ヒーローと名探偵   作:タルマヨ

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右から左へ招き猫


 朝の10時を少し過ぎた頃、米花町の公園は柔らかな木漏れ日に包まれていた。

日課のジョギングに出ていた圭人は、軽く汗を流しながら歩道を走っていたが、ふと見覚えのある小さな後ろ姿が目に留まり、足を緩めた。

公園の片隅で、一歩も動かずにじっと大きな木を見上げているのは灰原だった。

周りには誰もいない。圭人は歩み寄ると、柔らかい口調で声をかけた。

「あれ、志保さん? そんなところで何してるの?」

圭人が声をかけると、灰原は驚く風でもなく、いつものクールな視線を木の上から圭人へと移した。片手にはコンビニのエコバッグが握られている。

「星野君……。コンビニからの帰りなんだけど、その前に少し困った迷子を見つけちゃったのよ」

灰原が再び視線を戻した先、高い木の枝の隙間から、小さく弱々しい「ミャー、ミャー」という鳴き声が響いていた。よく見ると、まだ生後数ヶ月ほどとおぼしき小さな子猫が、高すぎる枝の上ですっかり怯え、身動きが取れなくなっている。

「なるほどね、降りられなくなっちゃったんだ。よし、ちょっと待ってて」

圭人は微笑むと、軽く足元を確かめ、躊躇うことなく太い幹に手をかけた。抜群の身体能力を誇る圭人にとって、この程度の木登りは造作もないことだった。軽やかな身こなしてスイスイと枝を伝って登っていき、あっという間に怯える子猫のいる高さまで到達する。

「怖くないよ、もう大丈夫だからね」

優しく声をかけながら、圭人はそっと手を伸ばして子猫の小さな身体を片腕で優しく抱きすくめた。そのまま流れるような動きで地面へと飛び降り、無事に着地してみせる。

「はい、お待たせ。怪我はないかな?」

「ありがとう、助かったわ」

灰原が差し出された子猫を丁寧に受け取り、その小さな身体を観察する。すると、茶色い毛並みの右の前足付近に、かすかに赤くにじむ血を見つけた。

「……あら、少し血が出ているわね。木に登るときに引っ掻いたのかしら。ちょっと待ってなさい」

灰原は手際よくエコバッグから先ほどコンビニで買ったばかりの救急セットを取り出すと、慣れた手つきで子猫の右前足の手当てを始めた。子猫は灰原の優しい手つきに安心したのか、大人しく身を委ねている。

「よし、これで大丈夫。さて……そうなると、この子の飼い主を探さないといけないわね。首輪はついていないようだし……」

手当てを終えた灰原が子猫を抱き上げながら呟いた、その時だった。

「チャチャ! 探したよ、チャチャ~!」

公園の入り口の方から、大声を上げながら血相を変えて走ってくる男が現れた。エプロン姿のその男は、この近くで喫茶「ChaCha」を営む店主の白石保だった。

白石は灰原の腕の中にいる子猫を見るなり、目を輝かせて駆け寄ってくる。

「ああっ! その子はうちのチャチャです! 間違いない、ああ良かった……!」

「貴方の飼い猫だったのね。はい、どうぞ」

灰原が静かに差し出すと、白石は涙ぐみながら子猫――チャチャを愛おしそうに抱きしめた。更新されたチャチャの右前足に気づき、深く頭を下げる。

「手当てまでしていただいて、本当にありがとうございます! この子、数日前から行方不明になってしまって、私、生きた心地がしなくてずっと探していたんです……!」

心から喜ぶ白石の様子に、圭人もホッとしたように表情を緩めた。

「見つかって本当に良かったですね。おじさん、ずっと心配してたんだね」

「はい! 本当に、何とお礼を言っていいか……! そうだ、もしよろしければ、すぐそこにある私の店に寄っていきませんか? 大したおもてなしはできませんが、お礼にジュースでもごちそうさせてください!」

白石はチャチャを片腕で大事そうに抱えながら、嬉しそうに圭人と灰原を誘った。

「いいよね。お言葉に甘えちゃおうか」

「ええ、そうね。少し喉も渇いていたところだし、いただくわ」

二人は白石の案内に従い、公園のすぐ近くにある、どこかアットホームな雰囲気を漂わせる喫茶「ChaCha」の店内へと足を踏み入れた。カランカランと心地よいドアベルの音が響く中、白石は二人を明るいテーブル席へと案内し、すぐに冷たいジュースを用意するためにカウンターの奥へと向かっていった。

