ヒーローと探偵 作:タルマヨ
爽やかな陽光が降り注ぐ週末。新しくオープンしたばかりの東都水族館は、家族連れやカップルで溢れかえり、活気に満ちていた。
ゲート前では、少年探偵団の三人が待ちきれないといった様子で足踏みをしている。
「おーい、博士! コナン! 早くしろよ、観覧車に一番乗りできなくなっちまうだろ!」
「元太君、まだ開園したばかりですから大丈夫ですよ。落ち着いてください」
「でもでも、今日は凄く混みそうなんだもんね!」
元太、光彦、歩美の賑やかな声に、少し遅れて歩いてきた博士が苦笑いしながら応えた。その横には、どこか上の空といった表情のコナンと、周囲を冷めた目で見つめる灰原が並んでいる。
「はっはっは、そんなに急がんでも観覧車は逃げやせんよ。今日は一日たっぷり時間があるからのう」
「ところで博士……。圭人お兄さんは、今日も来られないの?」
ふと足を止めた歩美が、寂しそうに尋ねた。元太と光彦も、その言葉に反応して博士を振り返る。
博士は一瞬だけコナンと視線を交わすと、事前に打ち合わせていた「嘘」を口にした。
「ああ……。圭人君はの、ちょっと急な用事で遠くの親戚のところへ手伝いに行っておるんじゃ。しばらくは戻れそうにないと言っとったよ」
「えー! 圭人兄ちゃんがいねーと、なんか締まんねーな」
「そうですね、圭人さんがいればもっと楽しかったでしょうに……」
残念がる子供たちを、「ま、あいつも頑張ってるんだからよ」とコナンが適当に宥める。地の文で言えば、圭人は今も阿笠邸の地下で、先の激戦による深い眠りについている。だが、それを子供たちに話すわけにはいかない。
灰原は何も言わず、ただ無機質な水族館の入り口を見つめていた。彼女の胸のうちは、昨夜から続く得体の知れない不安で支配されていたが、それを表に出すことはなかった。
一歩館内へ足を踏み入れると、そこは別世界だった。
最新のLED照明が水槽をカラフルに彩り、魚たちの鱗が七色の光を反射して輝いている。東都水族館の目玉である、世界初の二輪式大観覧車を見上げる位置まで来ると、その巨大さと、周囲に溢れる過剰なまでの色彩に圧倒される。
「すっげー! 宝石箱みたいだ!」
「光の演出が本当に素晴らしいですね……」
感嘆の声を上げる子供たち。だが、コナンは一人、周囲の客層を鋭く観察していた。
(……昨夜の今日だ。警察庁に侵入した奴が海に落ちたってんなら、この近辺に組織の人間が潜んでいてもおかしくねー……)
そんなコナンの思考を遮るように、前方を走っていた歩美が声を上げた。
「あ……! 誰か座ってるよ?」
噴水近くの白いベンチ。そこに、場違いなほど静かに座り込んでいる一人の女性がいた。
白いジャケットを羽織り、銀髪に近い明るい髪。その美しさは目を引くが、何より異常だったのは、彼女が纏っている雰囲気だ。まるで魂が抜けてしまったかのように、虚空を一点に見つめて微動だにしない。
「お姉さん、大丈夫?」
歩美が心配そうに顔を覗き込む。女性はゆっくりと顔を上げたが、その瞳には焦点が合っていない。
「……ここは……どこ……? 私は……誰……?」
「ええっ!? 自分の名前が分からないんですか?」
光彦が驚き、博士も慌てて駆け寄る。
「もしもし、大丈夫かね。怪我もしておるようじゃが……」
博士が大人として保護的な立場から問いかけるが、女性はただ混乱した様子で首を振るばかりだった。記憶喪失。その事実に、探偵団の面々は顔を見合わせる。
コナンは一歩踏み出し、女性の顔をじっと観察した。
(……顔に傷がある。それにこの泥汚れ。昨夜の事故の被害者か……?)
その時、女性がふとコナンの視線に気づき、顔を寄せた。その瞬間、彼女の長い前髪の間から覗いた瞳の色に、コナンは息を呑んだ。
左がクリアな青、右が深い緑。
(……オッドアイか!)
「お姉さん、目が……左右で色が違うんだね」
コナンの言葉に、博士や歩美たちも覗き込み、一様に驚きの声を上げた。
だが、コナンが感じたのは希少な美しさに対する驚きではない。この女性の、あまりにも無駄のない姿勢。座っているだけで伝わってくる、訓練された者に特有の隙のなさ。
(……ただの一般人じゃねー。この筋肉のつき方、座り方の重心……。何者だ?)
その傍らで、灰原は一歩、また一歩と後退りしていた。
明確な「匂い」がするわけではない。組織の人間だと断定できる証拠も、今の彼女にはない。しかし、本能が警鐘を鳴らしていた。この女性に近づいてはいけない。触れてはいけない。暗闇の深淵に手を伸ばすような、生理的な拒絶反応が彼女を突き動かしていた。
(……なんなの、このプレッシャー。まるで……)
「よし! 俺たちがこのお姉さんの記憶を取り戻してやろうぜ!」
「元太君の言う通りです! 警察へ行く前に、何か手がかりが見つかるかもしれませんし!」
元太の号令に、純粋な善意で賛同する歩美と光彦。
博士も「うーむ、今の状態で警察へ突き出すのも可哀想じゃしな……。少し様子を見てみようか」と、判断を下した。
女性は、自分に手を差し伸べてくれる子供たちを見つめ、どこか戸惑ったような、それでいて縋るような表情を見せた。
「……あ、あそこ……」
女性が指差したのは、館内に飾られたカラフルな装飾パネルだった。
赤、青、白、緑、黒。
五色の色が並んだ瞬間、彼女の瞳が僅かに震え、頭を抱えて苦しみ出した。
「お姉さん!? 大丈夫!?」
駆け寄る歩美。その時、予期せぬ事態が起こった。
子供たちに押し出されるようにして、展示用の巨大なオブジェがバランスを崩し、倒れてきたのだ。
「危ないッ!!」
コナンの叫びよりも早く、女性が動いた。
記憶を失っているはずの彼女の肉体は、思考よりも速く、最適解を選び取っていた。
一瞬の跳躍。無駄のない軌道でオブジェを片手で受け流し、同時にもう片方の腕で歩美と元太の襟元を掴んで、安全圏へと引き戻した。
着地は静寂そのもの。まるで重力さえも味方につけているかのような、驚異的な身体能力。
「……すげぇ……」
元太が呆然と呟く。
コナンは確信した。この女は「普通」の人間ではない。特殊な訓練を受け、死線を何度も潜り抜けてきたプロの動きだ。
灰原は、その光景を遠くから見つめ、自身の腕を抱えた。
「……工藤君、あの人……」
「ああ…、只者じゃねぇな」
コナンは鋭い視線をキュラソー――正体不明の女性に向けた。
リニューアルオープンを祝う明るいBGMが流れる中で、静かに、そして確実に、破滅へのカウントダウンが始まっていた。
圭人が目覚めぬまま、物語は漆黒の渦へと飲み込まれていく。
「……行こうぜ。お姉さんの記憶探し、付き合ってやるよ」
コナンのその言葉が、全ての始まりだった。