ヒーローと名探偵 作:タルマヨ
園子の赤いハンカチ(壱)
青く澄み渡った米花町の空の下、阿笠邸の屋上には、どこか緊張感の漂う空気が流れていた。
床に置かれた折りたたみ式のテーブルの上には、数台のノートパソコンが並び、複雑な波形データや数値が目まぐるしく更新されている。その画面を真剣な表情で睨みつけているのは、タブレットを片手にした灰原と、キーボードを叩く阿笠博士だった。
「……よし、圭人君。すべての測定機器の同期が完了したぞい。いつでもいける。まずは構築したプロトコルの第一項、呼吸と脈拍の同期からじゃな」
博士が画面から目を離さずに声をかけると、数メートル先、屋上の中心に立つ星野圭人が静かに頷いた。その右手には、いつものようにスパークレンスが握られている。
「うん、分かった。……始めるよ、博士、志保さん」
圭人はゆっくりと深呼吸を繰り返し、意識を内面へと集中させていく。
先日のゴルザとの死闘を経て、圭人は自らの中にある光の可能性を強く実感していた。だが同時に、いつ暴れ出すか分からない『闇の力』を完全にコントロール下に置かなければ、真の平和は訪れないことも理解していた。そのために、博士と灰原が英知を結集して作り上げたのが、この『制御プロトコル』である。
「最初の手順は、変身時における初期出力の制限よ」
灰原がタブレットの画面を指先で滑らせながら、冷徹に、だが確実な指示を出す。
「今までは変身の瞬間、爆発的にエネルギーが解放されていたわ。それが体への負担になり、闇の隙を生む原因になっていたの。スパークレンスを開く瞬間、意識してエネルギーの奔流を『三分の一』に抑え込んで。できる?」
「やってみる。……ハッ!」
圭人が右手を胸の前に突き出し、スパークレンスを掲げた。
カッと翼が開くような音と共に光が溢れ出すが、その輝きはいつもより微かに穏やかだった。光の渦が圭人の身体を包み込み、次の瞬間、屋上の中心には赤、紫、銀の流線形を宿したティガの姿が現れた。
ピピッ、と博士のノートパソコンが鋭い電子音を鳴らす。
「成功じゃ! 変身の瞬間に発生する脳波の乱れが、通常の四割近く抑え込まれておるぞい! 圭人君、体調はどうじゃ?」
ティガの姿のまま、圭人の声が屋上に響く。
《……うん、大丈夫。いつもなら変身した直後、少し身体に衝撃があるんだけど、今はそれがすごく軽いよ。志保さんの言う通り、無駄なエネルギーが暴れてなかったんだね》
「感心している暇はないわよ、星野君。プロトコルはまだ始まったばかりなんだから」
灰原は表情を変えずにタブレットのデータをチェックし、次の指示を飛ばす。
「次は力の出力調整と、変身時間の延長テスト。これまでは数分間の全力疾走が限界だったけれど、出力を細かく制御できれば、その時間を飛躍的に伸ばせるはずよ。まずは現在の出力を全体の『十分の一』まで落としてみて。日常生活の動きを意識するのよ」
《了解》
ティガは静かに頷くと、その場でゆっくりと歩き始めた。人知を超えた力を宿しながらも、ガラス細工を扱うかのように、慎重に、かつスムーズに自身の身体を動かしていく。屋上の床を踏み抜くこともなく、ただの人間と変わらない自然な歩行。
「素晴らしい……! 出力の微調整が完全に機能しておる。これなら無駄なエネルギーの消費を抑えれるわい」
博士が興奮気味にキーボードを叩き、データを蓄積していく。
ティガはさらに、その状態から拳を軽く突き出したり、上体を逸らしたりして、スムーズな動作の確認を続けた。出力の上げ下げが、圭人の意志一つで完全にコントロールされている。
「最後は変身解除のスムーズ化。これが一番重要なの」
灰原の声が一段と真剣味を帯びた。
「変身を解く瞬間、光の残滓が急激に収束することで、貴方の精神に強いリバウンドが発生する。それが闇の力を刺激するトリガーになっていたわ。光の粒子を爆発させるのではなく、大気中に溶かすように、ゆっくりと自身の肉体へ還していって」
《分かった。……ゆっくり、溶かすように……》
ティガは両腕を胸の前で静かに交差させる。
次の瞬間、彼の身体から柔らかな光の粒子が溢れ出し、まるで霧が晴れるように、ゆっくりと時間をかけて消えていった。
