忍原来夏の特別レッスン   作:ぺいぺい

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最後のレッスン

 

 

 

 あれから数日、学校はひどく静かだった。

 

 来夏はあの日以来、一度も登校していない。他の生徒も来夏が来ないことに心配していて、中には「来夏と何かあったの?」と僕に聞いてくる人もいた。

 

 僕もみんなと同じで、彼女が心配だった。 

 

 あの時、僕の問いかけに、あんなに震える声で「もう私がいなくても笑えるんだね」と告げて走り去った彼女の背中が、網膜に焼き付いて離れない。

 

 彼女がいない日常は、色彩を失った写真のようだった。

 

 他の女子と話しても、クラスメイトに囲まれても、心の奥底にある空洞が埋まることはない。

 

 (……来夏、今どうしてるんだろう……心配だ)

 

 心配で、胸が張り裂けそうだった。いてもたってもいられず、僕は放課後のチャイムと同時に彼女の家へと走った。

 

 

 

「……来夏。いるんだろ?」

 

 インターホンを鳴らしても返事はない。けれど、カーテンの隙間から微かな気配が漏れていた。僕は何度も何度も彼女の名前を呼び続けた。

 数分後、重い音を立ててドアが、わずかに開く。

 

 「……なんで、来たの」

 

 そこにいたのは、僕の知っている「クラスのアイドル」としての来夏ではなかった。

 

 髪は乱れ、瞳の光はひどく濁っている。けれど、彼女は絶叫するわけでも、僕を追い返すわけでもなかった。

 

 「……いいよ、入って。冬真……ずっと待ってたんだよ」

 

 僕が黙っていると、来夏が家の中へ招いてきた。

 

 湿り気を帯びた、底知れないほど静かな声。それが逆に僕の背筋に冷たい震えを走らせる。招かれるまま足を踏み入れた来夏の自室は、カーテンが閉め切られ、彼女の甘い香りが濃密に沈殿していた。まるで、外の世界から完全に切り離された「底なし沼」のような閉塞感。

 

 パタン、と扉が閉まり、鍵のかかる音が重く響く。

 

 「来夏、その……ずっと学校に来ないから、心配で……」

 

「心配? 私が……? あはは、おかしいよ、冬真」

 

 不意に、背中に彼女の体温が触れた。彼女の手が僕の腕に絡みつき、そのまま耳元で熱い吐息を漏らす。

 

 「私がいなくても、あんなに楽しそうに他の子と笑ってたじゃない。……私のことなんて、もう忘れてるのかと思った。それとも……あの子たちじゃ、物足りなかった?」

 

 「違う、そんなんじゃない……! 僕はただ……」

 

 言いかけた瞬間、視界が激しく揺れた。

 

 彼女の細い体のどこにそんな力が隠されていたのか、僕は抗う術もなく、背後から押し倒されるようにベッドへと沈み込んだ。

 

 「来夏っ……!?」

 

 「静かにして……ねえ、冬真。私のこと、もう必要ないって言いに来たの? 私を捨てて、あの子たちのところに行くって、そう言いに来たの!?」

 

 先ほどまでの静寂は、決壊の前触れに過ぎなかった。

 

 僕を組み敷く彼女の瞳からは大粒の涙が溢れ出し、剥き出しの執着が濁流となって襲いかかる。

 

 桃色の長い髪がカーテンのように僕の視界を塞ぎ、世界には僕と来夏の二人しかいなくなった。

 

 押し付けられた彼女の体温は驚くほど高く、その震えが服越しに僕の心臓へと直接伝わってくる。

 

 「痛いの……胸がずっと痛いの。冬真が笑うたびに、私の知らない冬真になっていくみたいで……。ねえ、冬真。行かないで、私以外のところに行かないでよ……っ!」

 

 彼女の叫びは、救いを求める悲鳴のようだった。

 

 自分でも制御できないほどの醜い独占欲と、僕を愛するがゆえの焦燥。

 

 彼女は泣きじゃくりながら、僕の胸元に顔を埋め、その爪を僕の肩に深く立てた。まるで、二度とこの場所から逃がさないという、狂おしいほどの呪いを刻みつけるように。

 

 「私が教えた笑顔で、私が教えた言葉で……どうして私じゃない子を喜ばせるの? 冬真は、私だけの冬真でいてよ。誰にも見せたくない。この部屋に、私だけの檻に閉じ込めておきたい……。ねえ、それが私の『愛』なの。おかしいよね、醜いよね……でも、もう止まらないんだよ」

 

 彼女は僕の肌に刻み込むかのようにさらに強い力で爪を立てる。身体に走る強い痛みで僕は思わず顔を歪ませる。

 

 「待って、来夏……こんなの、いつもの君じゃないよ」

 

 思わず漏れた制止の言葉に、彼女の動きが止まった。

 

 ゆっくりと顔を上げた来夏の表情は、絶望に濡れながらも、開き直ったような凄惨な美しさを湛えていた。

 

