ヒーローと名探偵 作:タルマヨ
米花町の外れ、交通量の多い幹線道路に近い一角で、突如として大気が激しく歪んだ。アスファルトの地割れから噴き出したのは、視界を白く染める不気味な煙――いや、触れるものすべてを侵食する強酸性の霧だった。
霧の向こうから、ぬうっとそのおぞましい姿を現したのは、体長2m30cmに及ぶ異形の影。超古代の怪物リトマルスが、ついに本格出現を果たしたのだ。
リトマルスは醜悪な頭部を激しく振り回しながら、周囲に充満する自動車の排気ガスを、飢えた獣のように凄まじい勢いで吸い込み始めた。汚染物質をエネルギー源とするその肉体は、排気ガスを吸収するたびに脈動し、不気味な生命力を漲らせていく。
「シューッ! ギシャァァァ!」
リトマルスが甲高い鳴き声を上げながら一歩を進めるたび、その足元から強酸性の分泌液が滴り落ちた。ガードレールが激しい融解音を立ててドロドロに溶け、近くに停車していた乗用車のボンネットが、見る影もなく白煙を上げて崩れていく。
この未曾有の事態に、いち早く動いたのは警察庁の特設作戦室だった。
モニターに映し出されるリトマルスの動向を鋭い目で見つめながら、MDRを率いる一条は、即座にインカムへと毅然とした声を飛ばす。
「リトマルスが地上に出現! これ以上の汚染物質吸収を阻止し、即座に無力化するわ。各班、怪物への対抗準備を急いで! 特殊拘束装備および、エネルギー干渉弾の装填を最優先で進めなさい!」
「了解!」
作戦室内にオペレーターたちの緊迫した怒号が飛び交う中、前線となる現場周辺は一瞬にして修羅場と化していた。
ウーウーとサイレンをけたたましく鳴らしながら、何台もの消防車が現場に殺到する。防護服に身を包んだ消防隊員たちが次々と車両から飛び出し、拡声器を手に声を張り上げた。
「現在、米花町七丁目付近に危険な生物が出現しています! 周辺住民の皆さんは、消防隊員の誘導に従って、直ちに北側の避難所へ退避してください! 繰り返します、決して現場に近づかないでください!」
強酸性の霧が風に乗って広がる中、泣き叫ぶ子供の手を引く親や、着の身着のままで走り出す住民たちで道路はパニック状態に陥っていく。
しかし、その混乱をさらに煽るように、現場の規制線際へと次々に滑り込んできたのは、テレビ局の中継車や新聞社のカメラマンたちだった。凄まじい大事件の匂いを嗅ぎつけたマスコミやワイドショーの取材クルーが、我先にとカメラを回し、マイクを握りしめる。
「ご覧ください! 現在、米花町の住宅街の外れに、信じられない姿をした怪物が姿を現しています! 周囲の車や建物が、怪物の吐き出す霧によって次々と溶かされており、現場は完全にパニック状態です! 消防による必死の避難誘導が行われていますが――」
逃げ惑う住民たちの怒号、消防車のサイレン、そしてマスコミの狂乱した実況が入り乱れ、米花町はかつてない恐怖の渦に巻き込まれようとしていた。
避難勧告のサイレンとマスコミの騒音が遠くから響く中、阿笠博士が運転する黄色いビートルが、米花町の外れへとひた走っていた。
助手席には、すでに覚悟を決めた表情で前を見据える圭人。そして後部座席には、並んで緊迫した空気を纏うコナンと灰原の姿があった。
リトマルスが吐き出す強酸性の霧がかすかに漂い始める中、阿笠博士は巧みにハンドルを切り、現場で展開するMDRの作戦車両や、住民を避難させている消防隊員の目から完全に遮られたビルの陰へと滑り込むようにビートルを止めた。
エンジンが静かに切れると、車内に一瞬の沈黙が訪れる。
圭人はジャケットの内ポケットから、阿笠博士の手によって改造されたスパークレンス・ハイパーをそっと取り出し、その感触を確かめるように握りしめた。そして、隣の阿笠博士、そして後部座席の二人へと振り返る。
「よし、じゃあ行ってくるね」
いつも通りの、柔らかく砕けた口調。しかし、その瞳には街を護るための強い意志が宿っていた。
圭人がドアを開けてシートから降り立つのを見送りながら、車内の3人がそれぞれ言葉を返す。
「無理はするなよ、圭人君! ワシらはここでモニターから見守っておるからの!」
