ヒーローと名探偵 作:タルマヨ
闇にさようなら(前編)
暖かな日差しが差し込む阿笠邸の居間で、コーヒーメーカーが静かに音を立てていた。
ソファに腰掛けたコナンは、ノートパソコンの画面を見つめたまま顎に手を当て、隣にいる圭人は背もたれに体を預けて手元のスマートフォンを眺めている。
その静寂を破ったのは、固定電話のけたたましい呼び出し音だった。
「おや、誰じゃろうな、こんな時間に」
実験の手を止めた博士が白衣の裾を揺らしながら受話器を取る。
「はい、阿笠じゃが……え? さ、沙也加君かい!?」
博士の驚きに満ちた声に、コナンと圭人の視線が同時に跳ね上がった。
沙也加――それは、かつて宇宙開発局が推進していた極秘計画の犠牲となり、命を落とした堂本亮介の恋人だった。
「うん……うん……何じゃと!? それは本当か!?」
受話器を握る博士の顔がみるみるうちに青ざめていく。ただ事ではない気配を察し、コナンはすぐさまソファから飛び降りて博士の足元へ駆け寄った。圭人もまた、表情を引き締めて歩み寄る。
「わかった、無理はせんでくれ。また連絡を待っておる」
重々しく受話器を置いた博士は、額に冷や汗をにじませながら二人を振り返った。
「博士、今の電話……沙也加さんからだな? 一体何があったんだ」
コナンの低く、鋭い眼光を帯びた声に、博士は深くため息をつきながら口を開いた。
「驚くべき内容じゃ……。凍結されたはずの『ジーニアスプロジェクト』が、動物への実験として、極秘裏に継続されていたという情報を彼女が掴んだらしい」
「ジーニアスプロジェクトだって……?」
圭人が眉をひそめ、記憶をたどるように呟く。
「確か、宇宙開発局がアストロノーツの肉体を飛躍的に強化するために、エボリュウ細胞を投与しようとしていたっていう、あの計画だろ? 亮介さんの事件を受けて公式には完全に凍結されて、サンプルも全部処理されたはずじゃ……」
「うむ。表向きはそうなっておった。しかし、実際には開発局の一部が諦めておらんかったようじゃ。投与の対象を人間から動物……実験用の猿に切り替えて、地下で研究を続けていたそうなんじゃよ」
博士の言葉に、コナンは苦々しい表情を浮かべて拳を握りしめた。
「人間の都合でそんな危険な細胞を打ち続けただなんて、懲りない奴らだ……。それで、その実験用の猿はどうなったんだ?」
「本来の計算では、長期間の投与に耐えきれず、短命に終わるはずだったらしい。じゃが……その猿の体内で、エボリュウ細胞が生き残るために予測不能な『自己進化』を開始してしまったようなんじゃ」
「自己進化……」
「それだけではない。その過程で、その猿は恐るべきことに『感情』を獲得してしまった。人間たちから受けた苦痛と、彼らへの底知れぬ憎しみを燃料にして、進化の速度をさらに加速させておるらしい。そして……ついに施設を脱走した」
博士の話が核心に迫るにつれ、部屋の空気が急速に重くなっていく。
「生命を維持するために、奴は今、大量の電気エネルギーを求めて動き回っておる。変電所や周辺の施設を次々に破壊しながら、そのエネルギーを吸収し、その姿を肉視できないほどに膨れ上がらせているそうじゃ……。それこそが、今巷を騒がせているあの異形の生物――メタモルガの正体なんじゃよ」
「なるほどね……。電気を喰らって際限なく膨れ上がる異形の生物、か」
圭人は腕を組み、窓の外の空を見つめた。その瞳には、かつて対峙した脅威への警戒と、新たな事態への決意が宿っている。
「さらに沙也加君の話では、あの生物には凄まじい自己進化の速度だけでなく、外部からのエネルギー攻撃すら吸収して己の力に変えてしまう性質があるらしい。じゃが、吸収を繰り返せば体内のエネルギーが際限なく蓄積され、最終的には制御不能な臨界状態に陥って自爆する……という構造的な欠陥を抱えておる。沙也加君は今、その証拠となるデータの核心を探し求めて動いておるんじゃ」
「そのデータがあれば、奴を止める手がかりになるかもしれないってわけだな」
コナンは険しい表情のまま、思考を巡らせるように腕を組んだ。
「……ああ。これ以上、亮介さんの時みたいな悲劇を繰り返させるわけにはいかない」
圭人は静かに拳を握りしめ、強い決意を秘めた目で応じた。
その時、リビングのドアが勢いよく開き、元太、光彦、歩美の三人が飛び込んできた。少し遅れて、灰原も冷静な足取りで部屋に入ってくる。
「おーい、博士! 腹減ったから何か食い物ねーか?」
「コナン君、圭人さん、ちょっと聞いてくださいよ!」
「ねえねえ、さっきテレビでやってた、街を壊して回ってるおっきな生き物のニュース見た?」
無邪気な子供たちの声に、部屋の緊張感が一気に和らぐ。しかし、彼らが口にした話題は、まさに今三人が話していた深刻な事態そのものだった。
