめてクスクス笑っていた。

 近くで網を繕ったり縄を編んだりしていた作業員達は、

 面白がって軽蔑するように鼻を鳴らしていた。

 ヴァージニア、ワソ、バルダもリーフと同じ状態だったしジャスミンも少しばかりましだった。

 みすぼらしく、足元はよろめき、心は病み、

 四人はペンの後を追って小屋へとよろよろと歩いていった。

 ヴァージニア達の様子を見ようと集まった、鋭い表情で沈黙を守る群衆を無視しようと努めた。

 小屋のドアは開いたままだった。

 中には、長いローブと背の高い銀色の頭巾を被った、腰を曲げた人物が立っていた。

 頭巾の下の顔は酷く老いていて、しわくちゃで歯が生えていなかった。

 ペンはびしょ濡れの仲間達を小屋に案内し、後ろの扉を閉めた。

「水は気にしないでください。この床はあなた方が数え切れないほどびしょ濡れになったのです」

 ジャスミンはすぐにストーブの傍に座っているクリーのところへ駆け寄った。

 彼女は跪き、震えるフィリを肩から抱き上げて暖かさを分け与えた。

 リーフとバルダは動かない蜘蛛の入った檻をジャスミンのところへ運び、

 それからペンのところに戻り、震える足を固くしようとした。

 ヴァージニアとワソは何とか温まっている。

「それで?」

 笛吹きの男は尋ねた。

 リーフは疲れ果てていたにもかかわらず、その声に驚嘆した。

 それは野生の蜜のように滑らかで、豊かで、甘いものだった。

 ペンは両手を組み、まるで報告するかのように、冷淡に言った。

「背が高く勇敢で、鋼鉄の武器を持っているかもしれません。

 しかし、水の中では、男のリーフとバルダは生まれたばかりの赤ん坊のように無力で、

 女のジャスミンは全く泳げないし、

 同じ女のヴァージニアとワソは突然の出来事に対応できませんでした。

 アラクを不意打ちする事も、逃げる事も、彼らには望みがありません。

 笛吹きよ、あなたの要求は全て果たしました。それには大きな代償が伴ったのです。

 でも、その望みは捨てなさい」

 ペンの言葉で、笛吹きは苦痛に苛まれたかのように目を閉じた。

「ペン、わしの思いを伝えたか?」

 笛吹きの男は優しく尋ねた。

 リーフとバルダ、ヴァージニアとワソは互いに顔を見合わせ、それからペンを見た。

 ペンは躊躇っていた。

「いいえ。泳げないと分かったから、これ以上苦しめる必要はないと思ったんです」

「今すぐ伝えるのじゃ」

 笛吹きの男は言った。

 それは頼みではなく、命令だった。

 ペンは落ち着きなく動いた。

「笛吹きの男は、もしあなたがドームに辿り着く事ができれば、

 ピラの笛の吹き口から中に入れると信じているんです」

 ペンはリーフとバルダ、ヴァージニアとワソを見ずに言った。

「ピラの笛の胴体がそれを呼び寄せ、魔法のバリアを突き破ってくれると信じているんです。

 笛吹きはそう願っているんですか?」

「わしは色々願った」

 笛吹きの男は目を開け、ペンを鋭い目で見つめた。

「どうやらわしの願いは無駄だったようじゃ」

 しかし、リーフはバルダの腕を掴んでいた。

 ヴァージニアとワソは拳を握りしめている。

 ジャスミンは床から飛び上がり、希望に満ちた顔でヴァージニア達のところへ急いだ。

「ペン、どうしてもっと早く教えてくれなかったの?

 ドームを突破できるなら、できるでしょ?」

「ドームには行けません! アラクを見たでしょう! 他にもたくさんいます!

 彼らの巣は彼らの縄張りの水域を網で覆っています。

 そこに入った瞬間、アラクはあなた達に気づくでしょう」

「何か方法があるはずだ」

「必ずあるの?」

「方法なんてありません!