「一人、賑やかなお客さんがいるけど、ま、どうぞ!」

店主の白石に促され、圭人と、手当てを終えた子猫を大切そうに両腕で抱えている灰原が喫茶「ChaCha」の奥へと進むと、そこにはお馴染みの騒がしい光景が広がっていた。

「いけいけいけぇ! そのまま差せ! そこだ、粘れぇぇぇ!」

小五郎が競馬新聞を片手に、椅子の上に立ち上がって小型ラジオの競馬中継に向かって大騒ぎしている。完全に自分の世界に入り込み、周囲の目などこれっぽっちも気にしていない様子だ。

そして、その小五郎と同じテーブルの向かいの席には、心底呆れ果てた顔でストローをくわえ、ジュースを飲んでいたコナンの姿があった。

椅子の上で狂喜乱舞する小五郎の姿に、圭人と灰原は思わず足を止め、揃って呆れたようなため息をつく。

「……本当、どこに行ってもあの調子ね」

「あはは……。おじさん、今日も相変わらず元気だね」

二人の気配に気づいたコナンが、椅子から飛び降りてトコトコと歩み寄ってきた。

「圭人に灰原…、どうしたんだよこんな所で?」

「ちょっとね。そこで木から降りられなくなってた子猫を助けたら、ここのマスターの飼い猫だったんだよ。そのお礼にって、ジュースをごちそうしてもらいにね」

圭人が事情を説明すると、コナンは納得したように頷きながら、灰原の腕の中にいる子猫に目を留めて反応した。

「へえー……。ん? その子猫、右前足に包帯巻いてんじゃねーか。怪我してたのか?」

「ええ、木に登るときに少し引っ掻いたみたい。大した傷じゃなかったから、私が手当てをしておいたわ」

灰原が腕の中のチャチャを優しく撫でながら答えると、コナンは納得したように息を吐き、すぐ向かいの席の小五郎を親指で指さした。

「なるほどな。……ま、俺はあの調子のおっちゃんに捕まったってわけだよ」

コナンがうんざりしたように肩をすくめた、まさにその直後だった。

カランカランカラン! と、喫茶店のドアベルが激しく打ち鳴らされた。

「白石さん! 白石さん、大変です、来てください!」

血相を変えて店内に飛び込んできたのは、向かいのビルから走ってきた今岡文枝だった。彼女の尋常ではない怯え方に、白石だけでなく、圭人、コナン、灰原の表情が一瞬で引き締まる。

「今岡さん、どうしたんですか一体!?」

「あ、あの……オフィス・カネマルの事務室で、社長が……!」

その言葉が終わるのも待たず、白石、コナン、圭人、灰原の4人は即座に店を飛び出し、今岡に連れられて向かいのビルへと急行した。

 

オフィスの事務室へなだれ込み、全員が息を呑む。

部屋の奥にある大きな金庫の前で、この金融会社の社長である金丸研三が、頭部からどくどくと血を流して無残に倒れていた。すでにピクリとも動かない。

圭人は真っ先に遺体の周囲の床へと鋭い視線を走らせた。

そこには不気味に輝く結晶も、崩壊した痕跡も一切ない。落ちているのはただの赤い血液だけだった。

(……銀の砂は無い。ゾルブの仕業じゃないな。これは……人間の犯行だ)

圭人は心の中でそう確信し、隣のコナンと静かに視線を交わした。

コナンはすでに鋭い探偵の目になり、遺体の周囲を観察している。金丸の死体のすぐ側には、激しく叩きつけられたような陶器の破片が広範囲に散乱していた。

さらにコナンが部屋の壁際に目を向けると、そこには大小様々な、おびたしい数の招き猫がずらりと並んだ棚があった。しかし、その棚の不自然な一角にだけ、ぽっかりと一体分の空白が出来上がっていた。

 

 

 