「元太君、歩美ちゃん。あれはただの生き物ではありませんよ。電気を吸ってどんどん大きくなっているんですから、きっとどこかの秘密研究所から逃げ出した新種の生物に違いありません!」
光彦が推理を披露するように胸を張るが、事態の本当の恐ろしさまでは理解していないようだった。
「新種だかなんだか知らねーけどよ、俺たちの街をめちゃくちゃにするなら、少年探偵団がとっ捕まえて懲らしめてやるぜ!」
元太が力強く拳を突き出す。
「そうよ!歩美達がやっつけちゃうんだから!」
歩美もそれに同調して声を弾ませる。彼らのあまりに楽観的な様子を見て、部屋の隅に佇んでいた灰原が小さくため息をつき、静かに歩み出た。
「……随分と威勢がいいのね、貴方達」
灰原の冷徹な声に、探偵団の三人が振り返る。
「哀ちゃん?」
「いい?よく聞きなさい。あの生物の正体は、宇宙開発局が極秘裏に作り出した負の遺産……エボリュウ細胞を投与され続けた実験用の猿よ。人間の身勝手な実験によって苦しめられ、人間への激しい憎悪を抱いて脱走したの。そして、生命を維持するために変電所を襲い、高圧電流を吸収し続けているわ」
灰原は一歩前に出ると、子供たちの目をまっすぐに見つめ、言葉を噛み砕くように、しかし真剣なトーンで続けた。
「あの細胞はね、外部から受けた攻撃のエネルギーさえも自分のものにしてしまうの。つまり、不用意に攻撃を加えれば加えるほど、エネルギーが体内に際限なく蓄積されていく。精度を欠いた攻撃を繰り返せば、最終的にはそのエネルギーに身体が耐えきれなくなって、この街もろともすべてを吹き飛ばすほどの臨界爆発を起こす構造的な欠陥を抱えているのよ。貴方達が考えているような、簡単に捕まえられるような相手ではないわ」
灰原の理路整然とした、かつ危機感に満ちた説明を聞き、元太と歩美はポカンと口を開けたまま顔を見合わせた。
「え、エボ……細胞? りんかいばくはつ……?」
「うーん、歩美、よくわかんない……」
言葉の難しさに完全に思考が追いついていない二人の横で、光彦だけが冷や汗を流しながら、その顔を驚愕に歪ませていた。
「そ、そんな……。つまりあの生物は、攻撃すればするほどエネルギーを溜め込んで、最後には大爆発を起こす、歩く時限爆弾のようなもの、ということですか……!?」
「ええ、その通りよ、円谷君」
灰原は小さく頷き、光彦の理解力に満足気な視線を送った。
「大爆発だって!? おいおい、それってめちゃくちゃヤベージョーキョーじゃねーか!」
元太がようやく事の重大さに気づき、頭を抱える。
「どうしよう、コナン君……!」
不安そうにこちらを見つめる歩美の視線を受け止めながら、コナンは瞬時にいつもの「コナンとしての顔」を作り、歩美を安心させるように小さく頷いて見せた。しかし、隣の圭人と交わした視線の奥には、すでにこの未曾有の危機に立ち向かう、工藤新一としての強い光が灯っていた。
その時、リビングの大型テレビの画面が、突如としてけたたましいチャイム音と共に臨時ニュースへと切り替わった。
『――番組の途中ですが、緊急ニュースをお伝えします。現在、杯戸町近郊の広範囲において、大規模な停電と原因不明の施設破壊が相次いで発生しています。繰り返します、杯戸町周辺で――』
アナウンサーの緊迫した声の背景に、ヘリコプターからの空撮映像が映し出される。暗転した街並みの中、火花を散らしながら崩壊していく変電所、そこで蠢く、醜悪に膨れ上がった異形の生物――メタモルガの姿が、不気味にライトアップされていた。
「これって……さっきテレビでやってたやつより、もっと凄く変わってないか!?」
元太が画面を指差して声を荒らげる。
「ええ……明らかに最初の報道よりも姿が変貌し、その輪郭を何倍にも膨張させています……!」
光彦の言葉通り、映像の中の生物は高圧電流を貪り食うたびに、その醜い肉体をさらに大きく、禍々しく変化させていた。
圭人はテレビ画面を見つめたまま、微動だにせず立ち尽くしていた。その表情はこれまでにないほど険しい。画面越しであるにもかかわらず、その生物から発せられる、言葉にできないほど純粋な「怒り」と「人間に向けられた深い憎しみ」の異質な気配が、彼の感覚に直接突き刺さっていた。
「……間違いない。奴がエネルギーを求めて動いている理由は、ただの生存本能じゃない。自分をこんな姿にした人間への……復讐だ」
圭人の低い呟きに、隣のコナンが鋭く目を細めた。コナンは画面に映し出されるメタモルガの移動ルートと、周辺の地図を頭の中で瞬時に照らし合わせ、ジーニアスプロジェクトとの繋がりを即座に結びつける。
(停電の発生地点を結ぶこのルート……奴が次に向かおうとしている先にあるのは……!)