光が完全に収まると、そこには息一つ乱していない圭人が、元の姿のまま立っていた。
「……できた」
圭人は自分の両手を見つめ、驚きと喜びが混ざり合った表情で呟いた。いつもなら変身解除の直後に襲ってくる、あの不気味な悪寒や疲労感が、今回は驚くほどに少ない。
「大成功じゃ! 圭人君、第一段階のプロトコルは完璧にクリアしたと言っていいのう!」
博士が椅子から立ち上がり、嬉しそうに拍手を送る。灰原もタブレットを胸に抱え、口元に微かな、だが確かな満足の笑みを浮かべていた。
「ええ。ひとまずは及第点ね。日常生活の中でこれを少しずつ実践していけば、闇の力を完全に御する日も、そう遠くはないかもしれないわ」
「ありがとう、博士、志保さん。……俺、もっと頑張るよ」
圭人は二人の天才に深く感謝しながら、再び青空を見上げた。自らの内なる闇を克服し、真の光を掴むための戦いは、今まさに着実な一歩を踏み出したのだった。
◆
その一年前、世間を空前の大ヒットで沸かせたテレビドラマ『冬の紅葉』。
昭和初期を舞台に、ある資産家の令嬢と若き将校が織りなす身分違いのロマンスは、多くの視聴者の涙を誘った。その中でも特にファンの間で伝説として語り継がれているのが、「初空の紅葉の下の赤いハンカチ」と呼ばれる名シーンだ。
あらゆる苦難を乗り越え、愛する将校を必死に探し回った令嬢が、一面の白い雪景色の中、枯れた木の枝に結わえ付けられた一枚の「赤いハンカチ」を発見する。そこでの劇的な再会と駆け落ちは、多くの女性たちの心を掴んで離さなかった。
このロケ地となったのが、群馬県の静かな山間地帯である。
元々は地元の人間しか知らないような寂れた森だったが、実はこの場所を脚本家に紹介したのは、ドラマのADを務めていたホヅミという男だった。ホヅミがロケハンの最中、たまたまこの山の紅葉の木に結わえ付けられていた赤いハンカチを見つけ、そこからインスピレーションを得たことであの名シーンが誕生したという経緯があった。
ドラマの大成功以降、普段は紅葉の時期しか観光客が訪れないその町は、聖地巡礼に訪れる熱狂的なファンで連日大賑わいとなった。しかしその反面、仕掛け人とも言えるホヅミ自身は、テレビ局や町役場に殺到する膨大な問い合わせの対応に追われ、すっかり疲れ果ててしまう事態にもなっていた。
一方、そのドラマに人一倍大興奮していたのが園子である。
作中の熱いロマンスにすっかり影響された園子は、画面の中の二人を、自分と京極の姿に完璧に重ね合わせていた。
「真さんと、あのロマンチックなシチュエーションを再現するのよ!」
そう意気込んだ園子は、京極との運命的な再会を願い、ドラマのロケ地である群馬の山へ赤いハンカチを括り付けに行くことを決意。すでに京極に向けて、「今年のイヴイヴ、冬の紅葉の下で待ってます」というメールを送りつけていた。
そして迎えた当日の午前。
園子に半ば強引に誘われる形で、圭人、コナン、蘭の三人は、紅葉狩りという名目で群馬の山へとやってきていた。
「もう、園子ったら。京極さんを驚かせたいからって、私や圭人、コナン君まで付き合わせるんだから……」
「まぁまぁ、蘭。園子の恋のバックアップも、俺たちの重要任務ってことでしょ?」
蘭が呆れたようにため息をつくのを、圭人が柔らかい苦笑いを浮かべながら宥める。その横で、コナンは両手をポケットに突っ込んだまま、冷ややかな視線を周囲に巡らせていた。
(ドラマの真似事をして京極さんを呼び出すのはいいけどよ……これじゃあ雰囲気もへったくれもねーな)
コナンの呆れ顔には無理もない理由があった。
山道を進んだ先にある、ドラマの撮影スポットに到着した瞬間、四人の目に飛び込んできたのは異様な光景だった。「初空の紅葉」のシーンを再現しようと考えたのは園子だけではなかったらしく、全国から集まったドラマファンたちが、すでに大量の赤いハンカチを山の木々に結びつけていたのだ。
見渡す限り、枝という枝に赤い布がこれでもかと括り付けられており、静かなはずの山林は、まるで赤一色の奇怪な飾り付けをされたかのように埋め尽くされている。