まもなく、けたたましいサイレンの音が近づき、オフィスの入るビルの前に数台のパトカーが滑り込んできた。

車から降り立った目暮と千葉たちが慌ただしく階段を駆け上がっていく。その様子をすぐ向かいの喫茶店の窓から目撃し、ただならぬ騒ぎを察知した小五郎も、慌てて現場の事務室へと息を切らせて駆けつけてきた。

「おいおい、一体何事ですか、警部殿!」

突然部屋に飛び込んできた小五郎の姿を見るなり、目暮はあからさまに顔をしかめ、自身の帽子をぐっと直した。

「……また君かね、毛利君。行く先々に必ずと言っていいほど君が現れるのは、一体どういうわけだね?」

毎度のお約束に呆れる目暮だったが、その背後で現場の状況を見守っていた小五郎は、室内に佇む圭人と灰原の姿に気づくと、今度は目を丸くして驚きの声を上げた。

「げっ! 圭人! お前ら、なんでこんなところにいるんだ!」

すかさず圭人が一歩前に出て説明した。

「実はジョギング中に偶然、哀ちゃんと会いまして。木から降りられなくなっていた子猫を助けたら、その飼い主である喫茶店の白石さんにジュースをごちそうになることになりまして……。その店内にいた時に、こちらの今岡さんが血相を変えて白石さんを呼びに来られたので、俺達も一緒に駆けつけたんです」

「なるほど、そういう経緯だったのかね……」

目暮は納得したように頷くと、すぐに千葉らと共に現場の状況整理へと取りかかった。

 

捜査の初期段階で判明した事実は以下の通りだった。

被害者はこの金融会社を一人で経営していた金丸研三、69歳。独身で家族はいない。

死因は硬い物体で頭部を激しく強打されたことによる撲殺。遺体のそばに散乱する陶器の破片と、壁際の棚の不自然な空白から、凶器は棚から消えた一体の招き猫の置物であると判明した。

死亡推定時刻は、午前11時から午後1時の間。

第一発見者は、週に1回この事務所の掃除契約を結んでいた今岡文枝で、この日午後1時30分に作業のためにやってきて遺体を発見していた。

「それにしても、妙な棚だな……。並んでいる招き猫が、どれもこれも右手ばかり挙げているぞ」

首を傾げる小五郎に、千葉が手帳を見ながら補足する。

「ええ。一般的に右手を挙げた招き猫は『金運』を招き、左手は『人』を招くと言われています。金丸社長はかなりの金に欲深い性格だったそうで、自分の好みに合わせて右手招き猫ばかりを集めていたようですね。……ちなみに、金庫は大胆に開け放たれていましたが、中の現金には一切手が付けられていない様子です」

「ふーむ……。金が盗まれていないとなると、怨恨か、あるいはそれ以外の目的か……。ん? おい、この帳簿を見てみろ!」

事務机の上を勝手に調べていた小五郎が、鋭い声を上げた。

「第一発見者の今岡文枝……。この金丸から30万円の借金をしてやがるぞ! 警部殿、こいつは怪しいですな! 返済を迫られて、カッとなって社長を……!」

「ちょ、ちょっと待ってください毛利さん! 私は本当に、掃除をしに来たら社長が倒れていただけで……!」

今岡が必死に首を振って否定する中、隣の社長室のデスクを調べていた千葉が、一冊の手帳を手に持って戻ってきた。

「警部、金丸社長の手帳が見つかりました! 今日の正午、12時30分に『村井千佳』という人物と会う予定が記されています!」

その名前に、横で様子を見ていた白石がハッとしたように声を上げる。

「村井千佳……? あ、あの、それなら私、12時半頃にブランド物の服やバッグで派手に着飾った若い女性が、このビルに入っていくのを見ました! しかもその女性、10分ほど経った頃に、何かから逃げるみたいに慌てた様子でビルから出て行ったんです!」

「何だと!? よし、すぐにその村井千佳の身元を割り出し、緊急手配だ!」

目暮の迅速な指示により、警察はただちに動いた。そして事件発生から間もなく、米花駅の券売機の前で、どこかへ高飛びするための切符を買おうとしていた村井千佳を容疑者として確保することに成功した。

