「夜蛾はまだかのぉ。老い先短い年寄りの時間は高くつくぞ」
都立呪術高専・応接室。
京都校学長・楽巖寺嘉信は、苛立ちを隠そうともせず杖を鳴らした。
「夜蛾学長は、しばらく来ないよ」
静かな声とともに、ガラリと扉が開く。
現れたのは五条悟――そして、その隣に久禮田葉月。
葉月の姿を捉えた瞬間、楽巖寺の目が細くなる。
「嘘のスケジュールを伝えてあるからね」
五条が肩を竦める。
伊地知を“説得”した時のことを思い出し、葉月は小さく苦笑した。
「……アンタも一枚噛んでるんでしょ?」
葉月が言った。
真正面から、楽巖寺を射抜くように。
「何のことかね」
「虎杖悠仁の件だ。保守派筆頭のアンタらは、つくづく腹立たしい」
一拍置いて、葉月は続ける。
「――12年前と、何も変わってない」
楽巖寺は鼻を鳴らした。
「やれやれ、最近の若者は敬語も使えんのか」
「敬語なんて、必要ないでしょ」
空気が、軋む。
「まぁまぁ、落ち着きなって」
五条が葉月の隣に腰を下ろし、肩を引き寄せた。
「過去に確執があったのは分かるけどさ、この場でやり合う場所じゃないでしょ?」
頭を撫でる。
宥めるというより、囲い込む仕草。
「ほら、一回深呼吸」
「……」
葉月は舌打ちを飲み込み、視線を逸らした。
「ちょ、ちょっと!」
それまで黙っていた三輪が、ようやく声を上げる。
「先ほどから楽巖寺学長への態度が悪すぎます!これは問題行動です!しかるべきところに――」
(やっべ……生五条悟……)
内心の悲鳴とは裏腹に、三輪は必死で表情を保っていた。
「ご自由に」
葉月が淡々と返す。
「ごめんね、手短に話すから」
五条は笑いながら、本題に入った。
「昨晩、未登録の特級呪霊が3体現れた」
「ほう。それは災難じゃったの」
「勘違いしないでよ。僕にとっては、街でアンケート取られた程度の出来事さ」
あまりにも平然とした口調。
葉月は完全に興味を失ったように、窓の外へ視線を向けていた。
「そいつらは意思疎通が可能だった。同等級の仲間も、まだいるだろうね」
五条は続ける。
「敵だけじゃない。秤、乙骨、京都の東堂――生徒のレベルも、ここ数年で急激に跳ね上がってる」
「……何が言いたい」
楽巖寺が低く唸る。
「分かんない?」
五条は笑った。
「アンタらが地位だの伝統だので抑え込んできた“力の波”、もう制御不能だよ」
「次の世代は、“特級”なんて物差しじゃ測れない」
一歩、前に出る。
「牙を剥くのが僕だけだと思ってるなら――痛い目見るよ、おじーちゃん」
楽巖寺の目が鋭くなる。
「……少し喋り過ぎじゃの」
だが、五条は気にしない。
「用件は以上」
席を立ち、扉へ向かう。
その背中を他所に――
「楽巖寺学長」
葉月が振り返る。
そして楽巖寺を、見下ろす。
「呪術師としての地位を戻してもらったからって、許したつもりはない」
声音は静かだが、冷たい。
「また信頼を損ねるような真似をすれば――次は、容赦しない」
「……それは宣戦布告かね?」
殺意を含んだ視線が、葉月を射抜く。
三輪は、ただ息を呑むしかなかった。
「そうだよ」
葉月は微笑った。
楽巖寺だけに向けた、妖しく歪んだ笑み。
「当然の報いでしょ?」
一瞬、楽巖寺の表情が揺らぐ。
「葉月、行こ」
五条が彼女を抱き寄せる。
2人はそのまま踵を返し、応接室を後にした。
――残された空気だけが、重く沈んでいた。
―廊下―
「ねぇ、悟」
「ん?」
「夏油傑の件って……何?」
その問いに、五条は一瞬だけ言葉を探した。
葉月は12年間、国外で身を潜めていた。昨年起きた出来事を知らないのも無理はない。
五条はそう思い至り、必要最低限だけを切り取って説明する。
呪詛師となったこと。
一般人を殺したこと。
そして――自分が、彼にとどめを刺したこと。
話し終えた五条は、葉月の反応を窺った。
だが返ってきたのは、予想していた動揺でも怒りでもなかった。
「へぇ……そうだったんだ」
それだけだった。
あまりに淡白な反応に、五条はわずかに眉を寄せる。
一方で葉月は、それ以上何も言わず、視線を落としたまま考え込んでいた。
(夏油傑にとどめを刺したのは……五条悟)
その事実を起点に、思考が静かに連なっていく。
――だとしたら、この前会った彼はいったい何者だったのか。
そこで、ふとした違和感が引っかかった。
(……額の傷。あんなの、あったっけ?)
