忍原来夏の特別レッスン   作:ぺいぺい

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次のステップと慈愛

 

 

 

 「……おーい、冬真! 早く学校に行くわよ!」

 

 翌朝、僕の家の玄関先に響き渡ったのは、凛としていながらもどこか弾んだ、来夏の元気な声だった。

 

 昨日までの、重苦しくてトゲトゲした空気は微塵もない。僕は慌ててカバンを掴み、玄関のドアを開けた。

 

 「来夏……早いね」

 

「おはよう! ふふ、当たり前でしょ。今日からは、一分一秒だって無駄にしないんだから」

 

 門の前に立つ来夏は、朝日に照らされてキラキラと輝いて見えた。

 

 僕が彼女の顔を直視すると、彼女は「ん?」と小首を傾げ、満面の笑みを浮かべる。

 

 「……あ、……おはよう」

 

「……合格。ちゃんと目を見て挨拶できたね」

 

 来夏は僕に歩み寄ると、当然のような顔をして僕の腕に自分の腕を絡めてきた。

 

 昨日、部室であんなに密着したはずなのに、外の光の下で触れ合うのはまた別の緊張感がある。僕は思わず体が固まってしまった。

 

 「……まだ、ちょっと慣れない?」

 

 来夏が僕の顔を覗き込む。その声は優しく、僕を責めるようなニュアンスは一切ない。

 

 「……うん。昨日あんなこと言ったばっかりだし、その……恥ずかしくて」

 

「いいよ、無理しなくて。冬真が私のことを意識しちゃうのは、私が『女の子』だからなんだもんね……嬉しいな」

 

 彼女は僕の二の腕を抱きしめるように力を込め、幸せそうに目を細めた。

 

 登校中、彼女は絶え間なく語りかけてくる。

 

 「ほら、足元注意して。……あ、あそこの家の犬、また大きくなったと思わない? ……あはは、冬真ってば、そんなに真っ赤になって。可愛いんだから」

 

 僕が緊張で歩みが遅くなれば、彼女は歩調を合わせてくれる。車が通りかかれば、僕の袖を引いて自分の内側へと守るように誘導する。

 

 その甲斐甲斐しさは、まるで弟を慈しむ姉のようであった。

 

 「……ねえ、しんどくない? 嫌だったら、少し離れてあげてもいいけど……?」

 

 来夏がわざとらしく、少しだけ腕を解こうとする。

 

 すると、不思議なもので、ずっと彼女の体温を感じていた部分が急に冷たくなったような気がして、僕は無意識に自分から彼女の制服を掴み返してしまった。

 

 「……あ、いや……そのままで、いいよ」

 

「……ふふっ、そう。じゃあ、離してあげない」

 

 来夏の瞳に、昨日部室で見せたような、濃密で暗い悦びが一瞬だけ宿る。

 

 「大丈夫だよ、冬真。私がついてるんだから。……他の事を考えなくていいくらい、私がずーっとお喋りしてあげる」

 

 学校までの道のりは、驚くほど短く感じられた。

 彼女の幸せそうなオーラと、甘い香りに包まれて、僕は変に心地よい感覚の中にいた。

 

 校門をくぐる時、すれ違う生徒たちが「またあいつら……」「前よりすごくなってない?」と囁いているのが聞こえたけれど、今の僕には、隣で微笑む来夏の存在以外、どうでもよくなっていた。

 

 その日の放課後。空き教室の空気は、以前よりもずっと柔らかく、そして甘やかな熱を帯びていた。

 昨日までの「目を見る特訓」を経て、僕たちは一歩前へ進むことにした。

 

 「じゃあ……今日は予定通り、次のステップね。冬真、手を出して」

 

 来夏は僕の正面に座り、膝の上に僕の手を載せるように促した。

 

 僕がおずおずと差し出した右手を、彼女は自分の両手で、壊れ物を扱うようにそっと包み込んだ。

 

 「あ……っ」

 

 その瞬間、僕の指先が自分でも驚くほど大きく跳ねた。

 

 女の子の手は驚くほど柔らかくて、温かい。その感触が肌に伝わった途端、昨日まで「顔を見る」ことで克服したはずの緊張が、今度は指先から全身へと逆流してきた。

 

 ガタガタと、自分では止められないほどに指が震え出す。恥ずかしくて、情けなくて、僕はすぐに手を引っ込めようとした。けれど、来夏はそれを許さなかった。

 

 「……逃げちゃダメ」

 

 来夏は僕の手首を優しく、けれど確実に掴んで引き止めた。

 