警察署へ連行された村井千佳(22歳)は、取り調べに対し、あっさりと自分の犯行を認めて完全自供を始めた。

「……ええ、私がやりました。ブランド品が欲しくて、あの爺さんから何度も多額の借金を重ねていたんです。今日、12時半に事務所へ行って、返済の猶予を求めたんですけど、鼻で笑われて……。そのうち、爺さんが金庫を開けて何かをごそごそと探し始めたから、目の前の棚にあった重たい右手招き猫を掴んで、背後から思いっきり頭を引っぱたいてやったのよ!」

村井は興奮気味に、その時の様子を語っていく。

「爺さんが血を流して倒れたから、死んじゃったと思って……怖くなって、金庫の中にあった私の借用書だけを引っ掴んで、無我夢中で逃げ出したんです……!」

凶器の選定、死亡推定時刻内のアリバイのなさ、割れた陶器が招き猫であること、そして犯人にしか知り得ない「金庫から借用書を奪った」という秘密の暴露。

動機も状況証拠も完全に一致し、事件はこれで一気にスピード解決したかに見えた。

 

誰もが村井千佳の自供で幕引きだと思っている中、ただ一人、コナンだけは納得がいっていなかった。

周囲が連行の手続きや現場の片付けに追われる喧騒をすり抜け、コナンは開け放たれたままの隣室、社長室へと静かに足を踏み入れた。

鋭い視線を室内へ走らせる。その違和感は、まず足元から始まった。

「……あれ?」

社長室の重厚な絨毯。その毛並みに、不自然なほど整った直線的な筋が残っていた。それは明らかに、ごく最近ここに掃除機がかけられたことを示す跡だった。

コナンは部屋の隅に置かれたコードレス掃除機に目を留め、その本体を手際よく開く。

「やっぱり……空っぽだ」

中にあるはずのごみパックが、丸ごと消え失せていた。

その頃、同じように社長室の違和感に気づき、静かに室内を観察していた圭人は、事務室にいる第一発見者の今岡文枝のもとへと自然に歩み寄っていた。

「あの、今岡さん。今日ここに来た後、社長室に掃除機ってかけましたか?」

「え? いいえ、使っていませんよ。私は午後1時半に来て、すぐに倒れている社長を見つけたんですから、掃除なんてする余裕なんてありませんでしたし……。第一、金丸社長はご自分では絶対に掃除なんてなさらない方でしたから」

「そうですか。ありがとうございます」

柔らかな口調で礼を言い、圭人は社長室へと戻ると、掃除機を調べていたコナンに声をかけた。

「今岡さんは掃除機を使ってないって。金丸社長自身も掃除をしない人だったみたいだね」

「そっか……」

コナンは小さく頷き、さらに思考を巡らせる。第一発見者も被害者も使っていない掃除機。数分前に自供した村井千佳が、そんな隠滅工作をする余裕があったとは到底思えない。犯人がわざわざ現場に掃除機をかけ、ごみをごと持ち去ったのだとすれば、そこには犯人にとって「残したくない決定的な何か」があったはずだ。

コナンはさらに姿勢を低くし、今度は社長室のソファーの下を覗き込んだ。奥の暗がりに、白く小さな破片が転がっているのが見える。

持参したハンカチを手に、奥からその破片をつまみ出した。

「これは……陶器の破片? でも、この形って……」

それは、猫の丸みを帯びた指先のような形状をしていた。だが決定的なのはその向きだった。

ひっくり返して確認したコナンは、息を呑む。

(左手だ……! この破片、左手を挙げた招き猫の指先だぞ!)

事務室の棚に並んでいた金丸のコレクションは、すべて右手を挙げたものばかりだったはず。金に汚い金丸が、人を招くと言われる左手招き猫を置くはずがない。つまりこの破片は、被害者のものではなく、外部からこの部屋に持ち込まれた「別の招き猫」の破片であることを意味していた。

コナンが破片を見つめたまま考え込んでいると、背後のテレビの上から、小さく規則的な音が響いていることに気づいた。

パタ、パタ、パタ……。

それは今では珍しくなった、1分ごとに数字の書かれた板が回転して時刻を告げるフリップ式のパタパタ時計だった。

現在の表示は「14時12分」。

何気なくその時計を見上げたコナンの目が、一瞬で鋭く見開かれた。

時計の側面の透明なプラスチックカバー、その内側にある「59分」と書かれた数字の板の端に、ほんの小さな、しかし鮮明な赤黒い汚れが付着していたのだ。

(血痕……!? なんでこんなところに……)

