忍原来夏の特別レッスン 作:ぺいぺい
翌日の放課後。僕が連れてこられたのは、校舎の隅にある、今は使われていない空き教室だった。
沈みかけている太陽の光が、埃の舞う室内をオレンジ色に染め上げている。
来夏は入り口の鍵を静かに閉めると、「さあ、座って」と近くにあった椅子を持ってきた。
「……本当に、特訓なんてするの?」
「当たり前でしょ。冬真が私とまともに話せないなんて、許せるわけないじゃない」
彼女は僕のすぐ目の前に、別の椅子を引き寄せて座った。
膝と膝が触れ合いそうな距離。昼間の教室で見せる威圧的な態度とは違い、今の彼女の瞳には、包み込むような温かな光が宿っている。
「まずは、基本中の基本……私の顔を、ちゃんと見ること。いい? 逸らしちゃダメだよ」
来夏は僕の両手をそっと握り、じっと見つめてきた。
僕は、覚悟を決めて視線を上げる。
「っ……」
けれど、視線がぶつかった瞬間、心臓が跳ね上がる。
来夏の大きな瞳、長い睫毛、形の良い唇。それらすべてが「女の子」という強烈な記号となって僕の脳を揺さぶる。
たまらず視線を落としてしまった僕に、来夏の優しく、穏やかな声が降ってきた。
「……ゆっくりでいいよ、冬真。焦らなくていいからね」
彼女の手が、僕の手を優しく握り直す。
その手は温かく、まるでお母さんが子供をあやすような安心感に満ちていた。
「私はもう、冬真に怒ったりなんてしない。だから、怖いことなんて何もないの……ね? もう一度、私を見て」
その慈愛に満ちた響きに、僕は魔法にかけられたように再び視線を上げた。
彼女は微笑んでいた。聖母のような、すべてを許してくれるような、甘い微笑み。
「……あっ……うぅ……」
「そう、上手。頑張ってるね……えらいよ、冬真」
僕が数秒間、彼女の瞳を直視できただけで、来夏は心底愛おしそうに目を細めた。
彼女は片手を離し、僕の頬をそっと撫でる。その指先が、僕の熱を持った肌を優しく冷やしていく。
本当なら、来夏の手が触れるだけで拒絶してしまうのに、今は何も感じない。
「すごいじゃない。昨日よりずっと長く見られてる。……ふふ、その調子。冬真なら、きっとすぐに慣れるよ」
褒められるたびに、僕の心の中の緊張が、少しずつ甘い陶酔へと書き換えられていく。
来夏は、僕が彼女を直視しようと必死になる姿を、まるで宝物を見るような目で見つめていた。
「恥ずかしいのは、私を女の子として見てくれている証拠だもんね。……嬉しいな。私、冬真にそう思ってもらえて、本当に幸せ……」
彼女の言葉はどこまでも優しく、僕の心を解きほぐしていく。
「さあ、次はもう少しだけ長く頑張ってみようか……ねえ、冬真?」
来夏は僕の顔に自分の顔をさらに近づけ、耳元で甘く囁く。
その優しさは、一度浸かれば二度と抜け出せない、底なしの沼のように感じてしまった。
時計の針が刻む音だけが、静まり返った空き教室に響いている。
一回、また一回と特訓を繰り返すごとに、僕を支配していた「恐怖」は、いつの間にか熱っぽい「陶酔」へと変質していった。
「……うん、すごいよ、冬真。今、一分以上も目を逸らさなかったね」
来夏は僕の頬を両手で挟み込み、愛おしくてたまらないといった様子で顔を寄せた。
彼女の顔がすぐそこにある。以前なら心臓が止まりそうになっていた距離なのに、今は自分の目に映る来夏の顔を、見続けることができる。
「頑張ったね、えらいえらい。私のこと、ちゃんと見てくれた……」
彼女は僕を褒めちぎりながら、その瞳を潤ませた。
「ねえ、冬真。……私、本当に辛かったんだよ? 急に避けられて、目も合わせてくれなくなって……。私のこと、もう嫌いになっちゃったのかなって、毎日泣きそうだったんだから」
彼女は僕の肩に頭を預け、甘えるように体を擦り寄せた。
強気で威圧的だった彼女が、僕の前で見せる弱い姿。それが僕の胸を激しく締め付ける。
「……ごめん、来夏。本当にごめん。嫌いになったわけじゃないんだ。ただ、意識しすぎてどうしていいか分からなくて……」
僕は謝罪の言葉を口にしながら、彼女の細い背中にそっと手を回した。
その瞬間、来夏の体がピクリと跳ね、次の瞬間には壊れそうなほど強く抱きしめ返された。
「……いいよ、もういいの。冬真の本音が聞けたから。私を意識しすぎてたなんて、最高に可愛い理由だもん」
彼女は僕の背中に顔を埋めたまま、くすくすと、喉を鳴らすように笑った。
そして、肩から離れて僕と向き合うと、夕暮れの中でひときわ輝く、眩しいばかりの笑顔を僕に向けた。
「これで、仲直り……だね?」
彼女は小指を立てて、僕の小指に絡ませた。
その指先は驚くほど熱く、僕を二度と逃がさないという強い意志がこもっているようだった。
「仲直りの印に……これからは、もっとたくさん特訓……ううん、『レッスン』をしなきゃね。避けられてた分、たっぷり私で埋め合わせさせてあげる……いいよね?」
来夏の笑顔は、どこまでも明るく、優しかった。
けれど、その瞳の奥には「もう二度と私から離れることは許さない」という、強い執着がべったりと張り付いていることに、僕は気づくことができなかった。
「大好きだよ、冬真。冬真を一番近くで見守れるのは、やっぱり私だけなんだから」
僕たちは、オレンジ色の光が消えゆく教室で、いつまでも指を絡ませ合っていた。
それは、仲直りという名の、新たな共依存の始まりでもあった。