忍原来夏の特別レッスン   作:ぺいぺい

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第一章
逃げ場のない和解


 

 一限目の授業が終わるチャイムは、僕にとって死刑宣告に等しい。

 教科書を机に片付ける間もなく、廊下から勢いのある足音が近づいてくる。クラスメイトたちが「あーあ、また始まったよ」と苦笑混じりの視線を僕に投げた。

 僕はたまらず、机の上の消しゴムを無意味にいじって視線を落とした。

 中学生という時期は、どうしてこんなにも残酷なんだろう。

 ついこの間まで、女の子と話しても何ともなかったのに、声変わりが始まり、背が伸びるのと反比例するように、僕は彼女たちとの接し方を見失ってしまった。

 

「おはよう」の一言が、まるで断崖絶壁を飛び降りるような決死の覚悟を必要とする。

 

 それは、僕にとって最も身近な存在である──忍原来夏に対しても同じだった。

 

 昔は、何も怖くなかった。

 

 泥だらけになって公園を走り回り、彼女の顔がどれだけ近くにあっても、手を引かれても、何も感じなかった。むしろ、お姉さんぶって世話を焼く彼女を「おせっかいだな」なんて笑い飛ばす余裕さえあったのに。

 

 (……今はもう、まともに顔も見られないんだ)

 

 「ちょっと、冬真(とうま)! 」

 

 ガラリ、と教室の扉が派手な音を立てて開く。

 思考を断ち切るように現れた来夏は、腰に手を当て、肩で息をしながら僕のデスクまで大股で歩いてきた。その瞳には、隠しきれない怒りと、執着が渦巻いている。

 

 「ら、来夏……おはよう」

 

 僕は顔を上げられない。視界に入るのは、彼女の黒いソックスと、綺麗に整えられた上履きだけだ。

 

 「おはようなわけないでしょ! なんで今日も先に学校行ったの!? 今日こそ一緒に行こうって、昨日あんなに念押しして約束したじゃない!」

 

 来夏が机をバンッ! と叩く。その大きな声が教室中に響き渡り、僕の肩はビクッと跳ねた。

 

 彼女は僕の顔を覗き込むように身を乗り出してくる。女の子特有の、甘くて少し鼻につくような香水の匂いが、逃げ場のない距離で僕を包み込んだ。

 

 「……ごめん。その、早く行かないといけない用事があったから……」

 

 僕は視線を泳がせながら、蚊の鳴くような声で答える。

 

 用事なんて、嘘だ。

 

 ただ、朝の澄んだ空気の中で、彼女と二人きりで歩くのが怖かった。肩が触れ合う距離で、彼女の「女の子」な部分に直面して、心臓をかき乱されるのが耐えられなかったんだ。

 

 「用事? そんなの、私に連絡すれば済む話でしょ。なんで一言『先に行く』って送れないのよ。もしかして、私のこと避けてるわけ?」

 

 「そ、そんなこと──」

 

 「言っておくけどね、私がわざわざ朝早く起きて準備してるのは、冬真と一緒に歩きたいからなの。それを無下にするなんて、幼馴染としてどうなのよ」

 

 来夏の言葉はいつも正論で、そして威圧的だ。

 

 周りのクラスメイトたちは、遠巻きに僕たちを見ながらひそひそと笑っている。「忍原さんの世話焼き、今日も絶好調だな」「あいつら、付き合ってないのが不思議だよな」なんて声も聞こえる。

 

 来夏はそんな周囲の反応など一瞥もくれず、ただ僕だけを、逃がさないと言わんばかりの強い眼差しで見つめていた。

 

 昔なら、「うるさいなぁ」と笑って流せた。

 

 でも、今は。彼女の声が耳に届くたび、その熱い視線が肌に触れるたび、僕は自分が自分でなくなっていくような感覚に陥る。

 

 早くこの時間が終わってほしい。

 

 そんな事を思いながら、僕は彼女からのお説教を聞くしかなかった。

 

 ──

 

 終礼が終わると同時に、僕は逃げるように教室を飛び出した。

 これ以上、来夏の視線に晒されるのは耐えられない。校門さえ抜けてしまえば、あとは一人で静かに息ができる。そう思って、僕は足早に階段を抜け、玄関を出る。

 

 けれど、校門の脇に立つ人影を見た瞬間、僕の淡い期待は崩れ去った。

 

「……待ってたわよ」

 

 校門に背を預けて立っていた来夏が、鋭い視線で僕を射抜く。その姿は、僕を見張る門番そのものだった。彼女は僕の返事を待たず、当然のように隣に並んで歩き出す。

 

 「……今日こそは、逃がさないからね」

 

 低く、有無を言わさない声。僕は肩をすぼめ、うつむいたまま歩き出した。

 

 

 

 まだ明るい空の下、帰り道の歩道を並んで歩く二人分の足音だけが、やけに大きく響く。

 

 いつもの来夏なら、今日の出来事やクラスの噂話などを機関銃のように喋りまくるはずだ。けれど、今の彼女は不気味なほど無口だった。

 

