ヒーローと名探偵   作:タルマヨ

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怪盗キッドの龍馬お宝イリュージョン(後編)

予告当日、午後。

鈴木大博物館の館内は、朝からの熱気が冷めるどころか、刻一刻と迫る予告時間に向けて膨れ上がっていた。外は予報通り、今にも泣き出しそうな鈍色の空が街を覆っている。

コナンは圭人と一時別れ、単独で館内の再調査を行っていた。

次郎吉が設置した金属探知ゲートは今も厳重に稼働しているが、もし怪盗キッドがそこを避けて侵入したのだとしたら。

(……いや、やっぱりここからは無理だな)

コナンはトイレの洗面所の鏡越しに、背後の高い位置にある小窓を睨んだ。

窓には頑強な鉄格子が嵌め殺されており、大人一人が通れる隙間など微塵もない。外部からの侵入経路が完全に遮断されている以上、奴は「正面」から堂々と入った可能性が高い。

思考を巡らせながら個室に入り、ドアを閉めたその時だった。

「――お察しの通り、正面突破だよ。名探偵」

聞き慣れた不敵な声に、コナンの背筋が跳ねた。

隣の個室との仕切り壁の上から、ひょいと顔を出したのは、地味な野球帽を深く被り、どこにでもいそうな私服に身を包んだ少年。キッドだ。その手には、紛れもない坂本龍馬のピストルが握られている。

「キッド……! オメー、あのゲートをどうやって……」

「そう睨むなよ。今回は返しに来ただけなんだから、邪魔はしないでくれよ」

キッドは悪戯っぽく笑うと、ピストルの銃身を軽く叩いた。

「種明かしをすれば簡単さ。ピストルのグリップの中に仕込まれていた重りの鉛……あれを全部抜いて、代わりに同じ重さの樹脂を詰めたのさ。金属反応を最小限に抑えれば、あの程度のゲートなら潜り抜けるのは容易い。それより、外の雨が楽しみだねぇ……」

キッドはそれだけ言い残すと、驚異的な身軽さで個室の壁を飛び越え、洗面所の方へと気配を消した。

「待て、キッド!」

コナンが慌てて個室を飛び出し、洗面所へ駆け戻ると、そこにはキッドの姿はなく、代わりに低い話し声が漏れ聞こえてきた。

「……いいんですか? 樽見さん。あんなことをして」

「ふん、すべては計画通りだ、華村」

声の主は、今回の鑑定を依頼した樽見と、鑑定士の華村だった。二人は周囲を警戒しながら密談を交わしている。コナンは壁の角に潜み、鋭い観察眼で二人の様子を捉えた。特に華村。彼女の右手の親指には、先ほどは見なかった不自然に白い包帯が巻かれている。

 

「ねぇねぇ、その指どうしたのー?」

コナンがひょこっと顔を出して無邪気に尋ねると、華村はびくりと肩を揺らした。

「……ああ、ボウヤか。日本刀を鑑定中に、うっかり切っちゃってね」

「へぇ……そうなんだ。大変だね!」

コナンは子供の笑顔を作ってその場を離れたが、内心では確信していた。熟練の鑑定士が刀の扱いで指を切るなど、あまりにも不自然だ。

ロビーに戻ると、ちょうど蘭と園子の姿があった。そこへ圭人も合流する。

「あ、コナン君! どこ行ってたの?」

「あ、ちょっとトイレに…。ねぇ、それより園子姉ちゃん、服、汚れてない?」

コナンの指摘に、園子が自分の右袖を見て「あちゃー」と顔をしかめた。

「そうなのよ! さっき誰かにドンッて押されて、ガンベルトの展示ケースにぶつかっちゃって。変な汚れがついてるでしょ?」

園子のジャケットの袖には、透明に近い薄いシミのようなものが付着していた。圭人が横から覗き込む。

「本当だね。何か、水っぽい跡がついてるよ」

「だろ? ちょっと触らせて……」

コナンはその部分を指でなぞり、密かに匂いを嗅いだ。

(……間違いない。これは特殊なインクだ。今は見えねぇが、水に濡れれば反応して色が浮かび上がる仕組みか……)