 「……これが、本当の私だよ……嫌なら、逃げて。でも、私をこんなに風に壊したのは、冬真なんだからね」

 

 震える彼女の指先が、今度は僕の喉元に食い込む。

 

 拒絶されることを恐れ、けれど壊さずにはいられないという悲痛な覚悟が、その細い指に込められていた。

 

 僕は、そんな彼女の手を振り払うことはせず、優しく、けれど力強く握り返した。

 

 「……逃げるわけ、ないだろ」

 

 その瞬間、来夏の瞳が大きく見開かれた。

 

 「僕が今、こうして誰かの目を見て話せるようになったのも、全部、来夏が僕を導いてくれたからだ。僕を、僕以上に信じてくれたのは……来夏だけだったんだ」

 

 来夏の動きが完全に止まり、熱い涙が僕の頬に零れ落ちる。

 

 「僕が来夏を壊したっていうなら……僕だって、来夏に壊された……お互い様だよ」

 

 僕は、彼女の歪んだ、ドロドロとした情愛のすべてを逃げずに見つめ返した。

 

 彼女が僕を救ってくれたように、今度は僕が彼女を救うべき番なんだ。

 

 「だから……来夏の『本当』を、全部僕に刻んでよ。来夏の全部、僕は受け入れるよ。だって僕も……来夏が好きだから」

 

 僕の告白を聞いた瞬間、来夏の顔が、言葉では言い表せないほど恍惚とした微笑に染まった。

 

 それは、救済を与えられた聖女のようでもあり、愛しい獲物を仕留めた捕食者のようでもあった。

 

 「……っ、ああ……冬真……、大好き、大好きだよ……!」

 

 来夏は再び僕の胸に顔を埋め、今度は縋り付くような強烈なハグで僕を締め付ける。

 

 来夏の指先が僕の頬を滑り、涙の跡をなぞる。その瞳には、先ほどまでの荒れ狂うような焦燥ではなく、深海のように静かで、それでいて逃れようのない濃密な愛が湛えられていた。

 

 「……嬉しい。本当に、嬉しいよ……」

 

 彼女の声は、祈りを捧げる聖女のように澄んでいた。僕の全てを受け入れるという言葉が、彼女の魂を救い、同時に彼女の中に眠る本当の自分を完全に目覚めさせたのだ。

 

 「私のこんなに醜くて、ドロドロした気持ちを……冬真は『好き』だって言ってくれるんだね。自分でも嫌気がさすような、最低な独占欲も……全部、抱きしめてくれるんだね」

 

 来夏は僕の顔を両手で包み込み、宝物を慈しむように何度も、何度も額や頬に唇を寄せる。その仕草には、僕という存在に対する狂おしいほどの感謝と、二度と手放さないという冷徹なまでの決意が混ざり合っていた。

 

 「ありがとう、冬真。私を選んでくれて。私を、完成させてくれて。……お礼に、私が冬真に、世界で一番甘くて、二度と忘れられない『レッスン』を教えてあげる」

 

 彼女の瞳がトロリと熱を帯びて蕩け、吐息が僕の唇を熱く湿らせる。

 

 「もう、普通の世界には帰してあげない。他の誰とも比べられないくらい、私の温度を、私の匂いを、冬真の芯まで染み込ませてあげる。……冬真の身体も、心も、指先の一つまで、全部私だけのものにしてあげるからね」

 

 来夏は僕の首筋に深く顔を埋め、吸い付くようにして、昨日までのものとは比べ物にならないほど鮮烈な「刻印」を刻んだ。

 

 「ん……っ、ぁ……」

 

 脳が痺れるような刺激。理性の最後の一線が、彼女の柔らかな体温と圧倒的な情愛の前に、呆気なく溶け去っていく。

 

 彼女は僕のシャツをゆっくりと、儀式のように押し広げ、露わになった僕の鼓動に自分の鼓動を重ね合わせた。

 

 「見て、冬真。……私たちの心臓、こんなに速く、同じリズムで動いてるよ。……ふふ、もう、一つになっちゃおうか」

 

 絡み合う指先。重なり合う吐息。

 

 彼女は最大の愛情を込めて、僕の唇を貪欲に、そしてどこまでも優しく塞いだ。

 

 それは契約の儀式だった。

 

 僕という人間が、今この瞬間、名実ともに彼女という名の檻の住人となるための。

 

 窓の外では夕暮れが深まっていく。

 

 けれど、密室に立ち込める来夏の甘い芳香と、互いの肌を焼くような熱情の中で、僕たちは自分たちがどこへ向かっているのかさえ、もうどうでもよくなっていた。

 

 「……大好きだよ、冬真。私の、私だけの冬真……。さあ、最高の続きをしよう?」

 

 彼女の囁きが鼓膜を震わせ、僕たちは歪で完璧な愛の深淵へと、真っ逆さまに堕ちていった。

 

 

 

 

 

 

 




これにて第一章完結です。読んでくださりありがとうございました。

第二章からは二人のラブラブを書いていこうと思いますのでよろしくお願いします。
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