 隣を歩く彼女の肩が、時折僕の腕に触れる。その度に、心臓が跳ね上がり、呼吸が浅くなる。沈黙が、重い湿り気を帯びて僕の全身にまとわりつく。

 

 (しんどい……。早く、早く家に着いてほしい……)

 

 心の中でそう念じれば念じるほど、道は遠く感じられた。会話を繋ごうにも、喉の奥が引き攣って言葉が出てこない。ただひたすらに、地面の亀裂を数えながら歩いた。

 

 その時だった。

 

 「……ねえ、冬真」

 

 不意に、立ち止まった彼女の声。

 

 それは、昼間の威圧的な響きとは正反対の、震えるほどか細い声だった。

 

 僕が驚いて足を止めると、来夏は俯いたまま、僕の制服の袖を指先でぎゅっと掴んでいた。

 

 「……私のこと、嫌いなの?」

 

 顔を上げた彼女の瞳には、大粒の涙が溜まっていた。

 

 普段の勝ち気な面影はどこにもない。今にも崩れ落ちそうな、迷子の子供のような表情。空はとても澄んでいるのに、彼女の顔は曇っていた。

 

 「最近、全然目を合わせてくれないし……話してても、ちっとも楽しそうじゃない。私と一緒にいるのが、そんなに苦痛?」

 

 切なさを帯びた声が、僕の胸を抉る。

 

 涙がその頬を伝い、地面に小さな染みを作った。

 

 「嫌いだから……朝も、放課後も、私から逃げるんでしょ? 正直に言ってよ。冬真にとって、私は……もう、いらない子なの?」

 

 彼女の手の震えが、服を通じて伝わってくる。

 その湿った熱量に当てられ、僕はもう、隠し通すことなんてできなかった。

 

 「ち、違う! 違うんだ、来夏!」

 

 彼女の涙を見た瞬間、僕の中にあった「逃げたい」という気持ちは、猛烈な罪悪感にかき消された。

 

 来夏を傷つけたいわけじゃない。むしろ、その逆だ。大切すぎて、近すぎて、どう接していいか分からなくなっていただけなんだ。

 

 「嫌いなわけじゃない……! むしろ、その……」

 

 「じゃあ、なんで……っ。なんで、そんなに避けるのよ」

 

 来夏はしゃくり上げながら、僕の袖を掴む手に力を込める。逃がさない。絶対に理由を言わせる。そんな強い意志が、震える指先から伝わってくる。

 

 そんな彼女を見て、僕は覚悟を決める。もう、本当の事を言うしかない。

 

 熱く火照った顔を隠すように、僕はさらに深くうつむいて、絞り出すような声で告白した。

 

 「……恥ずかしいんだ。来夏の顔を見るのが」

 

 「え……?」

 

 来夏の泣き声が止まる。

 

 「中学生になってから……その、急に意識しちゃうようになったんだ。来夏が、ただの幼馴染じゃなくて……すごく、綺麗な『女の子』なんだって。目が合うと心臓がうるさくて、何を話せばいいか分からなくなって……」

 

 僕は一気に捲し立てた。心臓が喉から飛び出しそうだった。

 

 「避けてたんじゃないんだ。来夏のことを、女の子として意識しすぎて……どうすればいいか分からなくて、怖かっただけなんだよ」

 

 沈黙が流れた。

 

 綺麗な空の街角、通り過ぎる車の音さえ遠くに感じる。

 

 ……言っちゃった。最悪だ。こんなこと言ったら、今度こそ気持ち悪がられて、幼馴染としての関係さえ壊れてしまうかもしれない。

 

 僕は最悪の結末を覚悟して、身を固くした。

 

 けれど。

 

 「……あは」

 

 頭上から降ってきたのは、乾いた、それでいてひどく艶っぽい笑い声だった。

 

 恐る恐る顔を上げると、そこにはさっきまでの「しおらしい来夏」はいなかった。

 

 頬にはまだ涙の跡が残っている。けれど、その瞳の奥には、見たこともないような深い、暗い悦びの光が宿っていた。

 

 「……そっか。私のこと、女の子として見てたんだ。意識して、怖くて、逃げちゃうくらいに」

 

 彼女の口角が、緩やかに釣り上がる。

 

 来夏は一歩、また一歩と距離を詰め、僕を背後の壁際へと追い込んだ。

 

 「……ねえ、冬真」

 

 彼女が、至近距離まで顔を近づける。

 逃げようとする僕の背中に壁が当たり、退路が断たれた。

 

 来夏の瞳が、じっと、僕の視線を逃さない。

 

 「女の子と話せないのは、困るよね……でも、私のことは意識しちゃう。ふふ……嬉しい。すっごく、嬉しいよ」

 

 彼女の指先が、僕の鎖骨あたりをなぞるように這う。その感触は驚くほど重く、まるで目に見えない鎖を巻き付けられているような錯覚を覚えた。

 

 「……いいよ。じゃあ、私が『克服』させてあげる。昔みたいに、私を見て、私と話せるように……ねえ、特訓しよ?」

 

 来夏の瞳が、日陰の中で爛々と輝いている。

 

 それは、美しくも恐ろしさを感じる真っ直ぐな眼差しだった。

 

 

 

 

 




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