「博士、この先にある施設って、もしかして……」
「うむ……宇宙開発局の隠蔽された地下研究施設じゃ。奴は、自分を閉じ込め、実験を繰り返したあの場所に、引き寄せられるように向かっておる……!」
博士が顔を青くして頷く。ジーニアスプロジェクトがもたらした負の連鎖が、今まさに最悪の形で現実になろうとしていた。
「グズグズしていられないな。俺、現場に向かうよ。これ以上、奴の憎しみを暴走させるわけにはいかない」
圭人はスマートフォンをポケットに押し込むと、即座に現場へ向かう準備を始めた。
「待てよ圭人、俺も行く」
コナンがその制服の裾を引き、工藤新一の鋭い眼光を向ける。
「コナン君!? ダメだよ、そんな危険な場所に子供が行っちゃ!」
歩美が心配そうに声を上げる。
「博士、ビートルを出してくれ。奴の移動速度を考えたら、今すぐ向かわないと手遅れになる!」
コナンの言葉に、博士は重々しく頷いた。
「待ってください! だったら僕達少年探偵団も行きます! 街が大変なことになっているんですよ!」
光彦が引き下がろうとせず、元太も拳を握る。
「そうだぜ! 俺たちがいれば百人力だろ!」
熱くなる子供たちの前に、灰原が静かに立ち塞がった。その氷のように冷ややかな視線が、三人を射抜く。
「そこまでにしなさい。さっき私の話を聞いていなかったの? 相手は貴方達の手におえるような代物じゃないわ。足手まといになるだけよ。……大人しくここで私とお留守番していなさい」
「「うっ……」」
灰原の絶対的な威圧感に、元太も光彦も言葉を詰まらせる。
「哀ちゃん……」
歩美が悲しそうに眉をひそめるが、灰原は首を振るだけだった。その隙に、コナンと圭人は博士と共に阿笠邸を飛び出し、黄色いビートルへと滑り込んだ。
同時刻、杯戸町近郊――。
不気味な地鳴りのような咆哮が響き渡る中、メタモルガが宇宙開発局施設へ向かい始めたまさにそのタイミングで、周辺道路に黒い装甲車列が凄まじいタイヤの軋み音を立てて急停車した。
車体から次々と降りてくるのは、特殊装備を身にまとったMDRの隊員たちである。彼らは封鎖線の外側に素早く展開し、周囲への警戒体制を敷いた。
「各班、配置を急げ! これより本局の防衛および、当該生物の足止め作戦を開始する!」
現場の最前線で、一条が凛とした声を響かせ、テキパキと的確な命令を下していく。
「火川君、準備はいい? 相手はエネルギー攻撃を吸収する性質を持っている。無闇な砲撃は避けて、構造的欠陥のデータが揃うまで持ち堪えるのよ」
「了解です、一条さん。あの異形、ここで食い止めてみせます!」
車の外へ出た火川は、自身の腕に装着されたコントローラーのスイッチを鋭く押し込んだ。
刹那、システムが瞬時に応じる。
一秒に満たない、ほんのわずかな一瞬――凄まじい金属の駆動音と共に、全高190センチメートル、重量110キログラムに及ぶ黒く重厚な特殊合金の装甲が、火川の全身を爆発的な速度で包み込んだ。頭部までを完全に密閉するフルフェイス構造のシステムが固定され、一分の隙もない鉄壁の重装甲パワースーツが完成する。
起動したアイ・センサーが闇の中で鋭く発光し、人類の科学力の結晶である『MU3』がその圧倒的な威容を現した。火川は重火器の重量を全身にみなぎらせ、前線へと足を進めた。
一方、不気味にアラートが鳴り響く宇宙開発局の施設内では、警察や消防による緊迫した避難誘導が行われていた。
「急いでください! 館内の職員は全員、速やかに建物の外へ退避を!」
防火服を着た消防隊員たちが、取り残された人間がいないか大声で確認しながら、職員たちを出口へと避難させている。
だが、その必死の避難誘導の波に逆らい、身を隠すようにして施設の奥、地下の研究室へと繋がる通路を一人で進んでいく女性の姿があった。
亮介の元恋人、沙也加だった。
薄暗い通路を走りながら、沙也加は胸元に強く手を当て、必死に息を整える。
(亮介……。貴方が遺した、あの細胞の恐ろしい真実……。エボリュウ実験の欠陥データを回収することが、貴方に代わって私がやるべきことよ……!)
