片割れの呪術師   作:Haruyama

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第29話 触れてもいい

 

「葉月さん、何か飲みますか?」

 

 虎杖を家入に任せ、七海と葉月は自動販売機の前に立っていた。

 

「じゃあ、コーヒーの無糖で」

「……12年前は、コーヒーすら飲めませんでしたよね。ミルクティーとか、甘いものばかりで」

 

 七海はそう言いながら、無糖の缶コーヒーを取り出した。

 

「……甘いものは、別に好きじゃないだけだよ」

 

 差し出された缶を受け取り、葉月は視線を落とす。

 

「12年経って、嗜好が変わったんですね」

「……」

 

 葉月は答えず、缶を指先で軽く転がした。

 

 

「……あの、紅月とかいう呪霊は。葉月さんとは、どういう関係で?」

 

 少し間を置いてから、七海は切り出した。

 

「……9年前にね。主従関係を結びたいって言って、現れた呪霊だよ」

 

 近くのベンチに腰を下ろし、葉月は淡々と話し始める。

 

「呪霊との主従関係は、簡単じゃない。相性もあるし、無理に結べば肉体の主導権を奪われることもある」

「……」

「だから、最初は一騎打ちをする。呪霊単体での実力を測って、その上で判断する」

 

一拍。

 

「……その一騎打ちで、私は紅月に負けた」

「……!」

「たった一度の勝利で、紅月は調子に乗った。執拗に主従関係を迫ってきてね」

 

 他の呪霊たちが制裁したけれど――

 それでも、また現れるとは思わなかった。

 

「今回は……とっておきの呪霊を使ったから、完全に祓えた」

「……葉月さんは、一体どれほどの呪霊を?」

「今は……460体くらいかな」

「……!!」

「これでも少ない方だよ」

 

 軽く笑う。

 

「一番多かった時は、1000体くらい。でも、その頃は身体が耐えきれなくて……手足が吹き飛んだ」

 

 七海は言葉を失った。

 

「……それなのに。どうして、左腕は再生できたんですか」

 

 七海はそう言って、葉月の左手を取る。

 血が通い、確かな温もりがあった。

 

「呪霊にも色々いてね。治療に特化した者、防御、攻撃、毒物耐性……」

「契約を重ねるうちに、皆がこの宿主を守るために力を尽くすようになった」

「……葉月さん」

 

 七海は、衝動的に彼女を抱きしめていた。

 

「もう二度と……自分の身体を盾にしないでください」

「……?」

「治るから大丈夫、ではありません」

 

 声が、わずかに震える。

 

「あなたが傷つくのを、私は見たくない。それは……おかしいことです」

 

 

 

――その言葉に、葉月の思考が過去へ引き戻される。

 

 

《怪我したら痛いんだよ。血が流れるんだよ》

 

《葉月が傷つくと、私も痛い》

 

《……見えない傷だってあるんだから》

 

 

 

「……あなたは、一人で背負いすぎです」

 

 七海の声が、重なる。

 

 

「不器用でも構いません。もっと、私たちに頼ってください」

 

《私たちは、2人で一人前なんだから。もっと、私を頼って…》

 

 

 葉月は無意識に、七海の胸に顔を埋めた。

 

 

「……睦月……」

 

 小さく、名前を零す。

 

 

________________________________________

 

 

 自らの身体に呪霊を宿すこと自体、常人なら耐え難い苦痛だ。

 それを何百体も抱えながら、彼女は痛みにすら鈍感になっていた。

 

 誰かを守れるなら、自分はどうなってもいい。

 その自己犠牲は、美徳として語られることはあっても、報われることはない。

 

 抱きしめた身体は、確かに温かい。

 だが、心はどこか遠くにあるように感じた。

 

 腕の中で呟かれた「ムツキ」という名。

 それが誰なのか、私には分からない。

 

 呪霊・紅月の言葉から察するに、

 彼女にとって極めて大切な存在であり、血縁者である可能性が高い。

 

 

 だが――

 これ以上、詮索しても意味はない。

 彼女が語るとは思えないし、語らせるべきでもない。

 

 

「……あの、葉月さん」

 

 このまま、一人にしてはいけない。

 そう思った。

 

 五条さんは海外出張中で、戻る気配はない。

 もし彼女を一人で帰せば――

 かつてのように、私たちの前から消えてしまうのではないか。

 

 

「……今夜、家に来ませんか」

「……? いいよ」

 

 拍子抜けするほど、あっさりと了承された。

 

「最近……色々あったからさ。一人になりたくなくて。誘ってくれて、嬉しいわ」

 

 屈託のない笑顔。

 その瞬間、私は自覚した。

 

――この人を守りたいと、理屈抜きで思ってしまったことを。

 

 

 

―――

 さすがに血飛沫の付いた服のまま人の家に上がるわけにもいかないと言って、葉月は一度着替えに戻っていった。

 その間、七海は彼女の部屋で待つことになる。

 