 もし船に乗ったとして、もし私達があなたに船を渡したとしても、

 あなたはほんの一瞬しか生き残れません。

 ドームに辿り着く望みを少しでも持つには、水中、巣の下を泳いで行かなければなりません。

 あなたにはそんな事は絶対にできません!」

「ウナギよ! きっと私達を網の下に引きずり込む事ができるわ。

 その間、息を止めていられるわ。ウナギは泳ぐのが凄く速いから……」

 ペンは溜息をついた。

 笛吹き男は薄く微笑んだ。

「できるかもしれぬ」

「え、でも、わたくしウネウネしたのは……」

「そんな事はどうでもいいじゃろう。

 まあ、ウナギを説得してアラクの領土に入れればの話だが。だが、無理じゃ。

 何度も何度も試みられたのに。絶対に無理じゃ」

 リーフは嫌悪感を込めて首を振った。

「お主がわしらのように泳げないのは分かっていた。

 ドランはわしらの一番小さな子供達にさえレースで勝てないと書いてあった。

 だが、こんな弱点を考えた事はなかった!」

 しかも、お主らのうち一人は全く泳げぬ! 信じられぬ!」

「私は浅い小川しか水のない森で育ったのよ」

 ジャスミンは、どうしようもない事で批判されるのに心底うんざりしていた。

「どうしたら泳げるようになるの? 笛吹きが木登りを習えないのと一緒だ!

 ペンが蔓でブランコを滑るのを習えないのと同じだ!」

 リーフは鋭く叫んだ。

 ジャスミンは顔をしかめながら、リーフの方へ振り返った。

「リーフ、何を言っても構わないわ!

 城の礼儀作法はあなたには通用するかもしれないけど、私には通用しないわ。

 もうこの人達には礼儀正しくしないわ!」

 しかしリーフの顔は興奮で輝いていた。

「ジャスミン、分かったか! 僕達に何をすべきか、君はちゃんと教えてくれたじゃないか!」

「リーフ!!」

「ほらね? 弱点じゃなくて、長所を使うんだ!」

「信じられぬ!」

 笛吹きの男は冷たい目を輝かせながら叫んだ。

「そんな事が実現できるなんて、思いもよらなかった」

「変な考えだね、リーフ」

「いや、できる!」

「試してみればいい。それに、試してみる価値はあるわ」

「もちろん。笛吹きが間違っていてピラの笛の吹き口がドームを貫通できないなら話は別だけど」

 ペンは両手で顔を埋めた。

 笛吹きの男はペンの腕を掴んだ。

「ペン、弱気になるでない」

 リーフは笛吹きが呟くのを聞いた。

「奴らはわしらにできない事をできる。奴らはわしらの救いになるかもしれない!」

 リーフはリーフの方を向いた。

 その硬く老いた顔には、リーフが信じられないような穏やかな表情が浮かんでいた。

「できる限りの協力をさせてほしい。ピラの笛の胴体を手に入れたら必要な時にお主らに貸そう。

 わしらが求めるのは、ドームの住人達を説得して洞窟に光を取り戻すよう、

 最大限の努力を尽くす事だけじゃ。必要な限り、それはお主のものじゃ」

「大丈夫だよね……」

「でも、ピラの笛の胴体はドームから実際に出てしまったら、どれくらい必要なんだ?