阿笠博士が運転席から身を乗り出し、心配そうに、しかし信頼を込めて声をかけた。
後部座席からは、コナンが鋭く、かつ力強い眼差しを向けて不敵に微笑む。
「ああ、頼んだぜ、圭人。無理だけはすんなよ」
その隣で、灰原もまた静かに腕を組みながら、冷徹な中にも確かな気遣いを滲ませた声をかけた。
「状況が悪くなったらすぐに引き返しなさい、星野君。貴方の身体は、貴方一人のものじゃないんだから」
「志保さん…うん、分かってる。皆、ありがとう」
圭人は短く答えて微笑むと、車のドアを静かに閉めた。
ビルの壁に背を預け、周囲に人目が一切ないことを鋭い観察眼で確認する。遠くからはリトマルスの不気味な鳴き声と、侵食されていく建物の不穏な崩壊音が響いてくる。これ以上の被害を出すわけにはいかない。
圭人は前を向くと、手にしたスパークレンス・ハイパーを胸の前で力強く握りしめた。
一切の声を出さず、ただ静かに、そのトリガーへと指をかける。
カチリ、と微かな音が響いた瞬間、スパークレンスのウィングが左右へと激しく展開し、眩い純白の光が爆発的に溢れ出した。その圧倒的な光は瞬く間に圭人の全身を包み込み、物質を侵食する強酸性の霧をいっぺんに吹き飛ばしながら、空へと激しく昇り詰めていった。
光の渦が収束すると同時に、ティガがリトマルスの前にその雄姿を現した。
戦いの火蓋は切って落とされた。
ティガは敢然とリトマルスへと突き進む。しかし、迎え撃つリトマルスの放つ攻撃は苛烈を極めた。頭部が下部に位置するという、おぞましくも独特な体躯から、肉厚で鞭のようにしなる長い触手が引き絞るように鋭くうねる。
「ギシャァァァッ!」
空気を切り裂く音と共に、容赦なく連続で打ち下ろされる触手の打撃がティガの身体を捉えた。凄まじい衝撃波と共に、ティガの胸元や肩口から激しく火花が飛び散る。その圧倒的な重量感に、ティガの巨体は大きくのけぞった。
《くっ……! なんて威力だ……! 動きも見た目以上に速い……っ!》
ティガは腕を交差させて打撃を防御し、すぐさま反撃に移ろうとするが、リトマルスは追撃の手を一切緩めない。今度は体上部に位置する、大岩を削り出したかのような頑丈な「岩石角」を前方へと突き出し、大地の地響きを鳴らしながら強烈な突進を敢行してきた。
「シューッ!」
正面から迫る質量兵器のような突進に対し、ティガは両手を突き出してその突進を必死に受け止める。ズズズ、と足元のアスファルトが捲れ上がり、押し込まれるように押し問答が続く。しかし、このリトマルスの真の脅威は、こうした力任せの肉弾戦だけではなかった。
「ギボォォォッ!」
リトマルスが不気味な咆哮を上げると同時に、その全身に無数に開いた奇怪な穴から、ゴボゴボと泡立つような音を立てて不気味な白煙が一斉に吹き出した。周囲のコンクリートを一瞬でドロドロの泥状に溶かし、街路樹の青々とした木々を触れた瞬間に立ち枯れさせていく、あの「強酸性の霧」である。
風を巻き込みながら、視界を完全に覆い尽くすほどの密度で広がった酸の霧が、逃げ場のない近距離でティガを容赦なく包み込んだ。
《うあぁぁぁっ! ぐ、あぁ……っ! 身体が……溶かされるような、激痛が……っ!》
強靭な皮膚さえも容赦なく侵食していく酸の霧の猛威に、ティガの脳裏に焼け付くような苦痛が走る。全身から白い煙を上げ、視界を奪われたその一瞬の隙を見逃すリトマルスではない。霧のダメージで動きが鈍ったティガの背後から、先ほどの長い触手が再びしなり、死角を正確に打ち抜いた。
ドガァァン! と激しい炸裂音が響き、背中に強烈な一撃を浴びたティガは、前方へと激しくもつれ込む。
絶え間ない酸の腐食によるダメージと、全方位から執拗に襲いかかる触手の重い連撃。二重の絶望的な猛攻を前に、ティガは次第に防戦一方へと追い込まれていった。頭を振り乱すリトマルスの猛圧に気力を振り絞って立ち向かおうとするものの、全身を襲う激痛に耐えかね、ついに支えきれなくなった膝が折れ、大地に深く突き崩された。