「工藤君、ここに60分の1の証拠があるわ」

背後から掛けられた静かな声に、コナンはハッとして振り返った。

いつの間にか背後に立っていた灰原が、パタパタ時計をじっと見つめながら、冷徹なトーンでそう告げていた。

「60分の1?……」

コナンは呟き、その言葉の意味を頭の中で急速に組み立てる。

1時間は60分。その中で、このパタパタ時計が「59分」の板を表面に露出させるのは、1時間にたったの1回、わずか1分間だけだ。

もし金丸が襲われた瞬間に返り血が飛び散り、運悪くその瞬間に露出していた板に付着したのだとすれば――。

「そうか……! そういうことか!」

コナンは不敵な笑みを浮かべ、すべての謎が一本の線で繋がったことを確信した。

 

 

すべての謎が解けたコナンは、社長室の物陰からすばやく腕時計型麻酔銃の照準を合わせた。狙うは、事務室の入り口近くでこれで見事スピード解決だとばかりに鼻歌を交じりで煙草をくわえようとしている小五郎だ。

ヒュン、と小さな風切り音と共に放たれた麻酔針が小五郎の首筋に命中する。

「ふにゃあ……」

途端に小五郎はガクガクと膝を揺らし、踊るような奇妙なステップを踏みながら、吸い寄せられるように近くのソファーへと深く腰掛けた。そのままがっくりと頭を落とし、完全に意識を手放す。

「よし……」

コナンはすかさず社長室のデスクの陰に身を潜め、蝶ネクタイ型変声機のダイヤルを小五郎の声に合わせた。

事務室では、自供を終えた村井千佳をパトカーへ連行しようと、目暮や千葉が動き出していた。その背後へ向けて、低く落ち着いた小五郎の声が響き渡る。

 

〈待ってください、警部殿〉

 

突然の制止の声に、目暮は驚いて振り返った。ソファーでうつむいたまま動かない小五郎の姿を見て、あからさまに眉をひそめる。

「おい毛利君……また『犯人は違う』が始まるのかねぇ?」

〈はい、その通りです警部殿……。村井千佳さんが金丸社長を襲ったのは事実ですが、彼女は真犯人ではありません。彼女の罪は殺人ではなく、傷害止まり。金丸社長の息の根を止めた真犯人は、この部屋の中に平然と佇んでいる……あなたですよ、白石保さん〉

「えっ……!? わ、私がですか!?」

名指しされた白石は、顔を真っ白にして飛び上がった。周囲の目暮や千葉、地元の今岡も驚愕の視線を白石へと向ける。

ここで、社長室からゆっくりと出てきた圭人が、小五郎の推理をサポートするように、現場で見つけた状況を警察に提示し始めた。

「目暮警部、実は社長室の絨毯に、つい最近掃除機がかけられた不自然な跡が残っていたんです。でも、第一発見者の今岡さんも、金丸社長自身も掃除機は使っていない。さらに、その掃除機の中からはごみパックが丸ごと消え失せていました。これが何を意味するか分かりますか?」

目暮が首を傾げる中、小五郎の声が鋭く引き継ぐ。

〈犯行後の隠蔽工作ですよ。真の時系列を説明しましょう。すべての始まりは、今日の12時30分頃。村井千佳さんがこの事務所を訪れ、金丸社長が金庫を開けた隙に、棚の右手招き猫で彼の頭部を殴打した。しかし、金丸社長は致命傷を負っておらず、ただ気絶しただけだった。それを死んだと思い込んだ村井さんは、借用書を奪って逃走した……。ここまでは彼女の供述通りです〉

白石は額に汗を浮かべながら「だ、だから、私はその女性が逃げていくのを見ただけで……!」と声を荒らげるが、小五郎の追求は止まらない。

〈いや、あなたはその後、12時59分頃に自ら『左手招き猫』をこの事務所に持ち込んで現れたんだ。あなたもまた、金丸社長に多額の借金があり、営んでいる喫茶店を取り上げられそうになって彼を深く恨んでいた。事務所に入ったあなたは、事務室ではなく隣の社長室で意識を取り戻しかけていた金丸社長を発見し、持参した左手招き猫で二度目の、そして致命的となる一撃を加えた。これこそが本当の死因です!〉