「な、なによこれーーーっ!?」
絶叫したのは園子だった。
「これじゃあ、私が結んだハンカチがどれだか真さんに分かってもらえないじゃない! どこを見ても赤、赤、赤! 私の純愛が埋もれちゃうわ!」
憤慨する園子は、自分の願いをなんとしても実現させるため、すぐさま強硬手段に出た。周囲の木々に近づくと、他人が結びつけた赤いハンカチを片っ端から力任せに解き、むしり取り始めたのだ。
「ちょっと、園子!? 何やってるのよ、止めなさいってば!」
「うるさーい! 私は真さんと運命の再会をしなきゃいけないの! 他のハンカチなんて全部お掃除よ、お掃除!」
蘭が慌てて園子の腕を掴んで止めようとするが、園子は聞く耳を持たず、必死の形相でハンカチを取り除き続ける。圭人も「園子、それはさすがにまずいって……」と止めに入ろうとした、その時だった。
「――おいおい。そんな乱暴な真似をしちゃ、せっかくの願い事も台無しになっちまうぜ?」
背後から、低く落ち着いた声が響いた。
振り返ると、そこにはニット帽を深く被り、防寒着に身を包んだ一人の男が立っていた。男は園子が持っている大量の赤いハンカチを見つめながら、静かな歩調で四人に近づいてくる。
声をかけてきたニット帽の男は、困ったような笑みを浮かべながら園子たちの前に歩み出た。
「ごめんごめん、驚かせるつもりはなかったんだ。ただ、熱心にハンカチを外しているお嬢さんがいたから、ついね。……僕はホヅミ。この周辺の出身でね、テレビ局でADをやっているんだよ」
ホヅミと名乗った男の言葉に、園子はむしり取ろうとしていた赤い布を握りしめたまま、目を丸くした。
「テレビ局のAD? ってことは、あの『冬の紅葉』のスタッフさん!?」
「ええ、まぁね。実はあのドラマの脚本家に、ロケ地としてこの森を紹介したのは僕なんだ。ロケハンの最中に、ここの紅葉の木に結わえ付けられていた一枚の赤いハンカチをたまたま見つけてさ……。それを脚本家に話したら、いたく気に入られてね。あの、白い雪景色の中に枯れた木の枝に結わえ付けられた赤いハンカチを発見するっていうラストシーンに変更されて、結果的にあの大ヒットドラマが誕生したってわけなんだよ」
ホヅミは少し誇らしげに、しかしすぐに小さくため息をついた。
「おかげでドラマが大成功して、この町は連日大賑わい。それは地元としても嬉しいんだけどさ、僕の方はテレビ局や町役場に殺到するファンからの問い合わせ対応に追われちゃって、もう大変でね。今日も、『冬の紅葉』の元になったハンカチが最初についていた木がすぐに知りたいっていう熱心なファンがいてさ。その人のために、朝からこうして山の中を歩き回って、お目当ての木を探していたんだよ」
「へぇ、そうだったんですか。でも、これだけたくさんの赤いハンカチがあると、どれが最初の木なのか見つけるのも一苦労ですね」
圭人が周囲の赤一色に染まった木々を見渡しながら言うと、ホヅミは上着の左ポケットから一冊のノートを取り出しながら、少し声を潜めて園子たちに言伝を持ちかけてきた。
「そこでなんだけど、君たちにお願いがあるんだ。駅前に『赤樹旅館』っていうのがあるんだけど、そこのロビーに置いてある伝言ノートに、僕からのメッセージを書き込んでもらえないかな? 『お探しの木は見つかりました。ドラマのラストで使った岩のある場所に来てください』って。そのファンが、そのノートをチェックすることになっているからさ」
「え? 自分で書かないんですか?」
蘭が不思議そうに首を傾げると、ホヅミは苦笑いを浮かべながら、手にしたノートの表紙を指さした。そこにはカタカナで大きく『ホヅミ』と書かれていた。
「いやぁ、僕の名前はカタカナで『ホヅミ』って書いてもらわないと伝わらなくてね。本当は『八月一日』って書いてホヅミって読む難読姓なんだけど、漢字で書くとまず読んでもらえないから、いつもカタカナで表記しているんだ。君たちに書いてもらった方が、そのファンもすぐに僕からの伝言だって気づいてくれると思うからさ。頼めるかい?」
ホヅミはそう言って、園子たちに親しげな視線を向けた。