激しく肩を上下させ、苦しい呼吸を繰り返すティガ。その時、胸の中心でそれまで青く静かに輝いていたカラータイマーが、非情にも限界を告げる不穏な赤色の光へと変わった。
ピコーン、ピコーン、ピコーン……
緊迫した電子音が、激しい戦闘の騒音の中に鳴り響き始める。強酸の霧が未だに周囲に立ち込める中、立ち上がることすらままならず、大地に伏せるティガ。迫り来るリトマルスを前に、まさに絶体絶命の危機に瀕していた。
テレビ画面の向こうでは、複数の報道ヘリが上空を旋回し、生中継のワイドショーがこの空前の死闘を狂乱気味に報じ続けていた。映像に映し出されるのは、強酸の霧に巻かれて膝をつき、胸のタイマーを赤く明滅させるティガの痛々しい姿。日本中が息を呑み、絶望の二文字が人々の脳裏をよぎったその時だった。
凄まじいエンジン音を響かせ、現場に滑り込んできたのはMDRの大型特殊車両を中核とした第二部隊。作戦室から前線へと急行した指揮官の一条が、車から降り立つと同時に決然とした鋭い号令をかける。
「これよりティガの援護を開始するわ! 戦闘支援体制を構築、急いで!」
一条の的確な指示のもと、特殊車両のルーフに設置された大型射出砲が、一斉にリトマルスへと照準を合わせた。
「MDR特製、強アルカリ性『スペシャル中和剤』、てーっ!」
一条の叫びと同時に放たれた数発の特殊弾頭が、リトマルスの頭上で激しく炸裂した。空間に白く霧散した中和剤は、戦場を支配していた強酸性の霧と瞬時に化学反応を起こし、パチパチと音を立てながらその毒性を根こそぎ無効化、相殺していく。みるみるうちに視界がクリアになり、周囲の空気が清浄されていった。
《霧が消えていく……! MDRがやってくれたのか……っ!》
酸の呪縛から完全に解き放たれ、立ち上がる気力を取り戻したティガ。今度は反撃の番だった。ティガは胸の前で両腕を交差させ、一気に振り下ろす。その瞬間、赤と紫の身体が、まばゆい光とともに鮮やかな紫と銀の俊敏な形態、スカイタイプへとチェンジした。
ここから、攻守は完全に逆転する。
自慢の強酸の霧を失い、あからさまに怯むリトマルスに対し、スカイタイプが誇る超スピードの猛攻が冴え渡った。リトマルスは焦燥にかられたように長い触手を激しく振り回すが、ティガはその苛烈な一撃を一歩も退かずに見極め、紙一重の鮮やかな身のこなしで次々と回避していく。
「ギシャァァ!?」
捉えきれない速度に翻弄されるリトマルスを置き去りにし、ティガは爆音を立てて大空へと高く跳躍した。
米花町の上空、遥か高みから、眼下のリトマルスへ向けて正確に狙いを定める。ティガは風を切りながら下降を開始すると同時に、大気中のエネルギーを吸収するように両腕を大きく左右に広げた。
そして、まるで「光の弓矢」を力強く引き絞るかのように、左腕を前方へ真っ直ぐに突き出し、右腕を胸の横へと深く引いた構えを取る。
《これで終わりだ……!》
極限まで溜められたエネルギーを乗せ、引いた右腕を前方へと勢いよく押し出す。放たれたのは、超高熱の矢の如き光線――必殺の「ランバルト光弾」である。
極大のまばゆい光の矢は、逃れる術のない速度で空中を切り裂き、リトマルスの胴体を正確に貫いた。
一瞬の静寂の後、強酸の恐怖で米花町を容赦なく脅かした超古代の生物は、光の濁流に呑まれるようにして凄まじい大爆発を起こした。肉片一つ残さず、大爆発とともに昇天したその身体は、光の粒子となって米花町の青空へと完全に消え去っていった。
轟音が収まり、静かに大地へと着地したティガ。彼はゆっくりと後ろを振り返ると、固唾を呑んで戦いを見守っていたMDRの隊員たち、そして避難誘導を続けていた消防隊員たちに向けて、力強く右手でサムズアップをしてみせた。
そして、無言のまま静かに一度だけ頷く。その直後、ティガの全身がまばゆい光の粒子へとほどけるように変わり、粒子は風に溶けるようにしてその場から完全に消え去った。
現場に残された一条は、思わずといった様子で苦笑いを浮かべ、驚きを隠せない。
「……サムズアップなんて、生意気なことしてくれるじゃないの」
しかし、その表情には確かな安堵と、戦い抜いた存在への敬意が滲んでいた。