窓の外では、ついに激しい雨が降り始めていた。

キッドがこの日、この雨を待っていた理由。そして「洗濯」という言葉の真意。

コナンは隣にいる圭人にだけ聞こえる低い声で、不敵に口角を上げた。

「……なるほどな。あの気障な大泥棒のくせに、粋な真似しやがって。圭人、あいつはこの雨を利用して、隠された真実を暴くつもりだぜ」

 

 

 

 

 

 午後八時前。閉館間際の鈴木大博物館は、異様な熱気に包まれていた。

幕末の英雄、坂本龍馬の遺品。そしてそれらを狙う世紀の大泥棒の予告。二つの波が重なり合い、館内は身動きが取れないほどの群衆で溢れかえっている。もはや鉄壁を誇った次郎吉の警備体制も、この人混みの前では機能不全に陥っていた。

「おい、どけ! 通せと言っとるだろうが!」

入口付近の金属探知ゲート付近で、中森警部が顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていた。その横では次郎吉が忌々しそうに人混みを睨みつけ、樽見と華村は苛立ちを隠せない様子で腕時計を何度も確認している。

予告時間まで、残り数分。

「……なぁ、イチ。あいつ、どうするつもりなのかな」

「さぁな……。でも、もうすぐ始まるぜ。あの気障な大泥棒のショーがな」

展示室の隅、喧騒から少し離れた位置で、圭人とコナンは静かにその時を待っていた。

その時だった。

人混みの中心から、一つの白いシルクハットが空高く投げ上げられた。

ハットはスポットライトを浴びたかのように輝きながら、ゆっくりと回転して落ちてくる。それが地面に届く直前――。

 

ボフッ!

 

白煙が爆ぜ、次の瞬間、そこには純白のマントを翻した怪盗キッドが、優雅な立ち姿で出現していた。

「キッドだ!」「キッド様ーー!!」

地鳴りのような大歓声が上がり、館内はキッドコールの嵐と化す。

キッドは観客に向けて深く一礼すると、ガンベルトが置かれた展示ケースの上に、三つの品を丁寧に乗せた。お龍への手紙、盃、そしてピストル。二十年前にファントム・レディが盗み出したとされる伝説の三品だ。

「……約束通り、返却させていただきましたよ。ただし――」

キッドが指をパチンと鳴らすと同時に、天井のスプリンクラーが一斉に作動した。

悲鳴と驚きの声が上がる中、館内に土砂降りの雨のような水が降り注ぐ。

「何をしやがる、キッド!」

中森警部の怒号が響くが、キッドは動じない。

水がガンベルトの説明プレートに当たると、驚くべき変化が起きた。表面に塗られていた水溶性の絵の具が流れ落ち、その下から特殊インクで書かれた「別の文字」がくっきりとした黒色で浮かび上がったのだ。

「……な、なんだこれは……」

中森警部が、浮かび上がった文字を震える声で読み上げる。

「『このガンベルトは元々真っ赤な偽物。なぜなら、盗まれることを想定して大量に作ったものだから』……だと!?」

「その通り。そのプレートの主が書いた真実ですよ。中森警部」

キッドは悠然とした足取りで、動揺する樽見と華村に近づいた。

「樽見さん、それに鑑定士の華村さん。あなた方のビジネスモデルは実に見事だ。あらかじめ偽物の『本物』を大量に作り、鑑定士の権威を使って信憑性を持たせる。そして私のような泥棒が盗みに来るのを待ち、『本物が盗まれた』と喧伝して、裏で別の偽物を『盗まれた本物』として資産家に高額で売りさばく。買った側は『盗品』という弱みがあるから警察には駆け込めない……。義経展の時も同じことをしていましたね?」

「な、何を馬鹿なことを……!」

樽見が顔を引きつらせて笑おうとするが、華村は親指の包帯を握りしめ、顔面を蒼白にさせていた。

「華村さん、その指の怪我。今回のガンベルトに、水で消える絵の具で『本物』と書き記していた時に誤って切ったものですね? 証拠は、今そこのプレートから流れ落ちているインクそのものです」

キッドの冷徹な指摘に、二人はついに言葉を失った。中森警部が鋭い視線で部下たちに合図を送り、逃げ場を失った詐欺師たちの両腕が押さえられる。

雨のような水が降り続く中、キッドはシルクハットを正し、最後にこう締めくくった。

「龍馬はかつて姉への手紙にこう綴りました。『日本を今一度洗濯いたし申し候』と……。私も少しばかり、この展示会の汚れを洗い流させていただきましたよ。二十年前、何も知らずに偽物を掴まされ、汚名を着せられた……ある女性のためにね」

