鏡烏(かがみからす)は働かない 〜無職の最強能力者と、塗り潰される社会のバグ取り履歴書〜   作:元気のG

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暗黒への挑戦 その④

 

7

 

会場全体が疑心暗鬼と怒号に包まれる中、鏡と一条寺のテーブルだけは静寂だった。

 

 一条寺は、この異様な状況でも冷静に「赤」を出し続けている。しかし、鏡はカードに触れようともしない。

 

 

 

「……おい、そこのペア」

 

 

 

異変に気づいた講師、竹中が、張り付いた笑みを消してツカツカと歩み寄ってくる。マイクを通した声が、鏡の鼓膜を打った。

 

 

 

「君だ。なぜカードを出さない? 決断できないのか?」

 

会場中の視線が、頬杖をついたままの鏡に集まった。

 

「いや、なんか面倒で」

 

 鏡は努めてけだるげな声で答える。

 

 

 

「赤を出せば甘いと罵られ、黒を出せば非情だと煽られる。どっちを出しても、あんたの作った成功哲学とやらの掌の上だろこれ。

 

わざわざカロリーを使って、あんたの脚本通りに踊ってやる義理はないかなって」

 

 

 

「鏡! ちゃんとやって!」

 

 

 

 隣で一条寺が焦る。警察としての潜入という目的を忘れていないからこその焦りだ。

 

 

 

当然のように、竹中の顔からは営業用の笑顔は完全に消え去っていた。

 

血管が浮き上がり、静脈が彼の額を走っている。

 

 

 

「貴様……この神聖な研修を、愚弄するか」

 

「愚弄? 事実だろ。あんたが教えてんのは成功じゃあない。恐怖だ」

 

 

 

鏡は身を起こした。

 

この場で、彼だけが異質な存在として、システムを拒否している。

 

 

 

「どういう方法かは知らんが、思考停止の奴隷を作るんだろ、これ。

 

くだらないし、そんなクソみたいなもののために人が死ぬのもくだらん。

 

それに、俺は寝ていたいんだよ。

 

他人が作ったルールの上で必死に足掻くような努力は、俺の性分に合わない」

 

 

 

鏡の言葉は、ただのサボり魔の言い訳だが、その底にある徹底的なシステムへの拒絶は、竹中の洗脳哲学の土台そのものを否定していた。

 

 

 

「……貴様のような人間を、私は知っている」

 

竹中の声が低く、重くなる。

 

 

 

「生産性を持たず、光を拒み、ただ消費するだけの小判鮫。いや寄生虫か。

 

いいだろう。そんなに寝ていたいなら、永遠に眠らせてやる」

 

 

 

竹中の影が、不自然に膨れ上がった。黒い靄がスーッと床を這い、鏡の足元を囲む。山本公威が言っていた闇に似ている。

 

どうせ全員洗脳するから、俺を闇に閉じ込めても良いのだと鏡は悟った。

 

 

 

「己の無価値さを噛み締めろ!-slave to the grind-」

 

「鏡!」

 

 

 

一条寺が手を伸ばすより早く、鏡烏の視界は、漆黒に塗りつぶされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

落下感すらなかった。

 

気づけば、そこは「無」だった。

 

上下左右も分からない。光も音もない。

 

時間という概念すら溶けて消えた、絶対的な暗黒空間。感覚遮断。精神の牢獄。

 

 

 

「なるほど。これがやつの先輩が入ってた更生施設ってわけか」

 

 

 

鏡は闇の中で、パニックになることもなく、ただ思考を回した。

 

体感時間は、すでに数ヶ月を経過している気がする。いや、一年か。あるいは、数秒か。

 

 

 

狂いそうなほどの静寂。

 

だが、鏡にとって、この静寂は「苦痛」ではなかった。

 

 

 

(静かだ……)

 

 

 

あの会場で響いていた、「夢」だの「感謝」だの「成長」だのという、反吐が出るほど眩しい強迫観念の怒号。それに比べれば、この暗闇はなんと優しいのか。

 

社会から切り離され、誰からも期待されず、何の責任も負わず、ただ時間が過ぎ去るのを待つだけの生活。

 