 君が手に取れる場所に置いてから? 死んだら何もいらない。それが君の計画か?」

 笛吹きの男は視線をペンの俯いた頭に移した。

 彼はペンに、友達になるように言った、と彼は思った。

 そうすれば、我々もオーロン族民を助けたいと思うようになる。

 そしてもちろん、本人の意に反して成功した。

 ペンは渋々、命令に従った。

 それは最初から明らかだった。

 もしかしたら、ピラの笛の吹き口でドームを貫通できるとは思っていなかったのかもしれない。

 そして、訪問者達に死を選ばせることを恐れていたのかもしれない。

 あるいは、ペンは、笛を手に入れた途端、裏切られる事をよく知っていた。

「ペン、わしらの決断を責めないでくれ。

 わしらはただ、やらなければならない事をしているだけじゃ。

 では、わしの条件を受け入れるか?」

 リーフは笛吹きの男の目をまっすぐに見つめた。

「ドームに入ったら、笛吹きよ、できる限りの事をして君を助ける。

 成功は約束できないが、ドームの住人達に、

 ピラの笛の胴体を懇願するのと同じくらい真剣に、君の灯りを返すよう懇願すると誓う」

「それ以上は何も求めておらぬ。体を乾かして休まなければならぬ」

 笛吹きの男は呟いた。

 しばらくの間、強い感情に囚われているかのように、じっと動かなかった。

 それから顔を上げた。

「船を用意してする。ペン、少し待ってくれ」

 ペンはドアへと駆け寄る笛吹きの男を追った。

 二人は外に出ると、リーフは二人が低い声で話しているのを見た。

「あの笛吹きは不安だ」

 バルダは冷えた手を温めるためにストーブへと歩み寄りながら言った。

「昔、城で知り合った人達を思い出す。陰謀家で、ペンを意のままに操っている」

「あの人は笛の胴体を手に入れるために僕達を利用しているんだと思う」

「そうですの?」

「筏の住人の魔法、全てのピラの民が生得権を持つべき魔法は、

 ドームの中に閉じ込められている。でも、笛の胴体には独自の力がある。

 洞窟を照らし、さらに多くの事を成し遂げる力だ」

 バルダは頷いて同意した。

「笛吹きには、かつてドランが最も必要とされていた時に運命が僕達を連れてきたように、

 運命が僕達を連れてきたように思えるに違いない」

「その通りだよ」

「でも?」

 ジャスミンは考え込んで眉を潜めた。

「でも、もっと簡単に魔法を手に入れる方法があるはずなのに、

 どうしてわざわざ僕達を騙すんだ?」

「言われてみれば、魔法があれば何とかなるはずなのに」

「既に持っている笛の部分を奪ったらどう?」

 リーフは、ほとんど無意識のうちに手を伸ばし、笛の下にある節くれだった木片に触れた。

「プリューム族が譲ったピラの笛の一部は、オーロン族には役に立たないと思う。

 あの人達はそれに全く興味を示さないし、その力もあの人達には及ばないようだ。

 でも、ドームに近づき、オーロン族がくれた笛の部分が近づくと、

 ペンも僕と同じように心を動かしたようだ」

 リーフは疲れ果ててびしょ濡れのマントを脱ぎ捨て、クリーの隣に腰を下ろした。

「いずれにせよ、今は彼らを信頼しているふりをしなければならない。彼らの助けが必要だ。

 まずは笛の胴体を手に入れる。その後は、どうなるか見守ろう」

「私達の目的は、ピラの笛を直す事だからね」

 ペンは荷物と籠を山ほど抱えて部屋へと急いだ。

 顔は緊張し、唇は意味のない笑みを歪めていた。

「休んでいる間、暖かく過ごせるように敷物を用意しました。

 それと、焼きたてのパンと、熱々のモリスクの肉。きっとお腹が空いているでしょうね」

 ペンは平らで斑点のあるロールパンの入った籠と、

 緑色のミートボールのような湯気の立つ物が入ったボウルを置いた。

 急に空腹に気づき、ヴァージニア達はそれぞれに取り分けた。

 ヴァージニア達は美味しそうに食べた。

 パンは海の味がしたが、カリカリと温かかった。

 肉は繊細な風味で、舌の上でとろけた。

「スープより、この食事の方が気に入りましたか?」

「ずっとな」

「うん、こんなご馳走はすっごく身体にたまるよ」

 バルダは口いっぱいに食べ物を詰めながら、同意した。

 ペンの笑顔は少しだけ本物らしくなった。

「ドランもモリスクの肉を好んだと書いてあります。これは私達の祭りの料理です。

 笛吹きがあなたの来訪を祝って用意するように命じました。

 今、あなたがそれを食べてくれて嬉しいです。前に……」

 ペンの声は途切れ、背を向けた。

 ヴァージニア、ワソ、リーフ、バルダ、ジャスミンは顔を見合わせた。

 口の中の美味しい料理が、急に乾いてしまった。

 ペンがモリスクの肉が最後の食事になると思っているのは明らかだった。




次回はデル城の推理パートになります。
そして、影の大王の企みが、少しだけ明らかに……?
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