一方、その様子を捉えていたメディアの狂乱は最高潮に達していた。カメラマンたちは消え去った光の軌跡を追い、アナウンサーは興奮冷めやらぬ声で、大々的にサムズアップを決めたその姿をテレビ画面に映し出し、奇跡の勝利を報じ立てる。
やがて、マスコミの騒がしい声が遠ざかる中、現場ではMDRと消防による手際の良い戦後処理と片付けが始められた。溶けたガードレールや荒らされた地面は残ったものの、最悪の危機は去ったのだ。
騒乱の渦中にあった街に、穏やかな日の光が戻ってくる。
こうして、激動の米花町には、再びいつもの静寂がゆっくりと訪れるのだった。
光の粒子となって戦場を後にしたティガは、静かに元の姿へと戻り、ビル陰に潜む黄色いビートルの元へと帰還した。
車のドアを開け、圭人が助手席に滑り込む。車内では、コナンと灰原がタブレットを囲み、ニュースの生中継で事の一部始終をすべて見届けていたところだった。
「おお、圭人君! 無事で何よりじゃ、本当に苦しい戦いじゃったな、お疲れ様!」
運転席の博士が、心底ホッとしたように顔を綻ばせ、真っ先に圭人を労った。圭人はシートに深く背を預けながら、軽く息を吐いて微笑む。
「うん、ありがとう博士。なんとか勝てて良かったよ」
その後部座席から、タブレットを操作して画面を消した灰原が、冷徹さの裏に心配を滲ませた眼差しを圭人に向けた。
「今日も随分と危なかったわね。……ところで星野君、一つ聞いていいかしら? どうして今回は、例の闇と光が融合した力を使わなかったの? あれならもっと楽に戦えたんじゃないかしら」
灰原の疑問に、圭人は苦笑いを浮かべながら後方へと振り返る。
「ああ、あれね……。あれは30秒しか使えないからね……。ちょっとまだ使い慣れてないし、あの強酸の霧の中で戦いながら時間を気にするだけの余裕が、今回は本当になかったんだよ」
「なるほどな……。時間制限のリスクを考えて、確実な形態を選んだってわけか」
コナンが腕を組み、納得したように顎を引いた。そして、少し表情を険しくしながら、先ほどスマートフォンに届いていた情報を口にする。
「そういえばさっき高木刑事から連絡があって聞いたんだけどよ……。あのリトマルスって奴、何年も何年も地下深くで、東京の排気ガスを吸い続けて育ってたらしいぜ」
「え……? 何年も前から?」
圭人は意外そうな声を上げ、怪訝そうに眉をひそめた。
「何で令和の今になって、そんな何年も前の排気ガスで育った奴が本格的に出てくるんだろう……」
圭人の素朴な疑問に、運転席の博士が重々しく、どこか寂しげに首を振って応じる。
「公害と言うのはな、どれだけ年月が経っても、その悪影響が後になってから取り返しのつかない形で出ることもある、ということじゃな。過去の負の遺産が、今になって牙を剥いたというわけじゃよ」
博士の言葉を受け、車内に静かな沈黙が広がった。圭人は車の窓の外、リトマルスが消え去った米花町の空を静かに見つめ、ぽつりと呟く。
「……過去の人間が汚した地球に、ずっと俺達は住んでるんだな……」
その言葉は、科学の進歩の裏にある歪みと、それを受け入れて生きていかなければならない現代の重みを静かに物語っていた。ビートルは夕暮れが迫る米花町の街へと、ゆっくりと走り出した。
翌日。
日本中のテレビや新聞、そしてインターネットのニュースは、一斉に同じ話題で目白押しになっていた。
各紙の1面やワイドショーの画面を派手に飾っているのは、青空をバックに、右手で力強くカメラに向かってポーズを決める、紫と銀の俊敏な形態――スカイタイプのティガの姿。窮地を救い、最後にあの場にいた全員に向けて送られた、あまりにも鮮やかで印象的なサムズアップの瞬間だった。
メディアはあの劇的な逆転劇と、去り際のあまりにも人間味溢れる仕草を興奮気味に何度も繰り返し報じている。
昨日までの強酸の恐怖が嘘のように、テレビの中のティガは希望の象徴として輝いていた。
そんな大騒ぎの喧騒をどこか遠くに置き去りにしながら、米花町には、いつもと変わらない穏やかで平穏な静寂が、今日もしっかりと訪れていた。