それは鏡烏が、この数年間、自室のベッドの上で味わい続けてきた「日常」そのものだった。

 

 

 

鏡烏は知っていた。

 

社会という煌びやかな照明の下で、心をすり減らして生きるよりも、この、誰の目も届かない底辺の暗闇の方が、よほど安息であることを。

 

 

 

「なんだ。俺はずっと、ここにいたんじゃないか」

 

 

 

体感で一年程が経った。

 

自我が摩耗して改心するのを待つ竹中の洗脳。

 

だが、恐怖もなければ、光への渇望もない。あるのは実家のような安心感だけだった。

 

鏡は深淵の中で、深く安眠の息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その時、唐突に世界が割れた。

 

鏡烏は、何食わぬ顔で、ホテルの大広間に立っていた。

 

 

 

「黒暗の世界は別に苦じゃあなかった。

 

ただ、やられっぱなしってのも性に合わんのよな。

 

さあ、出しな。あんたの能力ってやつを」

 

 

 

心地よかった闇から解放された鏡は、竹中に語りかける。

 

その表情には、被害者たちへの怒りと、竹中自身の哀れさへの優しさが入り混じっていた。

 

「一年じゃあ、貴様の腐った精神には足りなかったか。ならば二年か、五年か、十年か。いずれにしろ、もう一度苦しめ」

 

 

 

竹中が能力を再発動させる。

 

彼の後方に、中世の奴隷商人のような精神体が現れた。

 

 

 

その右手は硬質な鞭で武装している。

 

精神体とは言え、鞭は鞭であり、その先端は音速を超えるとも言われている。

 

(音速を超えるんだよな、あれ。Mr. Blueskyに当たったら流石に痛そうだな)

 

鏡は冷静に状況を分析した。

 

一年くらいなら闇も大丈夫だったが、五年も十年もあの空間に入れられると、流石に狂ってしまう。

 

しなる鞭は乾いた衝撃音を立てて音速を超え、鏡烏の右腕へと確かなダメージを与えた。

 

 

 

ただ、相手が悪かったのだ。

 

鏡は鞭を受けた右腕をかばいながら、奴隷商人の懐へと踏み込む。

 

精神体は無防備に思えるが、竹中の能力の核だ。

 

その胴体を鏡はMr. Blueskyの左腕で力任せに締め上げた。

 

 

 

鞭を振るうことしか知らない奴隷商人は、物理的な拘束に脆く、鏡の腕の中で徐々にその形を崩した。

 

権威の象徴だった怪物は、ただの煙のように頼りなく霧散していく。

 

決着は案外簡単についた。

 

 

 

「意思を無くした全員を元の状態に戻せよ。一生刑務所だろうけど、あんたにとってはあの暗闇よりマシだろ」

 

鏡は気力を喪った竹中にそう吐き捨てた。

 

 

 

 

 

8

 

 

 

薄暗い取調室。

 

竹中という元凶を倒し、大臣が解放されたことを、鏡はガラス越しに山本に告げた。

 

すると山本は、力尽きたように床に座り込んだまま、ぽつりと呟いた。

 

 

 

「……大臣は今解放しました。最後に一つ、紙とペンをください……」

 

鏡は懐からその二つを取り出し、差し出す。

 

鏡は、自分が遂に消されるとも、山本がまた凶行に出るとも思っていなかった。

 

山本の目には、もはや戦う意思も、社会への憎しみも残っていなかったからだ。

 

 

 

山本公威が紙一枚に、震える手で名前を書き終えると、取調室の床に、彼の影ではない薄い闇の塊が現れる。

 

その闇は、竹中のそれとは違い、静かで冷たかった。

 

 

 

影は、懺悔するように頭を垂れた山本をゆっくりと呑み込んでいく。

 

そして、闇の中に消えていった。

 

 

 

彼が三日しても取調室から出てこないことを悟って、鏡烏は重い扉を開けた。

 

後に残されたのは、誰も座っていないパイプ椅子と、インクが水に溶けるように消えた男の気配だけだった。

 

 

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