それからしばらくして、隣で眠る七海をよそに、葉月は静かに目を覚ました。
身じろぎひとつ立てずにベッドを抜け出し、服を整えるとリビングへ向かう。
時計は深夜2時を指している。
寝付けないというより、眠る理由が見当たらなかった。
コップに水を注ぎ、口に含む。
ソファーに腰を下ろし、電気もつけないまま背もたれに身を預けた。
――暗闇の方が、ずっと落ち着く。
天井を見上げながら、葉月は思う。
人生の半分以上を地下牢で過ごした身に、こうした「普通」は、どうしても馴染まない。
「……あいつの言う通りだ」
誰に向けたわけでもない独白が、闇に溶けた。
「陽の当たる場所は、生き辛い」
高専の人間たちと過ごす時間が、時折ひどく息苦しくなる。
――それは彼らの知る「12年前の葉月」を演じ続けているからだ。
七海に「休みの日はどうしているのか」と聞かれた時、心臓が一瞬、強く跳ねた。
答えられるはずがない。
――任務のない日に、〔人〕と〔呪い〕を殺しているなど。
信念のためなら、相手が何であろうと容赦はしない。
それが規律違反だと言われようと、構わなかった。
12年前、一族を殲滅したあの日以前、この手はとうに血に染まっている。
七海には「任務をぶっ通しで入れている」と説明した。
嘘ではない。
ただ、言っていないことが多すぎるだけだ。
一時間ほど、何も考えずにソファーでぼんやりしていると、背後で足音がした。
「……寝れませんか?」
振り返ると、七海が立っていた。
目が覚めた時、隣に彼女がいなかったことに驚いたのだろう。
「……ん?」
七海は隣に座り、そっと葉月の手を取る。
「いなくなったかと……」
「あぁ、ごめん」
この人たちは、姿が見えなくなるだけで不安になる。
自分と、そして夏油傑が、何も言わずに消えた「前例」だからこそ。
七海が電気をつけようとすると、葉月が小さく首を振った。
「暗い方が落ち着く」
やがて目が慣れ、互いの輪郭がぼんやりと見えてくる。
葉月は天井を見上げたまま目を閉じていたが、眠ってはいなかった。
七海がそっと抱き寄せると、驚きつつも、ただ微笑む。
「……何か、悩みがあるなら聞きますよ」
「ないよ」
即答だった。
七海は言葉に詰まるが、葉月はその腕から離れようとしない。
代わりに、七海の手に自分の手を重ねた。
「互いに触れられるって、いいよね」
「……そうですね」
「私たちは、どんなに手を伸ばしても、見えない障壁があって、いつも阻まれる」
唐突な言葉に、七海は黙って耳を傾ける。
「私たち」という言い回しが、胸に引っかかった。
「ようやく触れられた時には、もう手遅れだった」
「……」
「繋ぐことも許されない。
共に過ごすことも、陽の当たる場所で生きることも」
指をなぞりながら、葉月は続ける。
「私たちを引き裂いた、この世界が……大嫌いだ」
その言葉の重さに、七海は息を呑む。
「昔から言われてきた。生まれてこなければよかった、無能で落ちこぼれの片割れは一族の汚点だと」
(……片割れ?)
七海は、はっとする。
彼女の語る「大切な存在」――それは、双子のもう一人なのではないか。
「存在否定なんて日常茶飯事だった。でも……高専にいた君たちだけが、『あの子』を救ってくれた」
「……」
「存在を認めてくれた。生きた証を、残してくれた」
だから、と葉月は呟く。
「12年かけてでも、会いに行こうって思えたんだ」
そう言い終えた途端、葉月の体から力が抜けた。
七海は慌てて支えるが、すぐに眠りに落ちたのだと分かり、安堵する。
「……悩みがない、なんて」
小さく、苦笑する。
この話は、おそらく五条も知らない。
最も近くで彼女を愛している人にこそ、語らない。
それが優しさだとしても――あまりに不器用だ。
七海は彼女をベッドへ運ぼうとして、やめた。
代わりにソファーに横たえ、毛布を掛け、自分も背後から抱くように横になる。
離れないように。落ちないように。
そのまま、七海も眠りについた。
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七海が目を覚ました時、そこはベッドだった。
「……? 葉月さんが……?」
キッチンから、何かを作る匂いが漂ってくる。
起き上がりリビングへ向かうと、そこにはエプロンも付けずに立つ葉月の姿があった。
「あ、おはよう」
「……おはようございます」
「あるもので適当に作ったから。準備できたら食べて」
冷蔵庫の中身を思い返し、七海は驚く。
「……入ってました?」
「それなりに。七海君、普段作らないの?」
「外食が多いですね」
「同じだね」
そう言いながら、葉月はコーヒーを淹れる。
テーブルには一人分の朝食。
「……葉月さんは?」
「うん、食べない」
スクランブルエッグ、サラダ、ベーコン、焼いたパン。
そして牛乳とコーヒー。
「いただきます」
口にした瞬間、七海は目を見開いた。
「……美味しいです」
「それはよかった」
自然と、笑みがこぼれる。
「……葉月さんも」
スプーンで掬い、差し出す。
戸惑いながらも口を開ける。
「……どうです?」
「んー……美味しいんじゃないかな」
曖昧な返答に、七海は眉を寄せる。
「生まれつき、五感が鈍くてね。《味覚》と《嗅覚》が弱いんだ」
「……!」
――双子特有の特性。
片方が欠け、もう片方が補う。
「生活に困らないけど、食には疎いかな」
だからこだわらない。
物欲もない。
「……そうですか」
「冷めちゃうよ。気にせず食べな」
その微笑みは、どこか遠かった。
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買い物を済ませ、公衆電話へ向かう。
「すぐ終わるから」
葉月は電話Boxに入り、受話器を取る。
その瞬間、七海は一瞬だけ濃い呪力を感じた。
――だが、あまりにも短く、発信源は分からない。
数分後、葉月が出てくる。
明らかに疲れた様子だった。
「……大丈夫ですか?」
「んー、色々立て込んでて」
そう言って、先に歩き出す。
七海は、その背を追った。
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同時刻。
近くの倉庫で、複数の変死体が発見される。
身体には獣による噛み跡。
そのうち一人の通話履歴には、公衆電話との直前の記録。
警察は、その相手が事情を知っていると見て、行方を追い始めた――。
―――
それから数日が経過し――。
「七海ィ~、なんか面白い話してぇ~」
「……」
「よし、分かった!!じゃあ廃棄予定のおにぎりでキャッチボールしながら、政教分離について語ろうぜ。動画上げて炎上しようぜ」
「お一人でどうぞ」
「じゃあ五条悟の好きなところで山手線ゲーム!!」
パンパン、と手を叩く音。
「全部!!」
「その調子で頼みますよ。今の虎杖君には、そういう馬鹿さが必要ですから」
「……重めって、そういう意味じゃなかったんだけどな。吉野って子の家にあった指について、悠仁に――」
「言っていません」
即答だった。
「彼の場合、不要な責任を背負いかねません」
「……オマエに任せて正解だったよ。で、指は?」
「きちんと提出しました。あなたに渡せば、虎杖君に食べさせるでしょう」
「チッ」
「あ、先生ー!!」
その瞬間、思っていた以上に明るい虎杖が部屋に飛び込んでくる。
同期へのサプライズがどうのと盛り上がる2人を横目に、
「……生きてるだけでサプライズでしょうよ」
ぽつりと七海が呟いた。
「それは、確かに」
葉月も同意する。
2人はそれぞれ本に視線を落としながら、ほとんど同時に、小さく息を吐いた。