キッドはマントを翻し、煙と共に姿を消した。

 

 

 

 

 

スプリンクラーの水が止まり、静寂が戻った館内に中森警部の怒号が響き渡る。

「キッドを逃がすな! 展示室を封鎖しろ!」

だが、白いマントの奇術師は既に群衆の渦へと消えていた。騒然とする観客の中、太った中年男性に扮したキッドは、目立たない足取りで出口へと向かう。

「待てよ、おじさん」

背後から声をかけられ、変装したキッドは足を止めた。振り返ると、そこには眼鏡を光らせたコナンと、どこか楽しげな表情を浮かべた圭人が立っていた。

「あ、ああ……何か用かな、坊やたち。私は急いでいるんだが」

太った男として声を低く作り、腹をさすってみせるキッド。だが、コナンは不敵な笑みを崩さない。

「その腹、随分と立派だけどさ……。それにしては、足のラインが綺麗すぎるんじゃないか?」

「え?」

「普通、そこまで小太りなら、脚にももっと肉がつくもんだぜ。なのにあんたの足、モデルみたいに細くて引き締まってる。……そんな体型の矛盾、隠しきれると思ってたのか? キッド」

キッドは一瞬目を見開いたが、すぐに観念したように肩の力を抜いた。声がいつもの不敵なトーンに戻る。

「……ハッ、相変わらず厳しいな。名探偵」

「コナンの言う通りだよ。その変装、ちょっと無理があったね」

圭人がからかうように言うと、キッドは圭人の方を向き、どこか遠くを見るような目をした。

「……仕方ないだろ。二十年前、何も言わずに消えた母親の『洗濯』を代わりにするには、これくらいのリスクは承知の上だ。……母親ってのは、どいつもこいつも苦労をかけさせてくれる存在らしい」

その言葉に、コナンと圭人の表情が凍りついた。キッドの母親――ファントム・レディ。今の言葉は、彼女が存命であり、かつキッドにとって身近な存在であることを示唆している。

(……まさか、あいつの母親が……!)

驚きを隠せない二人を前に、圭人がコナンの肩に手を置いた。

「イチ。今回は何も盗ってないし、あの詐欺師たちを捕まえる手助けもしてくれた。……今回だけは、特別に見逃してあげてもいいんじゃない?」

コナンは一瞬迷う仕草を見せたが、やがて溜息をついて腕時計型麻酔銃を構えていた手を下ろした。

「……ハッ、今回だけだぜ…。次会ったときはその気障ったらしいモノクルを剥ぎ取ってやっからよ」

コナンは満足げに口角を上げそう言い、キッドは二人に向けて軽くウィンクをしてみせた。

「おぉ…怖ぇ怖ぇ…。フン、じゃあな。名探偵とそのお友達」

直後、キッドは人混みを縫って窓際へと駆け寄り、予備の爆弾を炸裂させた。凄まじい風と共にガラスが砕け散り、闇夜に純白のハンググライダーが翼を広げる。

「キッドだ! あっちだ!」

中森警部たちが窓に駆け寄るが、夜空に溶け込んでいく白い影を捕まえる術はもうなかった。

事件は解決した。

龍馬展は急遽中止となったが、樽見と華村の詐欺スキームが立件されたことで、世間は別の意味で大きな騒ぎとなっていた。

ロビーでは、蘭や園子、美桜、そして不機嫌そうな次郎吉が合流していた。

「全く、彼奴め……わしの博物館を水浸しにしおって!」

「まあまあ、次郎吉さん。でも、おかげで偽物が売られるのを防げたんですから」

美桜が宥めると、園子がびしょ濡れの服を気にしながらも、いつもの調子で声を上げた。

「でも、またキッド様に会えるかも! 水に濡れても素敵だったし……リ“キッド”だけにね!」

その場に絶妙な沈黙が流れた。

蘭と美桜は言葉を失い、両目を点にして園子を見つめている。

「……あ、あれ? ウケない?」

「……うん。園子、風邪引く前に早く帰って着替えようか」

蘭の乾いた笑い声がロビーに響く。

圭人とコナンは顔を見合わせ、夜空へと続く窓の向こう側に、一瞬だけ思いを馳せていた。

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