それが、命を落とした亮介に代わって自分が果たすべき、唯一の使命だと確信していた。背後から迫る異形の生物の足音を感じながらも、沙也加は振り返ることなく、暗闇の奥へと足を進めていった。
MDRの精鋭たちが宇宙開発局の周囲に封鎖線を展開した、まさにその直後だった。激しい地鳴りと共に、施設の分厚い外壁が内側から凄まじい音を立てて突き破られた。
硝煙と瓦礫の煙を割って、堂々とその全身の姿を現したのは、見る者を戦慄させる異形の生物――メタモルガだった。
体長2メートル30。辛うじて猿の原形を留めてはいるものの、その肉体は異常なまでに肥大化し、歪にねじ曲がっている。半透明に変質した皮膚の下では、強奪した電気エネルギーが禍々しい紫色の光となってドクドクと不気味に脈動していた。
「――チッ、来やがったか!」
重装甲パワースーツ『MU3』に身を包んだ火川が、金属音を響かせて最前線へと躍り出る。
火川はすぐさま右腕のトリガーを引き、内蔵された特殊熱線銃をメタモルガの胴体に向けて放った。細胞を分子レベルで崩壊させる設計の、MDRが誇る超ハイテク兵器の光線が、狙い違わずメタモルガの胸に直撃する。
だが、巻き起こった爆炎の直後、火川は信じられないものを目にした。
メタモルガは苦しむ素振りすら見せず、むしろ胸の皮膚から熱線のエネルギーを強引に内部へと吸い込んでいく。エネルギーを即座に吸収した奴の肉体はさらに脈動を強め、逆にその動きの速度が目に見えて跳ね上がった。
「馬鹿な……! 熱線エネルギーを自分の糧にしやがった!」
火川は即座に徹甲リニアキャノンへと武装を切り替え、電磁加速された超高硬度の弾丸を連射した。凄まじい衝撃波と共に弾丸がメタモルガの強固な皮膚を貫通し、緑色の体液が飛び散る。しかし、抉り取られたはずの傷口は、肉眼で確認できるほどの速度で瞬時に蠢き、一秒と経たずに完全に塞がってしまった。
奴の持つ自己進化の能力が、リアルタイムで火川の攻撃に対応し、肉体を書き換えているのだ。
「各班、火川君を援護! 一斉射撃で奴の進撃を止めなさい!」
一条の鋭い指示が飛び、周囲を囲むMDR隊員たちが一斉に強襲火器を乱射する。無数の銃撃がメタモルガの巨体に浴びせられ、凄まじい火花が夜の闇を照らした。集中砲火による衝撃でメタモルガの足が止まり、一時的な足止めには成功したものの、決定的な有効打を与えられないまま、じりじりと防衛線が押し込まれていく。
「これ以上は持たない……! 一条さん!」
「火川君、液体窒素弾を使いなさい! 奴の代謝を物理的に凍結させるのよ!」
一条の決断を受け、火川は即座にMU3のランチャーから超低温の液体窒素弾を撃ち出した。直撃と同時に、強烈な冷気がメタモルガの全身を襲う。極低温の結晶が肉体を覆い、身体がみるみるうちに凍りついていく。自己進化の速度すらも凍結させられたメタモルガの動きが、わずかに鈍った。
「よし! 細胞進化促進剤だ。いけぇッ!」
火川がすかさず次弾を撃ち込む。特殊な薬品を仕込んだ弾頭が、凍りついたメタモルガの肉体に命中し、内部へと強引に注入された。構造的欠陥による臨界自爆を誘発させるための布石――しかし、その直後、メタモルガの体内から爆発的な熱量が吹き荒れた。強烈な熱波によって液体窒素弾の効果は瞬時に溶かされ、凍りついていた皮膚がパキパキと音を立てて元に戻っていく。
その時、緊迫する戦場のすぐ近くの道路に、タイヤを激しく軋ませながら黄色いビートルが滑り込むようにして停車した。