忍原来夏の特別レッスン   作:ぺいぺい

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侵食した執念と嫉妬

 

 

 

 朝の柔らかな光が差し込む通学路。

 

 冬真の右手は、隣を歩く来夏の温かな掌の中にあった。数週間前なら、指先が触れるだけで心臓が破裂しそうになっていたのに、今は彼女の体温を心地よいとさえ感じている。

 

 「……ふふ、冬真。今日は自分から握り返してくれたね。すごいじゃない、偉い偉い」

 

 来夏は上機嫌に目を細め、繋いだ手を子供のように前後にぶらぶらと揺らした。

 

 「克服しなきゃいけないからね……来夏のおかげだよ、本当に」

 

「そうね。でも、前のオドオドして、目が合っただけで茹で上がってた冬真も、子犬みたいで愛くるしかったんだけどな。ちょっと寂しいかも」

 

 冗談めかして笑う彼女の横顔に、冬真も「勘弁してよ」と苦笑いを返す。

 

 二人の間には、かつての幼馴染としての平穏が、より深い信頼を伴って戻ってきたかのように見えた。

 

 ──しかし、その「平穏」は、冬真が手に入れた自信によって、皮肉にも崩れ去ることになる。

 

 

 

 

 休み時間。来夏はいつものように、冬真の様子を覗きに彼の教室へと足を運んだ。

 

「冬真、次の授業の準備できた?」と声をかけようと、教室の入り口に近い窓から中を覗き込んだ、その時だった。

 

 「──あはは、本当? 秋月くんって、意外とそういうの詳しいんだね」

 

「まあ、これくらいならね。もし困ってるなら、また教えるよ」

 

 冬真が、クラスの女子とごく自然に、あろうことか柔らかい微笑みを浮かべて談笑していた。

 

 以前なら女子の視線に晒されるだけで肩をすぼめていた彼が、今では自分から会話を広げている。その姿は、間違いなく来夏が望み、導いてきた「レッスンの成果」だった。

 

 (……すごい。ちゃんと、話せるようになってる)

 

 最初は、純粋な喜びと達成感だった。

 

 けれど、冬真がその女子に向けて笑うたび、来夏の胸の奥がチリチリと焼け付くような、不快な熱を帯び始める。

 

 (……でも、その笑顔。私にだけ向けてくれるものだったんじゃ……なかったんだ)

 

 冬真が女の子と話せるようになるのは、いいことだ。彼が自信を持つのも、いいことだ。

 

 そう自分に言い聞かせても、視界に入る「自分以外の女子に優しい冬真」という光景が、毒のように彼女の心を蝕んでいく。

 

「冬真を独り占めして孤立させたい」なんて、そんなひどいことは思っていない──はずなのに。

 

 (あの子に向ける言葉も、その仕草も、全部私が『レッスン』で教えたものなのに……なんで、私じゃない子にそれを使ってるの?)

 

 「冬真をみんなと仲良くさせてあげたい」という表向きの善意のすぐ裏側で、「この笑顔を自分だけの檻に閉じ込めておきたい」という、無自覚で真っ黒な独占欲が彼女の心を染め始める。

 

 窓の外に立つ来夏の瞳から、少しずつ生気が失われていく。

 

 冬真の「成長」を誇らしく思う気持ちが、彼を「自分だけが知る特別な存在」から「誰のものでもなくなっていく存在」へと変貌させていく恐怖に塗り替えられていく。

 

 「…………」

 

 無意識のうちに、窓枠を掴む指先に力がこもる。

 今の冬真の幸せそうな表情は、来夏ひとりのものではなくなりつつある。それが、彼女には耐え難い絶望として響いた。

 

「冬真のため」という免罪符を握りしめたまま、来夏はしっとりと濡れた瞳で、窓の向こうの冬真を見つめ続けていた。

 

 

 

 放課後。校門で待っていた来夏の姿を見つけ、冬真はいつも通り駆け寄った。

 

