ヒーローと探偵 作:タルマヨ
「……どうやら、迷宮の主にご対面みたいやな」
平次の鋭い声が、石造りの円形広間に低く響いた。
ライトの光が捉えたのは、ゼミの助教、戸田。彼は血の滴るナイフを握りしめ、壁一面に描かれた「影」の紋様の前で、取り憑かれたように立ち尽くしていた。
「ち、違う……俺じゃない……! 俺が来た時には、もう教授は……!」
「往生際が悪いで、戸田さん」
平次が逃げ道を塞ぐように一歩前へ出る。「アンタのズボンの裾、さっきの広間の火事で飛び散った『油』がべったりついとるやないか。天井裏から火をつけた時、返り血やなくて返り油を浴びたんやろ?」
「それは……調査の準備で汚れただけで……!」
「いいや、それは無理のある言い訳だね」
圭人が戸田の背後にある壁の仕掛けを指差した。「俺が廊下で感じたあの『機械油』の匂い……あれはこの屋敷のカラクリを動かすためのものだ。平次、あの『不可能な吊り下げ』の正体、見えたろ?」
「ああ、星野。……アンタがやったんは、手品や。あの広間の床そのものを一度、梁の高さまでせり上げさせたんやろ?」
平次の言葉に、蘭と和葉が息を呑む。
「え……床が、あんな高いところまで?」
「そうや。犯人は広間の床を上げ、梁と同じ高さにしてから教授を殺害、縄をかけた。その後、床を元の位置……いや、あえて底の抜けた状態まで一気に下げたんや。そうすれば、遺体だけが遥か高みに取り残される、あの不可能状況が出来上がる。……そん時に床を動かしたスイッチが、教授が持っとった『地図の半分』やな?」
平次が戸田の懐を指差すと、戸田はびくりと肩を揺らした。
「アンタは教授を殺して地図を奪い、証拠隠滅のために屋敷に火を放った。火が縄を焼き切り、遺体が『重石』となって再び落下することで、この地下通路への扉が開くように細工したんやろ。……けどな、計算違いやったのは、教授の方が一枚上手やったっちゅうことや」
圭人が戸田の足元に、ブラックライトに近い特殊な光を当てる。
「……見てくれ。戸田さんの靴に、緑色の光が浮き上がってる。隠し通路の壁に塗られていた蛍光塗料だ。それは教授が、自分の研究を盗もうとする者へ仕掛けた『印』だったんだよ」
「チェックメイトや、戸田さん。……アンタの靴が、自分が犯人やと喋っとるで」
平次の冷徹な宣告に、戸田は力なくナイフを落とし、その場に崩れ落ちた。
「教授が……教授が宝を独り占めしようとするから……! 俺は、ずっと助手としてこき使われてきたのに……!」
「……宝なんて、最初からなかったんだよ。ね、平次兄ちゃん」
それまで静かに見守っていたコナンが、平次のライトが照らす壁の隙間から一冊の古びた日記帳を取り出した。
「これ、日記帳……?」
蘭が不思議そうに覗き込む。コナンはページをめくり、どこか寂しげな声を出す。
「うん。……『影の中に実体なし、光の中にこそ真実あり』。山脇教授がずっと追い求めていたのは、金貨や宝石なんかじゃなかったんだ。この屋敷を造った古い学者が残した、当時の貴重な歴史資料と……その研究を共に完成させた仲間との思い出だったんだよ」
コナンは日記を圭人に手渡すと、床にへたり込む戸田をじっと見つめた。
「戸田さんも知っていたはずだよ。教授がいつも、戸田さんのことを『一番の理解者だ』って自慢げに話していたのを。この日記を最後に見つけるのが、戸田さんであってほしいって……教授は願っていたんじゃないかな」
「……う、うあああああ!!」
戸田は顔を覆い、子供のように号泣した。自分の嫉妬が、自分を最も信頼していた人間を奪った事実に打ちのめされたように。
雨上がりの澄んだ空気が、地下の湿った匂いを洗い流していく。
救急隊や警察への引き継ぎを終え、一行はようやく人心地ついていた。
「ふぅ……一時はどうなるかと思ったけど、無事で良かったわ」
蘭が泥のついたスカートを払いながら、隣を歩く和葉に微笑みかけた。
「ほんまや。アタシ、もう一生影に縫い付けられて帰られへんのかと思ったわ……。なぁ平次! あんた、アタシがガスの煙で倒れそうになった時、なんて言うたか覚えとる?」
和葉が顔を赤らめながら、横を歩く平次を小突く。
「あ? ……『しっかりせぇ』とかそんなんやろ。それより和葉、お前自分の顔見てみぃ。煤で真っ黒けやぞ」
