朝の忙しさが一段落した頃、俺は風呂場の前で腕を組んで立っていた。
中からは、ちゃぷちゃぷと湯をかく音が聞こえてくる。
……落ち着かない。
「店主さん、すみません……お湯、すごく気持ちいいです」
湯気越しにそんな声が聞こえるたび、俺は無駄に背筋を伸ばしてしまう。できれば、あまり意識したくない。
「……なあ」
いつの間にか隣に立っていた、白髪ヒゲ面の大男が、ニヤニヤしながら小声で囁いてきた。
「見てたぜ。濡れた神官に風呂、貸してたな?」
「聞くな。考えるな。想像するな」
即座に切り捨てる。
だが、男は懲りない。
「いやぁ……うん。素晴らしくエッチだった」
――ゴンッ。
「ぐっ!?」
俺は無言で、肘を男の脇腹に叩き込んだ。
「客に失礼だろうが」
「いやでもよぉ、これは男として――」
「黙れ」
「はい」
即座に男は静かになる。いつものやりとりだ。
……まったく。
「お前、いつ帰ってきたんだよ」
呆れつつそう聞くと、男は肩をすくめた。
「この前に引き受けた討伐が終わってな。なかなか良い稼ぎになったから、しばらくは遊んで暮らす予定だ」
バルジオ。「エッチなハプニングが見られるから」という理由だけで、この宿に泊まり続けているスケベジジイだ。
ただ、腕は確かだし、根っからの悪人でもない。俺とはもはや、腐れ縁のような関係である。
風呂場の戸が、きぃ、と小さな音を立てて開いた。
もくもくと立ちのぼる湯気の向こうから、先程の女性が姿を現す。
濡れた銀髪をタオルで拭きながら、貸し出した寝巻きを身にまとっている。
……いや、正確には、身にまといきれていない。豊満と言っていい女性の身体に対して、寝巻きのサイズが対応しきれず、あちこちのラインをはっきりと主張している。違う、普段はこんなミスをすることはない。
「……おう」
目を逸らしながら声をかける。
「具合はどうだ?」
「はい。おかげさまで、とてもさっぱりしました」
そう答えて、彼女はにこりと微笑んだ。屈託のない、実に穏やかな笑顔だった。
――だからこそ、余計に困る。
「いやぁ……これはまた……」
隣で、バルジオが感心したように頷く。
「神官様ってのは、やっぱこう……見るだけでもご利益が」
――ゴンッ。
「ぐえっ!?」
反射的に、さっきより強めに肘を入れた。
「いい加減にしろ」
「い、いや……感想を述べただけで……」
「黙れ」
「はい」
……まったく。
当の本人は、そんなやり取りを気にも留めず、小さく頭を下げてきた。
「改めまして……助けていただいて、ありがとうございました」
「いや、当然のことをしたまでだ」
「ミレナと申します。繁栄神教会から参りました」
ミレナ。柔らかい響きの名前と同じように、落ち着いた雰囲気の女性だ。年は……二十代後半くらいだろうか。大人びているが、どこかおっとりした印象もある。
「俺は、この宿の店主だ。……名前はまあ、呼びやすいように呼んでくれ」
「はい。店主さん」
即答だった。
……まあ、いいか。
「それで……改めてになりますが」
ミレナは少しだけ表情を引き締めた。
「こちらに、しばらく滞在させていただきたいのです」
「滞在?」
「はい。実は、近くのダンジョン周辺に……“繁栄神の聖域”が存在している可能性がありまして」
その言葉に、胸の奥が、わずかにざわついた。
――神の聖域、ね。
幼い頃に、不思議な印象の少女と出会った泉。あそこもたしかダンジョンの近くで、妙に落ち着く場所だったな。
「その調査のため、しばらく拠点にできる場所を探していたんです」
「なるほど……それで、うちに?」
「はい。とても居心地が良さそうでしたので」
そう言って、ミレナはまた、にこりと笑った。
……悪い予感しかしない。
「まあ、部屋は空いてるし、問題ない」
「ありがとうございます!」
心から嬉しそうに頭を下げる彼女を見て、俺は内心でため息をついた。
(……「アレ」がこれ以上、彼女に降りかかりませんように)
そう祈りながら、俺は今日の仕事へと意識を戻すのだった。
「お、新しいお客さん?」
そんな声とともに、廊下の奥からもう一人の寝巻き姿の少女が顔を出す。
「おう、リーナ」
バルジオが軽く手を挙げて応じる。
今朝方、「紐みたいな服」で大騒ぎしていた張本人――魔法使いのリーナである。
だが、彼女はバルジオの顔を見るなり、露骨に顔をしかめた。
「うげ……エロジオじゃん。あんた、帰ってきてたの?」
「おいおい、ひどくねえか?」
「事実でしょ」
腕を組んで、リーナはぷいっとそっぽを向く。
「まぁそう言うな……ん?」
バルジオは目を細めて、じっとリーナを見た。
「お前、そんな下着の趣味だったか? 浮き出たラインでわかるけど、なんというか紐……」
「死ねっ!」
顔を真っ赤にしたリーナが念じた瞬間、ぽん、と小さな火球が飛んだ。
「どわっちゃっちゃあ!?」
バルジオのヒゲが、じゅっと焦げる。
「おい! 危ねえだろ!」
「自業自得でしょ!」
「宿の中で火はやめろって、前も言っただろ!」
俺たちのそんな様子を見て、ミレナがくすくすと笑う。
「みなさん、仲がいいんですね」
簡単な自己紹介を終えたあと、俺たちはしばらく雑談をしていた。
ダンジョンの話だの、街の近況だの、いつもの他愛ない話だ。
「……あ」
ふと、リーナが立ち上がる。
「ちょっと、お花をつみに……」
「ん? ああ」
そう言って歩き出した、その瞬間だった。
「わっ――!?」
足をもつれさせたリーナが、よろける。とっさに何かを掴もうとして――
「きゃっ」
隣にいたミレナの寝巻きを、思いきり引っ張ってしまった。
びりっ。
嫌な音が、やけに響いた。
「……あ」
一瞬、場が静まり返る。
ミレナの寝巻きは肩口から大きく裂け、ずるりとずれ落ちていた。
「だ、大丈夫ですか?」
当のミレナは、まずリーナのほうを心配して、慌てて駆け寄る。
「お怪我はありませんか?」
「そ、それどころじゃ――!?」
リーナは真っ赤になって、わたわたと手を振る。
「み、ミレナさん! その……! いろいろ出てます!!」
ようやく自分の状態に気づいたミレナが、きょとんとしたあと――
「……あら」
遅れて、ほんのり頬を染めた。
「す、すみません! 私のせいで……!」
今にも泣きそうな顔で謝るリーナ。
「いえいえ。気にしないでください」
ミレナは穏やかに微笑みながら、軽く首を振る。
……いや、こっちの方が目のやり場に困るんだが。
「ほら、これ」
俺は近くにあったマントを手に取り、ミレナの肩にそっと掛けた。
「とりあえず、これで」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げるミレナ。その様子を見ながら、バルジオはなぜか満足そうに、うんうんと頷いていた。
「……いいもん見――」
――ゴンッ。
「ぐえっ」
反射的に肘を入れる。
「余計なこと言うな」
「はい」
……まったく。
「リーナ、怪我はないか?」
「だ、大丈夫……」
まだ顔を赤くしたまま、小さく頷く。
「……はぁ」
俺は小さくため息をついた。
「ちょっと待っててくれ。新しい寝巻き、取ってくる」
こうして俺の仕事は、またひとつ増えたのだった。