「お待たせ、来夏。行こうか」

 

「……うん。行こう」

 

 並んで歩き出した通学路。西日が二人の影を長く地面に引き伸ばす。

 

 いつもなら、来夏の方から「ねえ、今日のレッスンの成果は?」と茶化したり、強引に腕を絡めてきたりするはずだった。けれど今日の彼女は、どこか遠くの空を見つめたまま、一言も発しようとしない。

 

 「来夏……? どうしたの、元気ないけど」

 

「……え? ああ、ううん。ちょっと今日、授業で疲れちゃっただけ。大丈夫だよ」

 

 そう言って向けられた微笑みは、いつもの太陽のような明るさを欠き、薄氷のように脆く見えた。冬真は胸の奥に、ざらりとした違和感を覚える。

 

 冬真は彼女を元気づけようと、自分に起きた「良い変化」を話すことにした。

 

「あのさ、来夏。今日、休み時間にクラスの女子に話しかけられたんだ。自分でも驚くくらい普通に話せたんだよ。……やっぱり、来夏の特訓のおかげだね」

 

 感謝を込めた冬真の言葉。それは来夏にとって、最も聞きたくない「刃」となって彼女の胸に突き刺さった。

 

 「…………」

 

 来夏の足が、ぴたりと止まる。

 

「……え、来夏?」

 

 「……よかったね、冬真。……もう、私がいなくても、あんなに上手に笑えるんだもんね」

 

 その声は、震えていた。

 

 冬真が隣で戸惑っていると、彼女は俯いたまま、力なく笑った。

 

「……ごめん、冬真。今日は……一人で帰ってもいいかな? ちょっと、考えたいことがあって」

 

 「えっ、でも……」

 

 冬真の引き止める声を振り切るように、来夏は早足で歩き出す。

 

 彼女の後ろ姿を見送りながら、冬真はただ立ち尽くすしかなかった。

 

 来夏は、自分の足音だけが響く道で、強く拳を握りしめていた。

 

 冬真が成長したのは嬉しい。彼が自信を持てたのは喜ばしいことだ。

 

 そう自分に言い聞かせても、胸の奥の「痛み」が止まらない。彼に教えてあげたはずの優しさが、自分以外の誰かに向けられ、消費されていく。その事実が、彼女の正気をじわじわと削り取っていく。

 

 (……嫌。嫌だよ、冬真。あんな顔、私以外に見せないで……)

 

 一歩踏み出すたびに、視界が歪んでいく。

 

 かつて彼を守るために差し出した手は、今や彼を閉じ込めるための檻になりたがっていた。

 

 彼が「普通」になればなるほど、自分の存在意義が、彼との特別な絆が、砂のように指の間から零れ落ちていく。

 

 (どうして……? 私は冬真のために頑張ったのに。冬真が笑えるようにって、あんなに練習したのに……)

 

 脳裏に焼き付いて離れない、教室での冬真の笑顔。

 自分以外の女の子に向けられた、柔らかく、温かなあの眼差し。

 

 それを思い出すたびに、来夏の心臓は誰かに生手で握りつぶされるような激痛にのたうち回る。

 

 (痛い……痛いよ、冬真……。もう、どうしたらいいかわかんないよ……っ)

 

 冬真を誰よりも愛しているという自負が、今は自分を焼き尽くす猛毒に変わっていた。

 

 彼を独り占めしたいという醜い本音と、彼の幸せを願うべきだという理性の境界線が、どろどろに溶けて混ざり合っていく。

 

 「私だけが……私だけが、冬真を知っていればよかったのに……」

 

 夕闇に溶けていく来夏の呟きは、誰に届くこともなく、ただ彼女自身の心を深く、絶望的に抉り続けていた。

 

 彼女を包む空気は、もはや「幼馴染」の慈愛ではなく、獲物を失いかけて狂い始めた捕食者の、湿り気を帯びた執念に染まりつつあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




展開が早いですが、次回が第一章の最後になる予定です。
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