「えっ!? 嘘、ちょっと蘭ちゃん鏡貸して!」
平次が茶化すと、和葉は「デリカシーないわぁ!」と憤慨しながら蘭の元へ駆け寄っていった。その賑やかな様子を眺めながら、圭人はバックパックを整理し、合流地点へと視線を送った。
「蘭、怪我はない?」
「ええ、圭人。大丈夫よ、ありがとう。……でも、あの屋敷が動くなんて、本当の迷路みたいだったわね」
「そうだね。設計した人の執念というか、情熱が詰まってたんだろうな」
圭人が柔らかく微笑むと、蘭はどこか感心したように頷いた。
「圭人がいてくれて助かったわ。あの高い梁まで登っちゃうんだもん、忍者みたいに身軽でびっくりしちゃった」
「忍者、ね。まあ、役に立てたなら良かった」
そこへ、平次が「おい、星野」と声をかけてきた。
「お前、あの油の匂いだけで仕掛けに気づいとったんか? 鼻、利きすぎやろ」
「はは、まあね。平次こそ、あの短い時間で床の昇降トリックまで辿り着くのは、さすが西の名探偵だよ」
「へっ、おべっかはええ。くど…コナン君のフォローもあったしな」
平次がニヤリと笑い、足元にいたコナンを見やった。コナンは「えへへ、平次兄ちゃんが凄かったからだよ!」と子供らしい笑顔を返している。
やがて、蘭と和葉が少し離れて片付けを始めたのを確認すると、三人の空気は一変した。
「……で、イチ。二階の書斎で何を見つけたんだ? 部屋が下がる寸前に何か掴んでたろ」
圭人が声を落として尋ねると、コナンはポケットから小さな、煤けた真鍮の鍵を取り出した。
「……多分、これが教授の言っていた『真の遺産』の、もう一つの鍵だ。あの地下の日記帳だけじゃ終わらない。教授が最後に守ろうとしたのは、日記の記述にある『未公開の論文』の方だと思うんだ」
「なるほどな。戸田さんは結局、一番肝心なもんを見逃しとったっちゅうわけか」
平次が呆れたように息を吐く。
「ああ。……まあ、これは後で警察に提出するよ。変な連中に目をつけられても困るしな」
コナンは新一としての鋭い眼光を見せた後、すぐにいつもの幼い表情に戻り、「圭人兄ちゃん、お腹空いちゃった! 帰りにどこか寄っていこうよ」と声を上げた。
「……そうだな。博士も待たせてるし、行こうか」
圭人が林道の先を指差すと、そこには見慣れた黄色のビートルと、心配そうにこちらを伺う阿笠博士の姿があった。
「おーい、みんな! 無事かの!」
博士が駆け寄り、泥だらけの一行を見て目を見開く。
「圭人君から連絡をもらった時は肝を冷やしたぞい。山脇教授のことは残念じゃったが……まずは、皆が無事で何よりじゃ」
「博士、待たせて悪かったな。……平次、和葉さん。帰りは博士の車に分乗して帰るぞ。悪いけど、和葉さんと蘭は後ろで詰めて座ってくれるか?」
圭人が指示を出すと、平次がニヤリとして口を挟んだ。
「せやけど、この人数やとパンパンやな。和葉、お前俺の膝の上にでも乗るか?」
「な、何アホなこと言うてんのん、あんたは! 蘭ちゃんとアタシが座ればええ話やんか!」
顔を真っ赤にする和葉を横目に、圭人はコナンを促して助手席に潜り込ませた。
「……イチ、隣に座れよ。後ろの痴話喧嘩を聞きながらじゃ、鍵の考察も進まないだろ」
「……ああ、恩にきるよ」
「よし、出発じゃ。……ところで圭人君、帰りに何か食べていくかね?」
博士がエンジンをかけると、圭人はルームミラーで後ろの賑やかな様子を確認し、微笑んだ。
「ええ。平次がとびきり高い店に行きたいってうるさいから、博士、そこまで頼むよ」
「おっ、ええぞい! ワシも腹が減っておったところじゃ!」
「ちょっと博士! メタボなんやから、あんまり油っこいもんはあかんで!」
和葉の容赦ないツッコミに車内が笑いに包まれる中、車は朝日が差し込み始めた山道をゆっくりと下り始めた。
「……次は、もう少し平和な場所でキャンプしたいね、蘭」
「そうね。……次は、お父さんも誘ってみんなで行きましょうよ、圭人」
「小五郎さんも? ……まあ、あのおじさんがいれば、退屈はしなさそうだけどね」
圭人が苦笑い混じりに応えると、コナンも「おじさんが来たら、また別の事件を呼び込みそうだけどね……」と心の中で密かに同意した。
一行を乗せた車は、霧の晴れた深い森を抜け、日常の光の中へと戻っていった。