ヒーローと探偵   作:タルマヨ

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純黒の悪夢編
予兆


阿笠邸の地下室に設置されたバイタルモニターが、規則正しい電子音を刻んでいる。

 薄暗い寝室のベッドで、圭人は数日間、一度もその瞳を開くことなく眠り続けていた。時折、微かな発熱にうなされるように長い睫毛が震え、端正な顔が苦しげに歪む。泥のように深い眠りの中にあっても、彼の意識は肉体の修復に全てのエネルギーを注ぎ込んでいるようだった。

 傍らに置かれたパイプ椅子に腰掛け、コナンは複雑な心境でその寝顔を見つめていた。

 数日前の夜。再開発地区で繰り広げられた、あの異形のエボリュウとの死闘。圭人は全ての暴力をその身で受け止め、かつての親友であった堂本を人の姿に戻し、その最期を看取った。あの激戦で、光の戦士としての圭人が支払った代償は、名探偵であるコナンの想像を遥かに超えている。

「……まだ、目覚める気配はないわね」

 背後から静かな声がした。振り返ると、灰原が新しい冷却シートと経口補水液を乗せたトレイを手に立っていた。

「ああ。顔色は悪くねーんだがな。時折、指先をピクつかせて『身体が動かねぇ』なんてうなされてやがる。相当な負荷だったんだろ……あの変身は」

「無理もないわ。あれだけの高エネルギーを短時間で放出しながら、同時に相手の破壊波動をすべて自らの肉体で相殺したんだもの。細胞レベルでの摩耗を癒やすには、こうして泥のように眠り続けるしかないのよ。……今は、私たちが彼を守る番よ、工藤君」

 灰原は手際よく圭人の額のシートを貼り替えた。ひんやりとした感触に、圭人が微かに安堵したような吐息を漏らす。その様子を横目に、コナンは拳を握りしめた。いつもなら自分たちの背中を守ってくれる最強の味方が、今はこれほどまでに脆く、静かに横たわっている。

「新一君、哀君、ちょっといいかの……」

 一階から降りてきた博士が、眉間に深い皺を寄せてタブレット端末を差し出してきた。

「警察は表向き、ガス漏れによる爆発事故として処理を進めておるようじゃが……やはり、現場の不自然さは隠しきれんようじゃな」

 コナンはタブレットの画面をスクロールした。ネット上の掲示板やSNSでは、封鎖された再開発地区の異様な惨状がリークされている。

「結晶化したコンクリートに、異常なまでの高温反応か。……オイオイ、これじゃあ『ただの爆発』で通すには無理があるな」

「ええ。目撃者の間では『銀色の何か』や『夜空を割るような光』の噂が絶えないわ。公安の連中ならいざ知らず……あの組織が、この情報を掴んでいないはずがないわね」

 灰原の言葉に、地下室の空気が一段と冷え込んだ。もし黒ずくめの組織が、この「説明のつかない現象」に興味を抱き、調査を開始すれば――その先には、眠り続ける圭人や、自分たちの正体に繋がる致命的な火種が待っている。

「圭人が動けねー今は、俺たちが外の動きに目を光らせておくしかねーな。……おい圭人、今のうちにしっかり休んどけよ。お前が起きた時、またとんでもねー厄介事が起きてるかもしれねーからな」

 コナンは、無意識にポケットの中の探偵バッジを弄りながら、眠れる戦友に心の中でそう告げた。

 

 

 

 

 

 

 一方、その懸念は、夜の帳が降りた首都高速道路で現実のものとなろうとしていた。

 降りしきる激しい雨が、漆黒のボディを叩き、水飛沫を跳ね上げる。闇を切り裂くように疾走するのは、一台のクラシックカー――ジンの愛車、ポルシェ356Aだ。

 運転席のウォッカは、ワイパーが忙しなく動くフロントガラスの先に神経を集中させながら、隣に座る兄貴分へ、裏社会で囁かれ始めた奇妙な報告を口にした。

「兄貴……。例の米花町の再開発地区で起きた爆発事故の件ですがね。情報屋の野郎が言うには、現場から回収された物質の性質が、科学の常識を逸脱しているそうで。……公安の連中が、血眼になってサンプルを回収して回っているらしいですよ」

 助手席でタバコを燻らせていたジンは、窓の外を流れる街灯の光を冷酷な眼差しで見つめたまま、低く鼻で笑った。

「フン……。公安の狗どもが何を嗅ぎ回ろうが俺たちの知ったことか。コンクリートが石になろうが、光が飛ぼうが……そんなガラクタの調査は、研究室に籠もっているカビの生えた連中にでも任せておけ」

 ジンは手元でタバコを揉み消すと、ダッシュボードの赤い計器類へ視線を移した。その瞳には、知的な探究心など微塵もなく、ただ獲物を屠るための破壊衝動だけが宿っている。

「俺たちの目的は、組織(われわれ)の喉元に食らいつこうとしているネズミを一匹残らず焼き殺すことだ。……ウォッカ、例の件はどうなっている」

「へい。警察庁に潜り込ませた“あいつ”……キュラソーからは、準備が整ったと連絡が入っています。もう間もなく、世界中のネズミの首を括るリストが、俺たちの手に落ちますぜ」

 ポルシェの背後。

 雨を蹴り散らし、鼓動のような排気音を響かせながら追走する大型バイクがあった。ハーレー・ダビッドソン V-Rod。

 漆黒のヘルメット越しに、前方のテールランプを鋭く見据えるのは、ベルモットだ。

 彼女はジンのインカムと回線を繋いでいたが、ふと、一時的に通信を遮断した。

 ヘルメットという密室、エンジン音だけが支配する孤独な空間で、彼女はひとり、艶やかに唇を歪めた。

「銀色の怪物、ね……」

 脳裏をよぎるのは、冷徹なジンの理屈では到底計り知れない、あの少年の瞳。そして、その周囲で時折観測される、運命を捻じ曲げるような「奇跡」の予感。

「ふふ……まさかあの子の周りで、また新しい何かが動き始めているんじゃないでしょうね? エンジェル……貴方を巻き込まなければいいけれど。せっかく手に入れた、束の間の平穏をね」

 彼女は短く独白を終えると、再び指先でインカムのスイッチを入れ、組織の女としての仮面を被り直した。

「ジン、聞こえる? 無駄話はそれくらいにしてちょうだい。……例のスパイリスト(NOCリスト)、手に入ったらすぐに拝ませてもらうわよ? 私たちの首筋が、これ以上寒くならないためにもね」

 インカム越しに返ってきたのは、氷のように冷たく、それでいて嗜虐的な愉悦を孕んだ声だった。

『ああ……期待してろ。夜明けと共に、世界中のネズミ共に絶望を刻んでやる……』

 ――運命の歯車が、一気に加速する。

 ポルシェがハイウェイを降り、雨に煙る警察庁の巨大なシルエットが闇の中に浮かび上がった。

 その最上階。人影のないサーバー室で、一対の奇妙な瞳が、怪しく五色に煌めく。

 組織の最高機密を巡る、地獄のような狂宴――『純黒の悪夢』が、ついに幕を開けた。

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