記憶の奥にある夏油傑の顔には、額の傷などなかった。
12年という歳月があれば、人の容姿が変わること自体は不自然ではない。
けれど――。
再会したあの時。
確かに「夏油傑」という名前とは、別の気配を感じていた。
それは、思い違いだったのか。
それとも――。
(……お互い様、か)
葉月は小さく、内心で呟く。
――自分自身も、12年前とは完全に別人だ。
ならば、あの夏油傑もまた、五条が殺した彼とは別の存在なのだろう。
そう考えると、妙な納得が胸に落ちた。
何だかんだで、似た者同士なのかもしれない。
その横顔を、五条は苛立ち混じりに見下ろしていた。
(また……何か考え事してる)
その思考の輪に、自分が入れていないことが気に食わない。
葉月は今、夏油のことを考えているのだろうか。
同期の死――それも、自分が知らない12年の間に起きた裏切りと最期。
「……葉月ー。僕を無視しないでよ」
呼びかけに、葉月ははっとして顔を上げる。
「悟」
「ん?」
ほんの一瞬の間。
それから葉月は、まっすぐ五条を見据えて言った。
「この先、何があっても――宿儺が虎杖くんの中に居続ける限り、私は君たちの味方でいよう。たとえ、この身が滅びようとも」
五条の目が見開かれる。
「だから……私が君を守るね」
「……どうして葉月に言われなきゃいけないのさ」
五条はそう言って、彼女の肩に顔を埋めた。
「僕、最強だって言ってるのに。僕に守られるのは嫌なの?」
「嫌だね」
即答だった。
「なんでー? 僕、葉月のこと愛してるし、守りたいって何度も言ってるのに」
拗ねた声色に、葉月はただ微笑む。
「最強であっても……時には、弱みを見せてもいいんだよ」
その言葉に、五条の腕に力がこもった。
強く、壊れものを抱くように。
「もう二度と、葉月を喪いたくない。だから……もう、どこにも行かないで……」
その瞬間、葉月の表情が僅かに歪む。
――彼が呼んだ名前が、今ここにいる自分ではないことに、気づいてしまったからだ。
12年前の葉月。
高専時代を共に過ごした同期。
失われたまま、二度と戻らない存在。
五条悟は、親友と、愛した人――
2度の裏切りを、立て続けに経験している。
そして皮肉なことに、その2人はもう、この世にいない。
葉月は何も言わず、五条の頭をそっと撫でた。
彼の弱さも、執着も、罪悪感も、すべて汲み取るように。
「……時間の許す限り、君の傍を離れることはないよ」
――睦月の願いを叶えるため。
――人の世に馴染むための人格を生み出してまで。
たとえ私が、12年前とは別人であっても。
たとえ君が、私の死期を早める存在であろうとも。
その決意は、言葉にせず、胸の奥に留める。
葉月は静かに、五条を抱きしめ返した。