 彼女は僕の震える指先をじっと見つめると、ふふっと柔らかい笑い声を漏らした。

 

「……すごい。冬真、こんなに震えてる」

 

「ごめん、来夏……。やっぱり、まだ無理かもしれな

 い……」

 

「謝らなくていいってば。むしろ、逆だよ」

 

 彼女は僕の手を自分の胸元へと引き寄せ、包み込むように握り直した。

 

 来夏の瞳は、からかっているというより、心の底から愛おしいものを見つめているような、深く甘い色

 を帯びている。

 

 「こんなに震えるくらい、私を『女の子』として意識してくれてるんだ……あはは、可愛い。本当に可愛いね、冬真」

 

 彼女は空いた方の手で、僕の震える指の背をゆっくりとなぞった。

 

 よしよし、と小さな子供をあやすような手つき。その優しさが、僕の強張った心を少しずつ溶かしていく。

 

 「ほら、深呼吸して。……私の手に、全部預けちゃっていいから」

 

 来夏は僕の指の間に、自分の細い指を一本ずつ割り込ませた。

 

 震える僕の指に、彼女の指がしっかりと絡みつく。指の股が密着し、手のひらが完全に合わさる恋人繋ぎ。

 

 「……っ、ん……」

 

「……大丈夫だよ。私がちゃんと繋いでるから。震えてても、こうしてれば離れないでしょ?」

 

 彼女は絡めた手に力を込め、ぎゅっと握りしめた。

 僕の震えが、彼女の掌を通じて吸収されていくような感覚。来夏の熱が僕の血に混ざり合い、次第に指先の震えが、心地よい痺れへと変わっていく。

 

 「……落ち着いた? 冬真」

 

 来夏の穏やかな声が、僕の耳に優しく届く。

 

 彼女の体温に包まれているうちに、あれほど激しかった指先の震えが、嘘のように引いていく。

 

 それどころか、僕の胸の奥からは「もっと彼女の熱を感じていたい」という、自分でも驚くような欲求が湧き上がってきた。

 

 僕は、絡められた彼女の細い指に、自分から力を込めてみた。

 

 震える手で縋るのではなく、しっかりと、彼女の存在を確かめるように、僕の方からその手を握り返す。

 

 「……あ」

 

 その瞬間、来夏の喉から、熱を帯びた吐息が漏れた。

 

 「……冬真、今……自分から、握ってくれたの……?」

 

 彼女の瞳が、驚きと、そして……見たこともないような濃密な光を帯びて大きく見開かれる。

 

 僕の掌が、彼女の掌と強く重なり、肌と肌がこれ以上ないほど密着する。

 

 「……っ、ふ……」

 

 来夏の顔が、火照ったように赤く染まった。

 

 彼女の呼吸が、急に浅く、速くなる。僕の手を握り返す彼女の指先が、今度は微かに震え始めていた。それは僕のような緊張ではなく、もっと、抗いようのない衝動に突き動かされているような、湿った震えだった。

 

 「……いい。すごく、いいよ、冬真……」

 

 彼女はうっとりと瞳を細め、僕の手を自分の胸元へ、さらに強く引き寄せた。

 

 薄い制服の生地越しに、彼女の心臓が警鐘のように激しく鳴り響いているのが伝わってくる。

 

「ら、来夏……?」

 

 「自分から、私を求めてくれたんだね……。ああ、どうしよう……胸の奥が、熱くて……おかしくなりそう……」

 

 彼女の潤んだ瞳が、僕を捕食者のように、あるいは心酔する信者のように見つめる。

 

 甘い痺れが彼女の全身を駆け巡っているのが、繋いだ手を通じて手に取るように分かった。僕が少し指を動かすたびに、来夏の肩が小さく跳ね、熱い吐息が僕の首筋にかかる。

 

 「……冬真、もっと……もっと強く握って。冬真の熱で、私をいっぱいにして……」

 

 来夏の声は、もはや「レッスン」を指導するお姉さんのものではなかった。

 

 僕からのささやかなアプローチに、彼女の奥底に眠っていた歪な執着と悦びが、甘い毒となって溢れ出していた。

 

 「あは、あはは……嬉しい。冬真が、私を男の子の手で握ってくれてる……。ねえ、このまま、ずっと……繋いでいようね……」

 

 彼女の瞳に宿る、快楽に蕩けたような「暗い悦び」

 

 この時は気づけなかったけど、僕なんかよりずっと、来夏は僕という存在に、誰よりも深く溺れていたのだ。

 

 

 

 

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