ヒーローと探偵 作:タルマヨ
夕刻の阿笠邸、ダイニングからは香ばしいカレーの匂いが漂っている。
「ふふん、今日のカレーは自信作じゃよ! 隠し味に特製のスパイスを効かせておいたからのう」
博士が鼻歌混じりに鍋をかき混ぜていると、背後から冷ややかな、しかしどこか柔らかな声が飛んだ。
「隠し味は結構だけど、あなたのコレステロール値を考えた配合にしているはずよ。余計な油分を足したりしていないでしょうね、博士?」
エプロン姿の灰原が、鋭い視線で鍋の中身を検閲する。博士は「ギクッ」と肩を揺らし、助けを求めるようにリビングに座る圭人を見た。
「あ、いや……ほんの少々……なあ、圭人君も腹が減っておるじゃろう?」
苦笑いしながらそれを見ていた圭人は、手元に置いていたスパークレンスをそっとポケットにしまい、食卓に向かった。
「はは、楽しみにしてるよ、博士。……最近、いくら食べてもすぐお腹が空くんだ」
「育ち盛りなだけならいいんだけど……」
灰原はそう呟きながら、3人分の皿を並べた。テレビは消されたままだ。外の世界では「光」の正体を巡ってメディアや探偵たちが血眼になっているが、この家の中だけは、その喧騒から切り離された琥珀色の安らぎに満ちていた。
食後、博士の作業場にて、定期的なバイタルチェックが行われた。
モニターに映し出される圭人の心拍数、血圧、そして細胞の活性化率。それを見た博士が、驚きのあまり声を上げた。
「……これは、驚いた。圭人君、身体の調子はどうじゃ?」
「……驚くほど軽いんだ。前は変身した後、数日は全身の筋肉が焼けるように熱くて、息をするのも苦しいくらいだったのに。ガギと戦った後は、その日のうちに疲れが引いていくのが分かった」
圭人が自分の拳を握り締めると、微かに空気が震えるような錯覚を覚える。
「データにもはっきり出ているわ。あなたの心臓、神経系、そして細胞の一つ一つが、あのエネルギー……『光』の伝達に最適化され始めている。以前は無理やり高電圧を流していた回路が、今やその電圧に耐えうる太い導線に作り替えられたようなものよ」
灰原がモニターを指でなぞる。そこには、人理を超えた「適応」の痕跡が刻まれていた。
「圭人君の肉体は……徐々に、しかし確実に光を器として受け入れ、同化しつつある。ギリギリの負荷に耐えていた段階を過ぎて、身体そのものが『光の戦士』として完成に近づいておるんじゃな」
喜ばしい進化のはずだった。しかし、博士の顔には隠しきれない寂しさが混じる。
「それは、君が強くなった証拠じゃ。じゃが……あまりに人間離れしていく君を見ていると、いつか遠いところへ行ってしまうのではないかと、ワシは少し怖くなるんじゃよ」
「博士……」
「……同感ね」
灰原が静かに言葉を継ぐ。
「研究者としては興味深いけれど、一人の友人としては、手放しでは喜べないわ」
博士が作業場で資料の整理を始め、いつの間にか椅子に座ったまま健やかな寝息を立て始めた頃。リビングのソファには、圭人と灰原の二人が残された。
窓の外は深い夜に包まれている。
「……志保さん」
圭人が呼びかけると、灰原はコーヒーカップを手に、遠くを見つめるような瞳で答えた。
「……。何かしら?」
「さっきの話……。俺が人間じゃなくなっていくのが怖いか?」
灰原は少しの間沈黙し、それから小さく首を振った。
「……私が恐れているのは、変化そのものじゃないわ。あなたが、一人で全てを背負って、誰も届かない場所へ行ってしまうことよ」
彼女は自らの手を見つめる。
「私も、かつては組織の中で『シェリー』という記号として生きていた。孤独だったわ。でも、この家に来て、博士や工藤君、そしてあなたと出会って、ようやく『私』を取り戻せた。……だから、星野君。あなたも、自分をただの『戦士』だと思わないで」
灰原の視線が、真っ直ぐに圭人を射抜く。
「たとえあなたの身体が光に変わっていったとしても、ここにはあなたの帰りを待つ人間がいる。私や博士が、あなたの『人間』としての繋ぎ止め役になってあげる。だから……一人で孤独にならないで」
「……分かってるよ。でも、もし俺がいつか本当に光として消えなきゃいけない時が来ても、これだけは覚えておいてほしいんだ」
圭人は少しだけ身を乗り出し、彼女の瞳をじっと見つめ返した。
「俺を人間に繋ぎ止めているのは、正義感とか義務感だけじゃない。……隣に、志保さん、君がいてくれるからだ。君が俺の名前を呼んでくれるだけで、俺は自分が『星野圭人』であることを誇りに思える」
「……っ」
灰原は予期せぬ言葉の熱に、一瞬だけ視線を泳がせた。カップを口元に運び、わずかに赤らんだ頬を隠すようにして、いつもの冷淡な声音を絞り出す。
「……おめでたいわね。そんな殺し文句、私じゃなくて探偵事務所の彼女にでも言ったらどうかしら。……江戸川君が黙っていないでしょうけど」
「はは、本気だよ。……俺にとっては、この場所と、君が一番大切なんだ」
圭人の真っ直ぐな好意に、灰原はそれ以上言葉を返せなかった。その沈黙が拒絶ではないことを祈りながら、圭人は心からの笑みを浮かべた。
「……そう。なら、その言葉を忘れないことね。もしあなたが自分勝手にどこかへ消えようとしたら、その時は私の特製薬で無理やり人間に引き戻してあげるから」
少しだけ悪戯っぽく、けれど切実な響きを含んだ灰原の言葉。
翌朝。
差し込む朝日の眩しさに目を細めながら、圭人は鏡の前で身支度を整える。以前よりも研ぎ澄まされた感覚が、外の空気の揺らぎや、階下で博士が朝食の用意をする微かな物音さえも鮮明に捉えていた。
リビングへ降りると、そこにはまだ眠たげに目をこすりながら、力なく食卓についている灰原の姿があった。
「……おはよ、志保さん。相変わらず朝は弱そうだね」
「……うるさいわね。誰かさんと違って、私は繊細なのよ……」
灰原はトーストを小さく千切りながら、半分閉じたような瞳で圭人を睨み上げる。その横では、博士が二人分の荷物を並べて確認していた。
「おっ、二人とも揃ったな。圭人君、忘れ物はないかね? 昼飯代は持ったか?」
「ああ、大丈夫だよ、博士。今日は購買でパンでも買うから」
圭人は学生カバンを肩にかけ、登校の準備を終える。灰原も重い腰を上げ、ランドセルを背負った。
「あまり無茶はしないで、星野君。……昨日言ったこと、忘れないでね」
まだ寝ぼけ眼ではあるが、灰原は玄関先で圭人の顔をじっと見つめ、釘を刺した。
「ああ、分かってる。……志保さんこそ、学校で居眠りすんなよ?」
「……ふん、余計なお世話よ。博士、行ってくるわ」
「いってきます、博士」
「うむ、いってらっしゃい! 二人とも、車に気をつけるんじゃぞ!」
博士に見送られ、圭人と灰原は並んで家を出た。
玄関から角を曲がるまでの短い間、二人の影が朝日に伸びて重なる。肉体が光に適応していく恐怖はない。自分には、共に歩む仲間と、守るべき日常、そして何より帰るべき場所があるのだから。
春の柔らかな光の中、圭人は灰原と共に、再び「星野圭人」としての日常へと一歩を踏み出した。