 部屋に足を踏み入れた瞬間、違和感を覚えた。

 

机とベッド。

それだけ。

 

 女性の部屋というより、仮の宿泊所のような簡素さだった。

 

 夜蛾学長に日用品を用意してもらったとは聞いていたが、それ以外の私物が一切ない。

 洗面所には歯ブラシが一本。

 五条と付き合っているはずなのに、生活の痕跡は彼女一人分しか存在していなかった。

 

(……この部屋は、寝るためだけの場所だ)

 

 着替えを終えた葉月は、パーカーにジーンズというごく簡単な装いだった。

右顔面を覆う仮面を隠すように深くフードを被っていて、年相応というより、少し幼く見える。

 

「……行きましょうか」

 

 公共交通機関を使うが大丈夫かと尋ねると、彼女はあっさり頷いた。

 駅へ向かう途中、七海は自然な動作で葉月の手を取る。

 

「?」

「はぐれるといけませんので」

 

 そう言うと、彼女は一瞬だけ目を瞬かせ、特に抵抗もなく握り返してきた。

 

 それからいくつか路線を乗り継ぎ、七海のマンションに着く。

 葉月は建物を見上げ、ほんのわずかに目を見開いた。

 彼女は13年間地下牢で過ごし、その後も拠点を持たず国内外を転々としてきた。

 地に足をつけて「生活」をするようになったのは、ほんの数か月前のことだ。

 

「こちらです」

 

 オートロックを抜け、エレベーターを降りる。

 七海が鍵を開け、彼女を中へ促した。

 

「お邪魔します」

「……どうぞ。ゆっくりしてください」

 

 ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩め、眼鏡を外す。

 葉月は手を洗い、リビングへと足を進めた。

 

「人をちゃんと家に上げるの、初めてなんです」

「……それは。七海君の初めてを奪ってしまったかな」

 

 冗談めいた一言に、七海は眉間を押さえてため息をついた。

 

「……あなたは本当に、そういうことを無自覚に言いますね」

「? 転々としてると、あんまり気にしないから」

 

 ソファーに座ったものの、葉月は落ち着かない様子で視線を泳がせ、やがてカーペットの上に降りて床に座った。

 

「……うん。こっちの方がいい」

 

 椅子に座る習慣がない、という言葉に、七海は彼女のこれまでを想像する。

 

「休みの日は、何をされているんですか?」

「……休み?」

 

 一瞬、葉月の思考が止まる。

 

「任務がない日、という意味です」

「……ほぼ、動いてるから」

 

 言葉を濁す様子で、七海は悟った。

 

「……休みなく任務を入れている、と」

「うん」

 

 当然のことのように言われ、七海は唇を結んだ。

 

「……明日は?」

「夜蛾先生に強制的に休まされた。今日まで、21都道府県回ってたから」

 

 それを聞いても、彼女の表情に疲労は見えない。

――隠しているのか、慣れ切っているのか。

 

「……予定は?」

「ないよ。ここにいるなら、外に出る理由もないし」

 

 七海は無言で彼女の脇に手を入れ、そっとソファーへ戻した。

 

「?」

「……飲み物を」

 

 耳元で囁くように言うと、葉月は小さく笑う。

 

「七海君と同じので」

 

 キッチンに向かう背中を見送りながら、葉月はポケットから紙切れを取り出した。

 暗号化された伝言。短く、重い内容。

 息を吐き、ベランダへ出る。

 

 9月の夜風は少し冷たい。

 

 

新月の空。

姉を看取った夜、背負ってきた罪、選び続けた道――

 

 

 葉月は紙を握り潰し、ライターで燃やした。

 

 

「準備できましたよ」

 

 呼ばれて、部屋へ戻る。

 2人で軽く酒を飲み、テレビをつける。

 

 最終的に流れたのは、恋愛ドラマだった。

 内容はほとんど頭に入らない。

 

 ただ、七海に寄りかかり、画面を眺める。

 

 

クライマックス。

男女が夜の橋の上で向き合い、ゆっくり距離を詰めて――

 

 

 画面が切り替わる直前で、チャンネルが変えられた。

 

 

沈黙。

 

 

 葉月は特に気にせず、グラスに口をつける。

 

「……葉月さん」

 

 呼ばれて振り向いた瞬間、グラスがそっと取り上げられ、身体がソファーに預けられる。

 

「……触れても、いいですか」

 

一拍。

 

「……いいよ」

 

 七海は確かめるように、静かに口づけた。

 深くは踏み込まず、ただ、確かめ合うように。

 

 

――その夜、2人は言葉少なに過ごした。

 それでも、七海の手つきは終始丁寧で、

 葉月を見る視線には、はっきりとした好意が宿っていた。

 

 壊れやすいものを扱うように。

 失くしたくないものに触れるように。

 

 

 

 葉月は、その視線を受け止めながら、静かに目を伏せていた。

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