「そ、そんなのデタラメだ! 証拠なんてどこにある!」

叫ぶ白石に対し、圭人が一歩前に出て、ハンカチに包んだ小さな白い破片を差し出した。

「証拠ならありますよ、白石さん。これが社長室のソファーの下に落ちていた、招き猫の『左手指先』の破片です。この事務所の棚にあった金丸社長のコレクションは、金運を招く右手招き猫ばかりだった。つまり、この左手の破片は、あなたが凶器として外部から持ち込んだ別の一体のものだという決定的な証拠です。あなたが大きな破片を拾い集め、細かな破片を掃除機で吸い取ってごみパックごと持ち去った際、ソファーの奥へ飛び散ったこの一片だけを見落としてしまったんですよ」

「うぐっ……!」

絶句する白石に、小五郎の冷徹な声が追い打ちをかける。

〈さらに、あなたが12時59分に犯行に及んだことを示す『60分の1の証拠』が、社長室のパタパタ時計に残されています。テレビの上にあるあの時計の『12時59分』の表示板の端に、被害者の血痕が付着している。1分ごとに板が回転するあの時計において、59分の板が表に露出するのは1時間にたったの1分間だけ。村井千佳さんが襲撃した12時30分には、絶対に血痕が付着するはずがない位置です。これで、村井さんの第一撃の後も社長が生きており、12時59分に再び別の何者かに襲われたという時間的矛盾が完全に証明されました〉

目暮が「おお……!」と声を漏らし、千葉がすぐにパタパタ時計の確認へと向かう。

白石は激しく震えながらも、なおも往生際悪く言い逃れをしようとした。

「ま、待ってください! 百歩譲って別の襲撃者がいたとしても、それがなぜ私だと言い切れるんです!? 私がその時間にここへ来たという証拠なんて……!」

〈フッ……まだ気づきませんか? あなたがご丁寧に、自ら連れてきてしまった小さな目撃者の存在に〉

小五郎の言葉に合わせ、圭人が社長室の窓際を指さした。

〈白石さん、あなたが連れていた子猫のチャチャは、凶器の招き猫が激しく叩き割られた衝撃や、飛び散った血に驚いてパニックを起こした。その際、床の破片で前足を怪傷してしまい、パニックのまま社長室の窓から外へ逃げ出したんです。社長室の窓ガラスや窓枠には、チャチャが残した小さな『血の足跡』がはっきりと残っていますよ。子猫が自分で事務所のドアを開けて中に入ることは不可能です。あなたが子猫を連れて、あの犯行時刻に現場にいた決定的証拠です〉

すべてを完全に言い当てられ、白石はついにその場にへたり込んだ。

「……あの糞爺、私の大切な店を、あんな汚い金のために奪おうとしたんだ……! 許せなかった……!」

白石は床に拳を叩きつけながら、涙を流して己の犯行を自白した。

こうして、村井千佳の罪は殺人ではなく傷害となり、真犯人である白石保がその場で警察に身柄を確保され、事件は真の解決を迎えたのだった。

 

 

 

 

 

 

数日後、阿笠邸。

リビングのテーブルの上には、立派な陶器製の招き猫が鎮座していた。阿笠はそれを自慢げに撫でながら、上機嫌に語っている。

「いやあ、知人から実に素晴らしい招き猫を譲り受けてのぉ! これでワシの発明品も大ヒット間違いなし、千客万来、金運もバッチリじゃて!」

ソファーで読書をしていた灰原が、本から視線を上げることなく、呆れたように冷ややかな口調で言った。

「貴方と工藤君には、招き猫は厳禁ね」

その言葉に、隣でテレビを見ていた圭人が、不思議そうに首を傾げる。

「ん?どうして?」

灰原は本をパタンと閉じると、フッと皮肉めいた笑みを浮かべて圭人を見つめた。

「怪物と事件ばっかり招くから」

その辛辣な一言に、圭人は返す言葉もなく、ただ苦笑いを浮かべるしかなかった。

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